エジプト・イスラエル旅行記 − 8月13日その1


 12日から本格的なエルサレム見学が始まりましたが、13日はさらに本格的になります。12日は、云わば私たちの主の「心中」を推し量る旅であったのに対して、13日はその「舞台」を理解する旅になります。例えば前日、涙の場では主の涙と悲しみに思いを馳せましたが、本日は、主が涙流された神殿とその周囲の地理、歴史、そしてユダヤ教徒の想いなどを眺めていきます。

 インターネット上では、この分野の情報が莫大にあります。なぜなら、舞台はユダヤ社会そのものであり、ユダヤ人の歴史だからです。彼らの歴史や考古学に対する情熱とその発展性は驚くべきものがあり、日々刻々と当時の詳細を明らかにしています。ですから、青色の文字と線になっている所はぜひクリックしてみてください。

 旅程は次の通りです。

1.西壁(嘆きの壁) 2.神殿の丘(岩のドームがあるところ) 3.エルサレム考古学公園(神殿周辺の発掘現場) 4.神殿再建財団 5.ダビデの町(ウェレンの縦穴、ヒゼキヤのトンネル)


1.西壁(嘆きの壁)
  (その他、ライブ画像英語のウィキペディア写真とリンク集

 エルサレムというと、黄金に輝く岩のドームの次に有名なのが嘆きの壁ですね。そこに正統派ユダヤ人たちが集まって祈っている姿を、皆さんもニュース等でご覧になったことがあるかと思います。この壁は主がエルサレムに立ち寄られた時にも存在していたものです
神殿の丘とダビデの町
。前日訪問したカヤパ邸からピラトのところに連れて行かれるとき、この西壁沿いにある通りを歩かれました。

 神殿が初めて建てられたのは、もちろんソロモンによってであります。これを第一神殿と呼びます。この神殿は紀元前586年、バビロンによって滅ぼされました。そして、70年後帰還したユダヤ人により再建されました(エズラ記参照)。これを第二神殿と呼びます。

 そして時代はペルシヤからギリシヤへ、そしてローマ時代へと移っていきます。

 このローマ時代の時、イドマヤ人(エドム人が先祖)でありながらユダヤ教に改宗したヘロデがいました。彼がローマの助けによりユダヤ人の王となりました。彼は、建築プロジェクトに情熱を注ぎました。その一つが神殿です。ユダヤ人の王であるにも関わらず、ユダヤ人からよく思われていなかった彼は、ユダヤ人を喜ばすためにこの神殿を大規模に改築しました。(改築といっても帰還後に建てたものは全て取り壊し、全く新しいものを建てました。)これをヘロデ神殿と呼び、これも第二神殿と呼ばれます。

 ですから、主がこの地上におられたときのエルサレムは、ローマ帝国の中にあり、ヘロデが王として統治していた時の町であることを覚えていてください。その神殿の豪華さと壮麗さは、なぜこの神殿を世界の七不思議に入れなかったのかと思いますが、あるラビは「ヘロデの神殿を見たことのない者は誰でも、美しい物を見たことがない。」と言いました。

 ところがその神殿が破壊されます。紀元70年に、後に皇帝になるティトスがローマ軍を率いて、エルサレムを陥落させました。主がオリーブ山で泣かれた通りになりました。神殿は石が一つたりとも積み上げられ残ることはなかったのですが、けれども神殿の丘の西壁の一部が残っていたのです。

 そしてオスマントルコがこの壁を発見して以来、ユダヤ人たちはここに来て祈り始めるようになりました。ユダヤ教にとってここが最も聖なる場所であり、神殿の回復を願って今でも祈りを捧げているのです。

 ここでガイドのドランが西壁の説明をしました。ここは嘆きの壁ではなく祝いの壁になっているとのこと。ユダヤ人男子の成人式であるバル・ミツバはここでお祝いする人が多いそうです。そして、これから遅かれ早かれ新しい神殿が建てられると話しました。

 そしてデービッドが、私たちがそこに行って祈る前に、聖書の哀歌から説明をしました。ここにおける気持ちを感じ取るには、哀歌をじっくり読むといいとのことです。「道行く人よ。よく見よ。(1:12)」と、破壊の後の瓦礫を見ながらエレミヤが言いました。

 そして考えてほしいのは、3章22節から「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。』」とのことです。ですから、新しい神殿も人間の行為ではなく、主の憐れみによって建てられるのであり、さらにユダヤ人そのものが存在しているのは驚くべきことだと話しました。「滅び失せなかったのは、主の憐れみ」によりますから。(以上、音声を聞きたい人はここをクリック。)

 ここは異邦人でも、頭にかぶり物(帽子でも何でもよい)をすれば誰でも入れます。ユダヤ教や初代キリスト教がそうであたように、祈りの場は女性と男性の二つに区分されています。そして壁の石のすき間に自分の祈りを書いた紙を差し入れて祈るのです。そこには正統派ユダヤ教徒の熱心な祈りがささげられていました(動画)。

 その石のすき間に差し込んだ祈りの紙は、管理している人が大切に保管するらしいです。私は99年に、「日本にリバイバルを」と書いた紙を差し入れて祈りました。その後、私の両親が救われ、聖書を教えている人々を通して救われる人が起こされました。私はそのことを今回、神に感謝しました。そして、祈りに答えてくださることの確信をもって、また別の祈りの課題を書きました。それは今回、言えません。祈りが聞かれたときに分かち合えるかと思います。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。(イザヤ56:7)

2.神殿の丘
  (その他、写真とリンク集神殿の位置について

 神殿の丘は、その嘆きの壁のすぐ上にあります。そこには今はアル・アクサ寺院と岩のドームがありますが、そこはアブラハムがイサクをささげたモリヤの山であり、後にダビデがその土地を購入して、ソロモンがその敷地に神殿を建てたところです。ですから「神殿」の丘です。ここに神殿の丘についての聖書の言及を引用したら、とてつもなく膨大な量になるでしょう。聖書的にまた霊的にここは世界の中心部分であり、人体で例えるなら心臓です。主はここにご自分の名を置いた、と言われます(1列王8:16)。

 そこになぜか、イスラム教の第三の聖地と言われている岩のドームが建っています。ここで、イスラム教の性質をしっかりと理解しなければいけません。これは、「ユダヤ教とキリスト教の多くを借用し、かつその二つを征服する形で正統化するアラビア宗教」と定義することができます(こちらの拙エッセイを参照してください)。遺跡においても、ユダヤ教やキリスト教にとって大切なところに、あえてモスクを建て自分たちのものとします。考古学や歴史上の証拠は当然ないのですが、それをどんどん塗り替えることが彼らの信仰の中に組み込まれています。モリヤの山で、アブラハムはイサクをささげようとしたのですが、コーランにはアラブ人の父祖イシュマエルをささげようとしたことが記されています。そして最後の使徒モハメッドがここから昇天したということで岩のドームを建てましたが、これはコーランにさえ書いていません。

 後でドランが黄金のドーム部分の下に書かれてあるアラビア語は、「神には子はいない。」と説明していました。本当に強烈です!私たちキリスト者の信仰の核心はもちろん、「イエスがキリストであり、神の独り子である。」というものです。これを意識的に否定し、対抗しているのがお分かりになるでしょう。
偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父を持っているのです。(1ヨハネ2:22-23)
 嘆きの壁に入るときにセキュリティーチェックを受けるのですが、一旦そこを出て、別の入り口から神殿の丘へ行くセキュリティーチェックを受けます。初めて来たツアーのメンバーは、「今セキュリティーチェックを受けたのに、なんでまた受けるの?」と混乱していました。理由は、嘆きの壁と違って、神殿の丘の敷地内には聖書を含む宗教的用具を持って入ることができないからです。そのためツアーのメンバーは既にバスに聖書を置いてきています。

 そして神殿の丘に上がります。その通路の右側には、後で訪ねるエルサレム考古学公園の一部が、左側は嘆きの壁の前で祈っている人々が見えます。ここからだと女性の祈りの区域も見ることができました

 神殿の丘はイスラム教の管轄です。真下はユダヤ教の世界で最も濃厚になっている場所なのに、一気に雰囲気が変わります。とても静かで、イスラム教徒が憩う姿は見ますが祈ってはいません。99年には岩のドームの中に入ることができましたが、2000年のインティファーダ以降入場を禁止したそうです。それでも状況は良くなっていて、2004年あたりまで神殿の丘の敷地にさえ入場が禁止されていたそうです。(ドランの説明はこちらで聞けます。)


第三神殿

 そして先ほどドランが言及したように、ユダヤ人にとっては、ここに第三の神殿が建てられることが大きな関心事と祈りになっています。聖書を信じるクリスチャンにとって、第三神殿は信じるに値するものですが、ユダヤ人が信じているようには信じていません。

 エゼキエル書40章以降に、主が再臨された後、神殿を建てられることが詳しく書かれています。けれども、黙示録11章に警告が書かれています。「聖所の外の庭は異邦人に与えられている(2節)。」そしてこの神殿の前で、文字通り火を噴いて預言する二人の姿が描かれています。つまり、ユダヤ人は神殿は建てることは建てるのですが、それは主が願っておられるものとは異なり、13章を読むとそこの至聖所に反キリストが入って自分が神であると宣言するのです。

 つまり、ユダヤ人が本物のメシヤが来られて神殿を建てられる前に、偽者のメシヤを受け入れて自分たちで神殿を建てることになります。「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。(ヨハネ5:43)」と主が言われた通りです。」これを「患難期神殿」とでも名づければよいでしょう。

 そしてこの神殿が建てられる位置について、さまざまな議論がなされています。今の状況から考えると、岩のドームを除けて神殿を建てるなど不可能に近いです。ユダヤ教徒の人がこの敷地に入り、独りで祈りをささげようとするや、イスラム教徒による物凄い騒動が起こります。けれども、もしかしたら今の岩のドームのところに至聖所があったのではなく、数十メートル北西にある「霊のドーム」と呼ばれるところにあったのではないか、と言う学者がいます。その大きな理由は、神殿に通じる東壁の黄金門と、今は地下に埋まっていますがトンネルを掘って発見された西壁の門を一直線で結ぶと、まさに霊のドームのところが至聖所の地点になるからだ、ということです。

 そうすると、「外の庭は異邦人に与えられている」という言葉通りになります。つまり神殿には外庭があり、かつてのヘロデ神殿の時も異邦人がそこに入ることができました。つまり、岩のドームを取り除けることなくそのままにして神殿を建てることができるからです。(詳しくは、黙示録11章のメッセージをお読みください。)

 そして、デービッドの説明によりますと、この下に契約の箱があるのではないかという見方があります。バビロン捕囚以降、契約の箱がどこに行ったか分からないままです。

 また1993年のオスロ合意以降、様々な合意の試みがなされ失敗に終わりましたが、その理由はいつも「ユダヤ人の神殿」のことでした。キャンプ・デービッドにて当時のクリントン大統領は、岩のドームの北側に大きな壁を設けて、その向こうに神殿を建てて、国連が監視すればいいではないかと言いました。けれども同時に、岩のドームの中にある、アブラハムがイサクをささげたとされる岩の下には、下水溝があります。この下水溝はケデロンの谷につながっているのですが、神殿でいけにえをささげた場所(つまりそこから血や汚水を流した)のではないかと言われ、そうすると、この場所も譲れないと考えるユダヤ人もいるそうです。

 いずれにしても、聖書的にはメシヤが神殿を建てられるのであり、かつ、エゼキエルが見た幻によると神殿はこの丘全体の敷地よりも大きくなります。地殻変動が起こり、エルサレムが中東で一番高い所となります。メシヤが神殿を建てられることについては、「彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。』(ゼカリヤ6:12-13)」とあります。

 後で行く神殿再建財団の人たちは、以前は、メシヤの来臨の時に神殿を建てると説明したそうですが、今は解釈が変わって、自分たちで神殿を用意して、それを来臨のメシヤが受け入れられると主張しているそうです。となると、その人は反キリストですねとデービッドが質問したら「あなたは福音派でしょ?」と言われたそうです。(以上、デービッドの説明はこちら

 ですからここは、霊的に心臓部分である敷地であるのに、実際には静かに落ち着いて主のことを想うことが難しい、熾烈な霊的戦いの場であると言うことができるでしょう。

 そして神殿の丘の西側からこの場所を出て、旧市街の通路を歩いて再び西壁広場の前に出てきました。そして今度は、西壁の南側と南壁の遺跡へと向かいます。


3.エルサレム考古学公園
  (上のリンクは必見です、360度パノラマのヘロデ神殿を見ることができます。その他、写真とリンク集

 99年に行かなかった場所が、このエルサレム考古学公園(The Jerusalem Archeological Park)でした。南壁のところの発掘が進んでいるという話は聞いていましたが、今は、一般の人々が見学できるように整えられています

 先ほど話しましたように、神殿の丘そのものはイスラム教の管轄にあります。けれどもその周囲を舐めるようにして遺跡の発掘を活発に行っています。一つは後日行く「西壁トンネル」ですが、もう一つがこの公園です。

 右の絵をご覧ください。これは、ヘロデ神殿を南西から眺めているものです。嘆きの壁は西壁の南側にあります。そしてこの公園は、さらに南側の部分、そして南西の角から南東の角までの南側の壁の部分に及んでいます。

 ここの部分で大事なのは主に二つあります。一つは南壁の階段部分です。そこに門が二つありますが、これが「フルダ(Hulda)の門」と呼ばれているもので、神殿で礼拝を捧げるために巡礼に来た人々は、この門を通って神殿の敷地に入ったということです。(ちなみにフルダは預言者エレミヤが生きていた時にいた女預言者の名前ですが、ユダヤ教の伝承によるとここに墓があるそうです。)

 上の神殿の丘とダビデの町の地図にあるように、当時の入口はダビデの町の南にある門でした。ダビデの町のオフェルを通って、そしてこの階段を上がり、入ったら地下道になっていて、そして先ほどまでいた、神殿の丘の敷地に出てきます。

 そしてここは複製でも何でもなく、ヘロデ時代の階段そのものです。つまり、私たちの主イエス・キリストは、この階段を使って神殿の中に入ったり出たりされたことは確実であり、私たちはまさに主が歩かれたその階段の上に腰を下ろして、デービッドとガイドの話を聞いていました。

 そしてこの階段はラビが弟子たちに教えを説く所として用いられていましたので、主もここで教えられたことは間違いありません。

 ちなみに、初めて月面着陸したアームストロング飛行士は、この階段の上に立ち、ここが主が歩かれた階段であることを知って、「月面よりももっとわくわくします。」と言ったそうです。

 そしてこの南壁の一番東の角は、「神殿の頂」と呼ばれているところです。イエス様が悪魔から誘惑を受けられて、下に身を投げてみなさいとと言われたその頂です。

 さらに、この辺りにで数々の清め槽(ミクバ)が発見されました。これは神殿に入る時に儀式的に身を清めるためのものです。屋上の間で聖霊を受けた弟子たちのところに、ユダヤ人が来て、ペテロが彼らに説教して、彼らが主イエスを信じました。バプテスマを受けたのは男で三千人いましたが、以前はダビデの町の南端にあるシロアムの池で行なわれたと考えられていましたが、この清め槽で行なったのではないかと今は言われています。

 ここでデービッドが、最近の考古学についての記事について紹介していましたが、8年前にヨルダンで発見した板に、メシヤは死に、復活する存在として記録されていたそうです。現代ユダヤ教ではそのようには信じていませんから、大きな発見です。(以上のガイドとデービッドの話の音声はこちら。そして動画もあります→ @A

 そしてもう一つ重要な遺跡が右の写真です。これはちょうど神殿の南西の角から西壁の部分を見ている部分です。ヘロデ時代の西壁沿いの歩道です。ダビデの町のシロアムの池から続いている道です。写真では見えませんが、この上方に小さな突起があるのですが、これが「ロビンソンのアーチ(Robinson's Arch)」と呼ばれているものであり、祭司たちが神殿に入る階段でありました。祭司は裕福な人々が住む上町に住んでいましたが、そこからチロペオンの谷のところにあるこの階段まで下ってきて、この階段を上りました。

 もう一人のガイド、ヤコブさんの説明はこちら → 音声動画

 また、この歩道は、嘆きの壁のところでは地下に埋まっています。現在の嘆きの壁は、当時の西壁の上部の部分(19メートル)であり、実際は32メートルあったそうです。この西壁に沿った通りのもっと先の部分は後日、西壁トンネルの中で見ることになります。