イスラエル・ヨルダン旅行記 5月31日 - シェフェラ

1.西壁トンネル
2.ラトルンとアヤロンの谷
3.ソレクの谷
4.エラの谷
5.ツェファテの谷
6.ラキシュ
7.帰路(エラの谷、アドラム)

 前日の死海はこれで三度目になりましたが、今日から行くところは初めてです。場所は「シェフェラ」。新改訳聖書には「低地」なっていますが、下の脚注に「シェフェラ」と出てきます。そのまま訳している新共同訳から代表的なものをここに掲載しましょう。

向きを変えて出発し、アモリ人の山地に行き、更にその近隣地方、すなわちアラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、沿岸地方に行きなさい。更にカナン人の土地、レバノン山、大河ユーフラテスにまで行きなさい。(申命記1:7)
ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ、レバノン山のふもとに至る大海の沿岸地方に住むヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちは皆、このことを伝え聞くと、集結してヨシュアの率いるイスラエルと一致して戦おうとした。(ヨシュア9:1-2)
ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息ある者をことごとく滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられたとおりであった。(ヨシュア10:40)

 このように山地とネゲブと並んで出てくることが多いですが、ユダヤ山地(エルサレム、ベツレヘム、ヘブロンなど)とペリシテ人が入ってきた五つの町の地中海沿岸地域の間にある部分です。ユダ族の割り当て地になっています。

 そしてダビデ時代以降、オリーブやいちじくを栽培するところとなり(1歴代27:28)、ウジヤ王がこの地域を発達させ(2歴代26:10)、アハズ王の時代にはペリシテ人に取られています(2歴代28:18)。後に、ペトラ辺りにいたエドム人がナバテヤ人に追い払われるようにしてユダのユダの山地とシェフェラに移住してきましたが、その時から「イドマヤ人」と呼ばれ、ヨハネ・ヒルカノスが彼らをユダヤ教に強制改宗させます。その末裔がヘロデです。

 そして預言書に「シェフェラ」という言葉は出てきませんが、この地方の代表的な町々が連なっている箇所があります。

ガテで告げるな。激しく泣きわめくな。ベテ・レアフラでちりの中にころび回れ。シャフィルに住む者よ。裸で恥じながら過ぎて行け。ツァアナンに住む者は出て来ない。ベテ・エツェルの嘆きは、あなたがたから、立つ所を奪い取る。マロテに住む者が、どうして、しあわせを待ち望めよう。エルサレムの門に、主からわざわいが下ったのに。ラキシュに住む者よ。戦車に早馬をつなげ。それはシオンの娘にとって罪の初めであった。イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちに見つけられたからだ。それゆえ、あなたは贈り物をモレシェテ・ガテに与える。アクジブの家々は、イスラエルの王たちにとって、欺く者となる。マレシャに住む者よ。わたしはまた、侵略者をあなたのところに送る。イスラエルの栄光はアドラムまで行こう。あなたの喜びとする子らのために、あなたの頭をそれ。そのそった所を、はげ鷲のように大きくせよ。彼らが捕えられて、あなたから去って行ったから。(ミカ1:10-16)

 ここに出てくる町々のいくつかをこれから訪問します。そしてシェフェラ地方の特徴は、五つの谷が存在することです。それぞれがエルサレムに通じるので、その谷にある町々はしばしば要塞化されました。括弧に代表的な町を書きます

1)アヤロンの谷(ゲゼル、アヤロン、ベテ・ホロン)
2)ソレクの谷(ティムナ、ツォルア)
3)エラの谷(ソコ、アゼカ)
4)ツェファテの谷(マレシャ、モレシェテ・ガテ)
5)ラキシュの谷(ラキシュ)

 この一つ一つを旅します。

 この他に私たちは早朝に予約が入っている「西壁トンネル」を訪問し、また28日に見なかった「ラトルン」という独立戦争の激戦地を訪ねます。


西壁トンネル

 予約は朝7時で、非常に早いですが、もう三回目の私にとって「予約が取れただけ良かった」と納得しました。非常に狭いところで、かつあまりにもその重要性は高いからです。6時半にホテルを出ました。

 「嘆きの壁」が、ヘロデ神殿の擁壁(ようへき)として残された部分であると言われていますが、南壁の部分は発掘されていることはこの前勉強しました。それだけでなく反対側、つまり北側に西壁に沿ってトンネルを掘っていけば、そこには宝物の山のようにヘロデ神殿の遺跡が、またハスモン朝や第一神殿(ソロモンが建てたもの)の遺跡が出てきます。神殿の丘の敷地はイスラム教の管轄下にあるので手を出すことはできませんが、その周りを舐めるようにしてユダヤ人は発掘しているのです。「嘆きの壁」で感動している人は、このトンネル内を入ったらぶったまげるでしょう。

 詳細な紹介サイトがあります。上の題名にリンクしたサイトと、Biblewalks.com、そしてバーシャル・ツアーです。バーチャル・ツアーのサイトに地図が載っていますので、それを見ながらこれからの文章を読まれると良いと思います。

 ガイドは、シカゴ出身のユダヤ人の考古学者のおばあさんです。イスラエルに来てもう30年経つそうですが、南壁を案内した米系ユダヤ人の考古学者の人と同じく、ものすごく詳しく分かりやすく説明してくださったので、本当に感謝でした!

 まず、神殿の丘の模型の前で説明してくださいました。伝承では世界創造の出発地点である所でアブラハムがイサクをささげなさいと命じられ、そのモリヤ山の敷地をダビデが購入、ソロモンが神殿を建てましたが、ヘロデが再建した第二神殿は、このモリヤ山を平らにするところから始まりました。平らにした地面の上に神殿を建てます。そのために神殿の敷地を四方形にするために、その地を保持する壁が必要です。それが擁壁です。

 下はJerusalem101というサイトから借用した図ですが、基本的に彼女もこの中身を話しておられます。(音声

 分かりますか、山のところに神殿を立てるためにそのてっぺんの部分を削り取り、そして回りに箱、すなわち擁壁を設けたわけです。西壁は北上がりになっている谷のところに建てられています。そしてそこに神殿を建てて紀元70年にローマに破壊された以降は、ローマ皇帝ハドリアヌスが建てた異教の彫像を除いては何も建てられませんでした。そしてイスラムが692年に岩のドームを建てました。モリヤ山の床岩のところに建てました。その後、十字軍が来たときここを教会として使いました。ですから支配者が変わっても、神殿の丘はこのまま残っていました。十六世紀にオスマン・トルコのスレイマン大帝(一世)が嘆きの壁の所でユダヤ人が祈るのを許しました。けれども伝承というものは事実よりも真実になってしまうもので、「神殿が破壊されたとき、神の臨在が現在の嘆きの壁のところに移り、とどまったので、そこには神の守りがある。」と信じられてきました。神殿そのものから離れているのですが、それでも嘆きの壁のほうで祈るのです。

 1967年にここがイスラエルの主権下に入ってから72年からトンネルを掘り始め、トンネルそのものはセメントで固められています。そしてムスリム地区の住居の下をくぐり、最後はハスモン朝による地下水道に到達します。神殿のためにもその水が使用されていました。そして出口はビア・ドロローサです。こちらの図を開いてください。西壁広場(Western Wall Plaza)から入り、赤い部分を辿って、最後は青い部分の地下水路に入ります。

 西壁広場の左奥にはバークレー(Barclay)の門、そしてウィルソン(Wilson)のアーチがあります。また神殿に最も近いところの門がウォレン(Warren)の門です(注:上の地図ではWinson's Gateとありますが間違いでしょう)。「ロビンソン(Robinson)のアーチ」は、二日前に見た西壁の南西部分にあります。ウィルソンのアーチは幅15メートルありました。そのまま上には、今は「鎖の門」があります。

 これら「バークレー」「ウィルソン」「ロビンソン」は、発見した探険家の名前です。英国では、女王が資金を協力しているパレスチナ探検基金(Palestine Exploration Fund)があります。彼らが発見した物の一つがアーチの下の非常に大きな支柱です。床岩から地下21メートルも下にまで埋められているのです。それはユダヤ人の祭りの時、その上に数多くの人々が歩くからです。

 そしてアーチは、神殿の敷地に水をもたらす水路ともなっていました。今歩いている「秘密の通路」はウィルソンのアーチと同じ理由で、十字軍の時代、このアーチ上の通路は地下水路でした。左上の写真のとおり、今でも水がしみ出ている所があります。アーチの部分が変色しているところとそうでないところがあったのですが、それは水位がそこまで上がっていた跡です。当時、門の裏に貯水槽を作って水を取り入れていました。(音声

22 Wilson's Arch, Jerusalem, Israel
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 私たちはこの通路を西壁に向かって歩き、西壁に突き当たりました。右側に「ウィルソンのアーチ」があります。上の写真は西壁広場側から撮ったものだと思いますが、私たちはトンネル側から反対に見ています。このアーチは完全にローマ式であり、また一つ一つの石の合わせ目がばらばらになっています。これはおもちゃのブロックと同じ考えであり、崩れないようにするためです。これもローマ式建築方法であり、神殿は当時のローマ技術をふんだんに使っています。(音声

 そして私たちは模型の前に来ました。今、思うと全部、動画で撮っていればよかったのですが、下の模型は上の部分が上がったり下がったりして、当時と現在の神殿の部分を見ることができるようになっています。下の写真はもちろん当時の姿です。

 ガイドの方は、BIAS(偏見)という言葉から話を始められました。どの人も偏見を持っており、当時の神殿の再現さえも一方的な見方の結果で、ここにあるのは二・三世紀の産物であるタルムードに基づいています。そしてイスラエル博物館のエルサレムの再現は、考古学者による発掘とその報告、そして聖書の言葉に拠ります。聖書と言っても、第一神殿時代の旧約聖書の記録です。エズラ記とネヘミヤ記には第二神殿の第一段階が記録されていますが、ソロモン時代の神殿と同じように語っているので、同じところに建てられたと仮定しているのです。(私はここで、確かに再現模型に微妙な違いがあることに気づきました。バシリカがこの模型では南壁に隣接していません。)

 そしてもう一つの文献はヨセフスです。彼はユダヤ人で、ローマに負けると思った時にローマに降伏した人です。「ユダヤ戦記」「ユダヤ古代誌」「アピオーンへの反論」そして「自伝」を書き記しました。彼の書いた数字については誇張の傾向がありますが、実際の出来事については信憑性があります。考古学者は左手にヨセフスの著書を右手に聖書を持ち、そして他の者に発掘をさせています。地名など、非常に明瞭に記しています。例えばガリラヤ湖北東にある「ガムラ」です。

 そして模型の説明をしましたが、ウィルソンのアーチから入った場合の話をしました。入ると柱廊があってそれからミクバ(浸礼)を通って、ユダヤ人であれば中に入れます。異邦人はここに献金を置いて立ち去るしかありません。外庭があり、女の庭、そしてイスラエル人の庭、祭司しか入れない内庭について話しました。(神殿の敷地の地図は、この図この図が良いと思います。)それから西壁にあるものを説明しました。南からロビンソンのアーチ、そしてバークレー門(今の西壁広場の女性区域の横にあります)、ウィルソンのアーチ、ウォレンの門、そして最後に北端がアントニオ要塞です。これはマルクス・アントニウスが名づけたもので、ハスモン朝のバリスでありました。そして、戻って西壁の手前の部分、少し白くなっている四角形のところが今の嘆きの壁です。

 そして模型は上の部分が上がって、現在の状態に変わりました。西壁が北に向かうにつれて背丈が低くなっていますが、それは谷が上り斜面になっているためです。ですから、トンネルを北に向かって歩くと途中で床岩になります。つまりもモリヤ山に直接触れるわけです。そしてその北側に地下水路があり、その水路を通して神殿敷地内に水が入ってきました。(音声

 そしてあの「大石」の所に来ました。ここでガイドさんはヘロデのことについて話しました。ヘロデ家は改宗者です。マレシャにイドマヤ人の遺跡が見つかっていますが、ナバテヤ人に追い出されたエドム人が移り住んだところです。ヨハネ・ヒルカノスが強制的にユダヤ教に改宗させました。父がガリラヤ地方のローマ知事になりましたが、死んだ後にヘロデ大王が後を継ぎました。そして後にユダヤの支配者となります。彼の教育はみなローマです。彼は自分を「ユダヤ人の王」と称しましたが、ユダヤ人たちは疑っていました。完全にローマ人であったし、食物規定も守っていませんでしたから神殿で祈ったこともないでしょう。

 彼がエルサレムに入城して、ローマと比べてその卑しさに驚きました。彼は祭司長らに「私は神殿を建てる」と言いました。祭司長らは18年も断り続けました。許可を出した時も二つの条件を付けました。一つは、神殿建築で奴隷を使わないこと(つまり、全ての労働者に賃金を支払うこと)、もう一つは至聖所は祭司長とレビ人だけで建てる、というものでした。

Bibleplaces.comより)

 そしてガイドさんは、再現の図を掲げながら、当時存在していたハスモン朝の神殿からの改築作業を説明しました。まず敷地の所に塹壕を掘りました。北側だけはモリヤ山の岩なので掘削しました。東壁が最も長い壁になりました。完全な四角形ではないからです。北側に石切り場があり、舗装された道の上で石を下に運びました。神殿の擁壁の中は、出っ張った部分を切り取り、へっこんでいる部分を埋めなければなりませんが、そこに片持ち梁のアーチを入れました。なぜなら壁石の間にはセメントで接着しなかったからです。中に土を埋めたら内側圧力で壁が破裂します。そして上を平地にならし、バシリカまた神殿を再建しました。ヨセフスは、礼拝は停止しなかったし、聖なる灯も消えることはなかった、と言っています。片持ち梁のアーチの間にヘロデは門を造りました。南、西、東に造りましたが、東側は一つ「黄金門」だけです。

 ヘロデ大王は紀元前6年にはに死にました。死因が分かっていません。神殿は70年まで建っていました。ローマはバシリカ、アントニア要塞、そしてティシュア・ベ=アブに神殿を破壊しました。けれども壁はどうなったのでしょうか?途中の地点まで打ち倒しました。「破壊した」と言っても「くつがえす」まではしていません。当時のローマ人は、自分の強さを見せるためにかえって一部を残しました。エルサレム破壊の時はユダヤ反乱に怒りを燃やしていたので、今の「嘆きの壁」のところだけを残したと言われています。ユダヤ人はそこで祈ることができるために残されたと言いますが、ローマ人は違う意図を持っていたのです。

 そしてこの大石は「主段(マスター・コース)」と呼ばれ、長さが15.5メートル、重さは560トンです。(旅行仲間のロンがしっかり勉強していて、彼が答えました!)左上の写真をクリックしてください。動画が始まります。(以上の音声

Biblewalks.comから)
 次に「ウォレンの門」の近くに来ました。ここは祭司長やレビ人が入場した門です。西の丘(上町)からこの谷間で降りてきて、そしてこの門を通って至聖所に向かいます。装束に着替える更衣室があり、そこから神殿の奉仕を行いました。彼らは交替制で奉仕していました。神殿が破壊された時もこの門も他の門も壊されずにいました。135年にラビ・アキバが神殿に入ったことを話しています。ずっと開いていたと考えられます。

 十字軍が来てから閉じられたと考えられます。1099年、新たな千年紀が始まって間もないころ、メシヤ来臨待望を携えてエルサレムに来たわけですが、十字軍が去った後にすぐ、ムスリムは全ての門を閉じました。メシヤに関することで患わせられたくないと思いました。さらに彼らは門の裏に雨水を溜める貯水槽を作り、モスクに入る前の手洗いの儀式用に使いました。

 1982年に、ラビのゲッツ氏がここに来ました。この門に水が付いているのを見ました。この水がどこから来ているのかを技師と共に探り始めました。掘り始めるや、ばったりと相手側と会い、大変な騒ぎになりました。ゲッツ・ラビは謝罪しましたが、その水が門の裏にあった貯水槽から来たものであることが分かりました。それで完全にこの門をセメントで閉ざしました。

 その隣に基石があり、そこでユダヤ教の女性が祈っています。至聖所に最も近い所とされています。水がにじみ出ていますが、神が泣いておられる涙であると信じています。石灰石のため特に雨季が満ちる冬の終わり、水が染み出てくるのです。(音声

 そして次に狭い西壁トンネルを通りました。ここは西壁がどのようなものであったか、そのヘロデ式の建て方をはっきり見ることがでいます。まず、偶像礼拝を避けるために装飾をしてはいけませんでした。ハスモン朝で取り入れられましたが、「浮出面」と「枠」によっています。そして壁石は、わずかに内向きに積まれています。(ここをクリックしてください!)見た目の錯覚により、実際に垂直に建てると自分の方に押し迫ってくるように感じますが、このように少し内向きに積むと垂直に見えます。そしてなぜセメントで接着しなかったのでしょうか?イスラエルには地震が起こるからです。(音声

 そして上を向くと、後世の石とセメントが見えます。そのセメントの部分は穴でした。ここは雨水による貯水に使われており、上には家がありました。この穴から桶を下して水を汲んでいたのです。オスマン・トルコの時代のことです。そして英国は水道を供給し始めました。

 そして私たちは、モリヤ山の床岩の境目を見ました。神殿の西壁の通りも少し上り坂になっていますが、モリヤ山の方が急ですから、このように途中で接点が出てくるわけです。この後は床岩を削ることによって道路を舗装しました。

 そしてヘロデ時代の実際の石畳を見ました。自分たちが歩いている所が、実際のイエス様が歩かれていた時代のと同じです。そして当時のガードレールがあります。その横を水が流れていたのですが、それはアントニオ要塞からの流去水でした。アントニオ要塞の中庭を水浸しにしたくなかったので水を流し出していたのです。だから当時の人は西壁沿いのこの道を、片方は壁をもう片方は水路を見ながら歩いていたことになります。

 ここでガイドの方は神殿をローマが焼き払った時のことを話してくれましたが、ローマがこれらの石灰石を燃やしたとき、ものすごい爆発音が至る所に聞こえたそうです。それは、石灰石が水を含んでいたので、その水が気化し、それで文字通り石が粉状に粉砕したからだそうです。そして135年に皇帝ハドリアヌスがこの町を征服した時に、神殿の丘からの大理石の柱ということで、ここに立てて、再び通りを作りました。そしてその上にビザンチンが建て、ムスリムが建て、そしてトルコが建て、その家でモーニング・コーヒーを飲んでいたのでしょう、と説明してくださいました。(音声

 そして最後にハスモン朝の導水渠に入りました。マカバイ家のシモンがエルサレムを建てました。水がエルサレムでは死活的な問題ですから、導水路システムを作りました。そして貯水池を作りました。エルサレムの北端に水が坂を流れ下ります。その流れのところに水を溜める池を作りました。一つ目の貯水池で溜められなかったものを二つ目目の池で留めるのですが、そこが「ストルティオン(雀)の池」と呼ばれています。

 そして出口はもう少しですが、1996年にネタニヤフがここを開けた時に、そこがムスリム地区であったため乱闘が起き80人の人が死んでしまいました。(音声)アーノルドも、聖墳墓教会の梯子について話した時、「現状維持(Status Quo)」という言葉を使っていましたが、ガイドの方も何度となく、現状維持の原則が脈々と働いていることを話しておられました。

 いやあ、南壁の時の考古学者の人と同じように、とても分かりやすく、詳しい案内で、大変満足しました!


ラトルンアヤロンの谷

 私たちは一度ホテルに戻り、それから改めて今日の旅程に入りました。第一の目的地は「ラトルン」です。私たちはすでにユダヤ山地北部の旅で、「カステル」と「バブ・エル・ワド」そして「ビルマ道」にて、イスラエルの独立戦争前後の、「テル・アビブ - エルサレム」間の幹線道路の攻防戦史を辿りました。ラトルンはバブ・エル・ワドよりテルアビブ側にある場所で、その要塞を巡る戦いが有名です。こちらの地図を開いてください。

 ラトルンは元々、十字軍の城があったところであり、その後、ラトルン修道院(トラピス派)ができたところです。そして委任統治時代、英国がここを警察署にして、イスラエルが独立宣言を出す直前にアラブ側に引き渡しました。その後、イスラエルがそこを奪取すべく戦ったのが「ラトルン攻防戦」と呼ばれています。主に三度の戦いをイスラエル側は繰り広げましたが、いずれも失敗します。その戦いの一つで、ヘブル語も分からない、軍役に就いたこともない、イスラエルに到着したばかりのホロコーストの生き残り約200人が駆り出されて、直射日光の暑さの中で惨死してしまった悲劇が起こります。ここはアヤロンの谷に面していることもあり、ヨシュアが戦った時、日がとどまったような奇跡を期待したのですが、だめだったという話を「おお、エルサレム!」で読みました。

 けれどもこのラトルンの近くに、ビルマ道を切り開いたため、エルサレム住民は餓死を免れました。

 その後、トランス・ヨルダン軍がここを占拠し、独立戦争は終了しました。49年から67年までは無人地帯となりました。その間、ラトルン修道院は所有地で産出されるぶどう酒に恵まれ、今はそのワイン作りで有名です。そして六日戦争にて、アラブ連合軍はここを放棄したので無戦闘でイスラエル軍がここを奪還しました。

 私たちは今、ヤド・ラ・シリヨン(Yad La'shiryon)という機甲部隊記念・博物館の中にいます。機甲部隊(戦車を中心編成された部隊)で戦死した人々を記念するとともに、イスラエルを始めとする諸国の戦車も展示されています。(公式サイトはヘブル語ですが、ビデオが格好良いです。そして中東戦史の著者で有名な山崎雅弘氏による写真集がこちらにあります。)Wikipediaにあった右の写真が、英国警察が使っていた要衝の建物で、博物館として使われている所です。

 そしてこの建物の屋上に上がると、アヤロンの谷を一望できます。Wikipediaにある左の写真がその風景をよく眺めることができます。ここをヨシュア軍がギブオンから五人のカナン人の王を追跡して、これから尋ねるシェフェラの地域に動きます。その時に太陽はギブオンの上に、そして月がこの谷にある町アヤロンにとどまります。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。(ヨシュア10:12)」とヨシュアが言った通りです。そしてこれから私たちが向かう所に沿って、ヨシュアたちはカナン人の逃走する軍隊を追いかけます。

 「アヤロン」という町もあり、ダン族に割り当てられますが、結局、エモリ人に追い出されます(ヨシュア19:42、士師1:35)。サウルとヨナタンの対ペリシテ戦争の舞台でもありました(1サムエル14:31)。

 そして、この谷にはマカバイ家がギリシヤに対し戦いを始めた「モデイン」の町があり、そして「エマオの道」も見えます。ルカ24章にある、二人の弟子が復活のイエスに出会った所です。けれども、聖書的にはそこは「ベテ・ホロンの道」であり、ヨシュアがカナン人を追跡した道です(ヨシュア10:10‐11)。動画も撮りましたので、どうぞクリックしてご覧ください。

 そして私たちは自由時間が与えられました。イスラエルの現代戦を生々しく感じ取ることのできた、貴重な博物館でした。そして同じ所が聖書時代の戦場であることを考えると、現代のイスラエル人(Israelis)が聖書のイスラエル人(Israelites)の延長であることに気づきました。撮った写真のいくつかをご紹介します。







ヨム・キプール戦争における、エジプト・イスラエル戦の時の旗


ソレクの谷

 私たちは、1号線から離れて左折し38号線に入りました。これは、シェフェラの真ん中を通過する南北の幹線道路で、「ディアゴナル道(Diagonal Route)」と呼ばれます。契約の箱がベテ・シェメシュからからキルヤテ・エアリムに移された道であり、またヨシュアたちがカナン人の軍を追跡して、ベテ・ホロンから南下してきた道でもあります。ここを通ると、シェフェラの二つ目の谷である「ソレクの谷」に着きます。まず私たちは、サムソンが活躍したこの谷の北にある「エシュタオル」が見えるガソリンスタンドで停車、そしてアーノルドの説明を聞きました。

 「ソレクの谷は地中海沿岸にまで続きます。そして平野部分はペリシテ人に支配されていました。彼らは戦車を持っていました。戦車は平野や谷に適していましたが、丘には適していません。ダン族に信仰さえあればその部分も占領することができたのですが、なかったので丘の地域はダン族が平地はペリシテ人が取っていました(士師2:35?)。

 それがサムソンの時まで続きました。サムソンはこの「エシュタオル」の町と次に見る「ツォルア」の間で生まれ、活動していました。そして彼は、ペリシテ人と個人的な争いをしました。国を救うという動機ではなく、個人的な復讐でペリシテ人を倒したのです。けれども、ついに髪を切り取られ、弱くされ、死にました。葬られた所もこの二つの町の間です。(士師16:31)」

 このエシュタオルを出ると、一気に平地が広がります。これが「ソレクの谷」であり、ディアゴナル道と交差するところに「ベテ・シェメシュ」の町とその遺跡があります。ここから右から左へエシュタオル、そして「ツォルア」の町(今は、隣に同名のキブツがあります)、そして地中海にまで広がっている平野をはるか遠くに見ることができます。ベテ・シェメシュと言えば、かつて契約の箱を奪ったペリシテ人が、それを牛舎に載せて返してきたとき、到着したところです。詳しいことは08年のイスラエル旅行記をご覧ください。ベテ・シェメシュからエシュタオル方面に向かって撮った航空写真が、上の題名のリンク先にあります。そしてここではベテ・シェメシュから撮った、それぞれの方角の写真をご紹介します。

エシュタオル方面


ツォルアの町


ペリシテ人の地中海沿岸方面

 そしてこのペリシテ人方面に「ティムナ」の町があります。サムソンは、イスラエル人が住んでいたこの地域を離れて、ペリシテ側に行き、女を娶りました。そしてあの「謎解き」の話があり(士師記14章)、復讐の話(15章)があります。

エラの谷

 そして38号線をさらに南下して、おそらく375号線を越えた所で左折して、山の中に上がっていきました。ここから「エラの谷」を南から眺める風景を見たのだと思います。左の写真を見てください。背景に見えるのがエラの谷です。そして右側手前にあるのが「ソコ(Socoh)」であり、左側の向こう、38号線を越えたところに「アゼカ(Azekah)」があります。ここがまさに、ダビデとゴリヤテが対峙した戦場です。イスラエルの軍は谷の向こう側にいました。そしてペリシテ人が私たちが今いる南側にいます。左側にいるのが、少年ダビデ役を演じた私のルームメイト、ライアンであり、右側がハンガリーから来た兄弟です。

ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをした。
ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。(1サムエル17:1-3)


 そして下が、西側からエラの谷を撮った航空写真です。

 手前にの横に走っている道路が38号線で、38号線から中央を縦に走っているのが375号線です。私たちは、右側の山のどこかにいるものと思われます。

 そしてゴリヤテは「ガテ」出身ですが、ガテはアゼカよりずっと西の、谷が地中海沿岸平野部になる所にあります。ですからペリシテ人は、ここのユダの地域まで侵入してきて、それでサウル軍が谷の北の部分で対峙したのですが、南のほうからゴリヤテが出てきて、イスラエルの神をののしっていたわけです。少年ダビデが彼をワジにある石で彼を打ち殺したら、ペリシテ人はガテのほうに逃げていき、イスラエルは追っていきました。私たちは帰路で、そのワジを訪れます。

 そしてアゼカは、「ラキシュ書簡」に出てくる町であり、その文書はエレミヤ書34章7節の記述の歴史性を証拠づける資料です。ラキシュに行った時にもっと詳しく説明します。

ツェファテの谷

 そして私たちは、さらに38号線を南下しました。そして途中で立ち止まって、写真の丘状遺跡を見ました。これは、「モレシェテ・ガテ」と呼ばれる町です。かつてユダの王アサが、クシュ(エチオピヤ)人を打ち倒した「ツェファテの谷」(2歴代14:10)にあります。ここが預言者ミカが生まれた所です。彼が預言した中には、冒頭のシェフェラ地方の説明の時に引用したように、いろいろなシェフェラの町々が出てきます。

 そして次の目的地に行く前に集合写真を撮りました。シェフェラは低傾斜地にある穏やかな農耕地域ですが、それをよく表す収穫後の畑でアーノルドが、「並びなさい」と言いつけます。デボーションの時間に御言葉を分かち合った男たちに対して、です。そして他の仲間には、シャッターを切る準備をしなさいと言います。そしてこう言いました。

「これらの男たちは、釈義によると預言的分類の言葉で、『バアルの預言者』に完全に当てはまります。」

 仲間たちは大爆笑でした。そして笑い転げながら、シャッターを切ったのですが・・・(汗)。音声の聞きたい方はこちらをどうぞ。ユダヤ流の思いっきりブラックなユーモアです。

ベト・グブリン(マレシャ)国定公園

 そして38号線の南に35号線があります。そこに「ベト・グブリン=マレシャ国定公園」があります。この、遺跡と自然が組み合わさった公園は、シェフェラの特徴的な地質である「白亜(チョーク)」を、歴史を通じて石切り場として使ってきた所として有名です。私たちがこれまでいたユダの山地は石灰岩が特徴的でした。早朝に見た神殿の壁も石灰岩の石です。けれどもチョークは、まさに黒板に文字を書くチョークの原料であり、もっとふわっとしていて、柔らかいです。爪で傷をつけると、すぐに付きます。

 ここは、聖書の町「マレシャ」でした。ユダの町(ヨシュア15:44)として割り当てられ、後にレホブアム王が防備の町の一つとして建てました(2歴代11:8)。ユダの王にヨシャパテという人がいましたが、彼は善王でしたがイスラエルの王と手を組んだことで、その悪をとがめられています。その預言者がエリエゼルと言いますが、彼がマレシャ出でした(2歴代20:37)。

 そしてイドマヤ人が移り住んできて、紀元前586年、ここを首都とし、シドン人も後にやって来て、一つのギリシヤの町となりました。けれども、前にも説明しましたが、ハスモン朝のヨハネ・ヒルカノスがここを征服し、イドマヤ人をユダヤ教に強制的に改宗させます。紀元後40年にはパルテヤ人がこの町を破壊し、すぐ隣に「ベト・グブリン(Beth Guvrin)」の町を代わりに建てます。その後、大きなローマの町となりました。

 そして、その石切り場として使われたものとして、現在、60の「鐘洞穴(Bell Caves)」があります。小さな穴が地面にあり、その下は鐘状の大きな穴になっています(右写真参照)。これは、自然に形成されたものに加えて、7-10世紀にアラブ人キリスト教徒が掘削したものであると言われています。私たちはまず、この一連の洞穴の中に入っていきました。







 そしてアーノルドは、「ここがマケダではないが、ヨシュアが追跡した五人の王が隠れ、封をされたほら穴もこのような感じではなかったのか。」と話しました。ヨシュア10章に記されていますが「ほら穴の入口に大きな石をころがし、そのそばに人を置いて、彼らを見張りなさい。(18節)」というのは、この柔らかいチョークの穴が水の浸食でどんどん大きくなったところであった、ということです。イエス様が葬られた墓はエルサレムですから、確かにそことここの洞穴は少し違うのだな、と納得しました。

 洞穴に入ると、とても涼しくなり、私たちは非常に喜びました。そして、小さい穴から日差しが光線のように入り込んでいるので、そこに人が立つと、下のようにこれから天に引き上げられるのではないかという神秘的な雰囲気を醸し出します。


 そして紀元前200年頃に、地下の「鳩小屋」を作ったところを見ました。鳩の肉、また肥料用の糞を得るために造ったのではないかと言われています。窪みのところに鳩がいたのでしょう。


 そして、「ポーランドの洞穴」を見ました。見た目は、先の鳩小屋の洞穴なのですが、真ん中に石柱があり、文字が刻まれています。第二次世界大戦の時、ポーランド軍の兵士が書き込んだそうです。(リンク先の写真をクリックしてください。)

 それから私たちは少し場所を移して、聖書時代の「マレシャ」の丘状遺跡、また、ギリシヤ・ローマ時代のベト・グブリンの町の遺跡のある所に移りました。下の写真が、「ツェファテの谷」です。先ほど話したように、ここでアサ王が、エチオピヤ人ゼラフを打ち破りました。その時のアサの祈りがすばらしいです。「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。(2歴代誌14:11)


 下の写真は、紀元前二世紀頃のギリシヤ時代のオリーブ圧搾機です。右の写真は溝が掘られていて、オリーブ油がが流れ出るようになっています。
 

 そして同じくギリシヤ時代のマレシャの町々の遺跡を見ました。住居の下に貯水槽がありますが、各家の貯水槽が地下で連結されています。おそらく後世に、地上に上がらなくてもよいように他目的で使われたのではないかと言われます。


 これで大体を見たのですが、もう既に初めのワゴン車が停めてある所から遠くに来ています。運転手だけがまた戻って、残りの仲間はここで待つことになりました。けれども、目の前に聖書時代のマレシャのテル(丘状遺跡)があります!これを上らないわけにはいきません。冒険好きで、歩くのが好きなライアンは、さっそく上っていきます。私も後に付いて行きました。下の写真をクリックしてください。このテルから撮った動画が始まります。


ラキシュ

 そして私たちは35号線をさらに東に進みました。最後(五つ目)のシェフェラの谷であり「ラキシュの谷」と、そこにあるラキシュの丘状遺跡を見るためです。このテルは聖書的だけでなく、考古学的にも非常に豊富な遺跡が残っています。

 ラキシュは聖書以外に既に、古代エジプトの外交文書である「アマルナ書簡」にラキシュの王が出てきます。そして聖書では、ヨシュアが戦った五人の王の一人がラキシュの王でした(ヨシュア10:23,12:11)。そしてユダ族の町にあり、王レハブアムの防備の町の一つです(2歴代11:9)。ここはラキシュの谷があり、地理的に非常に戦略的位置にあったので、その防備は非常に堅いものでした。アマツヤがエルサレムの住民によってここで殺されています(2列王14:17‐19)。

 そして聖書的に二つの大きな出来事が、ここで起こりました。一つは、アッシリヤによってこの町が倒れたこと、そしてもう一つはバビロンによって倒れたことです。

 アッシリヤの王セナケリブが、ヒゼキヤ王に対してエルサレムを包囲した、紀元前701年の出来事です。「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。『私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。』そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。アッシリヤの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らはエルサレムに上って来たとき、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。(2列王記18:13-17)

 この時のヒゼキヤの行為を、イザヤなどの預言者が戒めましたが、けれども、人間的にはこれがあまりにも恐怖に満ちた出来事であったことは確かです。アッシリヤの首都ニネベの遺跡から、「セナケリブ角柱」が見つかっており、そこにセナケリブ自身がヒゼキヤを包囲したことを自慢しています。「ユダヤ人ヒゼキヤに関していえば、私は彼の46の城壁のある町々とそれらを囲む無数の小さな村落を包囲し征服した。私は戦利品として、そこからあらゆる階層の20万150人、男女、馬、らば、ろば、らくだ、牛、羊を連れてきて、数え上げた。彼自身(ヒゼキヤ)は、私が王都エルサレムに篭(かご)の中の鳥のように閉じこめた。私は彼を見張り所で取り囲み、誰も彼の町に出入りが出来ないようにした。・・・彼(ヒゼキア)は私のところに、私の王都ニネヴェに、金30タラント、銀800タラント、最良のアンチモニー巨大な赤い石の塊、象牙の装飾の寝台・・・を持ってきた。彼は貢ぎ物を払い、敬意を表するために彼の使者を送った。(dateiwao.fc2web.com/hizekiyastory.htmより引用)」

 そして、同じくニネベの宮殿の壁画に、ラキシュを攻め取っている姿が出ています。この壁画を貯蔵している英国博物館の日本語訳を紹介しましょう。「ラキシュに対するアッシリア軍の攻撃は恐ろしく強力で残忍なものでした。ニネベのセナケリブの宮殿から発掘されたこの壁画には、戦闘の様子から、捕虜や分捕り物の検閲の様子までが描かれています。アッシリアの軍は破城槌、弓矢、そして石投げ器(ガラスケースに保存されている)を使って攻撃を仕掛けています。そして手前には、みせしめのために串刺しにされている三人の人の図が描かれています。戦争が終わった後もアッシリアの残虐な行為は続きました。アッシリア人はほとんどの場合捕虜を残忍に扱いました。目をくりぬき、耳や鼻をそいで、手足を切り落としたりしました。この壁画によると、アッシリアの兵士達は捕虜の皮をはぎ、そのまま何時間か生かしておく事さえしたようです。」

(上の写真の右上部分 - 三人の人間串刺し)

 (人間皮剥ぎ)

 彼らはこの恐怖によって、諸国を服従せしめていきました。だからヨナが、ニネベに行って預言したくなかった、主が命じられているのに反対方向のタルシシュに行こうとしたのかが分かります。

 そしてラキシュは、再びバビロンによって滅ぼされますが、エレミヤ書34章7節が大事な個所です。「そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらがユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。(エレミヤ書34:7)」この記述を確認するかのごとく、「ラキシュ書簡」には、1)「バビロンに従属せよ」と説く預言者がいることを言及している。2)「ラキシュの合図の火を待っている。アゼカのは見えないからだ。」という文面が残っています。

 その他、ラキシュの遺跡については詳しいサイトがたくさんあるので、そちらをご覧ください。(Bibleplaces.com, ARCHITECTURE OF THE BIBLE, Tel Aviv Univ.

 そしてこの丘から見えるラキシュの谷が下の通りです。隣にモシャブがあるので、ぶどう畑になっているそうです。そして左のはるか遠くに見えるのがユダの山地です。


.帰路(エラの谷、アドラム)

 私たちは38号線を上がって、今度は375号線に右折してエルサレムに向かいます。375号線の先がベツレヘムです。ですから、ちょうど少年ダビデが、エラの谷に向かった反対方向を進みます。エラの谷のワジ(涸れ川)で、旅行仲間は石を取りに行きました。私はもうこれで三回目なので、畑の中で待っていました。それから、アーノルドは「ソコ」(一番右下写真)のそばまで来てこの辺りからゴリヤテが出てきたこと、そして向こう側にイスラエルの陣営があったことを説明しました。
  
 真ん中の写真が375号線で、左側の写真が向かい側の丘です。ですから、右側写真でゴリヤテが叫び、左側写真の方からダビデが言い返した、ということになります。

 アーノルドがイスラエルで留学していた時に、大学の知人がある実験をしたそうです。当時はヨルダン側の国境が間近にあったので、この辺りは誰もおらず静かだったそうです。それで向こう側にカセットテープを再生して、そしてこちら側に来て聞いてみたそうです。音は見事に通ったそうです。

 そして375号線をさらに東に行くと、「アドラム」の遺跡が見えます。ここでは主に、二つの出来事が起こりました。一つは、ユダが嫁タマルと関係をもった事件が起こった所です(創世記38章)。ユダの息子二人が死んだので、三人目の妻に自分がされないことを知ったタマルが、「アドラム人ヒラ(12節)」といっしょに羊の毛を切るために出かけようとしたユダの前で、遊女のふりをして一夜を共にしました。そこから生まれてきたのがゼラフとペレツで、ペレツから後にキリストが現れました。したがって、タマルはマタイ1章に「イエス・キリストの系図」の中に入っています。

 もう一つの出来事は、ダビデがサウルの手から逃れて隠れた所です(1サムエル22:1)。洞穴に隠れましたが、アドラムには洞穴の遺跡が見つかっています。ここに、ダビデの右腕になる「困窮している者、負債のある者、不満のある者たち(2節)」四百人が集まってきました。

 そして私たちは375号線から386号線に左折して、エルサレムに向かいました。ここできれいな景色を楽しめるとアーノルドが強調していましたが、なぜか私は写真を一枚も撮っていません!今でもどうしてだか、覚えていません。5月25日のエルサレム新市街の旅で見たハダサー病院の近くにあるエイン・カレムを通ったようです。ちなみに伝承ではバプテスマのヨハネの誕生地とされています。

講義

 講義では、初めに引用したミカ書1章10-16節までをアーノルドが読みました。もう一度読むと、今日訪れた町がたくさん出てきます。ここではヘブル語では掛け言葉がたくさん出てきます。該当するヘブル語の語根を括弧で書いていきます。

ガテで告げる(ナガド)な。激しく泣きわめくな。ベテ・レアフラ(ちりの家)でちりの中にころび回れ。シャフィル(美)に住む者よ。裸で恥じながら過ぎて行け。ツァアナン(出て行く)に住む者は出て来ない。ベテ・エツェル(嘆きの町)の嘆きは、あなたがたから、立つ所を奪い取る。マロテ(苦み)に住む者が、どうして、しあわせを待ち望めよう。エルサレムの門に、主からわざわいが下ったのに。ラキシュ(早馬)に住む者よ。戦車に早馬をつなげ。それはシオンの娘にとって罪の初めであった。イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちに見つけられたからだ。それゆえ、あなたは贈り物をモレシェテ(相続)・ガテに与える。アクジブ(座)の家々は、イスラエルの王たちにとって、欺く者となる。マレシャ(相続)に住む者よ。わたしはまた、侵略者をあなたのところに送る。イスラエルの栄光はアドラム(逃れの町)まで行こう。あなたの喜びとする子らのために、あなたの頭をそれ。そのそった所を、はげ鷲のように大きくせよ。彼らが捕えられて、あなたから去って行ったから。(ミカ1:10-16)

 ヘブル語は三つの文字からなる動詞から、数多くの変化によっていろいろな言葉が派生していると聞きます。だからこのような掛け言葉が非常に多く、ヘブル語でしか分からないニュアンスが多いようです。ヘブル語をだから習わないといけないのですが、でも、この頃は、Blue Letter Bibleなど手軽にヘブル語・ギリシヤ語の字引で調べることができます。

 明日、6月1日からついにエルサレムを出ていきます!朝にベツレヘムを訪問して、それからヨルダン渓谷沿いに走り、南からガリラヤ湖畔に入っていきます。