カインが退けられた理由


なぜカインが退けられたのか? 2000/12/05
信仰にともなう行ない 2000/12/06



なぜ、カインが退けられたのか? 2000/12/05

みなさんは、創世記4章にある、アベルとカインのささげ物について、どう思われますか?アベルのが受け入れられた理由と、カインのが拒まれた理由は、アベルがより義なる行為を行なっていたからでしょうか。

私はそうでないと思います。同じ「ささげ物をする」という行為であっても、一方が受け入れられて他方が拒まれるという歴然とした違いが生じているのは、完全に神側からの理由による、と私は考えます。人が神に近づくための方法として、神は、ほふられた羊の犠牲(=後にキリストの十字架上の犠牲によって完成される)によって、神と人との仕切りになっている罪を取り除くことを備えられました。この神の啓示を受け取ったのがアベルであり、ヘブル11章4節では、これが信仰である、と言っています。

私たち人間は、どうしても人間側から神を見てしまう傾向があります。なので、慈善行為をたくさん行なった人について、その人が救われてほしいと願ってしまいます。しかし、聖なる神と、罪ある人の間には、両刃の剣で刺し通されたような、非常に鮮烈な区切りがあります。神に近づくのに、どんな義なる行為も役に立ちません。

私たちが神に受け入れられるのは、神がどのようなお考えを持っていて、どのような意図を持っておられるのかを受け取ることによってだけです。積極的に、躍動的に神に対して受身になりつづける、依存しつづけることのみによって、神に受け入れられます。

アブラハムは、多くの失敗をしたのに、神から一度も咎められたことはありません。ヤコブは狡猾であると言われていますが、神に愛され、選ばれたものでした。サムソンは、肉の欲に引かれましたが、ヘブル書11章の信仰の英雄として名を連ねています。その反面、サウル王は、当初、それほど悪いことをしていなかったように見えるのですが、神から退けられました。ダビデも罪を犯しました。けれども、神に愛された人です。ペテロもユダも罪を犯しました。けれども、ペテロは赦され、ユダは自殺しました。この違いはすべて、「人間の行ないではなく、神の行ないを受け入れているかどうか」にかかっていると、私は思います。


信仰にともなう行ない 2000/12/06

前の「カインはなぜ退けられたか」のエッセイにおいて、神との関係は信仰によってのみであり、行ないによるのでは決してない、ということを論じさせていただきました。

すると、「聖書では、信仰は行ないとともに働くと言っているではないか!」「行ないのない信仰は死である。」という反論が返ってくると思います。答えはまったくその通りで、信じているといいながら行ないがなければ、それは知的理解や同意であるかもしれませんが、聖書が語っているところの「信仰」ではないでしょう。

神が言われていることを信じているなら、そこには必ず行ないが伴います。アブラハムは、神が言われることを本当に信じていたので、臆せずイサクをささげることを準備しました。ヤコブは神の約束を心底信じていたので、エサウから長子の権利を奪い取ることさえしました。サムソンは、ペリシテ人からイスラエル人を救うという神のみこころを全面的に受け入れていたので、自分が死ぬのも知りつつ、宮の柱を引き抜きました。ペテロも、イエスさまを信じていたので、イエスさまのところに向かって、岸辺まで泳いでいったのです。

だから、信仰には自ずと行ないが伴います。

しかし、自分が神を信じていることを証明するために、あるいは、自分が神に受け入れられることを願って、行ないに励んだらどうなるのでしょうか?ここがパウロがガラテヤ書1章で言うところの「アナテマ(のろわれよ)」です。私たちが自分の行ないによって義と認められようとする途端、神は、すべての律法の要求を、私たちに突き付けられます。

神が、ご自分のひとり子によってどれほどのことをしてくださったのか、ということを考えるとき、私たちは、この賜物をただ感謝して、受け取ることしかできないはずです。



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