男よ、お前が悪いのだよ! その2

その1からの続き)

では解決への道は何でしょうか?フェミニズムのように、女性を社会構造的な弱者として見て、その構造を変革することが必要なのでしょうか?もちろん制度上の精力的な変革の努力は必要でしょう、けれども福音信仰に立つ者は、それが根本解決ではないことを知っています。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3:1-5)

終わりの日の困難さは、第一に「自分を愛する」ところから出てきます。自己愛、これこそが問題の根源です。自分の上に権威がないのです。自分が一番であり、自分が神なのです。そして現代は他の社会的規範などで抑えられていた権威が取り除かれ、自我が制御されることなく漏出することによって、諸問題が噴出しているのです。

私はダビデが大好きです。ヨナタンがなぜダビデを愛していたのかがよく分かります。その反面、サウルが嫌いです。いや、サウルに自分の醜さを見る、と言ったら良いでしょう。彼はまさに、今の言葉で言えば「パワー・ハラスメント」の男でした。彼は元々おとなしい人でした。臆病でさえありました。けれども一度、権力の座につくとたちまち高慢になりました。最後まで自分の非を認めることができませんでした。言い訳を言い続けました。認めたようにふるまってもすぐに態度を翻しました。そして、自分が認められていないと被害意識を抱きながら、祭司を虐殺するという攻撃性を表しました。

それに対してダビデは真の男です。ダビデが息子ソロモンに、「強く、男らしくありなさい。(2列王2:2)」と言いましたが、男らしい、とはどういうことでしょうか?彼は知っていました。彼も自分の権力によって、姦淫の罪を犯した女の夫を殺すという重罪を犯しました。けれども、彼はこう告白したのです。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(詩篇51:4)」

サウルが神の前に出ると言う経験がなかったのと対照的に、ダビデは初めから神との交わりが中心となった生活を送っていました。そして自分が犯した過ちも神の前で告白しました。神の前に崩れ落ち、泣き悲しみ、悔いる心、この砕かれた魂こそが、男らしいのです。サウルはそれが最後までできませんでしたが、ダビデは行なったのです。神の裁きを甘んじて受け、けれどもその裁きよりもさらに根源にある神の憐れみを信じて、神の前に出ました。責任をただ自分にあることを認め、自分が子供のように小さくなりました。

このように自分の弱さを認めるのです。弱さと罪を認めることは、ものすごい勇気の要ることです。その勇気こそが、「万物をあなたに支配させる」という意図で神が創造された、その全責任を自らが担うという人間本来の姿、または男本来の姿に回帰することなのです。ダビデも、罪を告白した後の姿は弱くなりました。その家に、彼がかつて犯した罪(姦淫と殺人)が蔓延しました。全然格好良くありません。でも、これこそが神の前では格好良いのです。自分が弱くなること、これこそがキリストの恵みが完全に現れ、その力が働く時です。

他人のせいにしない。そして果敢に神の前に出て行き、自分の心をすべて明け渡し、泣きじゃくってもいいから祈る。そして神によって心を柔らかにしていただく。その柔和さで、弱い人の弱さを担います。

そして友が必要です。先の性暴力事件の加害者が属していた教団の検証を読みますと、教団に対する批判的な態度、主任牧師に従えない、自分のしていることには誰も干渉させない、というような問題がずっと前からあったようです。神学校時代や信徒の時代からの友がいることが大切、という話も書かれています。

特に牧師として生涯を全うするためには、「△△教会の○○牧師」といった付加価値抜きの、素の自分を見せられる相手、一人の人として自分を見、意見してくれる存在が不可欠である。できることなら、こうした肩書や、成果を求められる状況が生じる以前、信徒、修養生時代にそのような相手を得られることが望ましい。と同時に、継続した訓練が必要である。

ですから男たちに問いたい、「あなたに友はいますか?」私自身も恐れるのは、交わりを失うことです。他者や自分の属しているグループなどに問題を感じたとしても、その関係を断つことは致命的であると考えています。そんな批判ができるほど自分が優っているのか?という、自己のうぬぼれに対する警戒も必要です。「交わる」ことは、直、へりくだりにつながります。

記事の題名は、実はフェミニストの人が書いた性暴力についての本「あなたが悪いのではない」をもじったものです。女の人が、自分が悪いと思ってしまうことについて「そうではないのだよ」と断言している言葉でしょう。けれども私はさらに一歩踏み込んで聖書的立場から、「男よ、お前が悪いのだ」という見解で書かせていただきました。

男よ、お前が悪いのだよ! その1

ものすごく過激に聞こえる題名ですが、今横たわっている虐待にまつわる問題のことを考える時、また結婚などの男女関係にかかわる問題を考える時に、結論はこれだと思いました。これから、この女性と男性の間にある支配関係のことを書いてみたいと思います。これまで、家庭内暴力や性暴力、そして何と教会の牧師がそのような犯罪に加担しているというニュースも見聞きして、その中で深く考えさせられることは、男と女の違いであります。

あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。(創世記3:16)」これが、エバが蛇に惑わされたために神から受けた呪いの一つです。女性は、相手に拠り頼み、信頼を寄せることに全神経を使いますが、その女の依頼を男が自らの支配欲によって利用するという醜い関係が描かれています。

家庭内暴力の問題を抱えている方が自分の悩みを打ち明けてくださったり、または人づてで話を聞いたことがありますが、どちらも「自分が耐え忍べば、夫は変わってくれるかもしれない。」という期待をかける場合でした。私がいつも思うことは、「本当に相手を愛しているのであれば、警察に彼を連れ出さなければいけない。」ということです。彼が自分のしていることの結果を刈り取ることによって、彼が改悛する可能性が出てくる、と私は思っています。けれども、その点が女性の理解しにくいところであり、どうしても自分に原因があると思ってしまうのです。

男というものを考えてみましょう。聖書の言葉を、フェミニズム(女性同権論者)の人も封建的な人も、いやクリスチャン自身も曲解していることがありますが、それは「男は女のかしらである」という言葉です。このことによって、女は男に従わなければいけない、という従属関係を教えていると話します。また男はこれを梃子にして「女が自分に従っていない」と嘆きます。とんでもない話です。この「かしら」というのは、女が男に従うということ以上に「男が女のことについて全責任を負う」という、人間的に乱暴に言えば、ものすごく男に不利な(?)宣言であります。

アダムが罪を犯しました。エバが罪を犯した、とは聖書には書かれていません。蛇に惑わされた、とだけ書いてあります。もちろんエバも人間として罪を犯したのですが、神は人の救済史において、アダムが神の声を直接聞き、そしてそれに反することを行なったので、彼によって全世界に罪が入った、としています。これが「かしら」の始まりであり、男女において男は第一に責任を取らなければいけない、という意味です。

そして、第二のアダムとなられたキリストは、ご自分がすべての人の罪をご自分になすりつけるということを行われたことによって、信じる者たちに対する「かしら」となられたのです。男はこの方にあって初めて、女に対するかしらの務めを果たすことができます。

現代になって、「男たちに男らしさがなくなってきた」と言われるようになりましたが、それと共に男が女性を精神的・物理的に蹂躙する事件が増えています。(母親が幼児虐待する事件も増えていますが、それも結論から話しますと問題の根っこは同じです。)これは一見矛盾しているようで、実は一つなのです。男が、勇気を出して神の前でへりくだることができなくなっているので、その責任のなすりつけを女や他の弱いと見える人に対して、暴力やその他の攻撃性を示すことによって表現しています。

こちらのブログ記事で、牧師による性暴力の事件が取り扱われていますが、その被害者女性(自殺によって他界)の母親が実名を出して小冊子を出しています。インターネット上でもその概略をご本人が書いたものが掲載されています。その一部を引用します。

- 性暴力の加害者はあくまでも、力や地位や権力や脅しを利用できる状況をしっかり「選択」し、容易周到に準備していることがほとんどです。「性欲」による「反応」が加害であるとは言えません。
- 加害者が利用できる状況をしっかり「選択」し、用意周到な準備をして被害者に接触することがほとんどです。宮本の知る限りでは宗教界での事件の多くが加害者は高度なテクニックを使います。
- 性暴力加害者に共通するのは「自身の弱さ」です。弱いからこそ、持った「地位、権力」を確認するために、あるいは持っている以上の力を誇示しようとするために、自分より弱い者を被害者にする、あるいは、自身の男としての力「こうあるべきとの思い込み」の確認もあります。
- 力関係の中での性的行為で、自分が絶対的な力を持っている場合、その行為は、他のセックスよりもより刺激的になります。(妻や特定の女性がいても同じです) 加害者はエスカレートしていきます。何度もくり返したくなる最も強い誘因は、セックスの刺激と力を感じることであり、一度これを手に入れると、やめられなくなります。

ですから、これは単に男の情欲だけの問題ではないことです。性的嫌がらせの被害者は、女性のみならず男性もいるとのことです。なぜなら、その根底に男女に関わりなく「自我の増大」があり、それを満たすための「支配欲」がありますからです。そして存在感の弱い人、「おとなしい人は加害者にはならない」ということではなくむしろ、自分よりも弱い人を捜していて、その相手に「自我をぶつけていく」ということを行ないます。しかし自分は弱い者(劣等者)であると思い込んでいるので、自分が加害行為をしている意識はまずありません。

ですから、性的虐待のみならず、他のいろいろな虐待やまたは支配関係の中で、共通の問題が横たわっているのです。

その2に続く)

クリスチャンの政治家

先ほど明日の恵比寿バイブルスタディの学びの準備が終わり、ちょっとネットサーフィンで遊んでいました。フェイスブックで「柴橋正直」という民主党議員の方がリンクされていたので、思わず彼のブログを熟読してしまいました。プロテスタントの教会の牧師の息子さんで、そして彼の政治姿勢には非常に共感できるものが数多く、その考えの背後に聖書的価値観が横たわっていることが明言されています。例えば・・・、

TPPに関連して、世界統一の流れは反キリストであると明言

パレスチナ問題について、「パレスチナ問題について、領土問題は当事者同士の話し合いで決めること、エルサレムをパレスチナの首都と認めることは聖書に反すること、イスラエルの安全保障を確保し、イスラエルを孤立化させないことを、総理に提言しました。パレスチナ問題は、旧約聖書の時代から流れている全世界史的課題であり、背景をおさえた上で、欧米や中東諸国と国連で協議してほしいとの思いです。」・・・すごい!

聖書の観点から不信任案を斬る」という題名で、姦淫の現場で捕えられた女の話を取り出し、「東日本大震災を前にして、神の前にも人の前にも100点満点の議員がいるでしょうか?」とのこと。

その他、聖書に関するコメントが多数あり、実際の国会の審議においても質疑において聖書に基づいた個人的信条を語っておられます。(ビデオ

しかし、非常に気になることがありました。神社などの習俗行事に積極的に参加し、実際の儀式にも関わっている記事がかなり多くあったことです。

政治家と宗教行事

実は日本の政治界(実は経済界にも)には、カトリックを含むキリスト教徒は多くいると言われています。「小さな命を守る会」のブログ記事の「この方もクリスチャン」には有名人でクリスチャンだと言われている人たちが登場しますが、保守政党にも革新政党にも議員は結構いますし、実は首相を務めた方にもキリスト教徒は何人かいます。

ここから私が思うことを書きたいと思います。

第一に、この世におけるキリスト者の働きを見るときに、単にその人がクリスチャンだからと言って無条件に支持をしたり、援助すべきではない、ということです。政治家に限らずあらゆる職業にいえることですが、「クリスチャン」だということで「暗黙の甘え」が生じる傾向をこれまで見てきました。

例えば、教会運営のラジオ番組のコマーシャルで聞いた不動産屋さんにお世話になったら騙された、という話を聞きました。私はその人にこう答えました。「世においてきちんとした経営ができないから、クリスチャン相手に行なうのは本末転倒。世における厳しい環境においても、なおのこと実績を持っていることが世の光となる。だから私は、クリスチャンの会社だからという理由でお願いすることはない。未信者でもプロ意識をもってしっかり業務をこなす不動産にお願いしている。」

そして第二に、政治などでその信条や思想はある程度、信仰とは切り離すべきであると私は考えています。同じキリスト者であっても保守と革新がいますし、私は聖書が明言していない事柄については多様な意見があって当然であると考えています。そして、その領域において意見を対立させても、それはキリスト者の分裂であるとか裁き合うという罪にはならないと思っています。むしろ、個々が主にある堅い礼拝と信仰を守っているならば、アウグスチヌスが「神を愛し、そして自分の願うように行ないなさい」と言ったように、恣意的に聖書的世界観を構築しなくても、自然な形でキリストの香りが放たれると信じています。

ですから、あるブログで「日本では保守系政治家とキリスト者は相容れない」と書いていましたが、それはとんでもない話で、自分の政治信条と信仰基準を同列においている僭越的発言だと思っています。

しかし第三に、信仰に関する事柄が直接、政治の領域に触れることがあります。例えば、先に挙げたパレスチナ問題は、単に政治信条に留まらず、個々の信仰者の聖書理解、その神学の深みに関わる問題です。この部分において意見を異にする政治家、経済人、企業家、教育者、その他の職業人がいるならば、それは懸念事項になり、その人を支持するかどうかを決める重要な要素になります。

神社は公式行事なのか?

私がいつも残念に思うのは、「信条や思想」と「信仰」の区別が明白になっていないために、一つの政治信条をクリスチャンはもてないという空気を教会やキリスト教界で造り上げてしまうことです。例えば、改憲がいかにキリスト者として悪しきことか、という空気を作り上げて果たして良いのでしょうか?聖書に軍隊放棄が明確に書かれていることなのでしょうか?そして、自衛隊など国防に関わっている人がそのような意見を聞いたときに、心を痛めるのでは?という余裕は持たないのでしょうか?私たちはキリストのゆえに、自分の信条に思っていることさえ横に置くことを命じられています。

しかし、政治家に関わらず「神道などの宗教行事に公の人が関わる」ということが、革新的な考えを持っている人が「政教分離違反」として批判する前に、キリスト者としていかがなものか?ということを真剣に考えなければいけないと思います。

聖書はこの領域において、具体的に立ち入った模範を置いています。ダニエルとその友人三人です。彼らは公人でした。友人三人は、権力集中のためにネブカデネザルが造り上げた金の像を拝むことを拒みました。ダニエル自身は、メディヤの王ダリヨス以外に祈願する者は獅子の穴に投げ込まれるという勅令を知りながら、いつもと同じようにエルサレムに向かっている窓を開けて、感謝をささげ、願いを立てていました。

彼らが異教の国バビロンやメディヤで、反抗的な態度を取っていたかというとその正反対であり、極めて忠実な僕であり、非の打ち所がないほどだったことが知られています。単に「政教分離」の問題で反対運動することがキリスト者の態度では決してなく、むしろ指導者に対して敬意を払い、あらゆる事柄で指導者を支えていたのです。

けれども、自らの信仰と公の部分が触れる時が来ます。その時は信仰の良心を優先させます。そしてダニエル書には偶像礼拝との関わりが述べられており、日本の伝統や文化を守るという題目で神道的・仏教的儀式に関わることがいかに深刻な問題であるかはぜひ考えていただきたいものです。

私はこのことで正直悩んでいます。なぜこうも妥協してしまう公人が多いのだろう?ということで悩みます。かつてブッシュ大統領が明治神宮参拝をした時に、私は国務省やアメリカ大使館に懸念表明の手紙を書いてくれとアメリカのクリスチャンに要請したところ、逆に批判をする人々がいました。しかしその後にどんどん明らかになってきたのは、ブッシュ大統領は「イスラム教も、キリスト教も同じ神を礼拝している。」「私は聖書を文字通り信じている者ではない。」というような発言が出てきて、彼はマスコミや日本のキリスト教会で信じられてきたような「原理主義キリスト教徒(?)」とはかけ離れていた信仰を持っていたことが明らかにされています。

その時にこうした行為を正当化するために、見事に同じ箇所を引用するのですが、ナアマンが回心した後にエリシャに尋ねた言葉です。

主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。(2列王記5:18)

興味深いのは、エリシャはそれを認めた訳ではないことです。ただ「安心して行きなさい。」と言ったのみです。そして彼の主君のアラムの王は家臣ハザエルによって殺されているのです(2列王8章)。つまり、その儀式に関わらなくてもよい状況を主が備えてくださった、という見方のほうが可能性としては大きいのです。(信仰を持ったばかりのナアマンのことを取り上げてキリスト者政治家の異教儀式への参加を正当化すること自体、私はけしからんと思いますが。)
 
公の空間に働いている圧力というのは、私の想像を超えてはるかに大きいのだと思います。ですから、私もその人々を強く指差せば、姦淫の現場の女を裁こうとしたパリサイ派の人たちと同じ過ちを犯すことになります。といっても、同時に軽々しい妥協は、神社参拝などの儀式にキリスト者としての良心のゆえに投獄された、また殉教したという過去のキリスト者が流した血を踏みにじる行為であり、決して看過できぬことであります。

参考記事:
何を予期すべきか?」(美濃ミッション事件:子弟の神社参拝拒否が全国紙の一面で取り上げられ、一般人による排撃運動に発展しました。)
靖国神社参拝について その3」(ホーリネス弾圧事件を取り扱っています。)
このくにで主に従う」(「日本的なもの」と「キリストの福音」の衝突を詳述する良書)

この頃、「神道」が「宗教」ではなく「文化や伝統」という中に押し込められていくこと、さらには「キリスト教が源流」という“埋没”へと向かっていく流れを、私は不気味に感じ取っています。福音の真理に妥協しない覚悟が必要です。

映画の中にある「結婚」

1月12日にアメリカから日本に戻る飛行機の中で、The Debt(借り)という映画を観ました。

私は残虐さのみを前面に出す戦争映画はあまり好きではないのですが、心理戦や諜報活動の映画は好きで、特にイスラエルのモサド関係は書物も好きだし映画も好きです。上の映画は「モサドが、旧東ドイツ内でナチの犯罪人を拉致し、西側で連れてきて最終的に裁判にかける。」という、フィクションではありますが歴史と現実に即した良質な映画だ、と思っていました。

特に、女性の要員が作戦の中に組み込まれますが、それはその元ナチスの男は現在産婦人科医であり、彼から診療を受けるふりをするためです。彼女を診療している医者に向かい、毒の入った注射針を首に突き刺す場面は、圧巻でした。

けれども、がっかりしたのがモサド要員の仲間で恋に陥ることです。男性の要員二人とその女性とが三角関係になり、それが遠因となって、その国家をかけた作戦がおじゃんになります。これは、実にハリウッド的、アメリカ的な挿入であり、実際では絶対に起こらない愚かな行為です。この映画はイスラエルの映画のリメイクなのですが、オリジナルのイスラエル版では、その部分はさらっと流しているだけで強調していないそうです。(Wikipedia)

なんで、こんな映画の感想を書いているのかと言いますと、結婚や男女関係というものが、ハリウッドの中で、アメリカの中で、そして現代社会の中であまりにも軽々しく考えられている、という思いがずっとあるからです。映画の中でしばしば、会ったばかりの男女がすぐに肉体関係の中に入る姿に実にげんなりするのですが、アメリカに留学した経験の持つ私の友人によると、キャンパスではそれが当たり前だとのこと。まるでスポーツのように男女関係を変えていくのだそうです。

そして、さらに残念なことには、クリスチャンと言っている人々とそうではない人々の離婚率がそれほど変わらないという事実です。(参照記事)クリスチャンには、次の神からの命令があります。

「・・・『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。」(マタイ19:4‐7)
「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:30,31)
「『わたしは、離婚を憎む』とイスラエルの神、主は仰せられる。・・・」(マラキ2:16)
「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。・・・」(ヘブル13:4)

「結婚」というものが、元々、定められた意図とは全く異なる形でこの世では受け止められていて、そしてクリスチャンまでが、その価値観に影響されたまま結婚しているとしか思えません。

結婚というのは、上の御言葉にあるように神聖なものです。キリストと教会を具現している男女関係です。そこにあるのは「一心同体」です。今日、「権利」や「独立」という価値観が極めて強い中で、結婚は自らの意思や権利を、さらに高尚な価値観のゆえに放棄し、キリストのゆえに、配偶者のゆえに自らを捧げていく行為です。これができるのは、キリストに全てを捧げた者だからこそできることであり、一生、親密で成熟した関係を保っていく夫婦こそ、キリスト者であることの証しの一つになっていなければならないのです。

ですから、キリスト者は結婚を考える前に、「どんなことよりもキリストを主として、この方に仕え、従う。」という前提がなければいけません。そしてこの献身が出来ているからこそ、自分を捨てて相手に身を捧げる決意を抱くことができるのです。つまり、結婚はキリストの似姿に近づいていくことの聖化以外の何物でもありません。

男性と女性にそれぞれの弱さがありますが、男性はもちろん「目の欲」であり、肉体関係を視覚的に見ること、実際に行なうことに強い衝動を抱きます。映画にしろ何にしろ、そのような場面の出るものを避けたいと、聖さを求めるクリスチャンなら思います。女性ならその弱さは「恋愛」でしょう。私はロマンスの映画がどうも好きになれません。あまりにも非現実的であり、「白雪姫」や「美女と野獣」と同じレベルを地で行なっているようにしか見えません。男性の肉欲よりは刹那的ではないかもしれませんが、恋愛もあくまでも生理的現象の一つであり、感情の一つであり、数年経った後もそれが持続していることはあり得ないのです。

私の好きな映画に「明日の記憶」というのがあります。若年アルツハイマーにかかった中年男性を、妻が、彼が完全に彼女の記憶を失うところまで付き合っていく話になっています。私はやや年を取ったからなのでしょうか、このような最後まで続く成熟した夫婦愛、そして病身になっても献身する姿に真実の結婚愛を感じ取るのですが、これはあまりにも古臭い考えなのでしょうか??

夫婦愛をその肉体関係を含めて描いている書物が「雅歌」です。聖書の日本語訳を読んでもなかなか伝わりませんが、ここに牧師さんによる分かりやすい翻訳があります。ぜひ読んでみてください、実に官能的です。しかし、その雅歌にも夫婦の危機が描かれており、それを乗り越える姿とさらに夫婦関係が成熟する姿も描いています。(さらに詳しく学びたいか方は、ロゴスの学びに飛んでください。)こうした夫婦愛がまさに真実であり、たとえ性欲が多少減退していたとしても、むしろ幸福感はさらに増し加わるというのが実際であり、そうした面は映画では描かれることは極めて少なく(注:もちろんその場面を視覚的に出してはいけませんが)、初めの恋愛の話が大半を占めているところに、私は幻想があると見ています。

今、共和党の大統領立候補者の予備選が行なわれていますが、アメリカの私の友人である、ある兄弟が(彼は共和党支持者)、キングリッチ氏には決して投票しないことを明言していました。それは、もちろん彼の不倫経歴であります。他の候補者、ロムニー、ポール、サノトラムは、それぞれただ一人の女性に「合計117年の結婚があるのだ」と言っています!最後まで一人の女の人だけに捧げる、ということがどれだけ麗しく、すばらしく、光栄なことかと思います。

みなさん結婚を決して軽々しく考えないでください!それは、自らを主に捧げ、相手に捧げる神聖な行為です。そして「離婚をするな」というのは人を縛る言葉ではなく、その後にある悲しみと痛みを案じて主が語られていることであり、みなさんの益になることなのです。

最後に、恋愛、性、結婚について知りたい方は次のサイトをお勧めします。

小さないのちを守る会

特にその中にある「結婚、恋愛、性で悩んでいる」という欄、そして「ブログ」にある「聖書的恋愛論」の話題などが参考になります。

有神的進化論について その3 - 創世記1章と2章の矛盾?

その2の続き)

そして、「(創世記1章と2章の内容を簡単に紹介した後)・・もし文字通りであるなら、なぜ完全に一致しない二通りの話があるのか。」という発言があるそうです。この発言には、私には良い思い出があります。

私が以前、故郷で通っていた教会は純粋な福音主義ではなく、自由主義神学をやや取り入れている所でした。そこで若い奉仕者が、信仰歴も浅い大学生の私に対して、(私が福音主義と自由主義の違いを尋ねたんだと思います)、創世記1章と2章の記述の矛盾についてでした。

これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:4-7)

これが、1章の記述と異なるではないか、ということでした。私には、その疑問そのものが理解できませんでした。新しく信じた私にとっては、「だって、1章で天地創造全体の話をして、2章で人間の創造に焦点を合わせて話しているんじゃないの?」という逆質問でした。なぜ1章の次に2章が起こった、と、あたかも1章27節の男女と2章のアダムとエバが別人物のように考える必要があるのか?という疑問でした。

私たちが話を進めるときに、一通り全体の話を順番に説明して、それから少し戻ってある部分を詳しく話すってことはないでしょうか?実はこの書き方が聖書には数限りなく続きます。黙示録は時間を進めては少し戻り、詳しく話し、また全体を話してさらに前進し、また少し戻る、という方法で話しています。

また、ちなみに、私たちがいろいろなことを話した後で、再びそれを話す時に、一番最初に話した内容から始めるのではなく、記憶に新しいすぐ手前で話したところから戻って、そして逆方向に思い出しながら初めに戻って話していくことはないでしょうか?ちなみに、これも聖書の中でたくさん出てくるものであり、実に聖書全体が「初め」と「終わり」が一つの話になっています。そして真ん中に「イエス・キリストの福音」があり、救いと回復の分岐点となっています。黙示録22章と創世記1章を比べてみてください、酷似しています。ここで初めてようやく神が語られたい初めの内容に戻られた、という感じです。

このように、聖書は一貫性のある、生き生きとした書物であり、博士論文や会計報告のような見取り図ではなく、話を聞かせているようなかたちで心に残るような形式になっています。もっと詳しくお知りになりたい方は、さきに引用した「ゲノムと聖書批判」のブログ記事の続きをご覧ください。

創世記1章と2章の矛盾?

創世記1章と2章の構造

有神的進化論について その2 - 「ゲノムと聖書」批判

その1の続き)

ここでの講演者が、日本語にも訳された「ゲノムと聖書」”Language of God”という本の著者ということですが、この書物の率直な感想、そして批判をしているブログ記事があります。

「ゲノムと聖書」批判(1)(2)(3)(4)

私も進化論について、その基礎知識を学ぼうとして、例えば「現在の進化論入門 豪快痛快進化論」というサイトを読みました。「進化は今も謎だらけ。難しいことをごそっと無視して進化の基礎から問題点まで」とホームで紹介されていると通り、はっきりいって謎だらけでした。文章が分かり易く書かれてはいるのですが、まずもって論理が付いていけないのです。問題点はどんどん浮き彫りにされていくのですが、こんなに分からない科学理論て何なのだろう?というのが感想です。

簡単に「神が創造した」といえば、それで終わりです。その説明の一つ一つに、「その一言ですべて論理がつながる」と感じました。そうすると「進化論と創造論」というコラムもあるのですが「宗教であり科学ではない」と言われます。でも私が言いたいのは逆に、「神なしで説明しようと恣意的に行っているから、謎がただ深まるばかりで迷宮入りしているのでは?」ということでした。

それで、進化論をなるべく偏見なしにその初歩知識を得ようとしたところ、かえってますます、神の創造への確信がかえって強まってきました!

そこで、この「ゲノムと聖書」に戻ると、著書についての読後感想もネット上でたくさん見つけました。信者ではない方のほうが、信者の人たちよりも率直で、的を射た意見を言っておられます。

ここまでの話を著者は誠実に正直に書いているんだろうなと言う事は感じられました。ただ、もう少し突っ込んで説明して欲しいという箇所は残ってしまいました。例えば、創世記を字句通りに信じる必要はないとするならば、新約聖書に書かれたキリストの復活はどうなのでしょう。クリスチャンにとってはここは信仰の本質に関わる部分ではないのかなと想像するのですが、生物学者として筆者はこれも象徴的・寓話的と考えるのでしょうか。また、神の存在を証明する人間のみが持つ特質として道徳が挙げられていますが、これらをすら進化論的な枠組みで説明しようとする(つまり、道徳を持ちえた人間こそが生き残りの確率を高める事が出来、それが子孫に広まった)多くの科学者の試みをどう考えるのでしょう。

う~む、これらもすれ違いの議論になってしまいそうです。ドーキンスの本を読んで棄教する人が殆ど居ないのと同様に、本書を読んで信仰の道に入る人もやはり少ないのではないのかなと想像するのでした。(注:太字は私がしました)
http://www.onsenmaru.com/book/B-300/B-323-genomebible.htm

ちなみにリチャード・ドーキンスとは、欧米では有名なバリバリの無神論者、いや反キリスト教論者です。私たち信者は、そういった反対論者の意見に萎縮してしまい、つい妥協点を計ろうとして調整していく傾向があるのですが、真理というのは「地の塩」であり「世の光」なのです。折衷するときに、信仰の妨げを取り除いているつもりで、実は何の効果もないことに気づくのです。

もう一つ読後感想を紹介します。

 ほんとまじめなんですよ、この先生。自分の良心の落としどころを求めて、あれやこれや試行錯誤に調整を試みた末の、せいいっぱいの”有望な”神の延命計画を提案しているんですよ。インテリジェント・デザイン(ID)説に苦言を呈しーの、有神論的進化論を試しーの、バイオロゴスはどうかと打診してみーの。
 そこには、どこか、人類には共通の性向があり、共通項を確立すれば幸福がもたらされるのであり、という楽天的な妄念がどっぷりしいの、そしてあくまで、どこまでもどこまでも一神教圏の神設定から抜け出す気はいっさいございません状態で徹底しいの、なんだけれども、とりあえず、まあ、あちらのお国事情では、これもひとつありかな、というところで、見ておいて損はない一冊。
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-1344.html

「ご本人の良心の落としどころの試行錯誤」というのは、まさにその通りではないでしょうか。周囲の人々に神の真理を伝えるべく奉仕をする、というのではなく、自分自身の信仰の模索をただ言い表しているような気がします。これまでの保守的な教会のあり方に対する漠然とした疑問があるが、けれども自分は神を信じている、という表明であるような気がします。そういった意味で本人には同情しますが、まだ信仰の若いクリスチャンへのつまずきになり、教会全体にも益をもたらさない、と言えるのではないでしょうか?

その3に続く)

有神的進化論について その1

前の記事で触れた「有神的進化論」についてですが、在米日系教会の牧師さんが、その講演を聞きに言った時の話がネット上にありました。(こちら

そこにこの考えの骨子が書かれています。
1)宇宙は、140億年に何も無いところから始まった。
2)宇宙の様々な常数(光速、重力、電磁力等々)は生命が出現できる環境を作りだすために精確に調整されている。
3)生命が始まったメカニズムは解明されていないが、一旦生命が始まると進化と自然選択により多種多様、複雑な生命体が出現した。
4)生命は創造者が特別な時に、特別介入するという方法ではなく、進化という方法で複雑化、多様化した(つまり神が進化したという方法を選んだ)
5)人間もこのプロセス上に出現し、類人猿と共通の祖先を持つ
6)人間は霊的な存在であり、時代・文化を越えて「神を求める」ユニークな存在である

ありゃりゃ、これはもうキリスト教の基礎そのものを否定しているのではないか?と思いました。

1)宇宙は、「はじめに、ことばがあった(ヨハネ1:1)」とあるように、「何も無い」のではなく、神とキリストがおられるところから始まっている。

2)については、生命が出現する環境が常数によって作り出されている、とあるが、創造の第一目の「光」を神が造られ、そして三日目に植物、五日目、六日目と生物を造られたということの写しである。しかし同時に歪曲であり、「作り出された」のではなく「神が造られた」のだ。

3)「進化と自然選択による、多種多様、複雑な生命体」ではない。神は「区別される方」であることが創世記1章では強調されている。ゆえに「種類ごと」に造られたと強調されているのであり、最終傑作品は、「神のかたち」そのものに似せて造った人である。これは創世記1章の字義解釈の話ではなく、神は秩序をもって世界を支配しておられるという聖書全体に流れる神の特質なのだ。簡単に断定してほしくない。

4)「創造者が特別な時に、特別介入するという方法ではない」という。おい、そしたらそのあとの話、ノアの洪水、紅海が分かれること、ヨシュアの時代、日がとどまったこと。エリヤの天からの火、ヒゼキヤの日時計が逆戻りしたこと、そして何よりも、主ご自身が処女から生まれ、数々の奇蹟をなし、死者の中からよみがえられたこと・・・これらをみんな否定するんですか??

この論者が分かっていない、あるいは気づいていないのは、「聖書の初めの記述は、その後に続くすべての神の働きの始めになっていること」であります。聖書をそのまま読むことによって、極めて統一性のある、不変で真実な神の御姿が浮き彫りになってくるのに、聖書が、不作為な文献の寄せ集めのような文書に成り下がってしまいます。

5)は極めつけです、話になりません。人は「神のかたちに造られた」という真理の真っ向からの否定です。その独自性があって初めて、人に対する神の贖いの計画が成り立つのであり、黙示録に至るまでの救済に妥当性を与えるのです。つまり、「初めがあって終わりがある」のであり、「初めを壊すと、終わりも壊れる」のです。

6)最後に付け足したように、人は霊的な存在であり、神を求めるユニークな存在である、と言っていますが、神が人をユニークに造られた、とは言っていない。あたかも人間肉体にある物質が神を求めるようにさせている、という唯物的な考えが見え隠れしています。

その2に続く)

唯物論という敵

前記事の続き)

進化論にとどまらず、今の日本社会、そしてキリスト教内にまで侵入している強い哲学が「唯物論」です。

唯物論とは

唯物論についてウィキペディアで見ますと、「唯物論(ゆいぶつろん、マテリアリズム、英: Materialism、独: Materialismus)とは、 観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方。」とあります。(こちらは、浄土真宗の信者によるブログですが、唯物論についての分かりやすい説明があるので参照してみてください。)

次いで、ウィキペディアはこう説明しています。

世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られている。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によっては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っているとする考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随するものとする観念論の立場と対立する。

例えば、世界の始まりは神の創造によるものであるという考えは排除し、「ビッグ・バン」によって物質の爆発であると考えます。けれども、ビック・バンでさえ、「宇宙には始まりがある」とする創世記の記述により近づいたのであり、一世紀前には、科学ではなく宗教だと考えられていたのです。ダーウィンが思想的に強い影響を受けたライエルの斉一説(昔も今の自然現象と同じであったとする説)が主流でした。

そして、次の説明を読んでみます。

生物や生命の理解に関しては、生命が物質と物理的現象のみによって説明できるとする機械論があり、生気論と対立する。また、生物が神の意志や創造行為によって産み出されたとする創造論を否定し、物質から生命が誕生し、進化を経て多様な生物種へと展開したとする、いわゆる進化論の立場も、唯物論の一種と考えられることがある。

これは、先に説明したとおりです。さらに、次も読んでみます。

歴史や社会の理解に関しては、科学的社会主義(=マルクス主義)の唯物史観(史的唯物論)が特によく知られている。理念や価値観、意味や感受性など精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定(決定ではないことに注意)されるとする立場をとる。また、社会の主な特徴や社会変動の主な要因が経済の形態やその変化によって規定される、とする。

教会に浸透している唯物論

これらの説明を読んで、私は、意外にも、日本や世界のキリスト者は唯物的な考え方にかなり侵されていると思いました。

進化論で言えば、「有神的進化論」という立場を取る人たちがいます。進化の過程に神が介在されていた、とする考えです。しかし、その進化の過程そのものが唯物論に立っているので、両者が成り立つはずがありません。そのような人は、創世記1章と2章の間にある記述に矛盾があると言うのですが、実に基本的な聖書釈義をわきまえていない初歩的なミスを犯しています。

そして教会の中には意外に精神的に病んでいる人たちが多いです。そこで教会の中で、精神医学や心理学が取り入れられて、「鬱は脳の化学物質のアンバランスによって生じているものであるから、薬を飲めば大丈夫だ。」と平気でいう牧師がいます。実に乱暴な意見です。そして、精神的な病に対して、実に簡単に専門家に頼めばよいとする向きがあります。しかし、精神医学の専門家の間で、その危険性や弊害が盛んに議論されているのです。(例えばこちら

そして、例えばアメリカの中東政策に関して、経済格差のために過激派が生じているのだ、その貧しさを引き起こしているのはそのようなアメリカの経済支配のせいである、とするマルクス主義をそのまま信じている教会指導者もいます。イスラムが、ユダヤ教とキリスト教の発生の延長として出てきた、極めて私たちの信仰体系に関わっている宗教であるにも関わらず、その神学と思想体系を学ぼうとせずに、「経済の形態やその変化」によって語るのです。

聖書には、イスラエルの民とその敵が衝突して戦っている姿が、そして中東を中心とする世界が広がっているにも関わらず、「現代は理性によって社会が進展した」、したがって“文明間の対話”によって平和を構築することができるのだ、と考え、事あるごとにイスラエルやアメリカの軍事行動を批判する人も、やはり唯物的な史観に立っているのです。

共産主義・社会主義は唯物論

米国の人たちは共産主義に対して生理的嫌悪感を多かれ少なかれ持っていますが、日本人はそこまでの抵抗感がありません。けれども、これが何をもたらすかは、先ほど参照した唯物論の説明を引用すれば分かります。

もし人間が機械でしかなく、心(感情も含め)は電気信号でしかないなら、愛情も電気信号で何らかのプログラミングの一つでしかないわけですね。その笑顔も、感謝の言葉もつくられたもの。涙流しておわびしているのも全部誰かのシナリオ。こころから 悪いなんてさらさらおもっちゃいない

もしすべての人が機械なら、心からのおわびを期待するのが間違いですね。愛情をもとめるのもおかしい。そんな心はないのだから。あったとしても所詮はつくりものだから。

自分の機械なら(たとえばパソコン)を分解しても文句をいわれる筋あいはないし、違和感も感じません。ではあなたが購入したペット(犬とか猫とか)も同じように分解してもいいことになりますね。人間を殺しても機械を壊したレベルの話しですよね。本当にそれでいいんですか?

「そんなことを思うはずないではないか?」と思われるかもしれませんが、事実、スターリン、毛沢東、ポルポト、そして昨日死んだことが発表された金正日は、みなこのことを平気で行ってきたのです!アメリカのCIAが、ちょっとテロリストに拷問をしてしまった、という領域の話では全然ないのです。そして社会主義国にありがちな、平気で嘘をつくこと、環境破壊、子供を人身売買で売ることなど、これらはみな唯物的な考えから来ているのです。

偶像崇拝より悪い唯物論

私は幼い時の原体験として、神社があり、年越しや元旦参りがあり、その反動として神社や仏教の伝統行事に対して強い反応をしますが、唯物論は、神道的価値観、多神教よりも悪いものだと思っています。

(=反キリスト)は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。その代わりに、彼はとりでの神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。(ダニエル11:38)」

キリスト者は、もちろん宗教に関わる伝統行事には参加しません。けれども、それはあくまでも自分自身が天地を創造された神を愛しているからであり、その背後にある共同体の意識や、自然を超越したところに何かがあるとする考えそのものを否定しているのではありません。むしろそれらを大切にしない人々の中には、自分自身が神となっています。自分しか信じていないのです。そして何をあがめるかというと、「とりでの神」つまり、武力という物質を崇めているのです。これこそ唯物論でなくて何なのでしょうか?

しばしば、米国内を中心にして、「私たち教会はキリスト教原理主義にある反知性に陥ってはならない」という意見がありますが、むしろ逆に、「私たちは、物質を絶対化する価値観に対抗しなければならない。」というのが真実ではないのでしょうか?

科学は検証可能なものだからこそ成り立つものであり、その理論が絶対真理ではないことを、科学の健全化のためにも訴えるべきです。科学を相対化していかねばなりません。そして、精神病や深刻な人間関係の問題の時に、専門家に委ねる時があるでしょうが、専門家の見識や力を過大視してはいけません。長血を患った女は、医者にかかってますます悪くなりました。

私たちはもっともっと、キリストの御霊に、その愛の御霊により頼まなければいけません。心傷ついた人に必要なのは、カウンセリングの専門知識以上に兄弟姉妹にある愛と祈りであります。専門家がどんなに分析しても、それを全きものにする実体は専門家には存在せず、私たちの間におられるキリストなのです。

そして、信仰をまだ持っていない方へ - 神は、人間が作り出したものだとお考えでしょうか?そうではなく、神がおられて、その中に人間が生かされている、と考えたほうが自然ではないでしょうか?なぜ、机上の空論ではなく人間の根源が問われる時、つまり苦しむ時に「神様」と叫ぶのでしょうか?美しい絵を見たときの感動は実在しないのでしょうか?唯物論的にいえば、それは単なる色彩を持つ化学物質にしか過ぎないのです。薬が本当に人の心を癒すのでしょうか?今は、精神科医の出す薬の依存症という病まであるのです!「物」というのは、目に見えない価値に服従してこそ存在目的があるのではないでしょうか?

後記:「社会主義も唯物論だが、資本主義もそうではないか」という、資本主義の中にある危険性を指摘してくださった意見を頂戴しましたが、私もその通りだと思います。

進化論の発表から社会進化論なるものが出て、それから「自然淘汰」という言葉が社会的にも使われるようになりました。産業発展の中にある、弱者切り捨てていく土台になり、その問題は今にまで続いています。ただ、その対抗として社会主義思想が出てきたのですが、それもやはり唯物論思想に基づくものであり、どちらも私は唯物的発想だと思います。

ただ、マックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘されているように、「正直であること」「勤勉であること」などの聖書的価値観が、市場経済の中で生かされうることは確かです。

そして弱者救済においても、私は日本の社会福祉制度は優れていると思っていますが、「国」の果たす役割もありますが、「教会」が主体的に関わっていく自発的な救済がもっと強調されていいのではないか、と思っています。(今回の、キリスト教団体の主体による被災者救援はその良い例です。)国はその性質から官僚主義に陥りやすいし、それに頼ることも神への信頼を疎外することにもなっています。

そして社会主義国家の中では、政治的自由や信教の自由は制限されますが、霊的自由については、神の主権によってかえって守られている、という部分があります。教会が迫害によってかえって清められ、前進するという神の原則です。信教の自由のある国ほうが、しなくてもよいことを行ってしまう、肉が働きやすい余地が多く残されており、私たちは彼らにはない克服すべき課題を持っています。

自由主義神学(リベラル)について

このブログ、また教会に来られている兄弟姉妹は、「福音派」という言葉を私の口から聞かれていることでしょう。英語ですとevangelicalであり、「キリストの福音」を聖書に書かれている通り、強く信じている信仰です。

けれども、そのように信じていない人たちもいるというのが、キリスト教の世界全体を見回すとかなりの割合で存在するというのも実情です。先にカトリックについて述べましたが、聖書の最高権威においてかなり違った見方をしています。「教会の伝承の中に聖書がある」という見方です。だから、伝承でマリヤ様が神の母とされているから、聖書ではマリヤが一人の信仰者にすぎないことが書かれていても、彼女を讃えています。

そして、もう一つ「自由主義神学」という言葉も私の口から聞かれたことがあるかもしれません。それは、「聖書に書かれてあることは自分の心の中のこと」で、それが客観的な真理でなくとも良いとする立場です。理性で把握できるものだけを受け入れ、科学において一般に受け入れられているものはそのまま受け入れて、聖書が書かれていることをそのまま信じることはない、とする立場です。

これが実は、「プロテスタントの主流派」と呼ばれている人々の立場です。そして、「聖書に書かれてある全てが神の息吹きによる言葉であり、誤りがない」とする福音派は、「諸派」の中に数えられています。

私は信仰がまだ浅い時に、ウィリアム・バークレーという有名な聖書注解者の第二ペテロの手紙の注解書を読みました。(彼は自由主義神学を全面的に信奉していたわけではありませんが、福音主義でもありませんでした。)そこには、「ペテロが書いた手紙ではなく、紀元二・三世紀の弟子によって書かれた」というようなことが書かれていました。それで何気なく私が教会の兄弟にそれを話すと、彼は黙って「聖書を開いてご覧」と言ってくれました。そこに書いてあるのは、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから(ペテロ第二1:1)」とあります。私は唖然としました。こんな明白なことをどうして私は見逃していたのだろうかと、自分が悔しくなりました。けれども、一度入ってしまったその情報は、聖書を読むたびになかなか離れることがなく、ひどく苦労したのを覚えています。

進化論的な天地創造の解釈、心理学の教会への導入、地獄はないとする考え、キリスト再臨の過小評価、カトリックとの対話など、少しずつ福音派と呼ばれている諸教会の中にもじわじわとその影響が入り込んできています。いろいろな形でやってきます。特に頭の良い人々がいろいろな知識をもって説明するので、「自分は単純だから、まだ知らないことがあるのでは・・・」と悪い意味で内省的になり、それを受け入れてしまう危険があるのです。教えの風(エペソ4:14)や人の哲学(コロサイ2:8)はしばしば吹き荒れますが、カルバリーチャペルから最近出版される本にも、その種類のものが増えています。(例:“New Evangelicalism: The New World Order” by Paul Smith

次のブログは、自由主義神学の嵐の中で、福音的な聖書信仰を堅持し、教会を牧会しておられる牧師さんによる記事です。特に、上の話で小難しさを感じられた方は、ぜひ一読してください。とても分かり易く説明しておられます。証しなので、文章はかなり長いですが、全部読む価値ありです。

聖書信仰に立つ  創世記3:1、マタイ4:3-4

究極のプロ・ライフ(生命尊重)

今、明日の恵比寿バイブルスタディのために詩篇の学びの準備をしていますが、本当に詩篇139篇は心に深い安息と慰めを与えます。一度、10分でも20分でも、この詩篇の箇所を読んで思い巡らす時間を持たれると良いと思います。

米国の大統領選において、しばしば争点として挙げられるのが中絶の合法化問題です。日本の人は、なぜこれが政治の争点になるのか分からない、と思われるかもしれません。けれども、これは社会を構成するあらゆる分野に集約される大切なことです。

なぜ中絶をするのか?望まぬ妊娠をするからです。なぜ妊娠をするのでしょうか?大抵の場合、婚前交渉または婚外交渉をするからです。つまり、中絶の是非を問うことは、そのものに対する価値観を問うことに他なりません。性の悦びは結婚においてこそ絶頂に達するという真実に目を向けるかどうかに関わります。性病やエイズも中絶と共に、性の捉え方の歪みによって出てくる問題です。

そして中絶問題を取り扱うことは、その後に生まれた子をしっかりと育てるという責任が問われており、家族の価値観が問われています。健全な家族こそが、健全な社会を形成し、そして国そのものの基盤となっています。

そして中絶問題を取り扱うことは、生命そのものの価値観を問うことです。人の選択によって人の命を取ることが、果たして許されることなのかどうか。障害者、老齢者、その他の弱者がなぜその生命が尊ばれなければいけなのか?動物の命と人間の命にはどんな違いがあるのか。中絶問題を取り組むことによって、真剣に生命そのものの価値観に気づくことができます。

前置きが長くなりましたが、詩篇139篇には次の言葉があります。

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(13-16節)」

この御言葉に、神が私たちをどれほど気にかけてくださっているのか、実に胎児の時にすべての思いを前もって定めておられるという究極の生命尊重を見ることができます。下のビデオをご覧ください。私はこれを見て、いかに現代社会が性を商品化しているのか、その愚かさと魔術性を痛感しました(黙示録18:13;23参照、13節の「奴隷」は肉体のこと)。そして夫婦間の性行為がいかに高尚で、神聖な営みなのかを実感しました。

生命の価値観についてもっとお知りになりたい方は次のサイトをおすすめします。「小さないのちを守る会