NHKスペシャル 巨大津波「その時ひとはどう動いたか」その3

その2の続き)

先ほど紹介した「津波てんでんこ」の実証例を克明に記録している、次の記事がありました。

検証・大震災:瞬時の判断、救った命 生徒全員避難で無事、釜石東中学校

ぜひ一読してください。そこにある地図と写真が非常に参考になりますが、まさに釜石の学校の生徒たちが、「てんでんこ(ちりぢり)」になって逃げている姿を見ることができます。

ここに出てくる生徒たち一人一人が、先に説明した危機行動、すなわち自分自身で判断し、自分のことは自分で責任を持ち必死になって逃げています。その他に、上の記事では常時の防災訓練もしていたことが、想定外の巨大津波に対処できたことも話しています。

「津波てんでんこ」は明治の津波によって得た教訓であり、先人の智慧です。生活が便利になり、安定している所に住んでいる私たちは、私たちのほうが“進歩”していると考えています。それはとんでもない間違いであり、現代人が生活の利便と技術への過信の中で、実際の脅威に対して鈍感になっていると考えなければいけません。

私たちは、聖書では文字通り、天災によって神が大声で語っておられる姿を見ることができます。ノアの時代の洪水から始まり、ソドムとゴモラ、エジプトにおける災い、ヨエルのいなごの災い、ウジヤ王の時の大地震などがあり、そして終わりの日における「火による裁き(2ペテロ3:7)」があります。これらの災いを通して、神は、先に説明した災害時における人間の行動を如実に言い表しておられます。

ソドムとゴモラの災いに注目してみましょう。天使二人がソドムの町に行き、ロトとその家族を救うべく、災いが下ることを警告しました。それでロトは既婚の娘の家に行きました。

「そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。(創世記19:14)」

婿たちはまさに、「正常性バイアス」にかかっていたのです。まさか、今の平穏な生活を崩すものは起こらないだろう、起こったとしても自分たちには災いは降りかからないだろう、という偏見です。そして何よりも、ロトが「主」の名を口にしたときに、彼らの唇には薄ら笑う動きがあったかもしれません。彼らは神そもものへの軽蔑を持っていたのです。

そして、ロトは未婚の娘二人と自分の妻を連れて、逃げ始めましたが、ロトの妻は「同調バイアス」にかかっていました。ソドムの町の人々との生活から離れることへの未練と不安があったのです。それで、その逃げる速度が遅くなり、そして彼女は町を振り返りました。「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。(創世記19:26)」

幸いにもロトは、妻に対しては「愛他行動」を取らなかったので、妻は滅びましたが、自分と娘二人は救うことができたのです。

これを、「昔の聖書物語」として片付けることができるのでしょうか?聖書で起こった出来事を現代に当てはめる営みを毛嫌いする傾向が現代にはあります。キリスト教会の中にさえ、その雰囲気があります。けれども、聖書は何度も何度も、昔起こったことは私たちに対する戒めであることを教えています。

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(1コリント10:11-12)」「正常性バイアス」に対する戒めです。

私たちの社会でも、ソドムとゴモラが滅ぼされた罪を行なっているのです。「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。(ユダ7)」「だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。(エゼキエル16:49)」

そして、聖書の話を昔話としてあしらうことは、まさに先人の智慧をあしらうのと同じであり、昔、預言者たちを通して与えられた神の知恵を拒むことです。

ちょうど、釜石の生徒が日常から防災訓練をしていたように、私たちは霊的な備えが必要です。イエス様は何度も、ご自分が戻ってこられることについて、「目をさましていなさい。用意していなさい。」と命じられました。それは、まず、罪と死から救われるだけでなく、この世の災いからも私たちを救ってくださる主イエス・キリストを心から受け入れ、自分の救い主とすることです(ガラテヤ1:4)。そして肉の行いを打ち捨てて、イエス・キリストにある正しい生き方をすることです(ローマ13:12-14)。

このように、私たちに与えられている天災は、神が拡声器を取り上げて、大声で、「これらのことで、わたしがいることを知りなさい!」と言い聞かせている貴重な機会であることを覚えましょう。

このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」(エゼキエル13:21等)

ロシュ・ハシャナ

イスラエルからのニュースには、イスラエルが今、ロシュ・ハシャナを祝っているという知らせがやって来ます。ロシュとは「頭」で、「シャナ」は年を表します。これはユダヤ暦の新年です。ちなみに今年は9月28-30日に祝っているそうです。聖書には、宗暦(religious calendar)で第一の月が過越の祭りですが、政暦(civil calendar)はレビ記23章にある、「ラッパを吹き鳴らす日」が新しい年を告げています。

「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物を主にささげなさい。」(24-25節)

この日から秋の祭りが始まり、ここでの主題は「へりくだりと悔い改め」です。第十日は贖罪日(ヨム・キプール)ですが、その時は「身を戒める(32節)」とあります。これは断食することです。そして第十五日には仮庵の祭りがあり、神の贖いの完成を喜ぶ祝いが行われます。

「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。(ヨエル書2:1)」
「「しかし、今、・・主の御告げ。・・心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」
あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(同12-13)」

ロシュ・ハシャナは、新約時代の教会にとっては、主の来臨の合図となります。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:16-17)」

私たちは、主にお会いする用意ができているでしょうか?

「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(ローマ13:11-12)」

(参照:イスラエルの文化 祭りと祭日

グーグルが死海文書をデジタル化

これはすごいニュースです。2008年にエルサレムのイスラエル博物館を訪問しましたが、本物のイザヤ書を拝見できたのは感動でした。そして今日発見したのですが、Googleが死海文書をデジタル化したとのこと。

下のサイトに入って、まずは有名なイザヤ書(Great Isaiah Scroll)をお入りください。

The Digital Dead Sea Scrolls

(後記)
こちらに日本のグーグルのブログからのお知らせがあります。

砂漠からウェブへ、死海文書オンラインコレクション

Israel now and then (イスラエルの今と昔)

先ほど、すごい良いチャンネルをYoutubeで見つけました。

Israel now and then

説明は次の通りです。

**************
このチャンネルは、イスラエル全史と近接のメソポタミアと地中海地方の文化と諸民族に捧げています。レヴァントことにイスラエル全域の、聖書また古典における考古学の発見の話題、そして、ユダヤ文化、宗教、また、過去のユダヤ・イスラエル王国と現代イスラエルにおける日常生活が、現代イスラエル社会の技術的、社会的、生活基盤の発展への洞察として取り扱われています。
(This channel is dedicated to Israelite history through the ages, and also to our neighbouring Mesopotamian and Mediteranean cultures and peoples. Topics as Biblical and Classical archaeological discoveries across Levant and Israel in perticular, aspects of Judean culture, religion and everyday life in the past Judean and Israelite Kingdoms and modern Israel are presented, with the insight to technological, social and infrastructural advances of modern Israeli society.)
***************

まずは、ヨセフスの「ユダヤ戦記」の紹介です。私は途中で読むのが止まっていますが、イエス様が「エルサレム、エルサレム」と呼ばれながら嘆き悲しまれた歴史を、第一次ユダヤ反乱の当事者であるヨセフスが劇画的な描写で書き記しています。それをBBCが映画として製作したようです。

新シリーズ <使徒の働き>

明日から、毎週土曜日の聖書の学びは「使徒の働き(口語訳は「使徒行伝」)」を始めます。

これまでは、新しく信じた人たちのために、救いの教理を体系的に知らせるため、ローマ人へ手紙の学びを行なっていました。けれども、これからは「教会」を知るために、その誕生の歴史を知ることによって今の教会への原動力になればと願い、使徒の働きを学びます。

誰でも「教会」について知りたい方はぜひお越しください。この学びによって、教会が霊的復興する渇望が心の中に起こされることを強く願います。そして学ぶだけでなく、それを実際の行動に移すことができるようなご聖霊の働きを待ち望みます。

日時: 毎週土曜日午後2時から
場所: 足立区 こども家庭支援センター 別館

以下は、カルバリーチャペル・コスタメサの牧者チャック・スミス氏による著書、「カルバリーチャペルの特徴」からの抜粋です。

***********************
 ヨハネの黙示録の中で、イエスはアジアにある七つの教会に対して、彼らの問題を語っておられます。使徒ヨハネがまだ地上に生きている時代においてさえ、イエスは教会に悔い改めを呼びかけて、彼らの中に存在する致命的な欠陥を指摘されました。イエスご自身や使徒のものとは明らかに違う教えが忍び込み、すでに教会の中に腐った種が蒔かれていたのです。・・・・

 これは最初の教会の基礎が据えられてから、六十年も経っていない時期に起こったことなのです。ということは、教会が腐って生ぬるくなるまでにそれほど時間がかからなかったわけです。主はいつでも彼らを口から吐き出すことができたのです。このような教会の実態は、イエスに吐き気をももよおさせたのです。教会の歴史を眺めるとき、現在も少しも向上していないように思えます。逆に教会は、道徳や倫理に関して悪化の一途をたどっているようです。主が七つの教会に語られたことは、そのまま現代の教会にも当てはめることができます。

 教会の歴史を見直しても、よいお手本を見つけることはできません。それは人間の歴史を見ても人間は堕落しているので、神の願いと意図をそこに見出すことができないのと同じです。・・・教会についてもそのまま言えることです。神が願っておられる教会は、教会史の中にお手本を見つけることはできないのです。

 あるべき姿の教会は、新約聖書の使徒の働きの中にあります。これは力みなぎる教会です。この教会は聖霊によって導かれ、聖霊によって権威を与えられた教会です。この教会が、よい知らせである福音をこの世に示したのです。パウロは、ペンテコステの出来事から三十数年後に、コロサイの人々に手紙を書きました。「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。(コロサイ書1章5-6節)」初期の信仰者たちは、福音をこの世に力強く表わしていた教会を体験したのです。

http://calvarychapel.com/pdf/translations/ja_distinctives.pdf 「第一章」神が与えておられる教会のモデルより)
************************

神によって立てられた権威

昨晩、久しぶりに恵比寿バイブルスタディを再開することができました。合計7名いて、同じく仙台出身のI兄弟も東京にいらして、出席することができました。終わりに、バーガーキングで交わりの時間も持つことが出来ました。

学びの後に、とても良い質問が出てきました。「権威」についてです。ローマ13章1節には、すべての権威は神から来ている、というところから、「人間の歴史の中には革命のようなものもあった。それはどう受け止めればよいのだろうか。」また、「ブッシュ大統領は神の名によってイラク戦争を正当化したが、そのような権威をどのように受け止めればよいのだろうか。」という質問です。

1)神の主権から漏れる権威はない

私の答えは、「ブッシュ大統領の権威も神から来たものであるし、イラクのフセイン大統領の権威も神から来たものである。」というものです。そしてダニエル2章にある、「神は王を立て、また倒す」という言葉を引用して、すべての指導者や王の営みは全て神の主権の中にあることを述べました。

そして、今回、オサマ・ビン・ラディンが殺害されたことにも触れ、「このような大きな人物が死ぬと、ヒトラーもそうであったが、必ず陰謀論のようなものも出てくるが、所詮、軍事機密などによって私たちには知り尽くすことのできない領域である。ある程度、状況を知ることは大事だが、残りは主に任せるべきだ。」と話しました。

2)深入りしない

そこで、横田めぐみさんのお母さん早紀江さんが信仰の支えとしている御言葉である、詩篇131篇を言及しました。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(1節)」市井の主婦が、北朝鮮の謀略の真っ只中に引き込まれたのですが、「なぜか?」という問いかけをするのではなく、主に委ねるところにある力が早紀江さんを支えています。

私たちが、米国の対テロ戦などで、他国の主権を逸脱した行為云々で批判をしている中で、実は私たち自身が知りもしないことに深入りし、自分を裁き主の立場においていることが多々あります。けれども、むしろその出来事をも神が支配されており、ご自分の栄光のために動かしておられることを観るべきです。

そして、知らないことに深入りするのではなく、すでに知っている神の御心を行なうべきです。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(ヤコブ1:26-27)」論評や原因探しをしていると、必ず「舌」が達者になります。けれどもキリスト者は、慈善行為や福音宣教等の「実践」によって事態に対応することで忙しくなるべきです。

3)神の栄光という目的を知る

ヨハネ9章にある、「生まれつきの盲人」がそうなったことの原因をイエス様が語られず、むしろ「神のわざが現れるため」という目的を語られました。そしてそのわざは、単に目が開いたということだけでなく、イエスを神の御子キリストであると信じ、拝すことでありました。

今回の災害についても、なぜ津波が起こったのか、地震が起こったのか、原発は誰が悪いのか・・・という原因探しではなく、これらは神の主権の中で起こったことであり、必ず神の栄光が現れるために起こっていることに心を留めるべきです。

イラク戦争ではっきりしている神の栄光の一つは、「これによって宣教師がイラクに入り、福音を伝えることができるようになった。」ということです。ブッシュ大統領が行なったことが正しいか、間違っているかではなく、この出来事をも主は用いられ、魂の救いにおいて栄光を現しておられることは、明確な神の御心です。それは、東日本大震災でも同じであり、普通なら東京で五年ぐらいかかる福音伝道が、被災地では数週間で行なわれているという事実からでも明らかです。

このようにして、「権威」が神から来ていることを認めます。

4)迫害者にも憐れみと敬意を向ける

そして、国の権威が、例えばかつて天皇崇拝を強要するようなことの場合は、「人に従うのではなく、神に従う」という姿勢が必要になるのですが、それであっても、自分が権威に逆らっていることへの結果は責任をもって受けることによって、その権威に従います。

それで一つ目の質問である革命などについては、「キリスト者の良心的抵抗と共産主義者などの抵抗には、前者は迫害する人に対しても、一定の敬意を持ち、自らの抵抗の結果を甘んじて受けているのに対して、後者はただ闘争するだけだ。」と答えました。例えば、迫害国で投獄を受けているクリスチャンは、看守にでさえ憐れみの心を持つことが出来る証しを聞きます。なぜなら、そこに入っているのが神の御心であるという主権を認めているからです。

5)「感謝」がキリスト者の特徴

最後に、権威について、それを神から来たものだと認めれば、自ずと「感謝」の心が生まれます。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2:1)」私たちは政府に対して、行政に対して、そして企業に対して、いろいろな分野で権限が与えられている人々に感謝しているでしょうか?そして、祈っているでしょうか?また「すべての人のために」とありますから、普段からいろいろな人に感謝の思いを言い表しているでしょうか?

そして興味深いことに、続けて読むと、「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(2-4節)」とあります。感謝を受けるべき人たちに、素直に感謝を表明することが、究極的には霊を救いに導いています。

私たちは、あまりにも否定的に人や物事を見て、その人や対象のために祈れない、とまでなっていたらこの御言葉に反することになります。祈り、願い、執り成しができるような感謝の心を保っていましょう。


(写真をクリックするとこの写真の背景記事が出てきます。)

聖書が語る「地震」

前掲載の記事の続きです。

先ほど、祈り会が終わりました。そこでは詩篇46篇から「地震」をテーマにして、御言葉を分かち合いました。ぜひお聞きください!

http://www.logos-ministries.org/audio/psalms46.MP3

********詩篇46篇*********
46 指揮者のために。コラの子たちによる。アラモテに合わせて。歌

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ

川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ

来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。
主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
************************

そして、東京電力からお知らせが出ています。節電とともに停電に備えてください、という呼びかけがなされています。そのページも紹介します。

プレスリリース2011年
需給逼迫による停電の可能性と一層の節電のお願いについて

「ネグレクト」と聖書命題

これまで、日本の政治やら世界の動きやら、いろんなことを書いてきましたが、身近な社会問題を考える機会が与えられました。一つは「家庭内暴力(DV)」そして、もう一つは「育児放棄(ネグレクト)」です。

しばしばニュースで出てくる問題ですが、たぶん皆さんの周りでも単なるニュースではなく身近の問題として感じておられるものと思います。

日本は非常に秩序があり、静かさを好む良い社会だと思いますが、それが裏目に出て、いろいろな問題が起こっています。もちろん世界的な問題ではありますが、日本の社会と文化でその出方が特徴的です。

次の英文の記事で、はっとさせられました。

the 68-year-old director spent 15 minutes issuing a stern warning about the dangers and delusions of living through virtual media. “All of our young people today derive their pleasure, entertainment, communication and information from virtual worlds,” he declared. “And all of those worlds have one thing in common: They’re making young Japanese weak.”

Miyazaki ticked off the usual suspects – cell phones, emails, video games, television – and he also included two more categories: manga and anime. “These things take away [young peoples’] inherent natural

strengths,” he continued, “and so they lose their ability to cope with the real world. They lose their imaginations.”
https://www.adbusters.org/magazine/86/private-worlds.html

宮崎駿と言えば誰でも知る人となりましたが、私は彼が「千と千尋の神隠し」を制作したとき、ものすごい警戒心を覚えました。外国の人にはわからない領域かもしれませんが、私たち日本人の幼い頃の、神社にまつわる原体験を使って、ただでさえ閉塞的な日本社会を、仮想の世界に引き込むつもりなのだ、と強い憤りを覚えました。

そして彼はそれを確信的に行っていたことを覚えています。ところが、今になって本人が「今の日本の若者が、楽しみや娯楽、意思伝達、情報を全て仮想世界から得ている。」との警鐘を鳴らしているのです。そして、「携帯、メール、ビデオゲーム、テレビ等が、彼らの内在する力を殺いでいる。その為に現実社会に対処する能力を失っている。想像力がないのだ。」と言っています。

最近、NHKスペシャルで、シベリア抑留者を帰還させるよう圧力を受けたソ連が、彼らを「赤」にしてから帰国させるという政策を取ったことを見ました。けれども、囚人間の競争が激化し、互いに吊るし上げをしている姿を見て、ソ連当局自身が大変憂慮した、という話を聞いて、「これは同じだな」と思いました。

私は、この秩序正しい、静かさを好む日本社会が好きです。けれども日本に戻ってくる度に異様に感じるのは、電車の中で、「携帯電話の使用を控えてください。」というアナウンスがある反面、誰も電話では話さないのですが、半数いやそれ以上の人が携帯の画面に向き合っていることです。携帯で大声で話してうるさいほうがよっぽど健康的ではないか?と思ってしまう程です。

これでは人の想像力を減退させます。自発的に何かをする力を減らします。人々との直接の接触によるストレスはある意味、とても人間存在にとって大事なのに、それから回避することによって「自我」を増大させています。

私たちが今いる所に引っ越したとき、互いの誤解で、実際に荷物を運んでいる若者が怒り始めました。私たちも言いたいことは沢山ありましたが、相手は自分が完全に正しいと思っており、別れ際は、目つきが変わって暴力でも振るうのではないかという恐れさえ感じました。最近の若者は「すぐに『切れる』」という言葉を思い出しました。

そして、ある人から、最近の若いお母さんは、子供に対してすぐに何かを与えることによって静かにさせる、子供に実践的な躾や教育をしない、という話を聞きました。例えば、電車で子供が泣いたりするのはある程度、許容されなければいけないのですが、それをひどくいやがる雰囲気が立ち込めているためか、すぐにお菓子などを与えて静かにさせようとする、とか。

「静か」なのは良いのですが、「煩さ」がないことはある意味、恐ろしいことだと思います。「静かさの中にある緊張状態」とでも言いましょうか、あのぴりぴり来ている姿は恐いです。

「自分」というもの以外の外の世界との接触の仕方が、分からなくなっている感じがします。そして、想像力を働かせて対処する力が殺がれているのです。

特に夫婦の領域、それ以上に子育ての領域は、聖書に書かれてあるとおり、最もこの外との世界の摩擦が多いところです。最も想像力を働かせなければいけない領域であり、そして自己犠牲が最も要求されるところです。もう結婚する時期だから、また結婚したのだから子供を生まなければ、という社会通念上それらを行うのですが、その外の世界との摩擦と接触に耐えられず、すぐに切れる、怒る・・・という風になっているのかなあ、と思います。

急に大声を出して怒っているお母さん・・・よく見ると相手はまだ乳児だったりします。

これと、これまで書いてきた日本の政治と社会、世界の国々の動きなど、一つのテーマが貫かれているように思えます。「自分」です。自分を愛し、権威といわれているものを侮るという世の終わりの兆候なのです(2テモテ3:2、ユダ8)。

読み応えがあった新聞記事は次です。

「児童虐待を考える」

しっかりしたルポ的な取材に基づいています。

そこに共通して出てくる児童虐待と放棄の原因が、「親から虐待また放棄を受けている」というものでした。この負の連鎖を聞いた時に、次の御言葉を思い出しました。

「父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(出エジプト34:7)」

そして、その連鎖を断ち切る福音がエゼキエル書に書いてあります。

「しかし、彼が子を生み、その子が無法の者で、人の血を流し、先に述べたことの一つさえ行なわず、これらのことをしようともせず、かえって丘の上で食事をし、隣人の妻を汚し、乏しい者や貧しい者をしいたげ、物をかすめ、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て、忌みきらうべきことをし、利息をつけて貸し、高利を取るなら、こういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。自分がこれらすべての忌みきらうべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。

しかし、彼が子を生み、その子が父の行なったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行なわず、丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、だれをもしいたげず、質物をとどめておかず、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行ない、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。(18:10-17)」

たとえ親が愛情を自分に注がなかったとしても、御霊によって、キリストにある神の愛が心に注がれることによって、その連鎖を断ち切ることができるのです。

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)」

オバデヤ書に見る「エドム根性」 - 甘えん坊ガキ「北朝鮮」

8月4日以前のオバデヤ書に見る「エドム根性」の記事の続きです。

副題に驚いたかもしれません。北朝鮮が「甘えん坊のガキ」って?皆さんのよく御存じの、北朝鮮の挑発行動の根っこにあるのは何であるかを考えると、この言葉が適切ではないかと思います。

日本はしばしば、その閉鎖性、内向性を「島国根性」があると言われますが、朝鮮半島は「半島根性」というものがあります。歴史を通じて、周囲の外敵に侵略され、踏み荒らされてきているので、自分たちだけで固まって、他の要素を寄せ付けない国民性を持っている、と言われています。

日本も鎖国などをしてこの島国を守ったのですが、日本の島国根性と朝鮮の半島根性の違いは、日本は本当に自活して島の中だけで生きていこうという独立性があるのに対して、半島は大陸と地続きなので、そこまで自国を閉鎖することはできず、侵略されつつも、その国々に拠り頼まなければいけない矛盾を抱えています。

ですから、「周囲の国々を巻き込みながら、かつ独立性を保っていく」という傾向が強くなります。

先日、首相が日韓併合に対する談話を発表しましたが、併合してから今年でちょうど100年です。それで今回の談話に野党だけでなく与党からも反発が出ていますが、その背後に「日韓基本条約」があります。先日、NHKスペシャルでこの条約が結ばれたドキュメンタリー番組がありました。大変、感動しました。お互いの日韓併合の意味づけに違いがあったけれども、微妙な言葉遣いのすり合せによって合意に至った経緯を知りました。

確かに日本が行ったことは、私も遺憾であったと思います。けれども、なぜ歴史認識に違いが出てくるのか?それは、日本が強制的に条約を結ばせたということもできるし、「いや、国内で積極的に結ぶことによって国の生き残りを図った人たちがいたからだ」という見方もできます。このような微妙な見方の違いは、「周囲の国々を巻き込む」けれども「独立を保とうとする」という、一見相矛盾するこの半島特有の行動に起因しているのです。

韓国に批判的な人々は、韓国の日本への挑発行為を取り上げます。竹島(独島)問題であったり、対馬を自国の領土に主張するとか。けれども、日韓基本条約のおかげで、そんな小競り合いにもならない感情的対立は、これまでの日韓の相互発展と膨大な交流の中で雲散霧消します。これを主導した岸信介と朴正熙は偉大な政治家だったと認識しました。

二人の行動は、それぞれ島国根性と半島根性を乗り越えた、数十年先を見越した大人の決断でした。そんな韓国でも前大統領の盧武鉉氏は、内向き外交に後退し、過去ばかりを見つめ、北朝鮮に対する片思いで終わってしまいました。

けれども国民は李明博氏を大統領に選び、国全体にバランス機能が働いています。ですから基本的に半島根性を乗り越えていると思いますし、日本も韓国をこれからとても大切にしていかなければいけないと思います。

問題は北朝鮮です。

北朝鮮の人たちが何百年も「自由」という空気を吸っていないことをご存知でしょうか?朝鮮王朝の時代は今で言う「独裁制」でした。強権であり、そこには自由はありませんでした。そして日本の植民地化です。それから今の金日成・金正日体制が始まりました。一般の人々がいつか自由の空気を吸うことができれば、と願ってやみません。

彼らは完全な閉鎖体制を作りました。外部からの情報も遮断し、ラジオも半田で他の局に合わせられないようになっています。そしてその柱になっている考えは「主体(チュチェ)思想」です。すべて自分たちの力だけで国を強大にしていくのだ、という考えです。

けれども、彼らは同時に外部からの援助を受けなければ死に絶えてしまうことをよく知っており、諸外国の援助は死活問題です。しかし、矛盾することに自分たちの国を完全閉鎖し、国の主体性を守らなければいけません。

そこで彼らは、いわゆる「挑発行為」を行ないます。少し前はミサイルを打ち上げ、最近では、韓国海軍の哨戒船を沈没させ、そして中東諸国やテロリスト団体に武器技術輸出を行ない、この地域と世界全体を不安定にさせます。そしてこの安定化のために、米国、日本、そして韓国、また中東であればイスラエルをも動かせ、そして最終的に米国から援助を引き出すという戦法を、ここ何十年も取っています。

米帝とその傀儡の南朝鮮を打倒すると叫びながら、最も頼りにしているのは米国と韓国なのです。私たち日本人にはあまりにも歪んでいて、頭がおかしくなりそうな考えです。

でも、これを一言でいうと「甘えん坊のガキ」です。道端でだだを捏ねて、周囲の人に迷惑をかけることによって、自分の欲しいものを獲得する姿です。こうした国への対処法は何でしょうか?

進歩派の人たちは「対話と援助」と言っています。保守派は「圧力と経済制裁」と言っています。私は「完全無視」をしたら良いのかな?っなんて思っています。

そういう意味で、北朝鮮は少しパレスチナと似ていて、また、隣のイスラエル国に依存しながらも敵対したエドムにつながるものです。