2001年8月29日 イスラエル制裁の背景/南アフリカ人種差別反対会議
2001年8月11日 エルサレム中心街で爆弾テロ


イスラエル・ニュース
2001年8月29日


1.イスラエルの制裁活動の背景

 最近、イスラエル関連のニュースが、日本の新聞でも一面扱いされるようなことが、多いのではないでしょうか。それは、イスラエル側の動きが、活発化していることを示しています。しかし、その背景には、パレスティナ側のテロ活動の激化ということがあるのです。

 私たちは、連日のように、パレスティナのテロ活動によって死傷したというニュースを耳にします。そして、それらのテロ活動は、私たちのすぐ近くの周りでも起こっています。エルサレムにあるイタリアン・レストラン、“スバロ”での爆弾テロ事件の後にも、その近辺で爆弾テロがありました。私の友人は、いつものように近くにある図書館で勉強をしていましたが、突然、大きな爆音を耳にしました。それは、車に仕掛けられていた爆弾が、爆発したものですが、しかし、そこには、さらに仕掛けがありました。初めに爆発した爆弾は、小さなもので、その車にはさらに10キロの大きな爆弾が、仕掛けられており、初めの爆音を聞いて集まった人々を狙ったものです。しかし、大きな爆弾は、無事に処理されることができ、奇跡的に負傷者がなくすみました。車を使った爆弾テロが、最近、多く起こっています。それらの爆弾テロを指揮していたのは、先日、イスラエルの攻撃により、爆死したパレスティナ解放人民戦線(PFLP)のリーダー、アブアリ・ムスタファ議長でした。

 彼は、1969年よりパレスティナ解放人民戦線(PFLP)のリーダー、ジョージ・ハバシュの右腕として活躍しました。このグループは、1968年から1972年にかけての一連の航空機乗っ取り事件を起こし、さらに、同じ時期にイスラエルの国内外において、ユダヤ人、あるいは、イスラエル関連の建物を狙ったテロ活動を活発に行いました。また、このグループは、パレスティナ問題の平和的解決に反対し、武力を持って抗争することを唱え、話し合いによる平和解決を求めるオスロ平和条約以降の動きに対して、あくまでも反対しました。1999年9月、いかなるテロ活動にも関与しないことを誓約し、バラク、前イスラエル首相の承認により、イスラエル西岸地区に戻ることを許されましが、しかし、彼はテロリストとしての活動を放棄することなく、今回の暴動が起こった後は、さらに、活発な働きをしていました。

 不正な暴力をもって事を達成しようとするような人物が、果たして政治家と言えるでしょうか。そのような人物のことをテロリストというのではないでしょうか。


 私たちの家では、毎週、土曜日の夜に、聖書の学び会をしています。前回8月25日、モディインというエルサレムの北の郊外にある町に住む、韓国人の友人も参加しました。その帰途、午後10時40分、国道433号線で、彼の前の車がパレスティナ人によって銃撃されるのを目の当たりにしました。その銃撃により、三人が死亡しました。ヤニブ、シャロン夫妻と妻シャロンさんの兄弟ドロンさんの三人です。夫妻の二人の子供、それぞれ18ヵ月と8ヵ月の子供たちは、母親のシャロンさんが、覆い被さるようにして、二人を守ったため、軽傷ですみました。でも、この二人の子供たちは、両親を失い、孤児となってしまいました。
 
 銃撃や爆弾テロは、あちらこちらで起こっています。そして、幸い、その多くが、死者を出さずにすんでいますが、こちらの市民生活と命は、パレスティナ人によるテロ活動によって脅かされています。

 パレスティナとイスラエル双方は、どのような動機に基づいて行動しているのでしょうか。イスラエル側は、銃撃の拠点として用いられている建物や、テロリストたちによって利用されている建物などを取り壊したり、あるいは、テロリストのリーダーたちを目標に攻撃しています。それは、いかにすれば、最も効果的にテロリストたちの動きを制することができるか、また、いかにすれば、市民を守ることができるかということが、討議された結果としてなされているものです。

 それに反して、パレスティナ側は、人の多く集まるところに爆弾を仕掛け、道行く車に銃撃し、ユダヤ人の町や村に銃撃を仕掛けてきます。それは、無差別にひとりでも多くの人を殺すことが目的です。しかし、世界的にこのようなテロ活動を防ぎ、市民を守ろうとする行為が非難を受け、逆に、無差別に人を殺すことを目的としている行為が、黙認されているのです。

 イスラエルの戦車が、ベイト・ジャラに侵入しました。その行為がまた、非難の的となることでしょう。でも、そのベイト・ジャラというアラブ人クリスチャンが多く住む村は、アラファト直轄のテロリストたちによって占拠されています。そして、イスラエルの首都、エルサレムの南端に位置するギロという町に向かって、銃撃が、繰り返されているのです。そのギロの町に住む住民を守るために、止むを得ないこととして取られた手段です。これは殺戮を目的としたものではなく、あくまでも防衛を目的としているのです。


2.人種差別反対会議について 
 今週の金曜日、8月31日から南アフリカのダーバンで、国連の主催する人種差別反対会議が、開催される予定です。そこでは、アメリカとイスラエルの不参加が取りざたされています。それは、その会議が、イスラエルのシオニズム運動を民族差別主義であると定義し、非難することをひとつの目的としているからです。

 ユダヤ民族は、ローマに対する反乱のゆえに、132年、多くのユダヤ人は殺され、また世界に散らされて行きました。母国を失って流浪の民となり、多くの迫害を受け、苦しめられ続けました。そして、彼らは、その離散の地において、彼らの故郷であるイスラエル、また、魂の故郷であるエルサレムを慕い、神に祈りを捧げ続けたのです。19世紀後半に、ロシアでのポグロム(ユダヤ人虐殺)により、イスラエルへの移民の波が起こります。彼らは当時、イスラエルの地を支配していたトルコ政府と交渉し、多額のお金を支払い、不毛の地、あるいは、沼地を買って、労苦を重ね、また、マラリヤと戦いながら、再び、命のあふれる地と変えていきました。彼らは、決して暴力によって土地を占拠したのではなく、交渉により、その地を得ていったのです。

 1917年以降、イスラエルは、イギリスの管理統治下に置かれました。イギリスは、同年にバルフォア宣言を発布し、イスラエルをユダヤ人の郷土として認めることを旨とし、それを支持するとしました。しかし、その約束は守られず、イギリスは、アラブ支持の政策を取り、1939年、ユダヤ人の移民制限の「白書」を出しました。そのとき、多くのユダヤ人たちは、ナチス・ドイツの手によって虐殺されていたのです。その虐殺を逃れて、イスラエルに来た人たちの船を受け入れることをイギリスの管理統治政府は拒み、その人たちをナチスの手に送り返しました。そして、その人たちは、ナチスの手によって殺されていったのです。

 1947年、国連総会でユダヤ人国家設立のための分割案が採択され、その分割案をイスラエルは受け入れ、独立宣言をなし、国際的に一国家として認められたのです。しかし、パレスティナ側は、その国連案を拒み、アラブ八カ国連合によるイスラエル侵攻がなされました。その戦いにイスラエルは、奇跡的な勝利を収め、その後も、アラブ側の宣戦布告、あるいは、挑発によって戦いが繰り返され、その結果として、今のようにイスラエルの地が、ユダヤ人の手に落ちました。

 そして、その領土問題について、イスラエルは、パレスティナとの話し合いによる解決を求めています。

 バラク政権下、キャンプ・デーヴィッドで、クリントン、バラク、アラファトによる三者会談が持たれ、そこにおいて、最終的な合意に達することが期待されました。バラクは、オスロ合意を上回る譲歩を示しましたが、アラファトは、一歩も譲らず、その会談は、破局に終わりました。それを期に、アラファトは、話し合いによる解決を放棄し、暴力に訴えて、彼らの主張を勝ち取ろうとしました。そのことにより、バラク政権は倒れ、シャロン政権が起こることになりました。シャロン政権下においても、話し合いによる、平和的解決という原則は変わっていません。しかし、領土を割譲し、軍隊を引き上げていくという話し合いは、そのような混乱状態では、進めることは不可能です。

 イスラエルは、暴力によらず、話し合いにより、また、合法的に国家を設立し、運営してきました。しかし、パレスティナ側は、常に話し合いによる平和的解決を拒み、戦いを仕掛けてきました。それは、彼らはユダヤ民族を差別し、彼らの存在を認めたくない、というところから出ています。そして、彼らは、武力に訴えて民族闘争を繰り返し、ユダヤ人撲滅を目指しているのです。
 はたして、どちらが民族差別主義なのでしょうか。ナチス・ドイツは、ドイツ民族の世界支配を目指し、ユダヤ人撲滅を計りました。パレスティナ、また、アラブ民族の目標は、イスラム教による世界支配であり、また、彼らの聖典コーランに従って、ユダヤ人撲滅にあるのです。

 民族差別主義のゆえに非難されなければならないのは、実は、イスラエルではなく、パレスティナ側なのです。
 
 また、もしこの会議で、シオニズム運動(ユダヤ人が故国イスラエルに帰ることを求める運動)が、民族差別主義であると決議されたとするなら、その決議を基にして、ユダヤ人移民の制限という事が、国連で取り上げられかねません。そうなれば、イギリスが犯した過ちを再び国連が、行うことになりかねません。今、反ユダヤ主義が、世界的に強まっているこの時期に、イスラエルへの移民に制限を加えることは、迫害を逃れてくるユダヤ人たちの行く場を塞ぎ、多くの人の命が奪われるという事にもなりかねないのです。

三宅弘之

(情報源:ハ・アーレツ、エルサレム・ポスト、マアリーブ、イディオート・アハロノート、ICEJ、アールツ7)


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イスラエル・ニュース
2001年8月11日


 すでに、日本でも伝えられているかと思いますが、先日、八月九日、このエルサレムの中心部で自爆テロによる爆弾テロがあり、女性、幼児、旅行者を含む多くの死傷者を出しました。今のところ死者は、15人と数えられています。そのうち、最近オランダからイスラエルに移民して来た家族で、一家7人のうち5人がこの爆弾テロによって殺され、2人の子供が両親を失い、あとに残されました。両親と共に殺された子供は、それぞれ1歳半、4歳、14歳の子供たちでした。また、ニュージャージィーとブラジルからの旅行者も、それぞれこの爆弾テロの犠牲者として命を落としました。

 その爆弾テロのあったレストランは、エルサレムの二つの主要道路が交差する一角にあり、いつも多くの人々が行き来しているところです。私たちの家からは、歩いて10分ほどで行ける距離にあり、私たちもよくそこを通ります。私のひとりの日本人の友人は、その爆弾テロのあったレストランのすぐ後ろの通りにある店で買い物をしていて、ボン、という低く、鈍い大きな爆発音を耳にし、現場近くまで行きましたが、その一帯が封鎖されていたため、現場に近づくことができませんでした。また、別の日本人の友人もその現場の近くにある図書館にいて、その爆発音を耳にしていました。彼は毎日のようにその辺りを歩いていますが、幸いその時刻はその現場の近くにおらず、災禍に巻き込まれずにすみました。

 同日さらに、その爆弾テロだけではなく、ひとりの兵士が撃ち殺され、また、ギルボア山にあるキブツの辺りで、5人の少女が乗った車に銃を持った数人のパレスティナ人が近づき、至近距離から発砲し、17歳のアリザ・マルカさんを殺害し、また、もうひとりの16歳の少女は胸と腿を打たれ重傷です。
 
 日本あるいは世界では、このようなひとり、二人が殺害されるという事件は報道されず、多くの被害者を出した時にのみ報道されます。しかし、それと相反して、イスラエルが報復活動に出ると、それらの記事は大きく取り扱われ、大きな非難の的となります。今までにも多くの爆弾テロがありましたが、幸い死傷者がなかったり、あるいは爆破する前に発見され、大事にいたらなかったケースがたくさんあります。

 今年の7月1日から、41日間で、すでにパレスティナ人によるイスラエルに対する1,200件を越すテロ攻撃があり、7人のイスラエル兵と54人の一般市民が殺戮されました。これだけのテロ攻撃(無差別殺人)を受けながら、黙って何の処置もとらない国があるでしょうか。”テロ撲滅”、それは世界の一つのスローガンではなかったでしょうか。テロ行為を道具として用い、それを聖戦と呼んでいる者たちが決して正当化されてはならないのです。

三宅弘之

(情報源:エルサレム・ポスト、マアリーブ、イディヨート・アハロノート、BBC,CNN,インターナショナル・クリスチャン・エンバシー・エルサレム、コール・イスラエル・ラジオ放送、イスラエルテレビ放送)


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