チャック・スミスについて  2001/08/29

(以下の文は、小牧者出版「幸いな人」9月号の特集記事で掲載された、編集前のものです。)


チャック・スミス

− みことばを忠実に教える、愛の牧師 −


米国南カリフォルニアにある、カルバリーチャペル・コスタメサには、1965年から今日まで忠実に神のみことばを教え続けている、一人の牧師がいます。彼の名前はチャック・スミス(Chuck Smith)です。この30年以上もの間に、この教会をとおして、数え切れない人々が救われ、また全米、全世界に数多くの教会が建てられています。彼の生涯と奉仕をとおして、私たちクリスチャンも学ぶことができる、主の教えを聞いてみたいと思います。


生まれたときから選び分けられた神

1927年、カリフォルニア州ベンチュラにおいて、一人の母親が赤ん坊の娘を抱いて、教会にいた牧師のところに急いで来ました。その赤ちゃんは瀕死状態であり、祈ってほしいとお願いしたのです。牧師は、「この問題から目を離し、イエスさまに目を注ぎましょう。」と言いました。母親は、「あなたが、娘を取り戻してくださるなら、私はあなたに自分自身を明け渡します。あなたにお仕えします。」と祈りました。娘はすぐにいやされました。

この両親は二ヶ月後に、新たに男の子が与えられました。その子がチャック・スミスです。母は、「私は、この子をとおして、あなたへの約束を果たします。」と祈りました。その日から、母は、私たちを愛する神の知識で、チャックをいっぱいにしました。

チャックは、幼いときから聖書に触れ、事実アルファベットは聖書から習いました。しかし、このことをチャック自身が母親から聞いたのは、牧会を始めてから15年経ってからのことです。したがって、彼は、現在の奉仕をしているのは、実に生まれたときから神が用意して、計画してくださったものであることを知ったのです。「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった…(ガラテヤ1:15)」とパウロが言ったとおりです。


導かれたところにある、神の備え

彼は医科大学に行く準備をしていましたが、主に献身する決心をしました。主から、一時的な病を直すのではなく、永遠のいのちのために働くようにとおっしゃられたからです。そして神学校を出て、献身者としての生活が始まりました。間もなく、ケイと結婚しました。そして、ペンテコステ系の教団の牧師として17年間の牧会生活を送りました。その期間は、主からの訓練、実際的な学びの時でした。

彼が牧会する教会は人数が少なかったので、牧師給が生活費を満たしていませんでした。けれども、主が導かれるところには、主が必要を与えてくださることを、何回も、不思議な方法で体験しました。

彼は、家族を養うために、牧師の他に仕事をしていました。(これも主からの備えです。)けれども、妻の母親が亡くなったので、仕事を二週間休まなければなりませんでした。戻ってきたときには、なんと、組合から、組合費を滞納したとのことで、仕事につけないと言われました。ただし、経営者側からは、あなたが経営者のポストにつけば仕事に戻れる、けれども、そのときは牧師職を辞めなければいけないと言われました。

家には、未払いの請求書が山積みにされています。彼は悩み、夜、こっそりと台所に下りて、請求書を広げ合計してみたら、416ドルもありました。彼は悩み、考え、「教会はうまくなっていないし、牧師はやめて、明日は経営の仕事について話してこよう。」と思いました。

朝に電話が鳴りました。友人からのもので、何と、示されたから小切手を送っておいた、というのです。しかもその額は426ドルとのことで、借金をすべて返済できます。彼は喜び、主を賛美して、興奮していました。しかし、主が彼に語られました。「なぜ、彼らが小切手を送ってくると思っているのか。」「彼らは、信用できる友人です。だから私は彼らの言葉を信用できるのです。」けれども、主はチャックに語られました。「あなたは、わたしが必要をすべて満たす(ピリピ4:19)ということばを持っていたのに、ずっと動揺していた。それなのに人の言葉を聞いたら、あなたは喜び踊っているではないか。いったい、あなたはどちらの言葉を信用するのか。」

これは、チャックにとって痛い教訓でした。彼は、神が約束されたことは必ず実現されるということを学びました。子どものように、単純な信仰が必要であることを知りました。


聖徒たちを養う牧師・教師へ

彼は牧会の中で、葛藤を持っていました。それは、教会の人々が、なかなか変えられていないことでした。彼が属していた教団の中では、教会の目的は伝道することであると教えられていました。そこで彼は、毎週日曜日に、伝道メッセージをしていました。けれども、来る人たちはいつも同じで、だれも未信者を連れて来ていません。

けれども、彼は、彼らが霊的に成長しなかったのは、自分のせいであることを知りました。エペソ書4章を見ると、教会の目的は、伝道することではなく、キリストのからだを建て上げることであることが書かれています。

…ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4:12-13)

チャックは、みことばによって羊たちを養うことが、自分に対する神の召命であることを知るようになりました。


聖霊の導き

チャックの説教スタイルは、しだいに、主題/伝道説教から、聖書講解に変えられてきました。聖書のある書物を一節ずつ学び始めましたが、ついに、創世記から黙示録までを順番に学ぶようになっていきました。その間に、会衆も霊的に満たされ、変えられ、多くの人々を教会に連れて来て、救われる人、洗礼者が与えられました。

聖書全体を学ぶことを通して、彼は、聖書が、「人が神のためにしなければいけないと」よりも、「神が人のためにしてくださったこと」を強調していることを知りました。例えばエペソ書は1章から3章まで、神が私たちのためにしてくださったことが書かれており、それから4章以上に、「その召しにふさわしく歩みなさい。」となっています。今まで、伝道しなければならない、奉仕をしなければならない、そうすれば主から見返りがある、と教えていましたが、そうではなく、神がしてくださったことに人が応答することを知ったのでした。また、伝道は、信者たちが養われた結果もたらされる副産物であることを知りました。

彼は、17年間奉仕していた、その教団から出ました。そして、「カルバリーチャペル」という教会からの招聘を受け入れました。そして、教会に来る人はふえつづけ、礼拝場を何回か移転しなければなりませんでした。そしてついに、怒涛のごとく人々が押し寄せるようになりました。それは、ヒッピーという、アメリカ対抗文化の中で生きていた若者が、教会をおとずれるようになったからです。既存の保守的な大人たちは、そこで愛することと、寛容、受け入れることを学びました。そして、教会には、スーツ姿の人もいれば、Tシャツで裸足姿の人もいるという、いろいろな人たちが集う場となりました。また、そこに集っていた若者たちが、牧師として召され、新しい場所で教会を始めるようになりました。

チャックは、17年間の主からの訓練から、自分たちで人々を引き寄せようとするプログラムや手法を使うのではなく、主の御霊の働きに自分たちが導かれることを学んだのです。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(ゼカリヤ4:6)


人々に仕えるリーダー

チャックは今も、ほとんど休むことなく、日曜の朝と晩の聖書の学び、平日の聖書の学びを、この教会の中で行なっています。多くの人が彼の牧会や指導を観察して、「仕えることによるリーダーシップ」を学んでいます。例えば、教会の駐車場にごみが落ちているのを見ると、人に頼むのではなく、自分自身で拾っています。そこで周りの人々は、彼が主に仕えているのを見て、自分もどのように主に仕えなければいけないのかを学ぶのです。だれからも強制されてではなく、進んで主に対して行なう奉仕こそが、主に喜ばれると考えています。また、私たちがお仕えする唯一の動機は、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。(コリント第二5:14新共同訳)」とあるとおり、キリストの愛なのです。


「クリスチャン」としての召し

私自身も、この教会において、2年半の間、学びと奉仕をさせていただきました。当初は、「牧会者になるための、専門的な知識を学ぶのだ。」と、いき込んでいましたが、御霊に触れられ、自分は、クリスチャンとして知っていなければいけない基本的なことさえも、知らないことに気づきました。チャック牧師を見ていると、「牧師」という肩書きの前に、彼は、単純にキリストを愛し、キリストに深い、人格的な信頼をよせ、キリストの愛を人々に示し、聖霊に満たされている、「クリスチャン」でありました。このような単純な真理の中に生きることこそ、神さまから求められている第一使命であることを知りました。彼から学ぶことができたことを、神に感謝しています。


参考文献:

"Harvest" by Chuck Smith and Tal Brooke, The Word For Today

ビデオ”A Venture in Faith”



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