クリスチャン生活と聖書預言  2002/04/09


以下は、ハーザー誌5月号に掲載された記事です。


クリスチャン生活と聖書預言

クリスチャンがクリスチャンとして生るための力

 私たちが、クリスチャンとしていつも手にしている聖書があります。この聖書は、クリスチャンが最も求めるべきものとして、三つのことを挙げています。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(1コリント13:13)そして、実際に信仰、希望、愛の中に生きていたキリスト者たちがいました。テサロニケの信者たちです。パウロが次のように祈りました。「絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(1テサロニケ1:3)」彼らは、マケドニヤやアカヤ地域のすべての信者の模範となっており、彼らから、主のみことばが、至るところに響き渡っていた、とパウロは書いています。

 なぜ、彼らがそれほどまでに、実を結ばせることができたのでしょうか?それは、テサロニケ人への手紙に繰り返され、強調されている「イエス・キリストの再臨の希望」があったからです。第一の手紙の1章には、「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。(10節)」とあります。2章、3章の終わりにもそれぞれ、主が来られることが述べられており、4章には、死者の復活に関連して、輝かしい希望と永遠の慰めのメッセージが、啓示されています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(16−17節)」さらに5章には、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(9節)」とあり、クリスチャンたちが空中に引き上げられるので、終わりの時の大患難である「主の日」から救われることを述べています。これらの真理を彼らは受け入れていたので、「信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐」において、際立っていました。

 パウロがこの手紙を書いたきっかけは、彼らとともに過ごしている時間が非常に少なかったことでした。彼の第一回ヨーロッパ宣教旅行の際に、テサロニケにて三つの安息日に渡り、聖書に基づいて、彼らと論じた、とあります(使徒17:2)。その後、ユダヤ人たちから激しい反対に遭い、パウロは夜のうちにテサロニケを出て行かなければいけませんでした。彼は、新しく信じたテサロニケ人たちから、誘惑者(おそらく悪魔。1テサロニケ3:5)によって、神のみことばが、つみ取られてしまうのではないかと、気がかりでした。けれども、戻って様子を伺ったテモテから、彼らがその信仰と愛において良い知らせを聞きました。それで、パウロは深い慰めを得、この手紙を書いているのです。したがって、テサロニケ人たちは、わずかな期間しか、パウロたちによる牧会を受けていなかった、新しい信者であったと言えます。にもかかわらず、彼らはその周囲全域における、信者の模範になっていたのです。

 キリストの再臨を待ち望むことによって、このような力が与えられるのです。希望の忍耐が養われ、さらに愛と信仰が育まれます。

 テサロニケの人たちは、その新しく信じた信仰の中で、激しい迫害を受けなければいけませんでした。このことについてパウロは、テサロニケ人への第二の手紙にて、「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに絶えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。(1:4)」と言っています。激しい苦難の中にあっても、以下の、神の報復の真理によって、テサロニケの人々はさらに慰めを受けることになります。「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます。(1テサロニケ1:6−10)」

 今、受けている苦難は、必ず神の正しさが現われる機会となる。というのは、あなたがたを苦しめている者、また福音の真理に聞き従わない者は、主イエスが地上に戻って来られるとき、ことごとくさばかれるからだ、とパウロは励ましています。したがって、彼らは、これら悪意をもって危害を与える人々を恨むことなく、かえって善をもって報いることができたのです(ローマ12:19−21)。終わりの日は、不正を行なう者たちがたくさんふえ、人々の愛が冷えてしまう困難な時代であることを、主イエスがお語りになり、またパウロも語りました。(マタイ24:12;2テモテ6:12)しかし、テサロニケのクリスチャンたちは、復讐を神にお任せし、信仰と愛と忍耐を健全に保っていることができたのです。

 彼らはまた、終わりの時についての聖書預言を、使徒パウロから、その短い期間に綿密に教えられていたようです。第二の手紙において、パウロは、主の日がすでに来たかのような教えが、テサロニケ人の教会に吹いていたのを知って、そのようなことは決してないことを、聖書預言から論じています。2章にて、不法の人(反キリスト)が現われて、ダニエル書9章27節にあるように、第七十週の半ばに神の宮に座を設け、自分こそ神であると宣言するこを書いています。また、不法の人にはサタンの働きによって、しるしや不思議がともないますが(黙示録13:4参照)、最後に主の来臨によって滅ぼされてしまう(黙示19:21)ことが書かれています。これら終末預言の絵巻を、「私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。(2テサロニケ2:5)」とパウロが言っているように、テサロニケの人たちは熟知していたのです。

 したがって、「中東紛争とイスラエル」という、聖書預言の中心になっているテーマは、クリスチャンがクリスチャンとして生きていくために、決して欠かすことのできない知識なのです。


今後の展開

 私たちが、主が再臨されるまでに期待すべき今後の展開は、聖書の初めのところに書いてあります。それは、創世記12章1−3節にある、アブラハムへの神の約束です。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 ここには、三つのテーマが書かれています。一つ目は「土地」です。主はアブラハムに、「わたしが示す地へ行きなさい。」と言われました。そして、彼がその地に着いたときに、主は、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。(12:6)」と、また、彼がロトと別れた後にこう言われました。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。・・・立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。(13:14−17)」ロトを取り返すために王たちと戦った後も、「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。『わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。』(15:18)」と言われています。彼が99歳になったときも、同じように語られ(17:8)、この約束がイサク、ヤコブに引き継がれます。(26:3;28:13;35:12)したがって、主がアブラハムの子孫を約束の地に住まわせ所有させることが、今後の展開です。

 二つ目のテーマは「国」です。神はアブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民」とすると約束されました。17章5−6節には、「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」という約束があります。アブラハムが、ソドムにいる正しい者たちのために執り成しをするときに、主が彼に、「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。(18:18)」とも約束されました。この国民に対する約束もまた、イサク、ヤコブへと引き継がれていきます。(25:23;26:3;27:29;35:11)

 そして三つ目のテーマは「民族」です。主はアブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言われました。この約束も、土地と国と同じように、アブラハムに与えられています。これは、13章16節、15章5節、17章7節にあり、アブラハムがイサクをささげようとした後に、主がこう確約されました。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。(22:16−18)」そして、この約束も、イサク、ヤコブに継承されています。(26:24;28:14)

 これらアブラハムへの約束を眺めていると、「子孫」ということばが頻繁に出てくることに気づきます。アブラハムの子イサク、またイサクの子ヤコブだけではなく、またあるいは、イスラエルの血縁的子孫だけではなく、ガラテヤ書によると、この子孫はメシヤであり、主イエス・キリストであることが分かります(ガラテヤ3:16)。ですから、メシヤの働きによって、これらの約束が実現されるのです。

 
モーセを通して与えられた、神の戒めと約束

 このアブラハムへの約束がどのように実現していくのかを、モーセの預言を読むことによって知ることができます。モーセは、シナイ山と、約束の地に入る直前のヨルダン川東岸で、これからのイスラエルの歴史の全貌を、鳥瞰的に語り告げています。

 シナイ山におけるモーセの預言は、レビ記26章に描かれています。主の命令を守り行なうならば、その土地も子孫も祝福されるが、もし聞き従わないならば、のろいがもたらされる。(16−17節)「もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。(18節)」という言葉によって、段階的に与えられる神の懲らしめをモーセは語っています。そしてついに、イスラエルには、以下の神のさばきが与えられます。「わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。(31−33節)」このことが、紀元前586年のバビロン捕囚によって、またその後、紀元70年におけるローマ帝国によるエルサレム破壊によって、実現しました。

 そして、離散の地におけるユダヤ人たちの姿も預言されています。「あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。(36−39節)」これも、ユダヤ人が離散の地で受けてきた、迫害と虐殺において実現しました。

 しかし、主はご自分の御名のゆえ、またアブラハムとの契約のゆえに、彼らを回復されます。「しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。(41−42節)」(ヨルダン川東岸においては、申命記28−30章にて、同じ内容のことが語られています。)


回復の時期

 その後の預言者によっても、膨大な量の預言が、このアブラハムへの約束に基づいて、またモーセの預言にしたがってなされました。ダビデによる詩篇は、メシヤについての預言がいっぱい詰まっています。また、北イスラエルと南ユダが異邦の諸国によって滅ぼされる前後に、主は集中的に預言者を彼らに遣わされました。イザヤ書以降にある預言書がそれです。彼らは同様に、「イスラエルが異邦の諸国をとおしてさばきを受けるが、それから輝かしい回復が用意されている」ことを預言しました。

 そして現在、20世紀に入る頃から、ユダヤ人の約束の地へ帰還が大規模に行なわれ始め、1948年にイスラエル建国が、1967年にはエルサレムがイスラエルのものとなりました。イスラエルは今、神のご計画の中で最終段階にあり、終わりの時の完成を待つばかりとなっています。


異邦人の時の終わり

 一方、イスラエルに対する神のご計画に対して、反対する者の力も強くなってきます。アブラハムに与えられた約束に反対する異邦の諸国の動きです。この動きは、イスラエル民族誕生のときからみられた動きでした。民が増え、強くなるのを見て恐れて、エジプトのパロは、イスラエルの赤子をナイル川に投げ込ませることさえしました。約束の地にたどりつくまでには、アマレク人など周囲の敵にさらされ、約束の地を所有した後も、士師記を読むと、周囲の住民たちからしいたげられる歴史を通ったことがわかります。唯一の例外はソロモン王の時の平和な時期だけです。その後の列王記においても、絶えず敵の攻撃にさらされている歴史が語られています。詩篇2篇はこう預言されています。「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。』(1−3節)」異邦の国々が集結し、神とメシヤに逆らいますが、それが頂点に達するのが、イスラエルの完成直前においてです。いわゆる「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれるもので、黙示録16章16節にあるように、ハルマゲドン(メギドの丘)に地上の王たちが集まります。

 異邦の諸国の動きについて、詳しく知ることができるのが、ダニエル書です。ダニエルは、バビロンによって捕え移されたユダヤ人の一人で、バビロンの政府要人として働くようになりました。この書の中では、バビロンから始まる世界帝国の歴史が預言されており、イスラエルが回復するまでの諸国の動きを鳥瞰的に眺めることができます。

 ネブカデネザルが幻を見ました。人の像で、金の頭、銀の胸と両腕、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は鉄と粘土でした。この像の足を、人手によらずに切り出された石が打ち、この像をこなごなに砕き、それが大きな山となって地に満ちました(2:32−35)。これは、それぞれが、バビロン、ペルシヤ・メディヤ、ギリシヤ、そしてローマを預言していました。最後の「人手によらない石」は、神の御子イエス・キリストです。

 ここで注目すべきことは、金属の質が、金から銀、銀から青銅、青銅から鉄、そして粘土へとしだいに劣っていることです。これが王の持つ権力であると考えられ、金のネブカデネザル王は、その話す言葉が法律となるような、絶対権力を持っていましたが、銀のメディヤ王ダリヨスは、王でさえも変更することのできない禁令がありました(6:8−9)。そして、足の「鉄と粘土」においては、2章41−43節にあるように、鉄がどろどろの粘土に混じり合っています。一部は強く、一部はもろく、人間の種によって互いに混じり合っているけれども、互いに団結することはありません。これは、権力が分散している、究極の姿です。つまり、権力を持っている諸国が、互いに牽制しながらも、連合や同盟などによって結び付けられている状態と言えます。これは、現代では「民主主義」とか「自由経済」とか「グローバリズム」とか、いろいろな呼び方がされています。

 諸国の王たちの特徴は、「高ぶり」です。バビロンのネブカデネザル王は、全身金の像を造りました(3:1)。彼が見た夢では「頭」だけが金でしたが、彼は、自分の栄光が永遠に続くと願ったのです。そして彼は、4章において獣のようにされ、へりくだりますが、その後のベルシャツアル王はこの警告を無視して、滅ぼされました(5章)。そしてメディヤ王ダリヨスも、自分の像以外のものを拝む者を獅子の穴に投げ込ませるという禁令に署名をして、自分の高ぶりを許していたのです(6章)。この究極の姿として現われるのが、「荒らす忌むべき者」あるいは「反キリスト」です。7章には四匹の獣が登場しますが、四匹目の獣の角から生え出た「小さな角」が大きくなり、「大きなことを語る(大言壮語する)」口が与えられます(8節)。彼は、8章における、アンティオコス・エピファネスという、ギリシヤのセレウコス朝の王が行なったことを基として、終わりの時代に世界で暴れまくります。この荒らす忌むべき者が、人の像の「鉄と粘土」の時代に現われますが、権力が分散している状態の中で、一気に世界を独裁政権の中に置き、世界政府による全体主義を行ないます。

「第四の獣は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。(ダニエル7:23)」

 同時多発テロ以後、アメリカが焦燥的に反テロ活動を行なっていますが、悲しいことに、アメリカが動けば動くほど、世界経済、世界政府、そして世界宗教の姿が浮き彫りにされています。世界は確実に、この反キリスト体制が登場する舞台へと近づいているのです。そして、この傾向は、歴史をさかのぼると近代から始まりました。欧米列強の植民地獲得競争がそれです。日本もその動きの中に身を投じ、ついに、太平洋戦争へと至りました。イエスさまが、「国は国に敵対」する(マタイ24:7)と言われたとおりのことが起こったのです。したがって、この世界大戦の前・中・後に、ユダヤ人のパレスチナ帰還が大規模に行なわれ、イスラエルが建国されたというのは、決して偶然ではありません。イスラエルの完成の前に、異邦の諸国がますます高ぶり、互いに敵対して立ち上がり、反キリストを中心にして、イスラエルに攻め入る用意をしています(ゼカリヤ12:3)。


真理を土台として生きる

 このように、今私たちは、イスラエルへの神のご計画が完成し、それに異邦人の諸国が対抗する時代の中に生きています。神のみことばが目に見えるかたちで、次々と現われ出ています。これまで神学や、象徴的表現であると片付けられた聖書個所が浮き彫りとなり、文字通り実現しているのです。ゆえに、私たちの信仰も、本当に、キリストと神のみことばに堅く立っているのかどうかが、試される時期となっています。「他宗教にも寛容にならなければ、神の愛が伝わらない」などと考えていれば、たちまち、世界宗教の激しい流れの中に飲み込まれてしまいます。真理を土台として、また柱として堅く立つ時なのです。

「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(1テモテ3:15−16)」


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