イスラエル旅行記 2月26日 前半 - エルサレム旧市街(キリスト受難中心)

エルサレムの概観
1.オリーブ山
2.ゲッセマネの園
3.ベテスダの池
4.ヴィア・ドロローサ
5.聖墳墓教会
7.神殿再建財団
8.主の晩餐・聖霊降臨
9.鶏鳴教会
10.カルド
11.西壁トンネル


 昨晩、エルサレムのラマダ・ホテルに入りました。ついにこれから二日半、エルサレムを探索します。ここの見どころはあまりにも盛りだくさんのため、旅行記も半分に切って、前半と後半にします。前日の会合で、「明日は、オリーブ山でバスを降りたら、夜の西壁トンネルが終わるまでバスに乗らない。」と告げました。旅を終えた今、18名のメンバーがこんなに歩けたのは今でも驚きです。主の不思議な助けと恵みがあったと思います。

エルサレムの概観

 エルサレムの具体的な名所を説明する前に、聖書の中でこの都がいかに中心的役割を果たしているのか、説明していきたいと思います。エルサレムは「神の平和」という意味です。聖書の中で最も多く出てくる町であり811回出てきます。別名は「シオン」です。この都の麗しい姿を描いているのが、詩篇122篇です。

人々が私に、『さあ、主の家に行こう。』と言ったとき、私は喜んだ。エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。そこには、さばきの座、ダビデの王座があったからだ。

エルサレムの平和のために祈れ。『おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえに宮殿のうちには、繁栄があるように。』私の兄弟、私の友人たちのために、さあ、私は言おう。『おまえにうちに平和があるように。』私の神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。」


この都のとてつもない霊的意義と聖書預言について、二つのメッセージを紹介します。

エルサレムと聖書預言」(デービッド・ホーキング 日本語訳)
黙示録14章(音声 25:45辺りから バビロンに対抗する神の都)

 そして冊子からの抜粋によって説明していきましょう。

エルサレムの聖書歴史


エルサレムの地図

 時代を追って見ていきたいと思います。

@旧約時代

(引用元:A Study Guide of Israel: Historical and Geographical, Arnold Fruchtenbaum)

 初めにダビデの町(City of David)が建てられ、次にソロモンの時に神殿と宮殿によって神殿の丘にまで拡張しました(Solomonic Expansion)。それからヒゼキヤの時に城壁が拡張し、最も大きな拡張は今日の西側城壁にまで届いたようです。

A新約時代

(引用元:聖書 新改訳 第二版 日本聖書刊行会)

B今日のエルサレム旧市街

(引用元:homepage2.nifty.com/hashim/israel/jerusalemmap.htm)

 Aの新約時代のエルサレムとBの今のエルサレムでは、城壁の位置が重なっている部分もあれば、違う部分もあるので気をつける必要があります。こちらのリンク先にある地図を参照してください、北壁、東壁、そして西壁は一致していますが、南壁は一致していません。現在のは、神殿の丘の擁壁の南壁の途中から始まり、糞門とシオン門があります。Aの新約時代の最後の晩餐の家は、シオン門の外にあります。

Cエルサレムの谷


Dエルサレムを取り囲む山

(引用元:A Study Guide of Israel: Historical and Geographical, Arnold Fruchtenbaum)

山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。(詩篇125:2)」とあるように、エルサレムは山々に取り囲まれている町です。旧市街の北西から行きますと、スコパス山(Scopus)があります。その南に、南北に走っているオリーブ山(Olives)があります。その下に、つまずき(破壊)の山(Mount of Offense 2列王23:13))それから、悪巧みの山(Abu Tor)があります。そして南に回って、現代のシオンの山(主の晩餐の家やカヤパの家があるところ)があります。そしてはるか北にナビ・サムウィル(Nabi Samwil)があります。2010年の旅でも説明したので、ご参照ください。


1.オリーブ山
ホテルからオリーブ山までの行程(Google)
オリーブ山の説明(2008年旅行
冊子の抜粋

 旧約時代
  • ダビデの逃避(2サムエル15:30)
  • 主の栄光が最後に去る(エゼキエル11:23)
イエスの時代
  • 棕櫚の聖日(マタイ21:1-11等)
  • 泣かれた(ルカ19:41-44)
  • 終わりの日の話(マタイ24:3-25等)
  • 退かれた(マタイ26:30,マルコ14:26等)
  • ここから昇天(使徒1:6-12)
イエスの再臨
  • この山に立たれて、真二つに分かれる(ゼカリヤ14:1-5)
ゲッセマネがこの山にある
  • マタイ26:30-56等

 ラマダ・ホテルはエルサレムの西にあり、オリーブ山は東エルサレムにあります。大型バスでの移動、そして街中はラッシュアワーの時間でもあり混雑しています。それでグーグルの行程のように北を大きく回ってオリーブ山に向かいました。東エルサレムに近づくと、写真のように北東、スコパス山の近くから見るエルサレムの姿を見ることができます。ここが私は気に入っているエルサレムです。左下がケデロンの谷、そして神殿の丘の向こうにはヒノムの谷があります。北側がそのまま地続きです。ですからエルサレムは自然要害になっているのですが、北からは攻撃を受けやすく、実にバビロンがエルサレムを陥落させる時も、ローマがエルサレムを滅ぼす時も、北から攻めました。アッシリヤも、この写真を撮っている辺りから、ラブ・シャケが叫んでヒゼキヤとユダの住民を脅したのです。

 恭仁子さんがバス内でオリーブ山を説明をしてくださいました。「オリーブ山はオリーブの木が生えていたのでそう呼ばれてた。ふもとはケデロンの谷である。ゲッセマネの園はここにあり、オリーブの圧搾がその名の由来だ。頂上から降りすと、今の岩のドームがばっしり見えるところがある。イエス様はそれを見て悲しまれた。ローマによって滅ぼされるからだ。そして歩いて、エルサレムの東のステパノ門を通る。」そして、オリーブ山の東について話します。「オリーブ山(そしてユダの山地)によって地中海からの湿気のある空気がさえぎられて、ここで雨を降らし、残った乾燥した風によってユダの荒野が東に広がっている。」そして、オリーブ山の裏に来ました。ここはアラブ人が住んでいる所です。恭仁子さんは、「以前はトランス・ヨルダン、その前は英国統治と、主権が変遷していったが、住んでいる人たちは変わっていない。」

 そして私が説明しました。「オリーブ山と神殿の丘の間のケデロンの谷の部分がヨシャパテの谷とも呼ばれる。そして、イエスはここをよく行き来していた。オリーブ山に弟子たちだけで集まる場所があって、ゆえにイスカリオテのユダは彼らのいるところを知っていた。それで捕えに来ることができた。東にあるのが黄金門であり、その辺りの下にヘロデ神殿の門があり、その下にソロモンの神殿の門があったと思われる。だいたい同じところにイスラム統治後、城壁を建てている。発掘はムスリムの墓があるのでできない。西壁はムスリム地区の地下を掘ってトンネルを作っている。」そうこうしているうちにオリーブ山の頂上に到着しました。

 そこから恭仁子さんの説明が続きます。「目の前に広がる墓地は、ソロモン王朝時代から続いて今も使っている。古くて新しい墓地だ。この山自体が石でできているので、石を運んできて泥で枠を作って葬っている。そして、下を見ていくと深い谷になっているが、これがケデロンの谷である。そして上に行くとこの壁は旧市街の壁である。全部で四キロ程、門が八つ、七つは自由に行き来できるが黄金門のみがイスラムが封鎖している。ここは考古学者の宝庫のはずだが、イスラムは墓地を作り、学校を作るなど、近づけないようにしている。岩のドームの左横、アル・アクサ寺院があるが、ここは地震で何度も壊れて昔の姿は思い起こすことのできない程、何度も建て直された。黄金のドームのところにヘロデの神殿が建っていて、ローマやアテネの建物よりも荘厳で、ヘロデの嫌いな人であってもこの建物はほめていた。後で降りていくと、もっと黄金のドームがぐっと見える。そこでイエス様は神殿の破壊を思って泣かれた。そしてアル・アクサ寺院の下にある階段が、神殿に入る時に上っていった階段である。その一部は昔のものがそのまま残っている。」

ふもとのケデロンの谷まで広がっているユダヤ人墓地


ケデロンの谷の向こう側、神殿の丘の東の城壁。手前にムスリム墓地。城壁の中心辺りに黄金門(閉鎖)。


 アル・アクサ寺院とその下に見える、ヘロデ神殿への入口の階段(当時のもの)


 そして、イエス様の受難の経路を説明してくださいます。「赤い屋根並んでいる建物、三角の塔の教会のある一帯がシオン山である(注:今のシオン山と呼ばれているけれども、聖書時代はシオン山はダビデの町、すなわち神殿の丘の南の細長い丘)。あの辺りで、最後の晩餐を取られて、下のケデロンの谷を通られ、この山のふもとのゲッセマネの園まで来られて、血の汗のしたたる祈りをされた。捕えられ、再びケデロンの谷を超えて、今度は、赤い屋根の右にあるドームのある教会、そこがカヤパの家があり、そこに一晩、イエスは捕えられていた。ペテロはそこでイエスを三度否定し、鶏鳴教会である。翌朝、黄金のドームの右側にアントニオ要塞がかつて建っていて、最初の日に訪問したカイサリアに常駐していたピラトがそこにいた。そこでイエスが死刑の判決を受けた。黄金のドームの先を見ると、灰色の建物が三つ並んでいるがそれが聖墳墓教会である。イエス様の時代は城外であった、ゴルゴダの丘があった場所である。ソロモン、ヒゼキヤなど各時代によって、城壁の位置が違ってくるので、それを知っておく必要がある。そのゴルゴダで亡くられて、近くに葬られ、三日目によみがえり、そして四十日、弟子たちにあちこちで現れて、四十日後に今、立っているオリーブ山で昇天された。」

受難の経路

 手前がダビデの町(聖書的シオン山)。ケデロンの谷が一番下にあり、ギホンの泉もある。新約時代はその一帯が「下町」。その奥、高くなっているところが上町(現在のシオン山)。左端の赤い細長い屋根の建物から、中央上端にある三角屋根の教会の辺りまで。その三角屋根の教会辺りが主の晩餐の場所、赤屋根の建物の右にある教会が鶏鳴教会(カヤパ邸)。


 アントニオ要塞(神殿の丘の右)と、聖墳墓教会(黄金のドームの後ろのドーム)


受難の経路を下の地図で確かめてください。

1)入城凱旋 2)宮清め 3)その後の日々の動き 4)最後の晩餐 5)イエス捕えられる 6)アンナス邸 7)カヤパ邸 8)ピラトによる第一訊問 9)ヘロデ・アンティパスの訊問、10)ピラトによる第二訊問、11)受難の道、12)ゴルゴタと墓 (注:上の地図ですと、カヤパ邸が最後の晩餐の北に位置しているのに対して、鶏鳴教会は南に位置しています。カヤパ邸の場所は確定されておらず、鶏鳴教会はその可能性の一つであるためです。)

 そして私たちはオリーブ山を下りていきます。


 そしてオリーブ山の中腹にある教会"Dominus Flevit"の敷地に入ります。


 ここに入るとまず見えるのが、墓の跡です。

 この墓についての説明を恭仁子さんがします。「オリーブ山自体が石の山で、山崩れというのはイスラエルには少ない。これらは遺骨箱である。当時の埋葬方法は、岩をくり抜いて寝床のようなものを作る。その上に遺体を載せ、一年ぐらい経ってから遺骨だけになり、そして遺骨箱に入れる。そこに刻まれている名前から初代教会のキリスト者だったという説が有力である。」

 そして教会を眺めます。

 恭仁子さんの説明によると、「普通の教会は東を向いているけれども、これは例外で、祭壇が西側に向いているとのこと。イエス様がその方向が、祭壇の後ろの窓から見えるようにするためだ、とのことです。そして屋根は涙の形で、涙壺が四隅のデザインになっています。そしてこの反対を向くと、黄金のドームの光景がぐっと間近に見えます。そこの辺りに神殿がありました。それを弟子たちがすばらしい石だと言っているところで、イエス様は涙を流され、近い将来石一つだに積み残されないで破壊されると預言されました。70年にティトスが焼き払い、町は陥落し、ユダヤ人は追われていきます。」



 そしてここから、キデロンの谷の南も奥まで見ることができます。赤い屋根の下のところにギホンの泉があったとのこと。残念ながら写真を撮っていなかったので、こちらのユーチューブ動画をご覧ください。これはダビデの町の上から下のキデロンの谷を眺め赤い屋根の部分を指しています。そしてここから、かつて神殿があった方向を見ながら、イエス様の入城凱旋について聖書の預言からお話ししました。



2.ゲッセマネの園

 そして私たちはさらに下っていきます。ほとんど麓に近づいたところに、オリーブの園のある教会"Basilica of Agony"の中に入っていきます。

 「イスラエルの中でも老齢のオリーブの木がここに大事に取ってある。オリーブの木は樹齢を重ねると幹が太くなるのではなく、周りにどんどん新しい株ができて、中が洞(うろ)になっていく。毎年、こんなに古い木でもファラフェルを揚げているような匂いがする。新しい実もつけて十月頃が収穫期だ。イスラエルに巡礼に見える人々は、この一番古い木を見る。」


 「植物学者が調べても、八百年は十分に樹齢があると保証している。ヨセフスは、ローマがエルサレムに火を放つとき、木は貴重な資源だから切ってから火を放った、としている。しかし、オリーブの木は生命力があり、根こそぎ取ってもまた生えてくる。したがって二千年樹齢というの可能性も強い。その生命力の強さが復活を示していて、キリスト教会はオリーブの木を復活の象徴としている。そして昨日(2月25日)にリナさんが説明したように、ここがゲッセマネの場所、油搾りの場所である。イエスは昼間は神殿で教えられたが、夜になると捕えられる懼れがあったため、ケデロンの谷を渡り、ふもとの洞穴の中で寝泊まりしていたが、当時はもちろん情報網が薄い。だから、モンタージュ写真も撮れないから、一番近しい人に賄賂を渡してこの人だと言わせれば確実だ、ということで、それに当たったのがユダである。」

 そして「万国民の教会」の説明をしてくださいました。ここに建築しようとしたところ、ビザンチンの教会の跡が出てきて、発掘をしてから、改めて同じ場所に建てたとのこと。そして中にある岩はイエスがもたれて祈られたところと言われている、とのこと。それから旅行仲間は入っていきましたが、一人、姉妹がすぐに出てきました。またここゲッセマネの園のところに戻ってきて、教会堂という人間の造ったものでは主の苦しみの祈りを偲ぶことはできない、とのことでした。それで私がゲッセマネの場所から少しお話しさせていただきました。イエス様が三人の弟子といっしょにいたいこと、でも少し距離を取って独りで祈られたこと、そして「杯」の意味について話しました。


ギデロンの谷を渡って、獅子門へ

 私たちはイエス様と同じように、徒歩でケデロンの谷を渡り、そして神殿の丘の坂道を上がっていきました。




3.ベテスダの池
ゲッセマネからベテスダまで(Google)
ベテスダの池の説明(2008年旅行Biblewalks.com
冊子からの抜粋

  • 38年間足なえの男が立ち上がった話(ヨハネ5:1-9)。この事件が十字架へのきっかけ。
  • 神殿の用水
    • 旧約時代
      • おそらくアハズが作った「上の池」は北の池のこと(イザヤ7:3)
      • アッシリヤ王の使者ラブ・シャケ(2列王18:17、イザヤ36:2)
    • 紀元前三世紀に南の池
    • 150B.C.-70A.D.は、医療と儀式のために用いられた。そこで奇蹟が起こる。

 獅子門をくぐると、ムスリム地区の通りになります。左は神殿の丘の出入り口(ムスリムのみ通過可能)、左がベテスダの池の入口になります。そこに行く前に、門の左側に立って恭仁子さんが「羊の門」について説明してくださいました。「羊の門というのが当時はここら辺にあったが今はない。当時はこのライオン門もなかった。ステパノ門とも呼ばれるが、ステパノが石打によって殉教したのがこの辺だということでこの呼び名もある。ここから二百メートル程先がヴィア・ドロローサである。」

 そしてヴィア・ドロローサの道を進もうとしたところ、私も忘れかけたのですが、ベテスダの池を通り過ぎてしまいました!そこで少し戻って、聖アンナ教会の敷地内に入っていきます。ここにベテスダの池があります。史跡を見ながら説明してくださいます。「小さなチャペルのようなものは十字軍のベテスダを記念したチャペルで、それからここに建っている聖アンナ教会を建てている。内部に入ると、十字軍のロマネスク様式の壁が厚い形で要塞となっていて音響効果がすばらしい。そして、十字軍の教会の遺跡のほうにアーチにアラビア語が書きこまれているのは、一時イスラム教徒が支配した時に神学校になっていた。ビザンチンの時代に初めて一番大きな教会が建った。半円形の窪みのところが祭壇で、水が少し溜まっているところ、十字軍の教会の両側が深いプールになっていて、そのプールに両足をかけるようにして祭壇があり、巨大なものであった。」言葉の説明では難しいと思いますが、こちらのリンク先の地図を見れば、どういう感じだったか分かるかと思います(赤線の部分)。そして写真集がこちらにあります。十字軍のはビザンチンの遺跡にひょっこり乗っかっている、という感じですね。



 「ビザンチンの教会は、ここにヘレナが来て、大きな二つの池があったためであり、その教会ができる前はローマの医療の神を祭ったのだが、その上にわざと建てたのがビザンチンの教会であった。そのローマ神殿が建ったのは紀元70年以降であるが、いずれにしても水が豊富な場所であった。だからユダヤ人たちは、動物のいけにえを洗ったり、身を清めるために使っていた。イエス様がここで足なえの男を治されたのは、わずかな水の設備、医療の設備しかなかった頃の話である。そこでパリサイ派が安息日のことで不満を言ったが、イエス様は羊が井戸に落ちたら助けないはずがないだろうと論破しておられる。ここではそれを言わないで、安息日に床をかついで持って歩いたことを言った。安日にしていけないものとして29の掟があるが、その中の一つが決して重い物を持ってはいけないということであった。当時、第一神殿時代の時から使われていた、縦横百メートルという非常に大きな水槽があった。紀元四世紀以降、ここがベテスダの池だと特定された。」そして私がここから、ベテスダの池で起こったことを話しました。



 この後、この遺跡を見て回りました。先ほどとは反対方向から撮っています、なので聖アンナ教会が奥にうつっています。左横で歩いている仲間を見てください、どれだけ深いかが分かるでしょう。


「4.ヴィア・ドロローサ」以降は次のページで書き記します。