エジプト・イスラエル旅行記 − 8月16日その2


1.シオンの山(屋上の間、ダビデの墓)  2.ベテスダの池(聖アン教会)  3.アントニア要塞(ピラトの官邸)  4.ビア・ドドローサ(十字架を担がれた道)  5.聖墳墓教会(磔、埋葬)


 聖墳墓教会を見て、昼食を取って、少し一休みした私たちは、次の目的地、園の墓に進みます。けれどもバスは、旧市街の南、シオン門のところで待っているため、ユダヤ人地区をアルメニア人地区寄りに歩きながら、南に下っていきました。(こちらに地図)

 ユダヤ人地区は、古くて、そして新しい町です。「古い」というのは紀元八世紀頃からここにユダヤ人が住み続けていたからです。私たちが11日に闊歩し、その後も夜に出かけている新市街は、二十世紀になってから開発が始まりました。それでユダヤ人は新市街に移り住むようになりました。

 1948年、独立戦争が起こり、ここはヨルダンの占領下に入りました。その時にヨルダンはこの地区を破壊しました。シナゴーグなどの建物は完全に立て壊し、嘆きの壁はゴミ捨て場にしました。墓は道路の敷石にしたそうです。

 そして67年、六日戦争でイスラエルがここを取り戻しました。それ以来ここを再建し、今のユダヤ人地区になっているので、それで「新しい」ところと言うことができます。そして自由に考古学の発掘もできるようになったので、いろいろなものが発見されました。13日に訪ねた西壁、考古学公園、神殿再建財団がありますが、東側に集まっています。私たちは今、ユダヤ人地区の西側にいますので、他の有名な場所も見ることができました。


ヒゼキヤの建てた壁、それともマナセ?

 歩いていると、突然、大きな壁の跡であろうものが出てきました。これは、「広い壁(Broad Wall ネヘミヤ3:8)」と呼ばれています。

ここで非常に楽しい(?)ことが起こりました。私はデービッドの傍を歩いていたのですが、彼が「これはマナセが建てたものです」と説明しました。

 ところが後から来たヤコブさんが、これはヒゼキヤが建てたものだと言うのです。彼が言うには、看板にはヒゼキヤが建てたという説明があるとのこと。アッシリヤが包囲を始めた時、エルサレムの町に入りきれなかったユダヤ人の難民のために、崩れていたその壁を建て直した、ということです。

 デービッドは、その看板が間違っているのだ、と言いました。前ここに来た時に間違ったことを説明したら、なんと看板を下ろしたとのこと。そして歴代誌第二33章14節を読みました。
その後、彼(マナセ)はダビデの町に外側の城壁を築いた。それはギホンの西側の谷の中に、さらには、魚の門の入口に達し、オフェルを取り巻いた。彼はこれを非常に高く築き上げた。そして、彼はすべてのユダの城壁のある町々に将校を置いた。
 ここに「高く築き上げた」とあります。幅も広いですが高さはなんと8メートルあったようですから、確かにこっちの記述が合っています。そうしたらヤコブさんが、「そう教えられているのですから。ガイドの再教育講習にも出てきましたから・・・。でも、そうですね、聖書が正しいですよね。」とのこと。とまどっているヤコブさんに、皆が笑いました。

 そして、上に書いた説明を話し続けたのですが、再びデービッドが、「あなたが間違っているのか、正しいのか決着をつけましょう。」と言って、今度はヒゼキヤが壁を再建したところを開きました。歴代誌第二32章5節です。
それから、彼(ヒゼキヤ)は奮い立って、くずれていた城壁を全部建て直し、さらに、やぐらを上に上げ、外側にもう一つの城壁を築き、ダビデの町ミロを強固にした。そのうえ、彼は大量の投げ槍と盾を作った。
 ヒゼキヤが建てたその後にマナセが建てたとのこと。この城壁は急いで建てたものであり、ギホンの泉を取り囲むためにオフェルの丘で行なったものであり、もともとあった城壁を強固にしただけのこと。だからここのはヒゼキヤではなく、マナセのだと主張しました。

 ヤコブさんは、なぜ大きな壁を建てる必要がマナセの時にあったのかと反論しました。ヒゼキヤの時はアッシリヤの脅威があったけれども、マナセの時はなかったということです。そして、避難民が城壁の中に入りたいことを力説しましたが・・・。

 ダビデが、「だれがこの壁を建てましたか?」とだけ聞いたら、「マナセです」と答えました!!大爆笑です。(以上の音声

 私もインターネットで、この「広い壁」について調べました。出た出た、ヒゼキヤが建てたものとして紹介されています。例えば、このサイト。この中にヤコブさんの言った看板の写真もあるのですが、デービッドが言ったように、オフェルの丘から遠く離れてます。やっぱりこっちでしょ、と私も判断しました。

 私がこの旅行記を書いている時に、サイトでいろいろ調べながら書いているのですが、結構いい加減なものもあるんだなあ、ということに気づかされました。例えば、先ほどの聖墳墓教会の位置の信憑性、これも分かったものではありません。私は次に説明する園の墓の方が本当じゃないかなあと感じています。あと、ダビデの現在の墓ですが、そこの墓は紀元後ずっと後にできたとの説明もありましたが、ヘロデ大王時代のエルサレムの模型にはもう既にあるのです。他にも今教会があるカヤパ邸は本当のではないとか、先ほど行ったエッケ・ホモ教会の敷石は、後世のローマ皇帝ハドリアヌスが造ったものであるとか・・・。デービッドはたぶんかなり調べて、その真正性を話していると思います。一般に語られていることは、まるで確立された事実であるかのように話されていますが、考古学は日々進展していくものなんだなと実感している最中です。

 いずれにしても、ヘロデ時代のエルサレムが発掘されるだけでもすごいのに、第一神殿時代のが出てくるのですからびっくりです。


カルド

 そしてさらに南に歩くと、「カルド」に出会いました。上のタイトルのリンク先もクリックして開いて、写真を見てください。きれいな柱廊がありますね。これはローマ・ビザンチン時代のエルサレムの中央通りです。エルサレムの北から南まで、まっすぐに通っていました。ヨルダンの古代教会で発見されたモザイクのエルサレムの絵に、その通りがはっきりと描かれています。柱廊があるところなど、かなり正確です。そのモザイクの絵には聖墳墓教会も描かれているそうです。また、ショッピング通りも発見されているとのことで、この通りは巡礼者と一般の人たちの両方で使われていたことが分かります。

 さらに、上のリンクのサイトには、もっと深く発掘している部分もあります。それは紀元前1−2世紀のハスモン朝のものがあります。さらにもっと下に、紀元前8世紀の第一神殿時代の城壁も見つかっています。2700年ぐらい前のものです!本当にすごいです。

 今日の夜行く西壁トンネルでもこの二つの時代のものを見ますが、これまでヘロデ時代のものに集中していましたね。けれどもその時代の層の下にはさらに二つの時代の層が眠っていると考えると、気が遠くなりそうです。

 そしてここは現在でもユダヤ人地区のショッピング街になっています。99年に訪ねた時は自由時間にここを好んで見ていました。けれども今日は土曜日で安息日です。なのでお店が全部閉まっています。ちなみにこの通りはムスリム地区まで入って、古いアラブ人の店が並び、そして北壁のダマスコ門までつながっているそうです。

 ・・・今思うと、だったらシオン門からバスに乗るのではなく、そのまま歩いてダマスコ門から出て園の墓に行けばよかったのではないか、と思ったのですが、でも私たちのような団体が、ムスリム地区の市場で人ごみの中でもみくちゃにされながら行くことを考えたら、正しい選択ですね。


アルメニア人地区

 そしてユダヤ人地区からアルメニア人地区に入って、シオン門に行きます。アルメニア人地区のお店を少し眺めることができました。ところで、アルメニア派は先に話したようにキリスト教です。なぜクリスチャン地区と区別されているかと言うと、他の自分たちが、ローマよりも先に国民として初めにキリスト教を受け入れた者たちであるということで主張しているからだそうです。アルメニアと言っている通り、グルジアの下にある、あのアルメニアの国教ということです。

 そして私たちはシオン門から出ましたが、後ろを振り向くと、先に説明したとおり弾痕の跡だらけです。


6.園の墓
  (公式サイトGarden Tourに行ってみてください)
 
 私たちはバスに乗り、シオン門から時計回りにバスが走り、北側でダマスコ門を通り過ぎました。前に話しましたように、ここはアラブ人の地区で、門の外もお店などみなアラブ人経営の者です。その門の前の通りに左に曲がり、すぐにアラブ人のバス・ステーションがあります。だから警笛のけたたましい音がずっと鳴り響いています。その横に「園の墓」があります。中に入ると緑と花に囲まれた、牧歌的な雰囲気でいっぱいの所です。

 この場所が先ほど説明しましたように「ゴルドンのカルバリ」と呼ばれている所です。11日で話しましたエルサレムの歴史を思い出してください、オスマントルコがここを支配していた時に帝国時代が始まり、ヨーロッパ、殊に英国の力が強くなりました。そして国際連盟が結ばれます。その時にこのパレスチナは国際連盟による英国委任統治下に入りました。

 このように英国の力がこの地に強くなってきた時、1884年、英軍ゴルドン少将がどくろの形をした岩を見て、もしかしたらここがカルバリではないかと思い、調べさせました。そうしたら、墓を始め聖書記述に沿う数々の痕跡を発見しました。

 現在ここは、「園の墓協会(Garden Tomb Association)」という英国にある慈善団体によって所有、運営されています。エルサレムの中で唯一、福音的なクリスチャンによって管理されている場所です。したがって、第一に聖書記述を重視すること、そして第二に主がよみがえったのだから、場所そのものよりも主ご自身に想いを馳せることができるようにすること、この二つを重視しています。

 説明をしてくださったスコットランド出身のガイドの方の説明が、非常に分かりやすく、新しい発見が多かったので、それに沿ってお話をしていきたいと思います。(まず「写真」をクリックしてください。そして音声を聞きたい方は「音声」もクリックしてください。)

1)どくろ(ゴルゴタ、カルバリ)の地(写真音声

 まず、列王記第一21章にあるナボテの話を思い出してください。イスラエルの王アハブが、ナボテのぶどう園を欲しがったけれどもナボテは売りませんでした。アハブが気分を害したのを知ったイゼベルは、二人の偽りの証人を立てて、ナボテを死罪に定めました。そして13節に、「そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。」とあります。町の外でなければいけません、なぜなら犯罪人を城壁の中で死刑にしたら汚れるからです。

 ユダヤ人が当時、石打ちの刑に処する時にここに連れて来ました。ローマが権力を持った後は、彼らの死刑制度を導入しました。石打ちはやらないようにさせたのですが、上手くいかなかったようです。ステパノが石打ちになっていますね。けれども、十字架による死刑を定めていました。それでローマは、ユダヤ当局が死刑所として使っていた同じ場所を十字架刑の場所として使ったのです。

 ユダヤ人が石打ちの刑を執行するとき、まず犯罪人を丘から突き落とします。突き落とした後に、その落ちた人に向かって石をつかんで投げたのです。イエス様がナザレにある会堂で、イザヤ書のメシヤ預言の箇所が今、実現しましたと言われたのを聞いて、彼らは怒り、丘の崖っぷちまで連れて行き、イエス様を突き落とそうとしましたね(ルカ4:29)。

 十字架の場所はどこだったか、五つお話します。第一に名前を知っています。マタイ27章33節に、「ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)」とあります。ユダヤ人はゴルゴタと言いローマ人はカルバリと呼び、同じ場所を指し、どちらも同じ意味で「どくろ」です。そして、私たちは丘の崖に、どくろの形を見ることができます。

 そして、ヨハネ19章19節でピラトが、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いた罪状書きを掲げました。20節に「大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架に付けられた場所は都に近かったからである。」とあります。ここは城壁から200メートル離れた、都から近いところです。

 ヘブル書13章12節に、イエス様は町の「門の外」で苦しみを受けられたことが書かれています。一番近い門は、ここから400メートル離れたダマスコ門があります。今の門はイエス様の時代にはありませんでしたが、その下を発掘したところ、ビザンチン時代の門が、さらに下にはローマ時代の門がありました。

 マルコ伝15章29節には、「道を行く人々」が、イエス様を罵っていたことが書かれています。つまり、十字架刑は道に接したところでなければいけませんでした。これには証拠があり、ローマ人の作家が十字架について、「犯罪人を十字架に掛けるときは、大路が選ばれた。大勢の者が見て恐れを抱かせるためである。」と言いました。ローマは数多くの十字架刑を行ないました。そして道行く人が、近くでしっかりと見ることができるようにしたのです。

 最後にヨハネ19章41節に、「イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」とあります。

 ということで、十字架の場所について主に五つのことを聖書は述べています。

 十字架のイメージとして丘の上に三つの十字架が立っているのがありますが、それは間違ったイメージだと思います。ローマはいつも道の脇を十字架刑の場として使っていましたし、道行く人が丘の上にある十字架の罪状書きは遠くて読むことができません。それに、誰かを罵る時、相手に聞こえるから罵るのです。だから、今のバス・ステーションの縁の辺りで十字架に付けられたのではないかと、私たちは考えています。

2)ぶどう園(酒ぶねの一部の写真貯水槽の写真音声

 「園」というと三つの可能性がありますが、ぶどう園、果樹園、そしてオリーブ園です。福音書には、ゲッセマネの園と、主の墓の園に言及しています。イエス様はケデロンの谷を越えられてオリーブ園に行かれました。けれどもイエス様の墓がある園で何が育っていたいたかは分かっていません。

 考古学者は、この酒ぶねがイエス様の時代にあったことを教えています。わらを敷いて、その上にぶどうを置き、踏みつけます。わらがフィルターの役目をなし、汁がこの下の大きな槽の中に入ります。イエス様が例えの中で、「彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て(マタイ21:33)」と言われました。言い換えると、ぶどうを育てている間に酒ぶねを掘っていくわけです。これは大きな酒ぶねなので、多くのぶどう酒を製造できます。ですから考古学者はイエス様の時代にぶどう園があったことを教えています。

 エルサレムで園を持つことの難しさは、雨が4月に降り止むことです。11月辺りまで降りません。聖書が「初めの雨」「後の雨」と呼んでいるものです(ヨエル2:23)。その間、水不足になります。そのため、彼らは貯水槽を彫りました。雨が降った時に貯めておくものです。マサダで貯水槽をご覧になりましたね。エルサレムで第三に大きい貯水槽がここにあります。百万リットルの水が入ります。この写真は貯水槽の内部から撮ったものです、その大きさを知らせるためのものです。岩削り取って、ここまでの大きさにしたのは2,30年かかったことでしょう。冬に溜まった水を夏に使いますが、今私たちも貯めた水でこの園を潤しています。

 そして考古学者は、この貯水槽はイエス様の時代の前からあったことを教えています。だから園が主がおられた時にも存在していました。

 この園を所有していたのは、ヨハネ伝19章38節を読むと、「アリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。」とあります。彼について福音書は、金持ちであったことを教えています。彼はサンヘドリン(ユダヤ人議会)の一員でしたが、イエス様を殺す判決において自分は投票しなかったことを教えています。けれども、彼は黙っていたようで、主が死なれた後に、自分が弟子であったことを明らかにしました。

 マタイ27章60節には、ヨセフが主の遺体を取りおろして、亜麻布に包み、彼が「岩を掘って造った自分の新しい墓」に納めたことが書かれています。その墓はゴルゴタに近い園の中にありました。まだ使ったことのない、岩を掘って造ったヨセフの墓であった、ということです。

 私たちは、イエス様が家を所有していたとは考えません。「人の子には枕するところもありません。(ルカ9:58)」とあるとおりです。けれども死なれた時は、個人用の墓が与えられ、それが金持ちの所有する墓であったこということです。イザヤ書53章9節、メシヤ預言の中に「彼は富む者とともに葬られた」とあるとおりです。


3)墓(外からの写真中の平面図音声

 墓の辺りの地面はは非常に粗いです。考古学者はイエス様の時代もそのようであったと言っていますので、そのままにしています。そこに溝があります。考古学者はこれは当時もあったということです。雨が降れば、その岩に水は浸透しませんから排水溝があって、そして角にある貯水槽に流れていき、私たちはそこの水を使っています。

 墓の岩は一つの岩で、アリマタヤのヨセフの墓の描写通りに切削されています。そして右側に亀裂が走っていますね。考古学者によると地震によるものだそうです。女たちが墓を見に来たときに地震が起こりました(マタイ28:2)。亀裂を引き起こした地震の時期について特定はできていません。この亀裂があったので、100年以上前、その修繕に石のブロックを入れました。

 墓の入口はもともと、石のブロックの下から三番目の辺りまでしか高さがありませんでした。

 そして墓の入口の周りが曲線になっているのが分かりますか。これに屋根があったと考古学者は言っています。初代教会の信者たちがここが特別な墓であることを知って、ここで礼拝を捧げていたのではないかと考えています。その手掛かりが残っているのですが、岩に十字架が掘られていて、それが船の錨の形の中にあります。イエス様の弟子たちは漁師で、錨の大切さを知っていました。イエス様は魂の錨であることを聖書は言っています(ヘブル6:19)。彼らはここに集まっていましたが、迫害が来てから止めたと考えています。

 中に入りますと、ビザンチン時代の十字架が掘られているのを見ます。イエス・クリストスのイニシャルとアルファ・オメガがあります。

 マルコ伝16章によると、女たちが初めに墓に来て、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」と話し合っていました(3節)。石を入口に転がし、墓は閉められていました。墓の下に溝があります。そこに石がありました。残念なことに、この墓を発見した時その石はありませんでした。そこに石を置こうかという誘惑がありましたが、初めに見つけたとおりにしています。石は6,7トンあったであろうと考古学者は言っていますので、女たちは転がすことができなかったのです。けれども福音書によると、石がすでに転がしてありました。

 マグダラのマリヤがここに始めに来て、体を屈めて覗き込み、そこにイエス様の体があったところを見ることができました(ヨハネ19:1-5)。ということは、外から覗いて見ることができる位置に御体があったのです。だから中に入る必要がありませんでした。そしてヨハネとペテロが走っていき、ヨハネが覗き込んでみると、亜麻布が置いてあるだけでした。そしてその後で初めて墓の中に入りました。

 そして中の平面図を見ますと、墓の中には二つの部屋が互いに接してあります。だから二つに分けられていますが、その仕切り壁は非常に低く45センチ程度しかありません。二つの部屋を簡単に行き来できます。

 入口からの一つ目の部屋は、「嘆き室(Weeping Chamber)」と呼ばれています。金持ちの墓には、このように嘆き室が墓の中にあります。そしてもう一つの部屋に葬られたのですが、4番のところです。そしてその片側、石枕があります。もう片側に足を置くところがあります。だから入口からこの葬られた所を見るには、中に入る必要がないのです。

 私がずっと聖書箇所を引用しているのは、福音書の記述に一貫して一致していることを示すためです。西壁(嘆きの壁)に行きますと、石の間に祈りの紙切れを差し入れますね。ここにも、一日が終わるとそうした紙があります。お祈りの紙であることは尊重しますが、私たちは取り除きます。なぜなら、ここは天に届く即配便ではないからです。私たちは、祈りが聞かれるために、エルサレムに来る必要はないと考えています。

 また、しばしば花を墓に置いてくる人たちもいます。時に非常にきれいな花を置く場合もあります。それも取り除かせていただきます。なぜなら、墓を祠のようにしたくないからです。その日を記念したいですが、主は生きておられるのです。その復活をお祝いしたいのです。ここでは、主であるイエス様を中心にしたいと願っています。

 ・・・以上ですが、お分かりいただけたでしょうか、なぜ私が園の墓のほうが実際のものではないかと言ったことを!これだけ沢山の聖書記述と一致する跡が残っているのです。そして、それを1)そのままに残すよう最善の努力をして、2)主ご自身のよみがえりをお祝いできるように整えているのです。右の写真をご覧ください。墓の入口の門には、「ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ24:6)」の御言葉が掲げられています。

 ハレルヤ!主はここにはおられない!よみがえられた!!


メッセージと聖餐式

 そして園の墓には、集会を持つことができるように椅子が並べられているところがあります。ここでデービッドがメッセージを語り、また聖餐にあずかりました。(この場所の動画 メッセージ全体の音声

園の墓において、あの巨大な貯水槽が強力な証拠です。エルサレム全体に貯水槽は三つしかありません。園があったところは、これがかなり限られてきます。小さな園なら貯水槽がなければもてないというわけではありませんが、ぶどう園はかなりの水を必要とします。

また、どくろの場所がここにあることも強力な証拠です。そのバスステーションのあるところで、ユダヤ人が石打ちの刑にしていたのです。ラテン語、アラム語、ヘブル語、ギリシヤ語で、「どくろ」という意味の名前があります。そこに頭蓋骨を彼らは置いていたのです。石打ちによって死んだ者が神の裁きを受けたことを表していました。大抵、丁重に葬られることはありませんでした。時々やって来ては骨をかき集めて、穴に投げ捨てていました。

さらに、ローマは丘の上で十字架刑を執行しませんでした。主要な大通りに沿って行なっていました。東西に伸びている幹線道路が、ダマスコ門、ヘロデ門があるところにあります。そして十字架刑は、普通の住宅地の反対側で行なっていました。紀元1世紀は、道路の向こう側にあったことは知っています。主が都の外で十字架に付けられたのなら、道路のこちら側のほうでは十字架につけなかったはずです(注:すみません、動画がないので正確な位置関係を忘れてしまいました)。

そし律法において最も酷い呪いは、最後に言及された申命記にある「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。(21:23)」です。ギリシヤ語の十字架を表すストロスは、「大きな梁」を意味しています。十字架の梁を意味していません。これらの梁は、木や石に立てられたり、土に穴を掘って固定されます。あるいは、おそらく可能性の一番高い、一世紀に存在していた十字架刑は、オリーブの木の上に梁が付けられたものです。その梁をオリーブの木に釘付けにします。この点において、この園の墓がはたして十字架の場所であったのか考えさせられるのですが、よく分かりません。さらに、神殿の垂れ幕が上から下に引き裂かれたのは、ここからは当然見えないし、オフェルの丘の南からも見えません。見ることができる唯一の場所は、過越の祭りの時にタイルでできたロフ?が開かれた時だと言われています。もしそれが本当なら、オリーブ山で十字架刑が執行されなければいけません。

と言いましたが、園の墓にはたくさん証拠があります。墓には家畜の動物が腐敗した跡が何も見つからなかったこと、そして家族の墓であったこともあります。用意した本人が入るためだけの墓ではありません。墓の中の二つの部屋を仕切る柵がまだなかった頃に私はここに来たことがありますが、家父が葬られる場所の足を置く棚のところが壊されているのを見ることができました。これは、この墓を始めに造った人がそこに葬られてはいないことを表すものです。なぜなら、ザアカイがイエス様を探していた時にはすぐにイエス様だと分かりましたが、主は背が高いお方であることがそこから分かります。一世紀のユダヤ人の背は高くなかったことは分かっています。(注:つまり、主の体を入れるには狭すぎたので、足を入れる部分を少し壊して広げなければいけなかった、ということ。)

けれども、すばらしい知らせは、主はそこにいなくなられた、ということです。マタイ伝27章50節から読みたいと思います。

60節の「岩を掘って造った自分の新しい墓」とありますが、これは珍しいものです。普通は泥なども混ぜて造りますが、純粋に岩を切って行なっていますから。

63節に、「三日の後に」と祭司長が言っていますが主ご自身はそう言っておられません、「三日目」と言われました。「三日三晩、地の中にいるからです(マタイ12:40)」と仰られたのは熟語であり、ここで比較しているのは三日三晩ではなく「大魚の腹」と「地の中」です。もしこれが晩を三回、昼を三回の意味であれば、地の中にいる時にも繰り返されなければいけないのですが、ギリシヤ語を見るとこの言葉を主は言われていません。(注:であるならば、日本語の訳はおかしいことになります。「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も地の中にいるからです。」と訳されなければいけない、ということです。」)

さらに「三日三晩」というのは、実際に晩と昼を三回ずつ過ぎ去らなければいけない、ということでもありません。一日の一部でも過ごせば、それはユダヤ人には一日と数えられます。一時間でもそうです。エステル記にその例があります。エルテルは王の前に出るまで三日三晩断食するようにと言いましたが(4:16)、その後すぐに「三日目に」王の前に立ったことが書かれています(5:1)。

そしてマタイ28章1節に「安息日」が複数になっていますが、問題はありません。ユダヤ人の祭りは「聖なる会合」と呼ばれて祭りの間は安息日なのです。レビ記23章をご覧ください。ですから主がよみがえられたのが三日目というのは、土曜日の夜、日没後ということになります。二日目は普通の土曜日で、金曜日の日没から土曜の日没までです。ですから主が葬られたのは金曜日で、日曜日によみがえられました。四日目までに死体の埋葬をすべて終わらせないと、死体が腐敗を始めるのでユダヤ人は三日目までにはその処理を終わらせていました。

ですから、カトリックの伝承はおそらく正しいと私は見ています。けれども、理由は違いますが。プロテスタントの人たちが、この伝承を避けるために水曜日とか木曜日だと言いますが、そうなると過越の食事をされていたときに、主は既に死んでいなければいけませんでした。

そして、それは聖金曜日(Good Friday)ではなく、「種なしパンの祝いの第一日(マタイ26:17)」と呼ばれていました。この日に、和解のいけにえ(peace offiering)を捧げます。パウロの書簡を読みますと、十字架が「和解のいけにえ」と呼ばれています。「この十字架の血によって平和(peace)をつくり(コロサイ1:20)」何を象徴しているかを知るために、ユダヤ的な背景を知るといいです。

なぜ私が、主が文字通り、体をもってよみがえられたことを信じているかをお話したいと思います。

第一に、聖書に権威があるからです。私はこれまで、聖書の中にはっきりとした矛盾や誤謬を見つけたことがありません。ルカ伝と使徒行伝を見ると、これは出来事の目撃者による記録です(ルカ1:1、使徒1:1)。

第二に、番兵がいて見張られていた墓から、主の御体がなくなったことです。私はローマ時代を大学で専攻していました。ローマ史を学ばないと分からなかった聖書理解があります。ローマの番兵がついていたのに、なくなったというのは驚くべきことでした。また女たちにとっても、驚くべきことでした。

弟子たちにとっても驚くべきことで、女たちが話しても彼らは信じませんでした。弟子たちが石を動かすことはできません。石が転がされると、相当の力がないとまた開けることはできません。そして番兵は、何百人もの攻撃から墓を守ることができたのです。主から逃げた11人の弟子たちが、ローマ相手に戦う勇気もなかったでしょうし。

第三に、サンヘドリンの言い逃れです。金を与えて嘘をつくようにさせました。もし本当に起こっていないなら、どうやってそこまでしなければならないのでしょうか。

「過越の計略」と本がありましたが、十字架までの一劇はすべて預言に沿うように計略によって行なわれて、イエスが十字架にかかったのではない、という主張ですが、あの日一日に、30もの預言が成就したのですよ。もし起こっていなかったら、どうやっても説明が付きません。

第四に、復活が起こった後の使徒たちの行動があります。トリックとして企てたことの為に自分の大切な命を捨てますか。無理です。事実は、何かが起こって彼らの人生を変えてしまったのです。それで彼らはイエス様のために死ぬことができたのです。十字架においては、彼らはイエス様を捨てて逃げたのです。

そして第五に、イエス様は大勢の人に現れました。最初に、マグダラのマリヤにお現れになりました。キリスト教では女性に対する待遇が良かったのです。そして数人の女たちです。ところで、イエス様がマグダラのマリヤに、「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。(ヨハネ20:17)」と言われましたが、英欽定訳では「触ってはいけません。」となっています。でも、「すがりついてはいけません。動けないじゃないですか。」という意味なのです。彼女たちはイエス様を愛していました。イエス様に仕えていました。イエス様のそばで、その話をずっと聞いていたのです。

そしてペテロ、そうですご自分を三度否定したペテロに現れてくださいました。主はなんと優しい方なんでしょうか。そしてエマオに行く途上の二人に現れました。そして十人の弟子に現れました。イスカリオテのユダとトマスが抜けています。八日後にトマスに現れてくださいました。そして、明日から私たちが行くガリラヤの、五百人の者に現れました。ヤコブに現れました。なぜなら、彼がエルサレムで教会の指導者になるからです。そして使徒たち全員、つまり十二人以上の使徒たちに現れてくださいました。十二人以外にもいたのです、例えばオンドロニコとユニアスとか(ローマ16:7)。

そしてパウロに現れてくださいました。何が、彼を迫害者から偉大な説教者に変えたのでしょうか。ダマスコの途上で、復活の主にお会いしたからです。

けれども主がトマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。(ヨハネ20:29)」と言われました。私はこの幸いを得たいです。私は信じます。あなたも幸いを得ることができます。そして私たちは主を見ることになります、顔と顔を合わせて。

 この後で聖餐についてのメッセージが続きます。オリーブの木でできた杯に水で薄めたぶどう酒が、そして種無しのパン、マツァを取り、食べました。それで、これを回すのに突然デービッドが、「お前は説教者だろ。これまで全然僕のために何もしていない。ずっと聞いてばかりいる。あなたも回しなさい。」と呼ばれてしまいました。

 自分の素性をあまりメンバーには明かしておらず、静かにゆっくりしていようと思っていたのに・・・。残りの旅行で、本当にいろいろな人から「お前は牧師なのか?」という質問攻めに遭いました。否定するのに苦労しました(汗)。そして、まずこの歌を歌います。

 主は今、生きておられる。我がうちにおられる。
 すべては主の御手にあり、明日を生きよう主がおられる。

マツァには、パン種が入っていません。パン種は罪を、そして偽り(パリサイ派、サドカイ派)の教えを意味しています。主には罪がありませんでした、それで普通のパンを食べないのです。そしてマツァは網で焼くので、すじ(stripe)ができます。これによって、「彼の打ち傷(stripe)によって、私たちは癒された」を思い出すことができるのです。また穴あけ機で穴を開けます。だから穴がありますね。主は私たちの罪のために突き刺されたのです。

そして大事なのは、それを食することです。ユダヤ教にて食することは、信仰と信頼を意味しています。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。(詩篇34:8)」ですから口の中に入れることによって、本当にこのことを信じていることを表すのです。そして聖餐(communion)の意味は、交わりであり一つになることです。私たちは違います、けれども一つなのです。

 そしてパンを取った後、杯を取りました。

これは過越の食事の第四番目の杯でした。一番目のは感謝の杯です。ルカ22章に書かれています。それから食事が始まります。第二のは災いの杯です。エジプトに下った十の災いを思い出します。それから、三層になっている袋の真ん中のマツァを取り出して、それを半分に割ります。つまり、主が裂かれたのです。そしてその片方を布に隠して、もう片方を家のどこかに隠して、子供に捜させます。これは主の御体が葬られ、よみがえることを表しています。この後で、三杯目の杯を飲みます。「贖いの杯」と呼ばれます。戸口の鴨居と柱に血を塗ったことを記念するものです。御使いが通り越す時に、その家の初子は死を免れました。これでエジプトから脱出できたのです。

 この後で、分かれた紅海を渡ることについて触れていますが、通常考えられているシナイ半島へのスエズ湾ではなく、ミデヤンの地(サウジアラビア側)のアカバ湾で、海底にエジプト軍の車輪も見つけたということを話していました。それから、信じなければいけないことを話しています。

信仰には対象があります。主が行なわれたことをその通りであると信じて、受け入れるのです。それで第三の杯は、メシヤが流された血を表しています。

 これで終わりです。バスに戻りましたが、デービッドが何年も伝道している、アラブ人の子がお菓子をここで売って歩いているので、それを買ってくれとお願いしていました。


7.西壁トンネル

 園の墓を見終わってから、私たちはホテルに戻り、そして夕食後九時半に西壁(嘆きの壁)に戻りました。

 これでエルサレムの見学が終わりますが、次に見るのは有終の美を飾るのにふさわしい場所です。ヘロデ時代の神殿の西壁をトンネルの中で見るという、云わばタイムマシンに乗ります。イエス様が歩かれた神殿の丘に沿う通りを私たちも歩くわけです。この西壁の北の端にはアントニア要塞があります。ですから、主ご自身も十字架刑を受けられる時に歩かれた通りであり、十字架の前にもエルサレムを訪ねられた時は、南壁のフルダ門の辺りと合わせてここを頻繁に歩かれていたことでしょう。

 西壁トンネルには、正統派ユダヤ教の人たちが運営している二つのサイトで、その情報を提供しています。

 1.Aish.com - Western Wall Tunnel Tour
 2.Western Wall Heritage Foundation(西壁遺産財団)

 1.では、写真とその説明によってトンネルを仮想体験でき、2.はトンネル全体の図と共に短いビデオを見ることができます。ちなみに、どちらのサイトでも生中継の西壁広場の映像を見ることができます。

 ところで、私たちが夜の9時半という遅い時間にここを訪れるのは、第一に、安息日が終わる日没を待たなければいけないこと、そして第二に、非常に多くの人がここを訪れるため6ヶ月前には予約を入れなければいけないことがあります。9時半に入れるのは幸運で、ここは午前2時まで開いているそうです。そして朝は午前6時から開くそうです。

 まずここに入ったら、西壁全体の説明を聞かなければいけません。左の写真を見てください。

 これが、神殿の丘にある神殿以外は、現在の西壁の姿です。一番右側が私たちが訪れたエルサレム考古学公園の部分です。もう一度この写真を見てください。これは南から北の方角で撮ったものです。そしてこの写真では向こう側が突き当たりになっていますね。そこに西壁広場(嘆きの壁)があります。元はその高さだったのですが、発掘のため低くなったのです。したがって、上の模型の写真の一番右の部分が一番低くなっており、そしてその左隣が西壁広場で、一段高くなっています。

 そして西壁広場のさらに左、つまり北側はもっと高くなっていますね。それが現在のムスリム地区です。この地区の地下にトンネルを掘ったわけです。そこで次の写真を見ましょう。



 これが当時のエルサレムです。壁の右上の部分が他の部分より、もっと白くなっている部分がありますね、これが今見える嘆きの壁です。私たちは、赤線の部分をずっと歩くことになります。

 私たちは入口に入ったら、今見た模型を見、その後すぐに右に曲がり、「秘密の通路」と呼ばれている所を歩いて突き当たります。西壁に着いたのです。そして左に曲がります。すぐに、とてつもなく大きい石が西壁の一つに使われています。こちらの動画もご覧ください(アップロード要)。ツアーのメンバーの女性がその石の右端に立ち、そしてガイドのドランが左端に立っています。長さ12.5メートル、高さ3.5メートル、深さ約4メートル、そして重さがなんと500トン以上だそうです!現在のクレーンでも、最高250トンまでしか上げることができないとのこと。いったいどうやって、当時の歩道6.5メートル(床岩からは10メートル)上の壁のところに持ち上げることができるのでしょうか?だから、エジプトのピラミッドなどの高い技術同様、ここも七不思議に入っておかしくないと言われる所以です。

 けれどもこの石を見ると、私は弟子の言葉を思い出すのです。
先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。(マルコ伝13:1)
 これは擁壁の石のことではなく、神殿そのものに使われていた大理石のことだと思われますが、でも当時のヘロデ神殿の偉大さをこの大きな石も物語っているので、思い出します。けれども次のイエス様の言葉が、「石がくずされずに、積まれたままで残ることは決してありません。(2節)」だったのです。世の栄華のはかなさを想うのです。

 そしてさらに進むと、「ウォレン門」に出会います。これは神殿に最も近い、神殿の丘への入口の門です。(上の写真ですと、真ん中にある少し黄ばんだ部分。)

 なぜウェレンの門と呼ばれるかと言いますと、イギリス人のウェレンという考古学者がここを発掘したからです。そして1970年代、ここからラビが神殿の丘に向かって掘り始めました。もしや契約の箱があるかもしれないと思ったからです。ところが、神殿の丘のほうにいるイスラム教徒が変な音に気づいて貯水庫に行ってみると、その発掘隊にばったり会ってしまったとか。それで当時、大変な騒動になり、双方に死者が出たという悲しい出来事もありました。ということで、今は完全に閉じられています。

 そしてそのすぐ右横に、「至聖所」と名づけられている場所があります。ここから東に一直線に行くと神殿の至聖所になり、今ユダヤ教徒が行ける、もっとも至聖所に近い地点になるからです。

 デービッドが神殿の丘で、「霊のドーム」に立ち神殿の位置について説明したことを思い出してください。今の「至聖所」と呼ばれているところは、ちょうど今の岩のドームに一番近い所になっていますが、もしかしたらもう少し北にあったのではないか、という説について紹介しました。そうすると、もっと先に至聖所に一番近いところがあるはずです。こちらのサイトに伝統的な神殿の位置の図と、霊のドームの上に至聖所があったとする図があります。

 さらに進むと、非常に細い通路になります。そして敷石の道になります。上の写真を見ると、床岩(黄土色の部分)がどんどん上に上がっているのにお気づきでしょうか。私たちは最初、西壁の高さの真ん中辺りを歩いていたのですが、当時の歩道は床岩に合わせて少しずつ上り坂になっていました。そのため、ここから実際の当時の歩道の上を歩くことになるのです。これをそのまま「西壁トンネル」と呼びます。では、実際の写真をこちらでご覧ください。

 そしてここら辺の通路は、ところどころでガラス張りになっているところがあります。それは、もっと深く発掘されている部分を見るためです。本当に深かったです、10メートルはあるでしょうか。ヘロデ時代だけではなく、ハスモン朝(ギリシヤ時代のユダヤ)やその前の第一神殿時代の遺跡もあります。

 さらに、こんなのもありました。分かりますか?紀元70年にローマによって破壊された時の石です。先ほどの「石が崩されずに、積まれたままで残ることは決してない」という主の御言葉を確認する石です。

 そしてさらに進むと、ヘロデ時代ではなくハスモン朝の時代のものが出てきます。貯水槽導水橋です。ヘロデ時代の前に神殿の丘に水を取り入れるために造ったものです。ヘロデは、第一神殿時代よりもさらに拡大して神殿の敷地を造りました。したがって、ヘロデ時代にはまだ歩道であったこの場所に、この貯水槽と水道を見つけるのです。ヘロデはその一部を埋めてここを続けて歩道にしたらしいです。

 この貯水槽と導水橋の間に、「ヘロデ街」というのがあります。先ほどの狭いトンネルはここに来ると一気に広くなります。当時の歩道の様子を、ここに来ると垣間見ることができます。この歩道の石をアップでご覧ください。

 そして最後は、その導水橋の水を溜める貯水池があります。これはアントニア要塞の地下まで及んでいますが、アントニア要塞の敷地を所有している、私たちが行ったエッケ・ホモの教会の人たちが遮りました。地下から自分たちの敷地に誰かが進入してくるのを防ぐためです。だから、この続きはエッケ・ホモの地下で、つまり私たちが行ったピラトの裁判席のすぐそばで見ることができます。

 ということは、ここはビア・ドロローサの真下にあるのです。実は当時ここから地上に上がるハスモン朝時代の階段を利用して、地上に上がりたいのです。さもなければ、またあの細いトンネルを戻って、再び西壁広場まで戻らなければいけません。それでネタニヤフ政権の時に、ここのトンネルを利用する許可がでました。ところがイスラム側の暴動が起こり、世界で「岩のドームの敷地の下にトンネルを掘った」という報道がまかり通り、ついに再びここを閉ざしてしまいました。私が99年に行ったときは、ここから出てこられたのです・・・楽でした。

 このどん詰まりのところで、どうやってあの大きい石を運ぶことができたのか、その可能性を推測するアニメを見ました。

 それから私たちは同じ道を歩いて戻りました。


別のメシヤを待つ人たち

 私たちは再び西壁広場に出てきました。ここはこんなに遅くても賑やかです。そして、だんだん若いユダヤ教徒の男の子たちが集まって、集合写真でも撮るかのように並んで座りました。楽しそうに歌を歌っています。ここの動画をご覧ください。

 この光景を眺めている間に、若いユダヤ教徒の女の子からカードを渡されました。ラビらしきおじいさんの顔写真です。これを持って私はドランに、カードの下に書いてあるヘブル語の意味を聞きました。ドランは、「彼がメシヤだ、と書いているよ。」と教えてくれました。

 ぎょぎょっ!彼らは、正統派の中でもこの特定のラビをメシヤと信じている人々だったのです。(そのラビの名前を記録しておくべきでしたが、忘れてしまいました。)数年前にもう死んでしまったのこと。復活していないけど、それでもメシヤだと信じるのかな・・・。

 この後でガリラヤ地方に移動している間も、そのおじいさんのポスターを、あちらこちらで見ました。ガリラヤ湖の町ティベリヤの繁華街でも、そのカードを配っている女の子がいたし。正統派だとかなり内向きという印象がありましたが、このグループは違います。まるで私たち福音派の熱心な伝道グループのようです。


 ということで、これでエルサレム見学は終わりました!今回は99年に増して、より一層エルサレムの姿を把握することができました。

 ムスリム地区の家庭の下水が流れ落ちてくるのにも耐えながら、剥離手術をするごとく少しずつ少しずつ丁寧に発掘作業を進めた考古学者やラビたちのおかげで、当時のエルサレムがこんなも鮮やかに浮き彫りにされました。彼らは歴史へのこだわりがあり、特に神殿に対しては信仰を抱いています。また園の墓の福音派の人たちも、当時の様子をなるべくそのまま残すよう努力しています。めちゃくちゃにするのは、伝統的なキリスト教徒とイスラム教徒かな?前者は「付け足し」によって後者は「取り除き」によって。なんかどこかで聞いたことがあるような・・・(黙示22:18参照)。

 そして次の日からガリラヤ旅行になりますが、楽しみにしていてください。私たちの主が活動された場は、実はエルサレムではなくガリラヤでした。このちょっと詰まったような空気が立ちこむエルサレムから、爽やかな風が吹くようなガリラヤへと向かいます。