「苦しみ」について

イエスの証人 2000/11/14
ともに痛む神 2000/11/17
Sobbing Abba(ともに泣かれるアバ) 2000/11/17


イエスの証人 2000/11/14

私と妻には、アメリカに親友のご夫婦がいます。旦那はアメリカ人で奥さんが日本人です。旦那は私と同じ神学校を卒業し、今は、その教会の日本語部のリーダーとなっておられます。彼らには、息子がいました。カレブ君と言います。私たちが日本に帰る直前に生まれましたが、お二人はとても幸せそうでした。

先週、彼らからビデオが送られてきました。それはカレブ君の葬式のビデオです。彼は、去年の3月から心筋症をわずらっていました。この病気は致死率が極めて高く、幼児の場合、日本においては、ほぼ100%死んでしまいます。教会の人たちの祈りと、また、医者に恵まれて、カレブ君は命を取り留めました。

けれども、今年の4月頃から体調が悪くなり、肺をも患って、心臓と肺の同時移植手術をしなければなりませんでした。けれども、肺のほうは少し回復したため、心臓移植手術だけで良くなり、心臓の提供を待つために、子供病院で入院する生活が始まりました。8−9月には心臓が提供されていましたが、どれもカレブ君の体にそぐいませんでした。そのうちに彼の体調が悪化しました。肺も悪化し、もはや心臓移植手術によっても治癒はできなくなりました。

彼の体じゅうに管があり、両親も彼に触れることができないほどになりました。その光景は、目をそむけたくなるような無残な姿でありました。しかし、両親は、ここでイエスさまを見ました。母親が言いました。「病院で、点滴やモニターにつながれているケーレブ(カレブ)の姿を見るたびに、十字架にかけれられているキリストを想像していました。キリストは神の子であり、神が私たちを愛するがゆえにこの世に送られ、私たちが罪を犯した時、いけにえをささげて赦して下さいと神にお願いしたり、罰を受けたりしなくてもいいように、ご自分が血を流すことによって、私たちの罪の代価を払ってくださいました。」

そして、彼は生命維持装置につけられました。それをはずすのは親の決断です。父親が、「カレブ、イエスさまに会いたいかい?」苦しみでもだえているカレブ君は、うなずきました。彼はかなり以前に、はっきりとイエスが主であることを告白していました。そして、親は装置をはずし、カレブ君は数時間親の腕に抱かれて、天に召されました。二人は泣き続け、そして言いました。「彼は、自由になった。解放されたのだ。He is free!」そして、神に感謝と、湧き上がる喜びをもって、祈りをささげました。

3年9ヶ月という短い生涯は、まさに力強いイエス・キリストの証しだったのです。

「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。 (2コリント4:10)」
「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。(ピリピ1:20)」

そして、彼は今、この地上よりはるかにすばらしい、天における神の御許で休んでいます。
「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼ら(キリストにある死者)といっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:17)」

私たちも、キリスト・イエスを証しするために召されています。カレブ君のようではなくても、キリストに結ばれている者は、それぞれ、自分の身にキリストの死といのちをまといます。したがって、その生涯において、人々はキリストの生涯を見ることができるのです。


ともに痛む神 2000/11/17

私は、救われるときの精神的病を除いては、これと言った重い病気をしたことはありませんが、開拓伝道に絡んで起こる、キリスト教会内からと教会外からの攻撃と試練をしばしば受けています。そこで、ある牧師が、実に興味深いことを他の手記で書き、私はそれで、神さまの見方が大きく変わりました。彼は、最愛の息子を自殺によって失った父親です。それはもう、15年ほど前の話しですが、彼が現在、私個人に書いてくれる手紙の中には、まだ、その痛みを引きずっていることを知ることができます。けれども、彼はそれを、神さまとの霊的な深い交わりの中で感じています。彼の手記の一部を紹介します。

「ある日、エリオット(注:著者の息子の名前)の墓で涙ぐんでいるとき、超自然的なものの存在を感じました。何も見えません。何ら声も聞こえません。幻も見ませんでしたし、遊体離脱を体験したのでもありません。そっと、優しく、穏やかな存在に感じました。全く恐れを感じませんでした。論理的にはどうやって知ったのか分かりませんが、墓地の中のその場に、自分の真横に立っておられるのは絶対イエスさまだとわかりました。愛に満ちた力強いイエスさまの腕が、私の肩を抱いてくれていたのです。

何分かすると、イエスさまは私といっしょに立ってくださっているだけではなく、そっと、優しく、真摯に、私といっしょに泣いてくださっているのに気づきました。無言で、イエスさまの涙の意味が何であるかを考え始めました。すると、かすかな啓示がそっと与えられました。イエスさまが泣かれていたのは、エリオットの死にイエスさまも心を痛めておられたからでした。彼の死が、私を悲しませたように、イエスさまも悲しませていたのでした。イエスさまは悲しみの人で、私たちの深い悲しみや痛みを理解し、私たちの立場に立って同情してくださいます。イエスさまは私たちが感じていることを感じておられます。イエスさまはこの宇宙の創造主ですが、その方は人となられました。ですから、イエスさまは私たちに同情して下さるだけでなく、私たちの立場に立って同情してくださるのです。この方は私たちの立場に立って同情し、私たちの内側の最も深い部分にある、苦闘や痛み、悲しみ、喜び、希望、恐れを知っておられます。」


Sobbing Abba(ともに泣かれるアバ) 2000/11/17
(息子を失った牧師のエッセイから抜粋・翻訳)

神が全能であり、博愛の方であれば、なぜ神を恐れる人々の間で、苦しみや悩みが存在するのであろうか。私は、その答えが、キリストの受肉と受難の聖書的理解にあると思っている。神は、この世界にイエスにあってお入りになった。そして、十字架において人の苦しみの中に入られた。私たちが経験することを経験するために、神は苦しみ、死ぬことを選ばれた。また、私たちと一体となり、真に共感できるために、苦難と死を選ばれた。神は、遠ざかって離れたままでおられるのではなく、悲しみに触れないままでおられることはなく、私たちの嘆き悲しみと痛みに動かされないでいることはなく、実際に私たちと苦しみを経験されたのである。これは、この宇宙には、神を含めて、苦しみから免れていないことを意味している。また、苦しみとは普遍的なものであり、苦しみのシステムとして、苦しみのサイクルとして存在していることを意味する。…

また、十字架によって、苦しみが、回避できるものではないだけでなく、喜こんで迎え入れることができるものでもないことを、私は教えられる。イエスは、ゲッセマネの園と、十字架の杭において、苦しみもだえられた。苦しみは、この宇宙にとって何らかのかたちで良いものではない。これは素晴らしさが隠れている何かでもない、これは酷いものであり、本当にひどいものである。このために、泣いて、わめいてもしかるべきことである。悪は悪であり、苦しみは愚かしい侮辱であり、避けられたらそれでよいものであり、もし神に忠実でありながら、可能なかぎり、人の痛みを和らげられたらよいものである(訳注:たとえば、医学の進歩など。)。苦しみの中で、私たちは、私たちを愛するアバの御腕の中に入り、御胸の中にしっかりと抱かれることができ、また抱かれなければいけない。そして、その御胸の鼓動を聞き、神の涙が私たちの涙と混ざっていることを知ることができるし、また知らなければならない。そして、神が私たちとともに泣き、私たちの頭にぬられる軟膏のように、その涙がしたたりおちるのである。私たちが痛み、苦しませているものによって、神も痛み、苦しんでおられるのである。


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