今一番、世界が見ないもの その1

昨日は、午後礼拝の終わりにみんなでサイゼリヤに行って、語り合いました。いろいろな話題が出てきましたが、興味深いのは池上彰氏のテレビ番組で、サウジアラビア取材とイスラムの説明が前面に出ていた、ということ(紹介 ・ 動画)。そして現地の人が、サウジがいかにすばらしい国かを宣伝していたかということでした。

私は、「池上さんは、いわゆる主流マスコミの人であり、リベラルの人だ。けれども、欧米が今、かなりイスラムが侵食している中、それを好意的に報道するという流れがあるので、それをそのまま日本の人たちにも啓蒙しようという意図があると思う。今、米国では公立学校で寛容を学ぶためにコーランを勉強する一方、聖書を一切禁じている。英国では何と、イスラム教徒に気を使って歴史でホロコーストそのものを教えることを控える動きが出てきている。」と話しました。

私が感じている問題点、そしてキリスト者が持つべき視点と祈りをお話したいと思います。

① イスラム諸国で起こっている現状を伝えない

池上彰さんの報道努力には敬意を表したいと思います。彼は「宗教」というものが世界情勢において大きな軸になっていることを、世界を廻っているがゆえに知っています。そして一般の視聴者の知識レベルを少しでも高めようとする努力が見えます。

けれども、マスコミというのは「左寄り」であることは確かです。私がしばしば紹介している、イスラム研究家である池内恵さんは、日本のイスラム研究家はイスラムを内在的に見ることなく、美化してきたという批判を繰り返しており、イスラムの現状をその内部から詳しく説明しています。そこに浮かびあってくるイスラムの暗闇は、西洋世界、自由社会にとって大きな警告となっています。

参照記事:「中東 危機の震源を読む

そして、キリスト教会もマスコミの一般知識レベルに留まっている所が多く、「イスラムとの対話」を挙げる人々がかなり多いです。聖書に従えば、イスラムは反キリストの霊そのものです。イエスが肉体をもって現れた神であり、神の御子であることを、明確に、信仰表明として否定しているからです(1ヨハネ4:2-3)。イスラム教徒に対しては、「愛による福音宣教」とそれによる「回心」が目標になるべきで、決して対話による共通項の発見ではありません!

② 現状を伝えるが、希望を伝えない

けれども、米国の保守メディアを始めとする、イスラムの脅威についての報道についても限界があります。確かにイスラムの暗闇を直視する必要があります。けれども、そこにあるまた別の流れを見ていません。イランについても、核脅威や人権抑圧については事実でありこそすれ、その中に生きている人々のダイナミズムを伝えることはしません。

中国についても同じで、家の教会に対する迫害や、民主活動家や独立運動への弾圧については報道しますが、けれども同時に、たとえ公認教会にも変化が出ており、極めて健全で、生き生きとしている諸教会があることや、家の教会において異端の教え入り込んでいるなどの現状は伝えない傾向にあります。独立運動も、インテリの人々が主導で行なっており、貧しい一般の人々は日々を生きることで精一杯であり、関心の薄いことについては伝えません。

北朝鮮も、そのおぞましい体制はその通りですが、そこに生きる人々はやはりそこが故郷だと思っており、その地を愛していることを見逃しています。その惨状を一番知っている脱北者でさえも、反北朝鮮報道に驚くときがあります。

リベラルも保守も根は同じで、「ステレオタイプ(固定観念)」を造り上げている点があります。民主・自由主義の世界に生きている人々には理解が難しいかもしれませんが、相反する出来事が同居しているという二面性を、そうした国々は持っているということを知る必要があるでしょう。

キリスト教会について言えば、私が好きではないのは、「聖書預言や人間の暗闇だけを強調して、神が預言を与えておられる意図を見失っている」という動きです。私自身、聖書預言を強調するものですが、それはあくまでも、「世という暗闇の中において、神は光として輝いておられる。神は救いをもたらすという情熱を持っている。」ということを伝えたいからです。世界や日本で起こっていることを並べ立てて、いかに世の中が悪くなり、そしてキリスト教会が背教に向かっているかを述べるにとどまり、自分自身はなんら行動に移していない姿。伝道もせず、宣教活動もせず、弱者や貧者に対する救済も行なわい姿には、辟易します。

その2に続く)

東松島とイスラエル

私たちロゴス・ミニストリー、また母体のカルバリーチャペルは、神がイスラエルという国に対して確かな計画を持っておられることを堅く信じています。その信仰は、私たちに特異なものではなく、主の弟子たちが抱いていた希望であり、主ご自身が予め語られたことです。

そして、実は48年にイスラエルが建国される前に、神が預言として与えられたという理由だけで、イスラエルの回復を祈り求めた人たちが少なからずいました。当時は、ブリタニカ百科事典でさえあまりにも非現実めいたこととして書き記しているほどで、狂信扱いされていたのです。けれども、この日本において、しかも霊的復興が進展している中でその祈りが捧げられたのは、ホーリネス教会の創始者、中田重治師によるものでした。

この聖書の字句をそのまま信じていく姿勢と、聖霊の力による宣教は、当時、天皇主義を強力に推進した国家弾圧の対象になりました。当時の特高(注:今の「公安」と同じ)の捜査は極めて優れており、ホーリネスの教会指導者らは、逮捕され、取調べを受けてもなぜ捕えられたのかよく分からなかった程でした。しかし、彼らの信仰体系、すなわちキリストが地上の王として君臨されること、そしてユダヤ人の救いと回復というのがまさに訴状だったのです。過去に三つの記事でこのことをまとめています。

何を予期すべきか 1
何を予期すべきか 2
靖国神社について その3

それを冷ややかに見ていたのは、当時の数多くのキリスト教会でした。彼らは、そうした信仰を敵国の米国から輸入されたものであり、過激、極端であるとして距離を置いたのです。けれどもそれは、自らの聖書信仰をなし崩しにするものでした。教会指導者は、法廷において「キリストの再臨というのは、心の中でキリストが王となることであり、霊的なものだ。」「キリストが既に紀元70年のエルサレム破壊で再臨したのだ。」と言って、使徒信条にももとる言い逃れをしたのです。(参照記事 )

話を戻しますと、中田重治師の説いた大衆伝道、その原動力となった切迫的再臨信仰と、聖霊体験は、一部に行き過ぎがあったものの、それらの教訓も含めて私たちには大いに学ぶべき所があります。(参照論文:「第35回 日本の教会」「ホーリネス・リバイバルとは何だったのか」)このような素晴しい遺産を、私たちは米国の霊的復興や神学の中のみならず日本国内で実に見出すことができ、慰めを得ることができます。

そして最近まで知らなかったのですが、中田師は巡回伝道を精力的に行っていた中で、再臨運動等の時期には松島にも立ち寄っています。(参照記事:ウィキペディア「中田重治」)そして、何と1932年には、奥松島の野蒜海岸にて、イスラエルの回復を祈ることを公に奨励していたとのことです。

四月から始まった東北救援旅行において、神は主に私たちのチームを東松島に導いてくださいました。第一回目は鳴瀬地区にある牛網に、そして二回目からは、仙台人が東京人にとっての湘南海岸のように、行楽地として親しんでいる、奥松島(野蒜&宮戸島)の月浜地区に導かれました。

そして、東日本大震災の3月11日の前日までの数日、私たちは沖縄のカルバリーを初訪問したのですが、その間、チャックさんと由美さんのお宅に泊まらせていただいたのですが、お二人が神様に呼ばれて、東松島に教会開拓の幻が与えられ、十月末に仙台に引っ越されました。

東松島市には、唯一、「宮城聖書教会」という教会があります。その教団はホーリネスの群れの一つである「基督聖協団」です。

その牧師、田中時雄さんのお誘いで、チャックさんと由美さんが11月20日に行われた野蒜海岸における祈り会に参加されたようです。イスラエルにいるユダヤ人教会指導者や宣教師の方々がいらっしゃいました。

Prayer Time on Nobiru Beach with Asia Messianic Forum 2011 (アジア・メシアニック・フォーラム2011 野蒜海岸で祈りの時を持ちました)

私は、東北地域にリバイバルが来ると予告はしませんが、これが主ご自身の情熱であることは強く信じています。なぜ津波の苦しみを負われているのか?その報いは何なのか?実に、神の惜しみない豊かな愛の注ぎと、キリストによる救いそのものが、罹災者の方々が受けておられる苦しみに対する報いであると信じています。イエス様は、九十九匹の羊を置いて、失われた一匹を捜されました。東北の被災地はその圧倒的な愛を受けるに実にふさわしいと思います。

バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その2

その1からの続き)

そもそも、今回のように、外交的手段で影響力を行使するという考え自体が、聖書にあるキリストの体には存在していないのです。使徒ヨハネは、神の子どもについて、「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:13)」と言いました。神のみが、その人の霊に対して行われる働きによって教会は構成されるのです。「人の意欲」つまり、人間の恣意的行為によってその人が教会の中に入ったと認知することはできないのです。

カトリックは第二バチカン会議にて、これまでの閉鎖的な教会の改革を行ない始めたと言いますが、上の点で、「ローマ・カトリック」という組織そのものがその始まりから間違っているのです。

ローマ帝国の中でご聖霊が誕生せしめた教会は、歴代のローマ皇帝の中で激しい迫害を受けました。ところが、その迫害に関わらず、反対に信仰者は増え続けました。ついに、皇帝自身が信仰を言い表しました。コンスタンティヌス帝です。彼は信教の自由の勅令を出しましたが、テオドシウス帝はキリスト教を国教化したのです。ローマの住民がある日を境に一夜にしてみなキリスト教徒になったのです!これがローマ・カトリックの始まりです。

「国教」にしたといっても、実際はその反対です。教会がローマを支配したのではなく、ローマ帝国が教会を支配したのです。主イエスは、ピラトに対して、「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。(ヨハネ18:36)」と言われました。まさに、ローマ・カトリックはキリストの国をこの世のものにしようとする試みです。

そして国教化したために、あらゆる異教徒を取り込まなければいけませんでした。ローマ帝国の軍事的精神がそのまま採用されることになり、テオドシウスは強制的に偶像崇拝を禁じました。あるいは、改宗は異教徒をそのまま包摂することによって行なわれました。ローマの宗教にそのまま「キリスト」という名前を付け足しただけでした。

初代教会の礼拝は簡素なものであったのに、手の込んだ堂々としたものになり、他の異教と同じようなものになりました。祭司制度は、キリスト者一人ひとりが担ったという神の奥義が新約聖書で啓示されたにも関わらず、仏教や神道にもある仲介者としての司祭を作りました。イエスの母マリヤも崇拝対象となりました。それは、異教の中に女神崇拝があるからです。バビロンのイシュタル、エジプトのイシス、カナンのアシュタロテ、そしてギリシヤのアフロディテ、そしてローマのビーナスの延長です。

今日のバチカンは、「宣教」という言葉を使わず「新しい福音化」という言葉を使います。それは、キリスト教の教義を信じ、告白すべく働きかけるのではなく、生活や社会、教会一致運動などによって福音の影響力を広めるという趣旨です。その延長に、今回の世界中央銀行という提案もあります。

しかし、真に御霊によって支配を受けていない人々に対して、神ご本人が各人を聖霊によって新生せしめる福音の言葉を語らずに影響力を及ぼそうとしている点において、すでに「世」に組み込まれています。「教会がローマを征服したのではなく、ローマが教会を征服した」ことの繰り返しなのです。それゆえダニエルが預言した「第四の国」の一端を担い、さらに宗教という名のもので経済や政治に介入していることで、使徒ヨハネの見た「大淫婦」となっているのです。

私たちも気をつけるべき

ローマ・カトリックについて、すべてを否定する訳では決してありません。彼らが公会議において固辞した聖書の正典化、三位一体等の根本教理は、神の摂理の中で行なわれたと信じています。その他の数々の聖書釈義や信仰告白も、カトリックの中で発展しました。イエス様は、「天の御国の奥義」の中で御国は、毒麦の種が蒔かれた良い麦の畑であると言われました。毒麦もあるのですが良い麦もある、というのが今日の組織としての教会の姿です。

ルターが腐敗したカトリックに対して抗議したことによって、「宗教改革」が起こりましたが、改革はその時だけでなく、今も行なわねばなりません。例えば、会社の社長さんがクリスチャンで、従業員に礼拝に出ることを奨励したりすることがありますが、キリストの霊的権威のみで回心するという純粋性から逸脱しないように、強制にならぬよう気をつけなければいけません。

また、最近キリスト教団体の中で、「神道はキリスト教をルーツとしている」と称して、神道の儀式の中にキリスト教を見出してもらおうという動きがありますが、そのような方々は、すでにローマ・カトリックで大失敗していることを思い出してもらいたい。パウロは、異教に取り込ませることで福音を宣べ伝えませんでした。むしろ、「あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている(使徒14:15)」「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(17:24)」と、異教の神々と対比させて、まことの神、主を宣べ伝えました。異教を取り込んで語っている「福音」は、すでに性質を変えた「異なった福音」になっていることを知ってください。

バチカンが「新世界経済秩序」を提唱 その1

世界中に広がる経済・金融不安に対して、バチカンが金融規制をする世界中央銀行の設立を訴えています。

「ウォール街を占拠せよ」デモ、バチカン枢機卿が支持-金融規制要望」

Vatican Calls for ‘Central World Bank’ to Be Set Up

皆さんは、今の日本また世界中で起こっている経済格差デモについてどうお感じでしょうか?私は、日本で生活保護が戦後最多になったことも含めて、今の日本と世界がどうなってしまったのだろう?と思っていました。

しかし、これを世界的に管理する金融機関を創設することによって解決するのか?というと、私はその考えに空恐ろしさを感じます。忘れてはならないことは、現在の金融制度や経済制度に代わる制度も、同じ人間が管理するということです。理想を高く掲げれば掲げるほど、現実との乖離の中でその欺瞞の中で人間は今よりも何重にも苦しめられることでしょう。

さらに、この記事は唯一の公同のキリスト教会と称するバチカンが発言しているものです。世界の政治指導者に対する彼らの外交は良く知られていますが、国々の金の動きにも支配を広げようとしています。

以前、「世界統一通貨」の記事を書きました。世界が統一化されていく動きは、すでに紀元前六世紀に生きていたダニエルに対して神が、啓示として与えられていました。「第四の国は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。(7:23)」それに呼応するかのように、カトリック教会は二十世紀以降、一つになった世界をふまえてその影響力を行使しつづけています。

黙示録17章には、世界の諸国の王が不品行をしている、世界帝国の上に座っている大淫婦の姿を描いています。

地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。(2-4節)」

次の新書はぜひ、手にして読んでみたいと思っています。なぜこうも、世界で政治や経済の中心的人物がバチカンに謁見するのか、日本の元バチカン大使が書いた本です。

「『バチカンの聖と俗』 - 日本大使の1400日」 上野景文著 かまくら春秋社

次に、ローマ・カトリックの問題点を述べたいと思います。 (その2に続く)

イランによる駐米サウジアラビア大使の暗殺未遂

米政府、イランによる駐米サウジ大使暗殺計画を阻止

ワシントン(CNN) 米国のホルダー司法長官は11日、イランによる駐米サウジアラビア大使の暗殺計画を阻止したと発表した。計画の指示はイラン政府内部から出ていたという。

米連邦捜査局(FBI)によると、米国籍を持つイラン人のマンスール・アルバブシアル容疑者(56)と、イラン革命防衛隊に所属するゴラム・シャクリ容疑者が、外国当局者の殺害と大量兵器使用を図り、テロ行為を計画した共謀罪で起訴された。アルバブシアル容疑者は9月に逮捕されているが、シャクリ容疑者は捕まっていない。
(中略)米当局者らによれば、容疑者らはサウジ大使だけでなく、ワシントンやアルゼンチンの首都ブエノスアイレスでイスラエル、サウジ両大使館を攻撃する計画も検討していたとみられる。なぜサウジ大使が標的とされたのかや、イラン政府内部で計画がどの程度知られていたかなどは明らかでない。

・・・とのことですが、CIAのスパイとして革命防衛隊にいた人によるA Time to Betrayを最近読んでいたので、十分ありえる話だなと納得しました。もし阻止できていなければ、今頃、大変な騒ぎになっていたことでしょう。

ここでの重要な点は、「サウジアラビア」が標的にされていることです。イランがアラブではないことは、歴史的、民族的に明らかであり、また宗教的(イランはシーア派、サウジはスンニ派)な違いと、中東の覇権争いが続いています。

よろしければ、この機会に「エゼキエル38章」の聖書講解を一読してみてください。今の情勢と、預言者エゼキエルが見た幻が酷似していることを説明しました。その時点で明らかでなかったのは、1)トルコの動き、と、2)サウジアラビアでした。けれども、トルコは2010年の「ガザ支援船拿捕事件」を契機にイスラエルとの外交関係を切る脅しをかけ、ロシア、イラン、周辺アラブ諸国との連携に躍起になっています。そしてサウジアラビアは、「シェバとデダン」であり、イスラエルを攻める動きに対して反対表明を出すけれども、何の行動も出せない状況を表していますが、今回の事件でイラン(聖書上ではペルシヤ)との対立が表面化しました。

ところで、エゼキエル38,39章の預言を基調にして世界情勢小説を連載で描いている、ジョエル・ローゼンバーグ氏は、再び新著において、この出来事を言い当てるノストラダムス(?)になってしまいました。

ローゼンバーグ氏は、小説の原稿を出版社に出した後で、911を始めとする数々の中東情勢がその通りになりました(Epicenterの書評)。今回は、”Teheran Initiative“(テヘランの先制)という新書が出ましたが、イランのテロ攻撃が、米国内のアメリカ人、アラブ人、イスラエル人の指導層に対して行なわれ、この攻略によって米国の大統領府はイスラエルに対して、イラン国内の核施設に対して先制攻撃をしないように圧力をかけることから始まります。アメリカが武力攻撃も辞さない姿勢を見せていないこと、また先制攻撃を行なうな、という圧力は既にクリントン国務長官の口によって表面化しました。

ところで、「イラン」という国について、とても面白い本を先ほど読み終わりました。

「イランはこれからどうなるのか 『イスラム大国』の真実」 春日孝之著 新潮社

毎日新聞の記者としてテヘランに在住していた経験を生かして、日常生活で起こっている卑近な例を引き合いに出しながら、国内外で起こっていることを柔軟に説明してくれています。A Time To Betrayの著者レザ・カーリリ氏の反体制的な視点とは一見正反対の姿を描いていますが、どちらも真実なんだろうな、という感想を持ちました。イランの不透明さと不測な動きは、「悪の三枢軸」の中で一緒になっている北朝鮮とではなく、むしろ共産主義を国是にしながら市場経済を導入している現代中国に似ているかもしれません。

今回の暗殺未遂の事件も、既に、宗教指導層側がアフマディネジャド外しを行なっている動き(英語日本語)に呼応した形で起こしたのではないかと言われています。大統領の取巻きにはない革命防衛隊の一部が行ったものである、とか、ハメネイ氏側が米国との限定的武力衝突を狙って行ったものだとかいう情報があります。そうすると、アフマディネジャド自身が「こんな計画は知らない。」と反論しているのもうなずけます。上記の書物にも、イスラム法学者の動きと大統領制の二重構造を上手に説明しています。

ロシュ・ハシャナ

イスラエルからのニュースには、イスラエルが今、ロシュ・ハシャナを祝っているという知らせがやって来ます。ロシュとは「頭」で、「シャナ」は年を表します。これはユダヤ暦の新年です。ちなみに今年は9月28-30日に祝っているそうです。聖書には、宗暦(religious calendar)で第一の月が過越の祭りですが、政暦(civil calendar)はレビ記23章にある、「ラッパを吹き鳴らす日」が新しい年を告げています。

「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物を主にささげなさい。」(24-25節)

この日から秋の祭りが始まり、ここでの主題は「へりくだりと悔い改め」です。第十日は贖罪日(ヨム・キプール)ですが、その時は「身を戒める(32節)」とあります。これは断食することです。そして第十五日には仮庵の祭りがあり、神の贖いの完成を喜ぶ祝いが行われます。

「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。(ヨエル書2:1)」
「「しかし、今、・・主の御告げ。・・心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」
あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(同12-13)」

ロシュ・ハシャナは、新約時代の教会にとっては、主の来臨の合図となります。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:16-17)」

私たちは、主にお会いする用意ができているでしょうか?

「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(ローマ13:11-12)」

(参照:イスラエルの文化 祭りと祭日

「非寛容・圧力・暴力」

 先日、御茶ノ水クリスチャン・センターの前で、ばったり、拙書「聖書預言の旅」を編集・出版してくださった、地引網出版(当時は「リバイバル新聞」)の方と久しぶりに会うことができました。まだ在庫がたくさんあるとのことですが、地震と津波が起こった後で少し注文する人たちがいたとのことです。聖書ではこれらの出来事について預言は何と言っているのか、という関心があったのだろう、とのことです。

 この場を借りて申し訳ありませんが、ぜひ拙書をご購入してみてください、ネット購入できます。 → 地引網出版社

 聖書預言また終わりの日、というと、私が注目してきたのは、「イスラエル建国」「政治や経済の世界化」「世界宗教」「コンピューターチップに代表される世界管理」「地震、飢饉、戦争」等です。けれども、終わりの日についての徴でもう一つ気づいて来たのは、次の聖句に代表される言葉です。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。(2テモテ3:1-4)

 ここにある特徴をまとめると、「自己愛」と「反抗心・言葉の暴力・憎しみ」になるでしょうか?「自己愛」については、後で取り扱いたいと思いますが、ここでは後者について考えてみたいと思います。

 現在進行中の日本の問題は、もちろん放射能汚染の問題と政府の対応です。このことについて、先日、鉢呂経産相が失言で辞任したニュースがありました。ところが、記者会見でヤクザまがいの言葉を使う記者がおり、それが逆に問題となりました。そして、先日は、JR北海道社長が自殺した事件が起こりました。そしてもちろん東電の問題がありますが、そこに共通していることは、「過ちを追及している者たちの尊大な言動」です。本人は謝罪しているにも関わらず、さらに追い詰め、圧力をかけていきます。「赦し」がありません。(参照記事:「JR北海道社長の自殺に思う」)

 そして今の政治界には、対抗している相手に対しての敬意が欠如しています。民主党の党内選挙の政局争いにも見られますし、野党となった自民党には極めて顕著になっています。

 さらにもちろん、週刊誌の表紙にある扇情的な言葉があり、インターネットにおける匿名を良いことに暴力的な言葉を使用するようになっています。

 物理的な暴力は使っていないのですが、言葉を武器にして相手をなぶっています。終わりの日の特徴は反キリストの台頭ですが、彼の特徴は「言葉による支配」です。

この角には、人間のような目があり、大きなことを語る口があった。」(ダニエル7:8)

 彼は「小さな角」と言われるように、政治的には小さい力しか持っていません。けれども、「人間のような目」というのは「人間の知性」を表していて、非常に頭脳は明晰です。そして、口を開かせると実に人々を説得させるような言葉を話します。この特徴をもって、彼は「全土を食いつくし、これを踏みつけ、かみ砕く(23節)」のであり、「いと高き方に逆らうことばを吐き(25節)」ます。そして既存のものを否定しながら、のし上がります。「彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。(11:37)」彼は自尊心の塊なのです。

 イエス様は、「このような小さな子のようにならなければ、神の国に入ることはできない。」と言われましたが、そのように神の権威の中にへりくだり、服従し、人間の知性にある高慢を取り除いていただくことが人間に対する神の命令であり、神のように賢くなるという蛇の言葉を聞いて、善悪の知識の木から実を取って食べたエバは、この反抗心から来る罪だったのです。

 相手を批判している本人たちは、権威者に対して対抗する権利があると思っています。政府、行政、与党、大企業、有名人など、自分よりも強い者であるから彼らこそ悪なのだと決め込んでいます。これこそが、小さな角からのしあげる反キリストの霊であり、そして「あなたは知らないのだ」という知的高慢、そして手は出さないけれども同じように魂に傷を与える言葉使いは、終わりの日に出現する反キリストの霊に服従しているにしか過ぎないのです。

 そして、私は中東情勢を追っていますが、そこには私たち日本国にある閉塞状態が目で見える形で、何十倍にも膨れ上がって現れ出ています。

 「アラブの春」というのは、反イスラエル感情の噴出に他なりませんでした。たった今、パレスチナ自治区のアッバス氏が国連に国家としての認知を承認してもらうべく申請しましたが、それにまつわりアラブ・イスラム諸国は、イスラエルに対して大きな牙を向いています。トルコが豹変しました。エジプトも豹変しました。イスラエル軍が誤って国境地域でエジプト人の兵士を射殺してしまったら、彼らは在エジプト・イスラエル大使館を襲撃しました。なんと、平和条約も見直すことをほのめかす発言を暫定政権の首相が行いました。サウジアラビアは、アメリカにパレスチナ独立国家案に拒否権を出すならば、親米路線を転換するという脅しをかけました。

 おそらく反イスラエル姿勢を貫いている本人たちでさえも、「ここまで言ったらやばいだろう」と思っていても、周囲に対する面子、過激なことを言わねば後で暗殺されるかもしれないという恐れも重なって、歯止めがきかないのです。

 ところで昨日、非常に興味深い記事を読みました。今、池田恵著の「イスラーム世界の論じ方」を読み始めましたが、結構先の「中東 危機の震源を読む」と重なる内容が多く、飛ばし読みすることになりそうです。けれども第一章「メディアの射程」の「アラブが見たヒロシマ」が極めて新鮮です。

アラブ世界では日本のことはほとんど報道されない。日本にはあまり関心がないのである。しかし、広島と長崎への原爆投下には関心が高い。「ヒロシマを世界へ」ということばは、戦後の平和運動の主要スローガンである。これにより「ヒロシマ」ということばはアラブへ広がった。日本人はヒロシマを通じて平和主義を訴えている。しかし、アラブ世界では違う意味で捉えられている。アメリカの残虐性の証明として、アメリカへの復讐の正当性を証するものとして、理解されている。(書評

 具体的に、ビン・ラディンが攻撃を米国にしかけた声明にもヒロシマが含まれている例を出しています。イラン大統領アフマディネジャドも何度となく米国とイスラエルへの攻撃と共にヒロシマを言及しています。

 このように正反対の意味として広島の声が伝播している状況は、アラブ世界だけの問題ではありません。むしろ、発信地に内在的問題があるように思われます。筆者もこう言及していました。

 この理解は、従来の日本の平和主義・反核反戦運動の立場からは「誤解」と言い切ってしまってよいはずである。しかし九・十一事件後に日本の知識人の間で公然化した「テロはやられたほうが悪い」とでも言いたげな議論を見ていると、アラブ世界の「ヒロシマ」受容はあながち誤解でもないのかと思う。
 考えてみれば、日本の反核運動は核兵器廃絶の要求を「アメリカ」あるいは「西側」にもっぱら突きつけ、ロシアや中国の核については追及の矛先が鈍ったり、場合によっては弁護さえしかねなかった。アメリカにのみ非難と攻撃の矛先を向けるというのは、純粋に核兵器の廃絶を求める運動と考えるならば論理的・倫理的一貫性に欠け、理解が困難であるし説得力もないだろう。
 しかし、敗戦国による「復讐」を目的とする運動として理解すれば、一転、非常に納得がいく。アラブ世界では非西洋諸国の反西洋・反米的な民族主義運動の一環として、「ヒロシマ」は理解されてきた。今後の日本の思想・政治的状況の展開によっては、その理解は結果的にまったく正しかったことになるのかもしれない。(本書28-29頁)

 事実、911に際して、先日、石原自民党幹事長があのテロを「キリスト教世界に対するイスラム教の反抗という歴史の必然」としましたが、上の態度に通じる見方です。

 このように日本人が心に秘めた怒りは、世界を巻き込む復讐劇の一部になっています。これからますます、隠れていることが外に大声で叫ばれるような時代になっています。私たちが力を尽くして守り、見張らなければいけないのは自分自身の「心」なのです。

 キリスト者は、主の到来が近いことをふまえて、「寛容でありなさい」という命令を受けています。

あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」(ピリピ4:5)
兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」(ヤコブ5:9)

 終末について語る人々の中には、キリスト教徒でも堕落する者が多く現れて、一部の者だけが神の怒りから免れるというエリート主義を掲げています。確かに多くの者が滅びの道を選ぶと主は言われているのですが、しかしそれに矛盾するかのように、主は徹底的に私たちには寛容と受容を命令されているのです。多くの人々がふるい落とされる終わりの日にだからこそ、むしろ心を砕き、広い心で人々に接していく使命を帯びています。

 これに必要なのは、徹底的なへりくだりと神への服従です。

 例えば、続けて反核運動の話題で言うなら、以前から私は、原爆に関しての平和の希望は、広島ではなく長崎から発信される声にあると思っていました。それは「赦しと愛」です。

原爆の被害は人間の想像を越えるものであった。特に放射線が人体をむしばみ続ける恐ろしさ。しかし日本の侵略と加害による虐殺の数は原爆被害をはるかに越えるものであった。
 今我々がやらなければならないことは、中国はじめアジア、太平洋の国々に謝罪することである。心から赦しをこうことである。日本の過去と未来のためにも。
 しかし、そのための条件は、日本人が真珠湾攻撃について謝罪し、広島と長崎が原爆投下を赦すということである。怒りや悲しみは個人にとっても国家にとってもよいことではない。娘を殺された父親が相手を赦すというように、赦しえないことを赦す考え方、それが必要である。
広島、長崎は「和解の世界」の先頭に立つべきであろう。21世紀は「和解の世代」でなければならない。
核兵器のない世界への努力と「和解の世界」への努力は同一のものでなければならない。
(本島元市長「広島よ、おごるなかれ」まとめ)

お互いに許し合おう…お互いに不完全な人間だからお互いに愛し合おう…お互いにさみしい人間だから
けんかにせよ、闘争にせよ、戦争にせよ、あとに残るのは後悔だけだ。  (「平和塔」より)
敵も愛しなさい。愛し愛し愛し抜いて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。
愛されたら、滅ぼされない。愛の世界には敵はない。敵がなければ戦争も起こらない。
永井隆

 もしこのことが日本全体で実践され、それが反核のメッセージとして世界に伝播していたのであれば、今、テロリストの口から「ヒロシマ」の言葉は消えていたことでしょう。

 私たちは、自分の周囲からこの態度を実践することができます。気の合わない人に忍耐できるか。聖書的に明らかに間違ったことを行っている人に対して、罪には決して妥協しないけれども、その人格を受け入れているか。意見が異なる人に対して敬意を表しているか。自分の上にいる人々に対して、反抗心を捨てて、主に対するように仕えているか。心にあるあらゆる悪意、ねたみ、無慈悲、怒り、そねみを捨てているか?そして、主を知らない人々に対して、福音を紹介しているか?

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)

イスラエル大使に退去要求 トルコ

このごろ、連日のようにイスラエル周辺情勢をここに書き込んでいますが、めまぐるしく動いています。先ほど目にしたニュースを紹介します。

[イスラエル大使に退去要求 トルコ]
 トルコのダウトオール外相は2日記者会見し、昨年5月のガザ支援船急襲事件で正式な謝罪を拒否したイスラエルの駐トルコ大使に国外退去を要求した上で、外交関係を見直し、軍事面の協力関係を凍結すると発表した。
 事件で冷却化した両国関係は急速に悪化、中東全体の安定をも損ないかねない情勢だ。イスラエルのネタニヤフ首相は主要閣僚による緊急閣議を招集した。
 支援船事件をめぐり、国連の潘基文事務総長が任命した調査委員会は1日までに、イスラエル軍の武力行使は「過剰だった」としながらも、支援船側から「組織的、暴力的な抵抗」があったとし、イスラエルの主張を大幅に取り入れた報告書をまとめた。トルコは報告書提出までに謝罪するようイスラエルに要求していた。(共同)
(http://sankei.jp.msn.com/world/news/110902/mds11090220060008-n1.htm)

イスラエルが国交正常化している周辺諸国は、「エジプト」と「ヨルダン」、そして「トルコ」です。トルコとは軍事協定を結んでいたので、イスラエルの安全保障にとってはその関係が死活的になっています。

ところが、以前、下の二つの記事でご紹介したように、トルコがイランやイスラム諸国に急接近し、そしてイスラエルに対してあからさまな怒りを表明しています。

ガザ支援船(?)拿捕事件 - トルコの怒り
ガザ支援船(?)拿捕事件 その2 - We con the World

トルコとの関係が断絶すれば、イスラエルは上の記事の地図にあるような、敵対する周辺諸国に取り囲まれるようになります。エゼキエル38章の、イスラエルを攻撃する預言絵図です。ロシア(ゴグ、マゴグ)、ペルシャ(イラン)と並び、トルコは、ゴメルとベテ・トガルマとして登場します。

ところで周辺のアラブやイスラム諸国にある、イスラエルに対するあの怒りと憎しみ、そしてそしりは尋常ではありません。みなさんも「怒り」や「憎しみ」に満たされることのないよう、自分の心を見張りましょう!その背後には悪魔がいます。終わりの日は、私たちの心に寛容さと平和と、愛、慎み深さが要求されます。

(9月6日後記)
なんとトルコは、イスラエルとの外交・軍事関係に強い制限を課したと同時に、エジプトとガザに接近しています。
Turkey to sighn strategic alliance with Egypt

「エルサレムに宗教の国連を」

CC西東京の山東さんのツイッターで拾いました。

Vatican exited: Jewish Chief Rabbi proposed new “UN in Jerusalem”

ウィキリークスが在バチカン米国大使館からの通信を発表し、その中に、2004年9月に、「エルサレムに宗教の国連を設立してはどうか」との提案を、イスラエルのチーフ・ラビが行なったそうです。世界の宗教の代表者が、国際情勢についての共同発表を出来るようにしたい、とのこと。下の写真は、イスラエルのチーフラビ(アシュケナジとスファラディ)が教皇を表敬した時の様子だそうです。

ここには三つのポイントがあります。

1)カトリックが強く推し進める「宗教間対話」は、異なる宗教を一つに結びつける「世界宗教」へと通じること。
2)世界宗教の動きが、世界各国を政治的にも一つに結びつける「世界政府」の動きと連動していること。
3)そして、これがエルサレムのユダヤ教の指導者から提案されていること。

これが、黙示録17章にある「大淫婦」の幻、そして11章にあるエルサレムの霊的堕落状態と相重なるのです。

「地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。(17:2-5)」

「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。(11:8)」

そして、これはカトリック、イスラム、ユダヤ教の中で広まっているだけでなく、キリスト教福音派の中にも入ってきていることは、以前、「キリラム教アメリカで広がる」の記事でお伝えしました。

水曜日の恵比寿バイブルスタディでのテーマは、「神の御業を尋ね求め、神に絶大な信頼を寄せること」というものでした。(詩篇111-115篇音声)未信者の人々、いやキリスト者の中にも、「なぜ宗教は戦争をするのか?争うのか?」という強い疑問があります。私たちはたとえ、それへの完全な解答を伝えられなくても、「それでも私たちは主を信じる」という決意が必要です。

私たちが人間的に平和を求めようとすると、たちまち起こることは、キリストの栄光に覆いがかかる、ということです。この方の優越性と至上性を知ることによって、初めて人の魂は救いと平和を得るのに、それを押し潰すことによって得ようとする平和は突如の破滅をもたらしてしまいます。

「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。(1テサロニケ5:3)」

周囲の人々にキリストの証しを立てようとしている方は、じっくりと耐えて、根気よく、キリストの真理をお伝えください。

皮膚の中のコンピューター

聖書に記されている終わりの日の徴は数多いですが、その中の一つは「皮膚下に人の売買行為を制御できる何かを埋め込む」というものがあります。

「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。(黙示録13:16-17)」

下の写真をご覧ください。すでに先端技術はここまで発達しました。

Computers get under our skin からの記事です。

A small electronic device slapped onto the skin like a temporary tattoo could bring us closer to a future that melds body and machine, a cyborg world where people have cell phones embedded in their throats and Internet browsers literally at their fingertips.(訳:仮の入墨のように、皮膚にぴったり引っ付いている小さい電気装置は、肉体と機械を融合させる将来を一歩近づけた。それは喉に携帯電話を埋め込み、インターネットを文字通り指先で操作する、サイボーグの世界である。)

しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。(ルカ21:36)