イスラエル・ヨルダン旅行記 5月24日 - ナブルス(聖書の「シェケム」)

1.Mount Zion Hotel(シオン山ホテル)へ移動
2.シェケム(ナブルス)への旅
 a)聖書の町「シェケム」
 b)アラブ人バス乗り場
 c)ヤコブの井戸
 d)旧シェケムの遺跡
 e)アニメが好きなパレスチナ青年
3.アリエル・グループに会う


1.Mount Zion Hotel(シオン山ホテル)へ移動

 Allenby #2でチェック・アウトを済ませて、エゲッド・バスでMount Zion Hotelの近くのバス停で降りました。エルサレムはもうこれで三度目ですが、やはりまだその複雑な地形や道路に慣れません。バスの乗客に聞きながら降りましたが、それでもまだ、荷物を持ちながらあっちに行ったり、こっちに行ったりで迷いました。

 位置的には、エルサレム旧市街の南西部分、ヘブロン街(Hebron st.)にあります。エルサレム旧市街の南西にあり、現在のシオン山(聖書的シオン山は、神殿の丘やダビデの町があるところ)を向かいにして、ケデロンの谷を越えたところにあります。このホテルに行くもう一つの目安として、メナヘム・ゲギン偉業センター(Menachem Begin Heritage Center)があります。この建物の前に歩道橋があるので、そこを渡ればすぐホテルがあります。

 右の写真をご覧ください、これがホテルから見た現在のシオン山です。据え立っている塔がマリア永眠教会(Church of the Dormition)です。この風景が左側に見えて、右には東側に走るケデロンの谷を見ることができ、その上にはエルサレム東の山々があります。早朝、日の出直前にロビーからそちらを見ると、山々の上に真っ青な水平線が・・・死海でした。「あっ、そうか、エルサレムは山のてっぺんなのだから、一番低いところにある死海はふもとにあるようなものだから、こうやって見えるのだ。」と確認し、感動しました。このホテルに5月24-31日、そして6月7,10日にお世話になります。

 荷物をロビーに預けて、極力身軽にしてナブルス旅行へと出発しました。

2.シェケム(ナブルス)への旅

 昨日行ったヘブロンはエルサレムの南に位置するしますが、ナブルスはその反対の北です。同じくパレスチナ自治区内にあり、人口が13万人ぐらいの大きな町です。ここのリンク先にあるpdfファイルを開いてください。ナブルスは聖書の町シェケムであり、サマリヤ地方の中にあります。ゲルジム山とエバル山に挟まれた所に位置します。

a) 聖書の町「シェケム」

 シェケムはヘブロンと同じく、族長時代から始まる聖書的に重要な町です。

1)アブラハムがカナン人の地に来た時に、初めて神に語られて祭壇を築きました(創世12:6)。
2)ヤコブが舅ラバンのもとから故郷に戻ってくるものの、ベテルに行かずシェケムに滞在し、祭壇を築き、その地を購入しました(創世33:18-20)。そして、娘ディナが犯される事件が起こります(創世34章)。息子レビとシメオンがその住民を虐殺し、それでヤコブは主に誓いを立てたベテルへ旅に向かいます。
3)モーセが、ヨシュアらイスラエルに、約束の地に入ったらそこで律法の祝福と呪いを宣言しなさいと命じました(申命27章)。六部族が祝福のためにゲリジム山に、もう六部族が呪いのためにエバル山に立ち宣言します。ここシェケムは、イスラエル全地の中心部分に位置するからです。そしてヨシュアが約束の地に入った時にそれを実行しました(ヨシュア8:30-35)。
4)ヨシュアは、自分が死ぬ前にも長老らをシェケムに集めさせ、主のみに仕えるという契約を結ばせ、大きな石を立てます(ヨシュア24章)。
5)ヨセフがエジプトからその遺骸が運ばれて、シェケムに葬られました(ヨシュア24:32)
6)士師時代には、ギデオンの息子の一人アビメレクが他の息子らを殺し、自分が王となりました(士師9章)。

その他にもいくつかの事件や出来事がシェケムで起こりましたが、新約時代に起こった重要な出来事が、
7)サマリヤの女が井戸でイエス様と話した所です。
それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカル(注:シェケムの中にある町)というサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。(ヨハネ4:5-6)

 私はこれからアラブ人バス乗り場に行かなければいけません。前日のヘブロンには、そこに入植地があるためにエゲッド・バスが走っていますが、ナブルスの町にはないのでアラブ・パレスチナ系の交通手段に頼らないといけません。これは初めての経験なので、私にはちょっとした冒険でした。

b)アラブ人バス乗り場

 旅行ガイドをネットで調べると、ナブルスへはバスか乗合タクシーに乗ってまず、(自治区の議長府が置かれている)ラマラに行かなければいけません。そこで乗り換えてナブルスに行くということです。

 バス乗り場は、旧市街のダマスカス門のそばにあります。城壁の北側の中央にその門は位置し、バス乗り場はちょうど園の墓の真隣にあります。今でもしゃれこうべの形をした岩ゴルゴダの下に、けたたましく警笛を鳴らすバスが集まっているのを覚えています。Mount Zion Hotelからは、徒歩が一番近そうです。シオン山のふもとま歩いていって、それから旧市街沿いに北上しました。するとヤッフォ門が見えてきました。「ついでだから、旧市街の中を取って見物しながらダマスカス門に行くか。」と思って、中に入っていきました。

 旧市街の道はとてつもなく入り組んでいてすぐに迷子になってしまいますが、ヨッファ門からダマスカス門へ行くのは簡単です。古代ローマ都市の作りは、南北にカルドという大通りを作りました。そしてデクマヌスという東西の通りも作ったので、中央を基点として十字に道が走っています。ヨッファ門は西の門ですからそのまま中央に入っていき(具体的にはDavid st.を通り)そして、Suq Al-Attarinという道を左に曲がって北上すれば、ムスリム地区とキリスト教地区を分けるSuq Khan Al-Seit St.になり、そしてダマスカス門に行けます。旧市街はどんなに小道でも通り名の看板があるので助かります。

 まず昼ごしらえをするために、地球の歩き方に載っていたアル・アイェド(Al Ayed TEL:02-6282182)というお店に行きました。「ダマスカス門を出てすぐの所にあるアラブ料理レストラン」とありました。行ってみると、ファラフェルやシュワルマ(肉のサンドウィッチ)などイスラエルのお店と同じものがありましたが、値段が幾分安かったです。私はフライ・フィッシュを挟んだサンドを食べました。

 そしてバス乗り場に向かいましたが、園の墓の右隣にある所に行きました。そこがゴルゴダの丘の所だからです。何台もバスが並んでいたのでどうすればよいか分からなかったのですが、英語で質問してみるとすぐに答えが返ってきました。「ここに来た道を戻って、園の墓の向こう側に別の乗り場がある。そこは緑と白の縞模様のバスが留まっている。ナブルスへは、まずラマラ行きのバスに乗るが18番乗り場だ。」ここまで詳しく、親切に答えが返ってくるとは想像していませんでした。適当なことを言われたり、ぼったくられる危険を覚悟していたので、嬉しかったです。

 園の墓の入り口があるNablus st.をあると、入り口の向かいに、たくさんバスが停車しています。18番を探して、さっそく乗りました。アラブ・バスは時刻表ではなく、人が集まったら出発するという方式です。10分ぐらいしたら集まって出発です。そして運賃はたしか6シェケルとちょっとだったと思います。

 ここから私はどっぷり、アラブ人の人たちに囲まれて時間を過ごすことになりました。隣にはムスリムのおばあさんが座っています。そしてバス停から乗ってくる人たちは、当たり前ですがみんなアラブ人です。バスで流れている音楽は、あの独特な曲調のアラブ音楽です。そして、車から見える風景もどんどん変わっていきます。私がこれまで見てきた、ユダヤ側のエルサレムとは全然違うので、同じエルサレム近郊なのかと不思議に思いました。

 そしてバスは分離壁を通過しました。検問所では全然待たされることなくほぼ素通りです。ラマラはエルサレムから15キロしか離れていないのですぐ到着しました。さすが議長府の置かれた町だけあって栄えています。その独特の雰囲気に圧倒されました。(身辺を注意しながら歩いていたので写真を撮ることはしませんでした。左の写真はGoogleで見つけましたが、ちょうどこんな感じです。)

 バス・タクシー乗り場は一階と二階があって少し迷いましたが(二階へは階段を使うのではなく、二階へ上がる車道を使うため)、黄色の乗り合いタクシーのワゴン車が並んでいました。「ナブルス」と告げるとすぐに案内してくれてました。ここも人が集まるのを待って10分ぐらいしたら出発です。ここでは確か運賃は15シェケルぐらいだったと思います。ヘブロンに行った時より高いですが、距離も二倍ありますから当然です。

 ここら辺から、私の緊張も解け始めました。アラブ人というと一昨年行ったエジプト旅行での経験があまりにも強烈ですから、ちょっとびびっていました。けれども彼らと比べたらここの人たちは優しくて、親切です。押しが強くありません。ムスリム女性もスカーフを上にかけただけの、もっと穏健な服装ですし、やや洗練された、教育のある感じがします。

 乗合タクシーのワゴン車は二時間ぐらい走りました。ラマラの町を出ると、すぐになだらかな丘状地帯に変わります。オリーブの木々がたくさん生えていて、とても美しいです。時折、シロ(Shilo)やショムロン(Shomron サマリヤのこと)など、入植地へ向かう道を指し示す看板がありました。道路も非常によく整備されており快適でした。

 ついにナブルスに到着しました。ナブルスは先ほど説明しましたように、ゲリジム山とエバル山に挟まれた谷に細長く広がる町です。

 ナブルスのパノラマ写真(wikipedia)

 町に入ると、どんどん大通りを進んでいきます。ゲリジム山やヤコブの井戸を示す看板も見えました。そこを通過して、降車するバス乗り場は町の反対側にありました。ちゃんと告げていれば途中で降ろしてもらえたと思いましたが、でも帰るときの乗り場を知っておきたかったので、これで良かったと思います。

 タクシーに乗り換えて、まず行ったのが「ヤコブの井戸」です。

c)ヤコブの井戸(Nablus Guideから)

 先ほど話したとおりイエス様がサマリヤの女と話された井戸が、「ヤコブの井戸」と呼ばれます。当地ではアラブ語読みでベル・ヤクブ(Bir Ya'qub)と言いますが、赤い屋根を持つギリシヤ正教の教会の中にあります。上のリンク先のページやNET(Near Neast Agency)のサイトによると、シェケムには、ここにしか井戸がなく信憑性があるそうです。

 中はとても綺麗な装飾でした。そして地下の部屋があり、そこに井戸がありました。でも写真撮影禁止だそうです。このサイトを見つけたので、そこで見てください。

 そこで管理している人に話している数人の若者がいました。彼らに話しかけてみると、ちゃんと英語で答えてくれて「私たちはパレスチナ人です。」と答えてくれました。雰囲気の良い好青年という感じでしたが、ボーイ・スカウトの人たちのようです。

 私が次の目的地である、旧シェケムの遺跡に行きたいのだが道が分からないと言うと、なんとナブルスの地図をくれました。ナブルス市が発行したもののようです。教会からそう遠くはありません。非常に助かりました。

d)旧シェケムの遺跡(Bibleplaces.comから)

 とはいえ、その地図を頼りに歩いてもなかなか出てきません。横道に入って、そこら辺だろうと思ってあるいていたら民家の細道の中を歩いていました。いろいろな人たちに聞きましたが、みな「ああ、あそこら辺だよ。」と言ってくれます。それで、ようやく見えてきたのですが、入り口がどこだか分かりません。自動車修理工場が軒を連ねており、その間を通ってようやく入口を見つけました。旧シェケムの丘状遺跡はなんと、自動車修理工場群に囲まれた空き地みたいになっているところにありました!

 NETにある写真が右にあるものです。今はアラブ語でテル・バラタ(Tell Balata)と言います。(ただ現地の人は、Old Shakeemと言っていました。)古代カナン人の町です。ここでアブラハムが祭壇を築き、ヤコブが神々を捨ててベテルに経ち、ヨシュアが大きな石を立てて、イスラエル人に契約を結ばせました。

 写真には敵からの攻撃を防ぐ要塞であった巨石の壁(Cyclopean wall)がありましたが、私が言ったときはなくなっていました。そしてその他の石の積み上がり自体も少なくなっていたような気がします。

 Tower-templeというのがおそらくカナン人の異教の神々の宮であったと考えられ、そして左上にある大きな立石(Large standing stone)は、もしかしたらヨシュアが建てたものか、と言われています。これを映像で撮りましたので、ぜひご覧ください。(写真をクリックしてください)

動画1


動画2


 そしてこのシェケムの町の両側に、ゲリジム山とエバル山があります。下の写真(Bibleplaces.comから)の左がゲリジムで右がエバル山です。これで、イスラエル人たち律法の呪いと祝福をそれぞれ、エバル山とゲリジム山で宣言した様子を思い浮かべることができます。

動画3(写真はBibleplaces.comから。)


 他の写真で見るとゲリジム山の頂上に赤い屋根が見えます。それはサマリヤ人の寺院です。えっ、サマリヤ人がまだ生きているの?と思われるかもしれませんが、そうなんですごく少数ですが生きていて、彼らはかつてのサマリヤの女と同じように、ユダヤ教の異型であるサマリヤ教を今でも守っています。Nablus Guideのサイトで彼らの写真が載っています。

 ということで、ゲリジム山を登るのも一つの手ですが、そろそろ帰ったほうがいいかなと思いました(午後二時過ぎ)。タクシーに乗り、バス乗り場まで連れて行ってもらいました。タクシーの運転手さんは英会話の練習をいっぱいしました。ナブルス市の衛生局で勤めているが、それだけではお金が足りないので副業でタクシー運転をしているとのことでした。

 乗り場に着くと、今度は乗合タクシーではなくバスがありました。その分、割安でした。そして、タクシーの運転手さんに20シェケル札でお金を払おうとしたらお釣りがないと言われたのですが、そのバスの運転手に渡して両替してもらっていました。これはヨルダンに行くと顕著でしたが、アラブ人の特質なのでしょうか、商売をしている人たちが小銭を持っていません!小銭を十分にたくさん持っていましょう。

e)アニメが好きなパレスチナ青年

 そしてバスに揺られて、ラマラで再び18番バスに乗りました。今度は夕方に差し掛かっていたので交通の混雑もあり、分離壁辺りの検問所で20-30分ぐらい待ちました。それから乗っていた9割ぐらいの人が突然降りていきました。検問所を個々人が徒歩で通過しなければならないからです。検問所で私は日本旅券を見せましたが、他の人はおそらくイスラエル国籍を持ったアラブの人たちなのでしょうか、身分証明書を見せていました。

 向こう側でさっきの乗客が待っていました。彼らの方が通過が早かったようです。それで私の隣席にパレスチナ人の若者が座ったのですが、「どこから来たの?」と英語で聞かれて「日本だ」と答えると、なんと日本語で話しかけてくるではありませんか!なぜ話せるか聞くと、アニメが大好きだとのこと。私はけっこういろいろな国に旅行しますが、必ず日本語が話せる若者に出くわします。理由はいつも「アニメ」です。やはり日本のアニメって世界で一流なんだろうなと思うし、あとアニメを見て日本語がうまくなるんだなと思います。

 「パレスチナは初めてかい?」と聞かれて咄嗟に「はい」と答えてしまいました。本当はイスラエルは三度目なんですが、「パレスチナ」と言われると自治区のことしか話していないように思ったからです。今思うと、イスラエルもひっくるめてのことだったと思います。でも、たとえ自治区だけだとしても、エリコとベツレヘムには行ったことがあります。でも私にとって、このようなディープなパレスチナの旅は初めてでした。

 そして彼は日本語から英語に切り替えました。英語のほうがずっと楽なようです。でもなんで英語を話せるのか?と聞いたら、「僕は大学で看護学を勉強しているのだけれども、パレスチナの大学はみな英語で行なわれるから。アラブ文学とかはもちろんアラブ語でするけどね。」という答えでした。なるほど、パレスチナの人たちもイスラエルの人たちと同じように英語が十分浸透しているんだな、と感心しました。

 そして「なぜナブルスに行ったんだい?」と聞かれて、はっきりと「クリスチャンだから。」と答えました。ささやかな証しです。

 エルサレムに着いたら握手をして別れました。爽やかな好青年でした。

3.アリエル・グループに会う

 旧市街を同じ道を辿って帰ろうとしました。ユダヤ人地区のカルドを通って、南にあるシオン門のところを通過してからシオン山から下のふもとに下る道がどこにあるかちょっと分からなくなりました。そこに突然話しかけてきた、ユダヤ人の少年がいます。何かいやな予感がしたのですが、彼は私を麓まで行ける下り坂まで連れて行き、お金をせびりました。「アラブの子だけがするのかと思っていたよ。」となじりましたが、確かに助かったので2シェケルだけ与えました。みなさんも、いっしょに着いてきて話しかけられたら十分気をつけましょう!

 Mount Zion Hotelに到着しました。そうしたらちょうどロビーにアリエルのグループがいるではありませんか。アーノルドを探しました。挨拶をすると、「ああ、中川先生のセミナーで会ったの?」と聞かれました。私は、「いいえ、今日から私はあなたのグループの一員です。」と言って、ようやく合点がついたようです。

 夕食を取りました。08年のクラウン・プラザのご飯よりおいしかったと思います。景色といい、室内の装飾は雰囲気が出ているし、後で毛布を頼んだときもすぐに持って来てくれたしサービスも優れています。ランクとしては四つ星なのですが、五つ星のクラウンプラザよりも良質だと思います。私だったら、絶対こっちのホテルにグループを連れてくるなと思いました。

 同席したのは、今回のグループで一番若いであろうお二人の女の子(大学生ぐらい)でした。一人はアーノルドの奥さん側の親戚ということで、幼い時からアーノルドの知り合いです。アメリカのグループよりももっと前にイスラエルに到着していたとのことです。実はアーノルド自身がずっと前にイスラエルに到着したとのことで(5月10日)、本当にすぐにイスラエルに来たようです。

 そして夕食の後に、講義がありました。講義と言っても今日は自己紹介です。私は、これだけの濃密な研修旅行は教会の奉仕者だけが来ているのだろうと思っていましたが、いやいや、私ともう一人宣教担当牧師以外はみな普通の仕事をしていたり、主婦でした。

 そして今回の旅行の国籍は、アメリカではなくオーストラリアになってしまいました。オーストラリアからは20人で、アメリカからは9人だけです。しかもオーストラリアと言っても、3人の白人を除いてはみな中華系です。シンガポールやマレーシアからのオーストラリア移民でした!アーノルドが三月にオーストラリアに旅行していたのですが、実はこのグループの為に行ったそうです。

 その他、イギリス系カナダ人のおばあさん、ニュージーランドからのおばさん、そしてハンガリーからのご夫婦が来ていました。奥さんがハンガリーのホロコースト博物館で働いているそうです。

 今回は英語に悩まされました。そのシンガポールの人たちは初めは本当に英語を話しているのか、中国語を話しているのかわからないぐらい聞き分けることができませんでした。英語を完全に広東語か何かのイントネーションで話しているように聞こえます。英語は彼らにとって第二外国語なのかな?と思いきや、彼らの間でも英語で話し続けています。「ああ、そうだ!シングリッシュというんだよな、これって。」と合点が行きました。シングリッシュはシンガポールにおける独特の英語で、私の奥さんも通訳の仕事をしていたとき、本当に聞き取れなくて悩んだそうです。(Youtubeにシングリッシュの可愛い紹介がありました。そうです、まさにこんな話し方でした!

 そしてやはり、アーノルドの英語は聞き取りにくいです。ポーランド語の影響であろう発音に加えて、発声に力がありません。それはご本人も承知しておられ、外出している時だけでなく講義の時にも体に巻きつけるマイクを使っていました。

 そしてルームメートは、アメリカのケンタッキー州から来たライアンという人です。たぶん30歳ぐらいでしょうか、三人の可愛いお子さんを持つ若いお父さんです。彼とは今回、本当にたくさん語り合い、助け合いました。