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	<title>ロゴス・ミニストリーのブログ</title>
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		<title>LCFの活動予定（19日・20日）</title>
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		<pubDate>Fri, 18 May 2012 08:46:25 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>

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		<description><![CDATA[明日と明後日のLCFの活動予定をお知らせします。 場所：両日とも足立区こども家庭支援センター別館 5月19日（土） 　13:00　祈り会 　14:10　聖書の学び会　（16:00には終了） ※時間を一時間ずらしました（急用のため）。次々回から14:00開始に戻しますが「祈り会」の次に「聖書の学び会」の順序にしたいと思います。 5月20日（日） 　11:00　礼拝　エペソ1章23節　「教会はキリストの体」 　12:30頃　昼食会・交わり会 ※　お知らせ「二つの神の民　「教会」と「イスラエル」」でお伝えしましたように、カルバリーチャペル西東京の山東さんが説教をしてくださいます。礼拝の後、昼食をしてから山東さんご夫婦を囲んで交わり会を行ないます。]]></description>
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		<title>世界一評判の悪い国　－　イスラエル　その２</title>
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		<pubDate>Fri, 18 May 2012 08:33:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[教会]]></category>

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		<description><![CDATA[（「その１」からの続き） 私は安易な謝罪には反対 私は、この問題を取り扱うときに、一種の恐れを感じています。それは、ナチスの反ユダヤ主義に最も露にされた「人の憎しみと怒り、ねたみ」と共に、「それでも救いの手を指し伸ばす神の愛と救い」という重い主題に入っていくからです。 私は個人的に、メシアニック・ジュー運動に一般の日本人信者が深く関わることに懐疑的です。誤解をしていただきたくないのですが、私が敬愛している聖書教師の多くがユダヤ系です。デービッド・ホーキング、アーノルド・フルクテンバウム、またジョエル・ローゼンバーグなど、聖書をユダヤ人であるからこそ、神から与えられた賜物を生かして説き明かしてくださることから大きな恩恵を受けています。そして、私はメシアニックの会衆の礼拝や過越の祭りにもアメリカで参加したことがあります。さらに、アメリカにはユダヤ系の兄弟が数多くいましたし、共に祈り、交わりもしていました。 けれども、私が彼らを愛しているのは、他民族の異邦人信者と同じく、「国や民族を超えたところにあるキリストの愛」によって、御霊の一致があるからです。それに加えて、選ばれた民であるがゆえに召命と賜物があるため、そこで霊的な徳が高められる部分が大きいです。「キリストにあって一つ」であることが大前提であり、そして「神の与えられた賜物」を尊んでいます。 私はユダヤ人に対してキリスト者として謝罪するときに、「反ユダヤ主義」というものにある、霊的、神学的、そして歴史的重みのかなりの部分をすっとばして、簡単に言うならば「口だけで」謝っているとしか思えないのです。私は、日韓クリスチャンの間にある「謝罪運動」にも懐疑的ですが、近隣の国でさえその歴史の重みを知らないのですから、ましてやユダヤ人に対してはあまりにも畏れ多くて、謝ることができません。 以前書いた記事「真実に福音に生きるために　－　戦責告白と「悔い改め」を問う」の中で、ホーリネス教会の上中牧師が書いた一部をここに引用します。 　その一つは、当事者でないために、事実を知ろうとしなくても、おおよその情報だけで、自らの心を探られずに悔い改めができてしまうことである。教会は痛みも恥も感じずに、笑顔で悔い改め、謝罪することもできる。 　さらに悔い改めることで、自分たちが善良なキリスト者であると、無意識のうちに自負することさえできる。主イエスの譬えに登場するパリサイ人が自分が《この取税人のようではないことを、感謝します》（ルカ18・11）と祈ったように。 　日本の教会は、簡単に悔い改めすぎてはいないだろうか。それは何も自由主義史観の人々のように自虐的であってはならないということではない。むしろ真剣な悔い改めが必要であるが、しかし教会の罪の意識が薄く、それでいて罪の告白や謝罪の言葉が簡単に発せられているように思われる。 同じことが、ユダヤ人への謝罪についても言えます。（ちなみに、カトリック法王が謝罪する、というのは極めて意義あることだと思います。けれども、一般信者の謝罪にどこまでの意義があるのか・・・、ここが疑問点です。） 「メシアニック・ジュー運動」というのは、「ヨーロッパを舞台にした反ユダヤ主義」を知ることなくして、発生することのなかった運動であります。先に説明したように、新約聖書時代に既にヨーロッパに存在していた反ユダヤ主義がキリスト教会の中に浸透し、それによって「ユダヤ人」と「クリスチャン」というのが正反対の言葉とまで発達するほど、歴史と文化と社会がその違いを形成していきました。ですから、イエスを信じるということは、「ユダヤ人であることを捨てる」という、とてつもない葛藤が生まれるのです。イスラエルで出会った、数年前に来日されたジョアンさんと交わって、彼女は、「日本人のクリスチャンとユダヤ人信者は似ていると思う。」とおっしゃっていましたが、それは「日本人がイエス様を信じようとするときに、日本人であることを失うのではないか、という恐れがあると聞く。」とのことです。その葛藤をなんとか修正しよう、ユダヤ人のままでイエスを信じることができるのだ、という主張が、メシアニック・ジュー運動です。 メシアニック・ジューの諸課題 そして、その相反する定義の中で翻弄されているユダヤ人信者が数多くいる、という現実を決して忘れてはいけません。私たちと仲良くしてくださっているモリエル・ミニストリーの創設者、ジェイコブ・ブラッシュさんの見解を下で読むことができます。 メシアニック運動についてのよくある質問 ジェイコブさん自身ユダヤ人であり、イスラエル国籍も有しており、かつメシアニックの会衆に集っておられる方です。けれども、やはりその運動の中にある「揺れ」に注意喚起をしておられます。一部引用します。「今あるメシアニック運動の70％が無知でおかしな人たちによって運営されており、聖書の教理を何も知らない人たちで、偽りのタルムード的ユダヤ教をまねしようとしています。」そしてコメント欄には、イスラエル在住の日本人の兄弟が、メシアニックの会衆にある様々な揺れを報告しています。それでも、彼らに同情し、愛している姿も見ることができます。 それもそのはず、私たちに与えられている「キリスト」という頭から離れては、どんなに霊的、聖書的装いをしても、どんどん彷徨ってしまうのです。 私たちは果たして、マルチン・ルターの反ユダヤ主義よりも優っているのでしょうか？私たちは簡単にユダヤ人に謝罪することはできても、彼らに伝道をしているでしょうか？ルターはそのことを行なったのです。その結果、彼は神に祈り叫ぶのではなく、苦味を抱いてしまったのです。けれども伝道は試みたのです。謝罪して伝道しないのと、伝道して苦味を持つのと、どちらが反ユダヤ的でしょうか？私はさほど変わりない、いや、前者のほうが反ユダヤ的だと思います。 エルサレムで奉仕をしている兄弟から、1999年にその働きの困難さを聞きました。ユダヤ人がいかにかたくなで、うなじがこわい民であるか、そして匙を投げて「ルターが、彼らを犬と呼んだように」あきらめたくなる誘惑もある。けれども、そこから始まる、「それでも救いの手を指し伸ばす神の愛がある」という内容を分かち合ってくれました。 私たちが、これまでのキリスト教徒が行った反ユダヤ行為を、人差し指でさすことはできるのでしょうか？私たちが日本人にでも、誰にでも、伝道を熱心に行って、それで人が誰も救われないどころか、かえって自分の信仰を変えてしまおうと迫ってきたら、それでも私たちはその人たちを愛せるでしょうか？・・・このような内容なのです！だから、私は「一種の恐れを感じる」と言いました。とことんまでかたくなで、拒んでいる人に対して、それでも、愚かにも愛し続けて、祝福を与え続けるということができるかどうか、です。 真の反ユダヤ主義とは？ だから、メシアニック・ジュー運動に一般の日本人信者が深く関わることに、私は霊的な意義をあまり見出せません。いや、意義を見出してみましょう。具体的な適用としては、在日イスラエル人に伝道を試みることです。この言葉を発したとたん、壮絶な霊の戦いに入ることになるでしょう。イスラエル国内では「宣教」という言葉は禁句です。日本国内でも、ちょうど宗教の自由が制限されているようなところに宣教に行くのと同じように、用意周到な霊的備えが必要です。 しかし、それでも福音を伝える、という人が本当にユダヤ人を愛しています。パウロと同じ情熱を持っています。彼は激しく、「ユダヤ人に対する神の御怒りは極みに達した」といいながら、かつ、「同胞のためなら、自分が呪われたものとなってよい」と言いました。そして欧米では、数多くのユダヤ人信者が異邦人の証しを通して救われています。 BBCの調査を再び見ますと、イスラエルの人にとって「アラブの春」は、ぜんぜん春でないことが分かります。これまで独裁制で抑えられていた反イスラエル感情が、エジプトで噴出しています。ヨーロッパでは、従来の反ユダヤ主義がじわじわと、鍋で料理を煮込んでいるような醸成が行なわれています。そして不思議に、中国や韓国、そして日本でも反イスラエル感情が増えています。けれども、少なくとも日本では言論空間にとどまっていることでしょう。歴史的に、反ユダヤ政策は国として採用しておらず、ドイツの政策に枢軸国でありながら距離を取っていたという経緯があります。けれども国内では戦時中、言語統制の手段として反ユダヤ思想が猛威をふるいました。 最後に聖書預言として、反ユダヤ主義の背後にある動きを見ましょう。 「自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。（黙示録12:13）」 「男の子」とはイエス・キリストのことです。そして女とは「イスラエル」のことです。それを追いかけたのは「竜」、つまり悪魔のことです。イエスをこの世に生み出したイスラエルが、その後、悪魔に追いかけられるというのが終わりの日に起こることであり、その枠組みの中で人間の歴史に反ユダヤ主義が存在します。 そして、ユダヤ人にしろ、異邦人にしろ、かたくな民に対しても変わらず抱く神の愛を、私たちがどこまで受け取ることができるのかが、私たちに与えられたチャレンジ（課題）です。]]></description>
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		<title>世界一評判の悪い国　－　イスラエル　その１</title>
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		<pubDate>Fri, 18 May 2012 08:21:39 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[教会]]></category>

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		<description><![CDATA[前投稿で、「世界一評判の良い国　－　日本」という内容を取り扱いましたが、今度は同じBBC調査でイスラエルを見てみます。 Poll: Israel viewed negatively around the world イスラエルは厳密には世界一ではありませんが、イランがかろうじて世界一であり、けれども僅差で評判の悪い国となっています。パキスタンと北朝鮮と並んでいます。ロゴス・ミニストリーのブログや、聖書の学びをしている人は、「なんでー！」と大きな声を挙げることでしょう。日本人が自国を否定的に見ているが、世界的には良い評判を受けているとは対照的に、イスラエル人はことさら悪いことを世界に行っていないのに、世界から悪い評判を受けているのです。 入植地の住宅建設なのでしょうか、パレスチナ人テロリストやガザ地区への攻撃もユダヤ人が悪いというもあるのかもしれません。調査によると「対外政策」とのこと。「あなたたちがしていることのせいで、世界秩序が崩れているのですよ。あなたたちが、自分たちのことに固執しているから、私たちが迷惑を被っているのですよ。」ということなのでしょうか。 私たちが自分の住んでいるところで、一区画で住宅を建設するかどうかの揉め事が、一気に世界に広がっていき、外交政策として圧力がかけられることを考えてください。内政干渉どころではありません。普通ならば「あなたの国は承認しない」を暗示する脅しにも聞こえます。けれども、その相手が最大の友邦国であるアメリカから来るのですから、たまったものではありません。あるユダヤ教ラビは、新聞に「私たちはなぜ憎まれるのだ？彼らに私たちは何か悪いことをしたのか？」という叫びに近い意見を投稿しました。彼らが反ユダヤ主義に敏感になるのは当然であり、事実、反ユダヤ主義は存在しているのです。 フェイスブックでこの記事を引用したら、日本で宣教師として奉仕しているユダヤ系アメリカ人の兄弟が、「いつものことだ」との一言を残していました。この”nothing new here”という言葉に重みを感じない人がいれば、その人は極めて鈍感です。ユダヤ人が他者から嫌われていることは常態化しており、その常態化した状態の中でどのように生きるのか、といつも彼らは考えているのです。 私が好きな聖書教師の一人が、ジョエル・ローゼンバーグ氏ですが、彼はイエス様を信じるユダヤ人です。彼が最近、ドイツのカルバリーチャペルでの会議で講演者となりました。 私は彼が説き明かすエゼキエル書36‐39章の話はたくさん聞いていましたが、ドイツという地で行なった彼の説教内容は、これまでと違った重みのあるものです。 彼は、ヨーロッパが聖書の中で深い関わりを持っているところから始めました。パウロが小アジヤだけで宣教を留まらせておこうと思ったところ、イエスの御霊がそれを許さず、マケドニヤへと遣わされたのです。そしてヨーロッパの中心、いや当時の世界の中心であるローマにまで行き、ローマ人にも手紙を彼は書きました。 彼は続けて、ヨーロッパ人とユダヤ人には愛憎の関係があると論じました。ユダヤ人の宣教者によってヨーロッパに福音が伝えられた一方で、ローマの信者たちに対して警告を発しています。ローマ11章をじっくり読めばそれがよく分かります。1節には、「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。」と問います。このように問う、ということは、ユダヤ人は退けられたと考える異邦人信者たちがいた、ということです。私は、ローマ11章はいつも読んでいましたが、そのような現実の歴史的背景に、ローマにいる異邦人信者がすでに反ユダヤ的な考えを持っていたという想像はしていませんでした。 そして、「あるドイツ人の指導者が言ったことば」としてこう紹介しています。 「それゆえ、この怒りによってユダヤ人は神にはっきりと拒絶されており、もはや彼らは神の民ではないし、また神も彼らの神ではないという結論に達せざるを得ないのだ。」 そしてこう具体的に提唱しました。 「まず第一にわれわれは、彼らが会堂をもつ権利を拒否する。・・・第二に、彼らのすべての書物、祈書、タルムードを没収すべきである。・・・第三に、彼らがわれわれの領地で神を讃え、感謝し、祈り、説教することは公けに禁止されねばならない。」 彼は言わずとしれた、プロテスタントの父祖マルチン･ルターです。日本語で、その一部をネットで読むことができます。　→　「ユダヤ人と彼らの嘘」マルチン･ルター なぜこうなってしまったのか？彼はキリストをユダヤ人に宣べ伝えました。けれども、だれ一人、キリストを受け入れる者はありませんでした。それだけかたくなであることで、彼はその訴えを神に申し上げるよりも、苦々しくなったのです。ジョエルさんは、「私は、ルターは今、天国にいると信じています。けれども彼は、神がユダヤ人に持っておられるご計画を知らなかったのです。」と言っていました。彼らが福音を拒んだことが、神が彼らを拒んだことにはなりません。 確かに一時、神は彼らを退けたけれども、それは、懲らしめのためであって、長い期間かけてそれを行ない、今、その地に戻してくださっている。そして、それがエゼキエル36－37章にある、土地と国の回復の約束なのだ。それが今、実現しているのだ、という内容です。 （「その２」に続く）]]></description>
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		<title>世界一評判の良い国　―　日本　その３</title>
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		<pubDate>Fri, 18 May 2012 02:35:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[信仰全般]]></category>
		<category><![CDATA[宣教]]></category>

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		<description><![CDATA[（「その２」からの続き） 「外を見る」ことは「愛すること」 BBCの調査の話に戻しますと、日本人がしなければいけないことの一つは「感謝する」ことがありましたが、もう一つは「外を見る」ことです。日本人は内省が好きなのですが、内省してばかりいるので、周りの人に貢献すべきことができなくなっている、という問題があります。私がカンセリングをしていた人が、一度、次のようなことを仰っていました。「自分の内にある問題に取り組んでいたばかりに、それが思い煩いとなって、数多くの意義ある活動をする機会を見失っていた。」内村鑑三も、回心の経験をしたのは、学長による次の諭しでした。 自らの内なる罪に日夜、懊悩（おうのう）する内村に、シーリーはある日、やさしく次のように諭した。「鑑三、君は君の衷（うち）のみを見るから可（いけ）ない。君は君の外を見なければいけない。何故己に省みることを止めて十字架の上に君の罪を贖（あがな）い給いしイエスを仰ぎ瞻（み）ないのか。君の為す所は、子供が植木を鉢に植えて其（その）成長を確定（たしか）めんと欲して、毎日其根を抜いて見るのと同然である。何故に之を神と日光とに委ね奉り、安心して君の成長を待たぬのか」と。 worldtimes.co.jp/special/mida/md001001.htm 内を見ることによって、神ご自身を見つめることを忘れています。そして神ご自身を見つめることを忘れているので、神が抱いておられる計画を見る時間が削がれています。神がこの全世界を愛しておられて、それで御子をお与えになったのに、自分のこと、自分の周りのこと、自分の国のことだけを見ていて、それで世界で何が起こっているか、そこに神がどのような情熱を注いでおられるのかを見失っていることがあるのです。 そして、自分を見つめることは美徳に見えます。しかし、「あの人に迷惑をかけてしまったのではないか」という心の苦悩は、ある意味でその人を愛していないことと等しいです。心の責めを神の赦しによって取り除いてもらったというところから出発し、それで相手がどのような状態でいるのかと、キリストの目で見つめることのできる愛が与えられるのです。 日本人には極めて多くの可能性があります。ちょっと笑えない冗談がありますが、日中韓の世界における影響を、こう言っています。「日本は世界中に会社を持っている。中国は世界中に中華料理店を持っている。韓国は世界中に教会を持っている。」日本の世界における会社の影響は甚大です。日本人はこれを否定的に捉える人がいるのですが、海外進出をしているときの日本企業の評価は現地で極めて高いのです。現地法人を作るときに、上の人は日本人ですが、他は現地採用なのに対して、韓国はすべて韓国から持ち込んで、下働きを現地人にさせるという方法を取っています。それでも韓国も世界の評価は上がっていますが、長い年月をかけて日本はそれをし続けていますから、その底力が肯定的評価につながっているのです。 そして私が中東に行った時は、イスラエル人からもアラブ人からも好意的に見られる経験をしました。イスラエル人はなぜ日本にあこがれるかと言いますと、「反ユダヤ主義フリー」の世界を見るからです。もちろんマスコミや言論界では反ユダヤ主義は現存していますが、実際のユダヤ人に対しては極めて中庸です。私はある正統派ユダヤ教徒の人に、「君たちには、誇るべき東条がいたではないか。」といわれて、非常にとまどいました！彼らにとっては、その時代、敵はドイツであり、そして帰還を阻んだ英国でした。そして長い歴史をユダヤ人の流血で塗っているヨーロッパ大陸から離れています。同時にアラブ人も、日本企業による極めてすぐれた投資と企業誘致を見ていますから、アラブ諸国への多大な貢献がありますから、日本のことを悪く思っていません。 もし日本人がイスラエルへ、また周辺アラブ諸国に宣教へ行ったら、どんなによいことだろうかと思います。他の国の人々ができないことがわんさとあります！ けれども、どうしても日本は内向きなのです。私の知り合いの韓国の宣教師の方々は、共通の悩みを持っています。日本の教会の人たちに、共同の宣教の働きをしたいと願っても、振り向いてくれないという悩みです。日本で留学している中国人の兄弟にもこう言われました。「私が通っている教会の人たちは、とくに私が中国人であることに興味を示してくれなかった。」私は返答しました、「差別しているということではなく、ただ内向きなんですよ。」 私も今年の元旦、「東アジアキリスト青年大会」で説教の奉仕にあずかりましたが、主催者も私も積極的に日本のキリスト者に声をかけましたが、結局、私の教会の人が二人いっただけで、他に誰もいませんでした！日中韓のキリスト者の集まりであるはずが、中韓だけになったのです。（しかも、日本の東京中心部において！）先に挙げた中国人の兄弟は、はるばる九州から東京まで来られたのに・・・。 韓国の宣教師たちは、たとえ反日感情という韓国人共通の感情を持っていたとしても、世界宣教に熱心な韓国ですから、日本がいかに可能性の秘めた国であるかを重々知っています。世界を見てそして日本を見たら、BBCの調査が示している通りなのです。なのに、日本人本人が自分たちばかり見て、反省ばかりしているのです！私は内村鑑三の学長と同じ言葉をもって諭させていただきます。 「あなたは、子供が植木を鉢に植えてその成長を確めようと願って、毎日その根を抜いているのと同じことをしていますよ。なぜ自分を神と天とに委ねきり、安心して自分の成長を待たないのですか？」 「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世界を愛された。・・・」神はあなたを愛しておられます。そして、世界を愛しておられます。この神を愛し、礼拝するときに、自ずと自分自身も世界に対する愛を抱くはずです。神はこんなに大きな方なのです！天に教会が引き上げられたら、そこには日本語を話す、日本人の集まりではないのです！あらゆる国語、民族、国々がキリストの血潮という理由だけで贖われた人々が集まって、同じ小羊をほめたたえています（黙示5:9‐10）。]]></description>
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		<title>世界一評判の良い国　―　日本　その２</title>
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		<pubDate>Fri, 18 May 2012 02:21:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[信仰全般]]></category>
		<category><![CDATA[教会]]></category>

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		<description><![CDATA[（「その１」からの続き） １パーセント未満は神の御心 そして日本のキリスト者、キリスト教会が陥っている「否定的認識」があります。それは、「人口の一パーセント未満しか信仰を持っていない」ということを、自分たちのせいにすることです。どうして人々が信仰を持つことができないのだろう？ということを、自分たちの祈りが足りないのだとか、伝道が足りないのだとか、決め付けるのでしょうか？はたまた以前は、「天皇制を積極的に受け入れていないからだ」またその反対に「天皇制を否定していなかった」「偶像を捨てていないからだ」とか、言っていました。 私は、祈ることも、伝道することも、また偶像を捨てることもみなしなければいけないことだと思っています。しかし、それをしていないから「１パーセント未満」ではないのです。これを言ったら、私はほとんどのキリスト者を敵に回すでしょう、けれども誤解を恐れずに言います。「１パーセント未満なのは、神の御心である。」パロは、自分の心を強情にして、神の命令を聞き入れませんでした。しかしそのパロに対して、「神はパロの心をかたくなにされた」とあるのです。同じように、１パーセント未満という状態に、神の主権を認めなければいけません。 神の主権について、キリスト者の認識が非常に甘すぎます。神がかたくなにされるというのは、「私たちが心を開きたいのに、神が無理強いして心を閉ざすようにしむけておられる。」という類のものではないのです。「神の御心」と聞くときに、それを宿命や運命として捉えるのは間違っているのです。ヨナは、アッシリヤの首都ニネベに対して、「もう四十日もすると、ニネベは滅ぼされる。」と宣告しました。けれども王を始め、国民が彼らなりに必死になって悔い改めました。すると、神は「思い直してあわれみ」、四十日が過ぎても災いはその町に下らなかったのです。 エゼキエル書18章が、神の御心の性質を知ることのできる極めて重要な章です。ぜひその章全体を読んでみてください。（良ければメッセージ原稿を参照してください。）私たちの神の御心についての認識が、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。（2節）」と同じになっている場合が多いです。そうではありません、神がどれほどはっきりと、「わたしは裁く」と宣告されても、もし悔い改めて主に立ち上がるなら、その瞬間に裁きの手を引かれるのです。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。・・神である主の御告げ。・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。（23節）」その反対に、正しいとされた者でも、宿命的に義とされるのではありません。これまでどんなに正しいことを行なっても、今、悪の中にとどまっているのならば、その悪のゆえにその人は滅びるのです。 神の御心や主権は、占いのような宿命的なものではありません。では何なのか？それは、「分からない」という定義なのです！私たちの理解を超えたところにある神のご計画、摂理と定義できるのです。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。（ローマ11:33-36）」 私たちは、１パーセント未満という少ない信仰率だから、一生懸命祈るのではありません。少ないから伝道するのではありません。そうではなく、「愛しているから」祈るのです。「愛しているから」伝道するのです。神に愛されて、それで神を愛しているから祈ります。そして、その愛に満たされ、あふれるから伝道するのです。ただキリストの愛によって、私たちは熱心になることができます。祈りが足りない、伝道が足りないのは、その愛が欠如しているからであっても、１パーセント未満のクリスチャン人口を増せていない原因ではないのです。ここに神の主権があります。 ですから、１パーセント未満という実態によって私たちは卑下する必要が全くありません。むしろ、これを幸いに思ってください。喜んでください！こんな過激な発言をしていいのか、と思われる方はマタイによる福音書5章12節を読んでください。日本は基本的に、信仰の自由が認められていない国としての歴史を持っています。キリシタンの時代から今に至るまで、信教の自由が認められたのは戦後のわずかな期間ですが、それでもキリシタン撲滅のために作られた檀家制度によって、未だに日本の人たちは縛られています。政治的に、法的には自由を持っていますが、社会的には極めて制約の多い日本において、それでも信仰を持つことが許されているというのは幸いなのです。 清教徒から始まり、ユダヤ・キリスト教価値観によって成り立っている米国と、共産党による一党独裁の中国では、その中にいるキリスト者はどちらが幸せでしょうか？後者が持っていない大きな制約を前者は持っています。「自由」を乱用してしまう危険、「物質」の豊かさによる霊的危機、それらに屈してはいけないという意思決定を絶えず行わなければいけないという制約です。それに対して、神の主権によって、これらのことから中国のキリスト者はある程度守られているのです（このごろの経済発展によって、同じ危険は怒涛のごとく押し寄せはいますが）。 半分近くがクリスチャンになったのではないかと言われている韓国と、日本はいかがでしょうか？韓国のキリスト者のほうから声があがるでしょう、「私たちの国の教会には深刻な問題が山積している。」私も韓国にはよく訪れるほうですが、キリスト教会がたくさんあるからかえって、福音や御言葉を伝えることのできないという制約があります。人々の心にすでにキリスト教会のイメージが定着しており、その多くが否定的なイメージなのです。日本人に福音を伝えても、白紙のところにイエス・キリストの話を聞いてもらえるという「自由」があります。なかなか伝わらないという苦悩はありますが、すでに出来上がっている既成概念を打ち壊すのは並大抵のことではありません。 （その３に続く）]]></description>
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		<title>世界一評判の良い国　―　日本　その１</title>
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		<pubDate>Fri, 18 May 2012 02:14:14 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[信仰全般]]></category>

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		<description><![CDATA[昨日、極めて興味深い情報を読みました。 世界の中での日本の評判まとめ(BBC Country Rating Poll) BBCでは毎年「BBC Country Rating Poll」というものをやっています。これは、ある国が、「世界に対して積極的な影響を与えている」と思われているか、「世界に対して否定的な影響を与えている」と思われているか、の割合を調査したものです。そして、日本はこの調査で積極的な影響を与えていると思われる国の上位を占めています。 そして、今年の調査では、なんと日本は第一位なのです。今年出てきた調査ですから、2011年の国を見てとのことですが、いかがでしょうか、日本は東日本大震災があり、その後の原発事故によって世界に大迷惑をかけました。ところがむしろ第一位なのです。そして上のブログ記事が触れていますが、日本人は自国に対してそれほど良い評価をしていないということです。 私は、ずっとここのブログで日本がいかに良い国であるかを話してきました。海外経験が多くあるので、日本が世界的に住みよい国の上位に入るのではないかというのが実感でした。特に、地震と津波以後の対策、また原発事故の処理でさえ、私は一国としては良く乗り越えていると思っていました。（例：「政府や東電を信頼するな？」）けれどもこのような意見や感想は、日本では遊離します。批判も受けます。私はこの頃、自分のことを「変な日本人」と呼んでいます。けれども、やはり外国における客観的な世界的調査が、数字として私の実感は奇異ではなかったことを証明してくれました。 一国は一人間の表れ ここから私は、一つの国を一人の人間に縮小して考えることもできると考えました。つまり、「無私の心で他者に仕える人」と言ったらよいでしょう。実にできている人です。そして、自分に与えられている義務をしっかりと果たしている人ともいうことができるでしょう。と、同時に、「それだけ、内に悩みを抱えている人」と言って良いと思います。外側にある責任をしっかり負っていくことによって、自分の能力以上のものを背負い込み、内側で崩壊していく人、と言ったらよいでしょうか。それが、日本人が自国の評価をかなり低く見ているところに表れていると思います。 私は日本の人たちのことを考えるときに、いつも「金持ちの青年」を思い出します。 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。（マルコ10:17-22） 青年は、「何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。けれども、イエス様は、何かを追加して行なうのではなく、反対に、手放すことを命じられました。それは自分がしっかり握りしめていた財産です。しかし、「自分が何かを行うことによって事を成し遂げる」という人生しか歩んでこなかったので、その自我を捨てることができずに、「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去」りました。ここに、自分に対して否定的な認識しか持てない日本人の姿を見ます。 私は、日本人は総じて「究極的に、神の恵みを悟ることが困難な人たち」と感じています。では、どうすればよいのかでしょうか？ 一つは、「感謝する」ことです。日本がこれほど美しい国、優れた国であることを神に感謝することです。また自分の周囲の環境が、当たり前ではなく、神の御心と守りがあって存在していることを感謝することです。 聖書には、「一般啓示」と「特別啓示」のどちらもがあります。一般啓示というのは、自然や人のありさま、良心など、神が普遍的に人に示しておられるご自身の事柄です。そして特別啓示というのは、キリストを神がこの地に遣わし、十字架と復活によって救いの計画を示した、聖書によってのみ知りうることのできる神の事柄です。同じように、「一般恩寵」と「特別恩寵」があります。神のキリストによる救いにある恵み以外にも、人々に与えておられる恵みを「一般恩寵」と名づけたらよいでしょう。 「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。（マタイ5:45）」 私は、クリスチャンが人口の１パーセント未満と言われている日本国は、一般恩寵については神からとてつもない豊かさを与えられている国だと思っています。それが、世界の人々が認めている「積極的な影響」であると思っています。「日本人はなんでこんなに福音を拒んでいるのか。」と私たちキリスト者が不満を並べている時に、実はそのように拒んでいる人と同じ過ちを犯していないか吟味しなければいけないでしょう。 「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。（ローマ1:21）」 （その２に続く）]]></description>
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		<title>今のカルバリーチャペルに足りないもの　－　宣教の視点から</title>
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		<pubDate>Wed, 16 May 2012 05:28:49 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[宣教]]></category>

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		<description><![CDATA[最近行なわれた、日本カルバリーチャペル・カンファレンスはとても祝福されたものでした。そこで少し、前進した、進歩したと感じられるものがありました。それは、講師がすべて日本国内のカルバリーチャペルの牧者であったこと、そして、従来の英語主体・日本語訳付きから、日本語主体・英訳付きに動いたことです。 1965年に始まったカルバリーチャペル・コスタメサから始まった主の働きは、今や、何千もの教会を国内と海外へと広がっています。私は、この群れが大好きで、この群れの一つになれていることを誇りに持っていますが、同時に、これから長い時間をかけて次世代に伝えていく課題もあります。 それを一言でいうならば「宣教」であり、「宣教地における福音と教会の定着」であります。カルバリーチャペルは、60-70年代に米国内で起こった「ヒッピー運動」の若者たちがキリストに立ち上がったという「イエス革命」と呼ばれる中で多くの指導者が出てきました。既存の伝統的な教会に、新しい世代の礼拝賛美スタイル、また若い世代を受け入れる愛と寛容を持っていました。 しかし、米国内ですでに起こっていることですが、「南カリフォルニアの郊外地域に教会が多数」あり、「他の地域に伝播していく」ためには、大きな一歩を踏まなければいけないということです。ハンティントン・ビーチのサーファーに代表されるような、極めて開放的で、形式に拘らない雰囲気が多くのカルバリーチャペルに特徴的なのですが、元々のコスタメサの教会、そして牧者チャック・スミス本人は、ヒッピーを「受け入れた」のであって、ご自身は保守的な米国人です。朝の礼拝では、牧者や案内係にはスーツを着用するようにさせています。カルバリーチャペルの運動は、「ラフで開放的」というのが原則ではなく、「異なる世代や種類の人々を受け入れる」という愛が土台でした。（参考記事） 実際に、日本においてカルバリーチャペルが多いのは、「沖縄」と「東京西部」です。つまり、南カルフォルニアのビーチの文化と沖縄の島にある恵みの文化が合っていますし、東京も中心部ではなく郊外に点在します。同じ流れを感じます。 そしてその文化の延長なのでしょうか、あるいは、現代のアメリカ人の特徴なのでしょうか、「言語の習得」という海外宣教にはなくてはならないものが、ないがしろにされてきました。私たちの近しい知人の宣教師は、OMFに所属しておられますが、彼に日本や他の宣教地で奉仕しているアメリカ人が英語のみを使って活動している話を聞いて、目を点にしています。「OMFでは、アメリカ人も現地の言葉を流暢に話していますよ。」とのこと。ご本人は自分にとっての第二言語で、説教と祈りを始めとする全ての牧会をしています。 カルバリーに限らず、なぜ今のアメリカ人の多くが言語習得をなかなかできないのだろうか？と私は悩みます。戦後直後に来られた、今は老齢の宣教師の多くが流暢な日本語を話せるのに・・・。私がギリシヤ語の最初の授業で、「アルファベットを覚えるのが明日までの宿題です」と言われたので覚えたのですが、暗記した人は一握りでした。後に、宿題をこなす私を仕舞いに、仲間の学生が「天才」と呼ぶようになりました！ ですから、あまりプレッシャーを感じさせてはいけないと思いつつ、小出しに「日本語」を強調しています。 そしてもう一つは、言語以外の文化的要素です。聖書の原則を抽出して、それを現地の文化や習慣、社会に当てはめていく作業がどうしても必要です。例えば日本では、「葬儀」と言えば仏式であり、その時にキリスト者としてどのように対処すればよいのか、ということを考えなければいけません。 ところが、「福音の言葉を伝えておけば良い」という雰囲気があります。けれども、教会というのは生活全般の中に位置していなければならないわけで、世において起こるあらゆる面において世の光、地の塩になることを、教会に来ている人々は願っているわけです。 例えば、今年は米国大統領選があります。共和党候補にモルモン教徒のロムニー氏が出てくることは必至です。米国内では、キリスト者がモルモン教徒を大統領として選んでよいのかどうかが議論されています。それだけ「キリスト者と政治」についてよく考えているわけです。ならば、「宣教地にいる現地キリスト者も同じなのだ」と考えなければいけないのですが、そこまでの発想までにはなりません。イエス様は、「福音を宣べ伝えなさい」と命じられただけでなく、「弟子としなさい」とも命じられたのです。全生活において、キリスト者として生きる指針を与える義務が宣教者にはあるのです。 私の知り合いの牧師さんは、聖書学校の学生たち（多くがアメリカ人）にこう教えたそうです。「宣教師と現地の人との関係は、イラク駐在米軍と現地イラク人の関係と似ている。米軍が撤退した後も、現地イラク人はそこで生活しなければならないのだ。」宣教師が、教会生活そのものさえ知らずに、くっちゃべって去っていくのではいけないのです。残されていく人々が確かに自立して生きていくことができるように、手助けしていかねばならぬのです。 “The Great Omission”という著書を書いた、日本でも宣教経験のあるロバートソン・マクルキンさんが、一度、カルバリーの宣教会議のゲスト・スピーカーだったのですが、彼は基本的に短期宣教を信じていませんでした。その役割はあるだろうけれども、聖書的には長期宣教だと断言していました。そして宣教者は、ヨハネ1章14節にある、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた」とあるように、現地の人々の只中で生きることによって、自分のうちに現われるキリストによって人々に伝える、というものであると教えてくださいました。それから、今日の世界宣教界では、”Incarnation Mission（受肉宣教）”という単語が使われていることを後で知りました。 今も私は宣教の働きをするときの支柱になっている御言葉です。この前、他の国の兄弟姉妹の教会に、私たちの教会の仲間が訪問する機会があって、その一人から「明石さんは、その人たちに溶け込みすぎていて、どこにいるのか分からなくなった。」というようなお言葉をいただきました。私にとってはものすごい褒め言葉で、とても嬉しかったです。ある宣教師は、「宣教は、聖書を片手にして、あとは言語とガッツ（肝っ玉）だ」と言いました。言語習得にしても、文化を知ることについても、根性さえあればできる、ということです。 カルバリーチャペルは、まだまだ発展途上の段階にいますが、それでも少しずつ前進していることを感謝しています。私自身、未熟な面がたくさんあって成長しなければいけないと感じています。ウクライナでは、カルバリーチャペルは完全に現地化されている（つまり、現地の教会が現地の人々によって完全に営まれている）と聞きます。日本でも、少しずつその方向に進んでいることを感謝しています。]]></description>
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		<title>心が悲しくなること　－　神の救いについて</title>
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		<pubDate>Tue, 15 May 2012 11:58:57 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[教会]]></category>

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		<description><![CDATA[ここ数週間、主に聖書を教える奉仕で忙殺されていましたが、豊かな神の恵みがありました。けれども、不思議なことに、いや、むしろ必ず起こることとして、豊かな主の祝福があるときに、落ち込みまで行かなくても、ちょっとブルーになることが多いです。エリヤがバアルの預言者と対峙した後に、イゼベルを恐れて逃げていたとき、彼は神に対して自殺願望を言い表しました。今は全く元気ではありますが、悲しくなる瞬間があります。 その原因は主に二つありますが、どちらも「霊魂の救い」に関することです。続けざまに、数多くの人から同じ質問を受けました。 「救い」は神のもの 一つは、「イエス・キリストを受け入れたとは言えない人は、やはり地獄にいるのだろうか？」という問いです。以前に「セカンド･チャンス論」でも取り上げましたが、日本において、いや他の国に行っても同じ質問を受けています。 私はいつも、同じ答えを出しています。それは「分からない」です。「イエス・キリストの福音を聞かなかった人々について、（また、赤ん坊の時に死んだなど、福音理解を知的にできない人間が死んだ場合など）その人が死後にどうなるのか、私は断言することはできない。けれども、はっきりと断言できるのは、安易に「天国にいます」とは絶対に言えないことだ。」そして、「たとえ、福音を聞いた人で、はっきりと信じたことを目撃できなかったとしても、死後に地獄にいるとは断言できないのだ。」と答えます。もしかしたら、どこかで信じたかもしれません。 そしてはっきりと断言できるのは、自分の身の周りの人々で、確かにその人に信仰による実を認めることが出来た人については、その人の葬儀において、「この人は今、天に凱旋しています！」と高らかに宣言することができることです。 これは、「神の選び」という主題についても同じことが言えて、「神が人を救いのために選ばれた」という真理は啓示されていますが、「神が人を滅びのために選ばれた」という文言は聖書にありません。イスカリオテのユダが滅んだとイエスは明言されましたが（ヨハネ17:12）、そのような特殊な例を除いて、神が人を造られるときに、滅びのために選ばれたという真理はでてこないのです。人間的な論理の類推で、「人を神が救いに選ばれるのなら、それ以外の人々は滅ぶように定めている。」と判断しているだけなのです。 そして何よりも、「死後の世界について、個々の魂の行く末について私たち人間がどうして裁きの座に着くことができるのか？」という叫びがあります。イエス・キリストご自身でさえ、生まれつきの盲人について、弟子たちが誰の罪でそうなったのかと聞いたときに、「両親の罪でも、本人の罪でもない」と言われて、判断を下さなかったのです！その代わりに、「神のわざがこの人に現われるため」と言われて、その苦しみの中に自ら関わり、慰めと癒しを与えられました。 モーセは、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。 （申命29:29）」と言いました。（参照：「神に隠されていること」原稿・音声）私たちはなぜ、「隠されていること」をこうも自分たちのものにしたがるのでしょうか？そして、｢隠されていることを議論する暇があるなら、はっきりと現されていることになぜ責任をもって応答しないのか？｣という叫びがあります。（参照記事：「当事者になろう」） 魂が地獄に行ったかどうかについての疑問を神に対して抱いている暇があれば、自分自身が周囲の人々について、また遠くにいる人々について、もっと関心を寄せ、泣いて涙を流して祈り、その人が確かに救われることを求めないのでしょうか？ 「裁くのではなくて、仕えなさい！」という叱責の言葉を述べたいと思います。 もう一つは、質問に何度も答えていながら、私自身が望まないことを語らなければいけないという葛藤です。どうして、人が地獄に行くことを喜ぶでしょうか？私の祖母は、私が病院に到着した直前に死んだのです。そして目の前でその死体を見たのです。私だって、絶対にそのようには思いたくないことを、けれども、神の真理のゆえに語っているのです。 ・・・私がこのような不満を神にぶつけているときに、エレミヤの悲嘆を思い出しました。彼はバビロンによるエルサレムの破滅を預言しながら、そうなることを最も嫌がって、おそらくは目が腫れぼったくなるほど泣いていたことでしょう。そして主ご自身が、パリサイ人や律法学者に「忌まわしいことよ」と責めながら、エルサレムが破壊されることを涙しておられたのです。 アーノルド・フルクテンバウム博士が最近、来日され死後の世界について講演されたようですが、このように個人的な思いを吐露されたようです。「セミナーの中で、フルクテンバウム師は珍しく自分の家族のことに言及し（ホロコーストで17名の親族が死んだ）、「もしセカンドチャンスがあるなら、私は真っ先にそれを信じたい。しかし、私は自分の願いを重視するのではなく、聖書の教えを重視する。それが、神学者としての私の使命である。…」（元記事） 主は、「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。（エゼキエル18:23）」と言われました。私が泣いている以上に、フルクテンバウム博士が17名の霊魂の行く末について悲しんでいる以上に、主ご自身が最も、ご自分の愛する造られた者たちが、ご自分に背を向けて滅んでいくのを悲しみ、苦しみ、泣き叫んでおられるのです。 救いの妨げ もう一つ、私をブルーにしている要因は、「人間の様々な思惑で、救いが必要な人々に届くことができない」という現実です。「無関心」がもっとも大きな要因でしょう。人々の救いが必要なところに、その人々の中に入るのではなく、留まっている姿を見ると悲しくなります。妻が一年ほど前に、ある教会で被災地への救援旅行の証をしたら、「なぜ政府はその人たちを助けないのですか？」という質問が来たそうです。そうしたら興味深いことに、その証しを聞いていた一人の姉妹が偶然に最近、別のところで会うことができ、その教会の悩みを他の同教会員と共に明かし、祈りの課題を挙げていました。「教会は大きいのだが、兄弟間の愛が冷えている。」 私は、ロゴス・クリスチャン・フェローシップに来られている方々に囲まれていて幸せです。心が愛しているからです。そして、私が以上の神の救いについて話しても、きちんと応答して、今、生きている家族や友人に対して祈っているからです。私が語る世界宣教についての話も、自分の生活範囲外の人々であるのに、よく付いて聞いてくれています。 また、たとえ教会の奉仕、伝道活動をしていても、それが黙々と行なう機械のようになっていて、その対象である生きた人々への愛が見受けられない姿にも悲しみを覚えます。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。（黙示2:3-4）」愛とは、九十九匹が正しくても、失われた一匹を捜し出すような、計算のないものです。「この人たちは心がかたくなだから、届こうとしてもしかたがない。」と見受けられるような姿を見ると、心が悲しくなります。 ヨナタンと道具持ちがペリシテ人の陣営にまで行き、大勝利を主が与え始めておられるとき、サウルは遠くから、祭司たちに囲まれて座っていました（１サムエル14:2,17）。主が行なわれていることに燃やされて出ていくのではなく、また、体裁が保てなくても主の御業の中でもみくちゃにされるのではなく、あくまでも「ミニストリー」や「教会」という名の中で自己保身していることはないでしょうか？ 主よ、どうか神の民の中で御霊による奮い立ちが起こりますように。]]></description>
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		<title>二つの神の民　「教会」と「イスラエル」</title>
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		<pubDate>Mon, 14 May 2012 08:27:14 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>

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		<description><![CDATA[お知らせです。次週、日曜日は、カルバリーチャペル西東京の山東さんご夫妻と、ロゴス・クリスチャン・フェローシップの明石二人が、交換して奉仕をします。つまり、山東さんがロゴスの教会にいらして説教の奉仕をし、明石がカルバリー西東京で説教の奉仕をします。 5月20日（日） カルバリーチャペル西東京 　第一礼拝　午前9時 　第二礼拝　午前11時 　説教題：「先行する神の恵み　－　イスラエルの回復から」　エゼキエル36章 ロゴス・クリスチャン・フェローシップ 　午前礼拝のみ　11時から 　足立区こども家庭支援センター　別館三階にて 　説教題：　「教会はキリストの体」　エペソ1章23節 私は、イスラエルの建国の歴史から、イスラエル人が主に立ち返らずとも約束の地に集められたという、先行する神の恵みをお話したいと思います。山東さんは、教会が単なる人の集まりではなく、キリストの体そのものであることを話されます。どちらも神の民であり、同じテーマが貫かれていると思います。 お近くに住まいの方はぜひいらしてみてください。]]></description>
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		<title>「喜びの分かち合い」を妨げるもの</title>
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		<pubDate>Mon, 14 May 2012 07:10:28 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[宣教]]></category>
		<category><![CDATA[東北救援]]></category>

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		<description><![CDATA[「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』（マタイ25:21）」 「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。（１テサロニケ2:19）」 「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。（ピリピ1:18）」 「ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」（１サムエル30:23-24）」 主の御霊が働かれるところには、喜びがあります。そして、それは主の豊かな恵みによるものであり、関わっている全ての人に分かち合わざるを得ない性質のものです。良い知らせを受けて、それを自分だけに押し込めておくことは罰を受けてしまうだろうという思いが生じて、他の人々に分け与えます。だれも、あふれるばかりの主の恵みを占有することはできないのです。 私たちは海外宣教の経験から、二つの原則を見ます。一つは、「神はご自分の御霊で働かれる時、その妨げとなる既成のものを時に壊される。」ということです。もう一つは、「ぺっちゃんこになったところに、神は灰から花を咲かせるように、復活の命を吹き込まれる。」ということであります。（参照記事：「私たちはよみがえります」）ちょうど、神が、人々が地に広がる、地に満ちるようにするために、人間の力と知恵で築き上げたバベルの塔を、言葉をばらばらにすることによって無理やり散らされたように、私たちの肉の力で築きあげたものをばらばらにされることがあります。 東日本大震災において、神の御霊が働かれました。私自身東北出身の人間として話しますが、「みちのく」（道の奥）という言葉があるように、東北の人々は「こもる」傾向があります。内向きであり、外から来るものを受け付けない傾向を持っています。ですから、地元の教会も共に働くという機会は少なかったし、また開拓伝道は実に難しいところです。けれども地震と津波によって、真にキリストにあって助け合う空気が教会間に生まれ、そして地元の方々が新しく来たボランティアに対して暖かく迎える空気が出来上がりました。それは、私たちの経験した海外宣教に、より近づいたものになりました。 形や組織、儀礼というものは取っ払われ、機動性のみが重視されました。ある地元の牧師さんは、「地元の人々は、初めに来てくれた二つのグループの人々を知っています。自衛隊とクリスチャンたちです。」当事者たちが自分たちに何が起こっているかを把握することができないほど、主の働きが先行し、それに追いつくようにして、自然発生的に様々な教会が被災地に突き進んでいったのです。 そして、伝道、弟子訓練、開拓伝道というのはプログラムではありません。生身の体を持つ人間相手の働きです。人と人とのぶつかりあいによって進んでいきます。宣教において必要なのは、主が肉体を取られて人々の間に住まわれたように、その現場の中に一つになることです。そして東北という村社会が色濃いところですから、共同体というものの中にある原則を、ちょうど潜水して息を止めるように、その中でじっくりと観察していかなければいけません。プログラムを押し付けることはできず、中にいて、そこに働いておられる主に自分自身が出会うのです。そこから、外から与えられる福音ではなく、内から湧き上がる福音、キリスト者らを通して広がっていく生きた福音が必要であります。 しかし宣教において必ず起こるのが、人間的な組織化です。例えば、「この伝道対象地域は、だれの管轄か。」という縄張り意識。「この救われた魂は、どこの教会に属するのか。」という、これまた縄張り意識。既存のものがぺっちゃんこにされ、だれがどこの教会に行くのかなど、どうでもよかったものを、いや、誰かがどこかの教会につながれば、皆で一つになり、大声で喜びを分かち合うことができるものを、そのような意識に縛られて、形を壊しながら働かれた神の御霊を結果的に打ち消しています。 アメリカで実際に起こった話です。ある牧師はずっとある国に短期宣教旅行に行っていました。現地の人々とのつながりができ、御言葉を教える多くの機会が与えられていました。ところが、その教会の他の部門を担当している人が、「あなたの通っている宣教地域は、アメリカの●×教会の牧師が管轄になったから、その人に許可を得てから行かなければいけない。」その牧師は唖然としました。それで電話し、聞いてみました。その、宣教地域の管轄を任された牧師とも実は知り合いの仲でしたが、彼はこう答えました。「私に許可なんか取る必要はありませんよ。」 このことを分かち合ってくださった牧師は、「これは残念ながら、有名な宣教団体でも多かれ少なかれ起こっていることです。」と言って、他の例も挙げてくださいました。いずれにしても、私たちが人間である以上、いつでも起こりうることだということです。 そして組織を作ってしまうと、恐いのは、その組織を維持することに多くの気力を使うことが可能になってしまう、ということです。その組織を運営していくことこそが、主に仕えているのだと勘違いしてしまうことです。これはもはや、ミニストリー（＝主への奉仕）ではありません。（参照：「ミニストリーの基本」（原稿　・　音声）） そして、その宣教の現地の話に戻ると、十年ぐらい経った今、その管轄の牧師が実際には管轄しているのではなく、地元の教会の牧師たちが共に協力し合い、自立して動いていこうという機運が生まれています。そして、そこには豊かな平安と喜びが留まっています。再び御霊は、人が形あるものを作り上げようとしているのを壊し、人々の内側から御霊が働かれ、ご自分のわざを成し遂げようとしておられるのです。 「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。（ガラテヤ3:3）」 「聖霊によって始められたのですから、聖霊によって続けましょう！（「カルバリーチャペルの特徴」チャック・スミス著　第九章「聖霊によって始まった」65頁）]]></description>
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