目次
はじめに
教会に通っていない方へ

はじめに



 聖書は難しい書物だ、とよく言われますが、いったん理解できると、これほど面白い書物はありません!泉から水を飲むように、どんなに読んでも、そこからいのちが湧き出ます。そして、聖書は人の生き方を変えます。

 聖書は、他の書物と同じように、テーマがあり話しの流れがあるので、それに従って読まなければいけません。一句の神のみことばも力強いのですが、全体に流れる神さまのご計画を知ることは大切です。使徒パウロがこう言いました。

「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒の働き20:27)

 そこで、私たちの聖書の学びにおいては、聖書を創世記から一節ずつ順番に読み進めています。

 聖書を読むときには、初めに祈ることが大切です。聖書は神の霊感によって書かれた、とあります。ですから、自分の読んでいる個所を理解することができるのは、神の御霊によります。また、クリスチャンでない方も、「もし聖書の神が生きているのなら、どうか自分にも示してください。」と心の中で祈ってみてください。神さまは、捜し求める人に、必ずご自分を現わしてくださいます。


旧約聖書と新約聖書

 聖書は、旧約聖書と新約聖書に分かれています。その違いは簡単です。前者は、「キリストが来られる前の書物」、後者は、「キリストがすでに来られたことを証言する書物」です。キリストの前か後かで、旧約と新約があります。

旧約聖書の重要性

 クリスチャンの間でも旧約聖書はとっつきにくい、難しいという声を聞きますが、そんなことは決してありません!私たちの英会話教室に来ている子どもたちが、十分に理解して、楽しんでいるのです!私が常日頃、旧約聖書について思っていることを書きます。

1.旧約聖書があってこその、新約聖書です。

 新約聖書には、神さまの愛があって、イエスさまのすばらしい教えがあるから親しみやすい、といわれる方がいます。確かにそのとおりです。けれども、新約は旧約の続編であることを忘れてはいけません。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイの福音書5:17)

 旧約聖書に書かれていること、すなわち、「〜しなければいけない」という教え(律法)、「〜が起こる」という約束(預言者)が、わたしにあってみな成就するのですよ、完成するのですよ、とイエスさまが言われています。ですから、新約聖書は、「旧約で言われていたことが、はたしてその通りなのだ。」という確認の書物なのです。推理小説の完結篇だけ読む人はいません。同じように、新約聖書だけ読んで、旧約聖書をポイすることはできないのです。

2.旧約聖書は、イエス・キリストを証言する書物です。

 イエスさまが言われました。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネの福音書5:39)

 この「聖書」とは、もちろん旧約聖書のことを指しています。旧約聖書を読むと、イエスさまの姿がくっきりと見えてきます。ある人は、「どのページを取っても、イエスさまが現われている。」と言いました。福音書だけでは分からない、イエスさまのすばらしさ、恵み深さ、正しさ、真実、そしてその偉大なわざを、旧約聖書の中の出来事や人物などを通して知ることができます。

3.旧約聖書は、子どもが理解できるようになっている。

「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」(申命記6:6-7)

 旧約聖書には、新約聖書において説明されている霊的な真理が、具体的に、目に見えるかたちとなって現われています。例えば、私たちが罪から救われる、という真理を、イスラエルがエジプトの奴隷状態から救い出される、という出来事を通して見ることができます。ですから、子どもたちにも理解ができるのです。ある人は、旧約聖書は、神の真理の絵本であると言いました。旧約聖書は、まさに子どもたちが聞いて、ならって、おぼえることができるように、神さまが語られたことばなのです。


新約聖書の奥義

 新約聖書は、上で説明しましたように旧約聖書がイエス・キリストにあって実現したことを証言する書物ですが、それに加えて、旧約聖書には明瞭に示されていなかった神の真理を教えています。それを、聖書は「奥義」と呼んでいます。旧約の時代に、預言者たちや教師たちが知りたいと思って知ることができなかったもの、得たいと思って得ることができなかった約束が書かれています。

 多くの人が新約聖書を読んで、「敵を愛しなさい。」という言葉にあるような道徳や倫理に感銘を受け、そのように生きられればと願います。けれども、それは聖書が書かれた直接的な目的ではありません。聖書は、もっともっと大切な、根本真理を私たちに伝えています。

1.信仰による義

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(ローマ人への手紙3:21-22)」

 自分が何らかの努力や行ないをして、それで理想の状態に近づく、というのが宗教であり、また私たち人間が普通に考え、信じている生き方でしょう。けれども、聖書は、その努力によって決して豊かな命や幸せを得ることはできない、と教えています。旧約ではイスラエルの民に律法が与えられましたが、彼らは律法を守り行なうことができず、ことごとく失敗しました。このように、人間はどうしようもなく汚れ、罪深く、救いようのない存在である現実を、聖書は明示しています。

 そこで神は、別のかたちで人間が神と関わりを持つことができる方法を与えてくださいました。それは、行ないではなく、信仰によって得られる救いです。神の独り子キリストが、私たちの罪のために、身代わりになって死んでくださいました。このキリストを信じることによって、私たちが永遠の命を持つことができるようにしてくださったのです。

2.約束の御霊

「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。(エペソ人への手紙1:13)」

 宗教には、さまざまな良い教えがあります。仏陀も、幸せになれる方法は、あらゆる煩悩から解脱することである、と教えました。キリストも、肉の思いや欲望から解放されることによって、命を得ることを教えています。しかし、問題は、その教えを守り行なう力が私たち人間のうちに無いことです。しかし、聖書には、教えだけではなく、教えを守り行なう力が約束されています。つまり、神の御霊が、キリストを信じる者のうちに住んでくださいます。そして、そこで私たちにはできなくなっていることを、聖霊が行なってくださるのです。

 旧約時代においては、一部の人が、神から託された任務を行なうために聖霊が与えられました。けれども、今は、キリストを信じるすべての人に、その約束が与えられているのです。

3.異邦人に及ぶ救い

「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。(エペソ人への手紙3:6)」

 異邦人とは、ユダヤ人ではない民族のことを言います。神がイスラエルの民に約束された祝福が、イエス・キリストによって異邦人にも及ぶようになった、ということが上の個所で書かれています。そして、ユダヤ人も異邦人も、キリストにあって一つにされていると、聖書は教えています。

 神は分け隔てする方ではない、と聖書には書かれています。民族や人種、性別、年齢、社会的身分などによって、私たち人間はあらゆる区別や差別を設けています。イエス・キリストは、それらの壁をすべて壊してくださいました。今までキリスト教とは無関係で生きてきた人、日本の神式・仏式の行事を習慣的に行なっていた人の一人一人に、イエスさまは近づいていてくださっています。

4.内におられるキリスト

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ人への手紙1:27)」

 キリストを信じる者によって、神は遠く離れて自分を見つめているような存在ではなくなります。目の前にいて、いや、自分の内に住んでくださる方となるのです。イエス・キリストは、もはや単なる歴史上の人物ではなくなります。死んでよみがえられたキリストが今も生きておられ、自分の生活の、一つ一つの場面に関わっておられることを知るようになるのです。

 新約聖書には、これらの真理が編み合わせられるようにして提示されています。
 「キリストを信じること」については、こちらへどうぞ!


「聖書の読み方、御言葉の学び方 〜ミニガイド〜」 by はちこさん

自分で聖書を学んでみたい、と願っておられる方には、つぎのサイトがお薦めです。
http://www.geocities.com/villageinn85/bible_study.html


教会に通っていない方へ


ロゴス・ミニストリーの課題

 ロゴス・ミニストリーを主にあって始めてから、最も祝福を受けた分野がこの「聖書の学び」です。主の御言葉がこんなにも広がっていくものかと、その恵みに本当に驚いています。ご利用されている方の多くが、サイト情報を単に興味本位で入手しているのではなく、腰を据えてじっくり御言葉に聴いている人であることを、多くの方のご感想や質問をいただいて知っております。自分の生活が変えられた証しも聞きました。主の御名をほめたたえます。

 その反面、ある課題を感じています。

 聖書の言葉を聞くことには喜びを感じても、教会にまで足を伸ばせない人たちが多くいらっしゃいます。あるいは、以前教会生活を送っていたけれども、今は独りで(あるいは二・三人、家庭などで)礼拝をしている人が結構の数でおられるようです。私たちは、そのような状況にいる方々が、何とかして教会の一部になれないものかと願い、祈り続けています。

 私たちは常々「教会」を主体に考えてきました。自分たちで教会を始めようともしたこともあるし、それ以降は教会を助け、補うための働きをしています。実際の教会生活の中で、聖書をじっくりと初めから一節ずつ学ぶ機会は、現実的にはほとんどありません。けれども、これは誰もが心のどこかでやってみたいと願っていることであり、その渇きに少しでも応じさせていただきたいという思いでしてきました。

 ですから、教会から独立して行なうつもりはありませんでしたし、これからもありません。私たち自身が個人の霊的生活の健全化のためには、教会生活は絶対に欠かせません。そこにある命、喜び、愛、感謝はかけがいのないものであることを知っているからです。

聖書からの勧め

 ロゴス・ミニストリーは聖書を信じています。その聖書が、教会を非常に重要に捉えているので、やはり重要視しています。

 まずヨハネの福音書17章20−23節を読んでみてください。そこに主イエス様が父なる神に、弟子たちが語る主の御言葉によって信じる人々、つまり私たちのように聖書の学びをされている人々のために、祈られている部分があります。「彼らが一つになること」「愛によって一つになること」を願っておられます。確かに、信仰によって独り、キリストにあって神の前に立つことを私たちは学ばなければいけませんが、父とキリストがそれぞれ単独でおらず一つになられているのと同じように、私たちにも一つになる交わりが必要です。

 そしてコリント第一12章を開いてください。そこにはキリストを信じた者が、「一つのからだになるように、御霊によってバプテスマを受けた(13節参照)」とあります。ただ独りでキリスト者になっているだけでなく、キリストの御体の一部にもなっているのです。そして次に、体の器官の例えを通して、自分一人であらゆる器官の機能を果たすことはできないことを教えています。つまり、独りでは決して神の目的を達成することはできないのです。

 「キリストの体は目に見えないものだ。目に見える制度としての教会のことではない。」と論じる人がいるかもしれません。はたしてそうでしょうか?例えば、男と女が一つになるという結婚は主が結ばせたものですから、たとえ別居していても結ばれています。けれども、同じ屋根の下に戻らなければ、極めて不完全かつ不健全な状態です。具体的に交わりと集まりがないままで、その一体性を持っていると主張しても、それは事実ですが不健全なままなのです。

 エペソ書を読んでください。その手紙全体が教会についての教えです。「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(1:22−23)」いかがでしょうか?ある人が私に、「聖書の学びには意義は感じるが、教会に通う必要性がどこにあるのか?」と質問しました。私は、「教会にはキリストが満ちておられます。」と答えました。

 そしてパウロ、ペテロ、ヨハネ、ユダなど使徒たちによる手紙はみな、教会に対して書かれたものです。個人宛てのテモテとテトス、ピレモンへの手紙もみな、本人たちが教会の指導者だから書いています。

 その中でそれぞれが、いろいろな問題に対処する教えを述べています。教会は問題があるというのが前提です。「問題があるから通っていない」というのは、残念ながら言い訳にしか過ぎないのです。問題が生じたときに、自分を否んでキリストを求めるという訓練を通して、初めてキリストに似た者になる過程を踏むことができます。

 手紙の中で出てくる鍵となる言葉は「互いに」です。「互いに仕え合いなさい」「互いに勧めなさい」「互いに訓戒しなさい」「互いに忍び合いなさい」「互いに愛しなさい」などなど。当然、相手がいなければ「互い」の関係は結べません。

 そして御霊が与えられる「賜物」は自分の能力を発揮するものでは決してなく、「みなの益」(1コリント12:7)のために用いるものです。これも教会を前提としなければ用いることのできないものです。

 そして、神は「集まることをやめるな」と命じられています。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル10:25)

 「集まることをやめるな」と言われたら、義務的に感じます。実際、教会に行くことが義務であり、強制的にすら感じる時があります。けれども、どうか聞いてください。「励まし合い」とあるのです!集まる目的をヘブル書の著者は、「励まし合う」ためであると言っているのです。この目的で教会を探してください。

 教会は一つだけではありません。地域教会は幸いにもいろいろあります。それぞれ特色を持っており、強調点も異なります。だから一つだけで判断するのではなく、自分が落ち着いて通うことができ、励ましを受けられる所を探し続けてください。互いに励まし合える所が見つかったら、たとえ他の人に行くなと言われても、自ら進んで行き続けます!

牧者の必要性

 そして私たちロゴス・ミニストリーは、教会を信じているだけでなく、牧者が立てられた教会を信じています。

 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18:20)」とあるではないか、と反論される方がおられるかもしれません。その通りです、個人が祈ることも重要ですが、二人でも三人でも心を合わせて祈れば、主がそこにおられて聞いてくださっています。

 けれども、それがそのまま教会ではないのです。「キリストご自身が・・・ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり(エペソ4:11‐12)」聖徒たちを整える働き、キリストのからだを建て上げる働きのために、キリストご自身が立てられる人がいるのです。

 このような、御言葉を教えることに骨折る指導者なくして、キリスト者が霊的に成長することは不可能です。コリント第一12章にも、「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち第一に使徒、次に預言者、次に教師・・・(28節)」と、神が教える指導者を任命されていることを記しています。

 教会の中には「牧師」という呼称を用いない事があります。既存の牧師制度では、有機的な、動的な牧会者の働きをすることができない、という考えからです。特に日本では「牧師」と「信徒」の間に日本伝来の徒弟制度が入り込むことがあり、「先生」という呼び名は私たちも使わないほうがいいのではないかと考えています(けれども、使われている方はご自由に使ってください)。けれども、それでも牧者の働きは明確に数多く聖書に書かれており、その呼称を用いていなくても、事実上、その働きをしているのであれば牧師を認めていることになります。

 そしてテモテとテトスへの手紙には、監督者や長老(つまり牧会をする働き人)に対する資格が書かれています。具体的に立てられ、任命を受けている職務です。

 そして教会の人たちが、こうした人々に尊敬を払いなさい教えています。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良い者を分け合いなさい。(ガラテヤ6:6)」「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。(ヘブル13:17)」「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばを教えのためにほねおっている長老は特にそうです。(1テモテ5:17)

 尊敬を払うということに、霊的、精神的なものだけではなく、物質的なものも含みます。上の「二重の尊敬」というのはそういう意味です。それをパウロは明確に、「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。(1コリント9:14)」と言っています。教会の規模が小さいため、牧師も外で働かなければいけない時があるでしょう。(パウロは天幕作りをしていました。「金を取っている」という非難を免れるためです。)けれども、教会の方向性としてはその生活を支えるようにしていかなければいけません。

 教会の中には「牧師も世の職場で働くべきだ」というものがあります。また「牧師や奉仕者がただで与えるのは当たり前」だ、と考える人たちもいます。私は、それは牧師や教師自身がそういう心構えでいるべきで、その恩恵を受けている人が主張するものではないと考えます。むしろ「支えなければ、どうやってその人が生活できるのか?」ということを問わなければいけないと考えます。そうでなければ、牧者や奉仕者がその職分を全うできないと考えます(使徒6:2参照)。

 したがって、牧者の働きそしてその職務、任命は存在するのです。「その制度がなくても、私は信仰生活が送れる。」と考える人は、他の賜物と同様、自分自身が牧師の役を演じなければならないのです。

 ・・・ということで、ぜひ教会をお探しください。これは恵みと信仰によって行なうことであり、必ず、ご自分に合った教会を神は備えておられます。


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