2002年12月19日 アラブ人とユダヤ人の子供失踪
2002年12月1日 ケニアでの同時多発テロ/投票所テロ


イスラエルからのニュース
12月上旬


1.
アラブとイスラエルの女の子が、同じ日に失踪

 アラブ人の少女ヌル・アブ・ティルちゃん5歳とイスラエル人のホダヤちゃん22ヶ月が、127日の土曜日に突如姿を消しました。警察を始め、たくさんのボランティアも参加しての大捜索が続きました。しかし、そのような努力にもかかわらず、どちらも悲しい結末で終わりました。

 
ホダヤちゃんの両親は離婚しており、隔週の週末に彼女はお父さんのところで時を過ごしました。彼女の父の証言によると、一緒にテレビを見ていて、トイレに行ったほんの一瞬のうちに彼女は消えてしまったということでした。
 しかし、父が残してあったひとつのメモに、「…すぐに一緒になる」という怪しげな言葉が残っており、また、22ヶ月の女の子がとても開けることのできないような鉄の門があり、彼女が一人で外に出て行ったということは考えられないなど、いくつかの不審な点があり、当初から彼女の父が容疑者として浮かび上がっていました。ある記者の質問に対して、彼女の母は答えました。「エリ(父の名)がホダヤを傷つけるなんて考えられない。なぜなら、彼は彼女を愛していたし、それ以上に彼女は彼を愛していたのだから。」また、父は叫んで言いました。「私の娘が欲しい。彼女を見つけるために、世界中を探す。」
 彼女の失踪から3日目に、彼女の遺体が森の中に埋められているのが発見されました。そして、なんと彼女を殺し埋めたのは、彼女の父だったのです。

 ヌル・アブ・ティルちゃん5歳も、同じ土曜日に失踪しましたが、彼女は兄と共に近くの食料品店に買い物に行っていました。それは、午後7時で辺りも暗くなっていました。帰宅したときに、彼女の姿が見えなくなっており、家族のものであたりを探しましたが見つからず、警察に訴えて本格的な捜索が始まりました。しかし、彼女は、数日後に遺体で発見されました。そして、それは他の家族グループからの報復行為であろうと見られています。ヌル・アブ・ティルちゃんの父は、かつてある家族の男の子に性的ないたずらをし、ひとまずは、その家族との間に和解が成立したものの、その怨恨がそのような悲惨な犯罪へとつながったのではないかと見られています。

2.アラファト議長傘下の武装グループ、ファタハとイスラム過激派グループ、ハマス[1]との対立の激化

 今年の10月に、ガザの治安部隊の警視長、ラジェ・アブ・リエ氏が、報復[2]としてハマス・メンバーによって拉致され、殺害されたことを契機に、パレスティナ自治政府とハマスとの間に対立が激化していました。毎日のように小競り合いが続き、最近でも、ファタハによって、ガザ地区の一人のハマスリーダーであるイスラミ・アブ・シャナブ氏宅が銃撃されるという事件があり、パレスティナ内部で内戦ともなりかねない状況に陥っています。

 そうした中、パレスティナ自治政府の情報庁長官のハッサン・アル・カシェフ氏は言います。「同じように危機を感じる兄弟たちとともに、幾度、我々は声を上げなければならないのか。内戦での100人目の犠牲者が、新聞で小さな記事として取り扱われるようになるのだろうか?もしも、我々が、全力を持って殺人者どもに立ち向かわないなら、次は、我々が、互いのために放たれた凶器の銃弾の犠牲者となることは必然的である。」

3.共存は可能か?

 イスラエルの200の町や村から、「ハ・ポエル テルアビブ 少年サッカー連盟」に属する7,000人の子供たちが集まってサッカー競技がなされました。そこには、ユダヤ人の子供もアラブ人イスラエルの子供たちも、赤と白の同じユニフォームを着て一緒に競い合いました。「我々は、民族主義、不寛容、暴力への反対行進を行うために、今日ここに7,000人の子供たちを集めた。」「今晩、この競技場から聞こえてくる声は、共存の声である。」と同サッカー連盟の委員長、モティ・オレンステイン氏は語ります。

 7,000人の子供たちが競技場を一周した後、20,000人の観衆が見守る中、ハ・ポエル テルアビブとハ・ポエル ペタハ・ティクバの両チームは試合を開始しました。そして、このドラマは、ポエル テルアビブ チームで唯一のアラブ人イスラエルであるサリム・トワマ君の初ゴールによって飾られました。

 「サッカーは最善のものだ。なぜなら、ユダヤ人とアラブ人の共存を可能にするからだ。」「スポーツは暴力に反対するものだ。もしも、ユダヤ人とアラブ人を同じチームに入れるなら、共存精神を養える。なぜなら、彼らには争う理由がないからだ。」 と25歳のアラブ人イスラエルの審判、スルタン・ナバリさんは言います。

 また、初ゴールを決めたアラブ人イスラエルのトワン君は、「このようなことがサーカー以外のところでも起こることを願う。そうすれば、ここは静かになるだろう。」と彼の希望を語っていました。

三宅弘之 

LCJE日本支部海外協力レポーター

(ハ・アーレツ、エルサレム・ポスト、イスラエル・ツデイ、ICEJ、イスラエル・インサイダー、BBC、イスラエル テレビ・ラジオ ニュース)


[1] 特にガザ地区において勢力を持つイスラム過激派グループのひとつで、オスローでの和平合意に反対しており、イスラエルの生存権を認めず、イスラエル・パレスティナ地域全域をイスラムの支配化に置くことを目的としているグループ。

[2] 去年、ガザで反アメリカのデモがなされたとき、パレスティナ自治政府は警官隊を動員し、その際、ハマス・メンバーのイマッド・アケルの弟が、警官隊の発砲した銃弾によって殺され、その報復行為として、ラジェ・アブ・リエ氏を殺害しました。



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イスラエルからのニュース
11月下旬

 八日間にわたって祝われるハヌカの祭り(宮きよめの祭り,あるいは光の祭りとも言われる)が、今年は1129日の金曜日から始まりました。この祭りは、ユダ・マカベヤが紀元前164年にセレウコス朝の王、アンティオコス・エピファネスによって汚されていた神殿をきよめ、そのことを祝ったのが始まりです。シリアのアンティオコス・エピファネスは、ユダヤに対してユダヤの伝統的な宗教・文化を捨てて、ヘレニズム、ギリシャ的な宗教・文化生活を受け入れるように強要しました。そして、それに従わないものたちを殺害しました。

 しかし、そのような強要に対してマタテヤと彼の5人の息子(ユダ・マカベヤを含む)は反旗を翻し、彼らに従う少数のものを率いて、圧倒的な軍事力を誇る敵に挑みます。そして、彼らは、神への信仰を持って幾多の戦いを戦い、奇跡的な勝利を収めます。ハヌカの一つのキーワードは、「ネス・ガドール(大いなる奇跡)」です。

 イスラエル人を標的にした同時多発テロが、ケニアで起こり、さらに同じ日にイスラエルでも、リクード党の党首選挙の一つの投票場で銃撃テロが起こりました。こうした状況下で、このハヌカの物語を覚えるということは、ユダヤ人にとって大きな励ましであり、また慰めです。

 また、ハヌカの初日として祝われた1129日は、奇しくも55年前、国連の分割決議案が採択され、イスラエルの独立が認められた19471129日と日にちが合致します。

1.ケニアでの同時多発テロ

 ケニアのホテルで爆破テロ事件が起こる五分前、現地時間の830分頃に、ケニアのモンバサ国際空港を離陸したイスラエル航空機、アルキヤのチャーター便を狙って2発のミサイルが発射されました。幸い、ミサイルは辛うじて逸れ、261人の乗客と10人の乗組員を乗せた飛行機は、無事イスラエルの地に戻ることができました。ある乗客の証言によると、一つのミサイルは飛行機の翼の1メートルぐらい上を白い尾を引きながらかすめていったとのことです。

 そして、その事件の起こった約五分後、三人のテロリストが乗った一台の車が、ケニアのインド洋の海岸にあるユダヤ人経営のホテル、パラダイス・ホテルを急襲しました。一人はフロントの受付に走りこんで自爆し、その他の二人は車に積み込んだ爆弾を自分たちもろとも爆発させました。このテロにより二人の子どもを含む、三人のイスラエル人が殺害され、九人のケニア人が共に殺されました。また、一人のホテル職員は、その爆破テロのあった同時間帯に、一機のセスナ機がホテル上空を舞い、3個の爆弾を落としたと証言しています。一つはインド洋に、また、一つはホテルのプールに、そしてもう一つは、ホテルの屋根の上に落ちたとのことです。このケニアの海岸地帯は、イスラム教が大勢を占めているところですが、多くのイスラエルやヨーロッパからの観光客で賑わうところでした。

 レバノンのベイルートで、「離散の国際パレスティナ政府、パレスティナ軍」と名乗る知られないグループが、犯行声明を出しましたが、その手口などからアル・カイダによる犯行ではないかと見られています。

 

2.イスラエルで、投票場が銃撃テロに襲われる

 このケニアでの同時多発テロがあった日、イスラエルでは、シャロン首相率いるリクード党の党首を選出するための投票が行われていました。しかし、イスラエルの現地時間の午後3時に、ベイト・シェアンにあるひとつの投票場が銃撃テロに襲われ、6人が死亡し、20人以上の重軽傷者が出ました。アラファトの傘下にあるファタハの枝分かれである「アル・アクサ殉教者旅団」が犯行声明を出しており、オマル・アブ・ローブとヨセフ・アブ・ローブ、共に20歳の犯行であると断定されています。その投票が行われていたリクード事務所の近所に住む、ガリット・コーヘンさんは、その銃撃の状況を目撃し、次のように語っています。「私はその現場に面する窓に走って、すぐに窓を開け、テロリストたちが銃撃している姿を見た。テロリストは立って、微笑み、また笑いながら、すべての方向に向けて発砲を続け、人々が逃げ惑い、また、倒れるのを見ながら、なんでもないかのようにただ撃ち続けていた。」

 アメリカを始め、ヨーロッパ連合は、最も強い調子でこれらの一連のテロに対して非難声明を出しています。また、イスラエルの外相、ネタヌヤフー氏は、意味深長な発言を次のようにしています。「これらの攻撃は、イスラエルに対して始められたけれども、決してイスラエルだけで終わることはありえない。これは、単に我々の戦いのみならず、それは世界的なテロのネットワークに対する共通の戦いである。我々は、単にその最先端に立たされているに過ぎないのである。」

3.リクード党の党首選の選挙結果

 前バラク政権下で始まったパレスティナ人による暴動とテロによって、国民の支持は、テロとの対決を訴えるリクード党に集まり、今も続くこのテロの波の中で、国民の支持は引き続きリクード党に傾いています。ですから、このリクード党の党首選は、ある意味では次期首相を決める戦いとも言えるものでした。投票場を襲ったテロに対して、シャロン首相は記者会見で、「パレスティナのテロ組織、そして、パレスティナ自治政府とアラブの国々が、民主制のプロセスを妨げようと欲していることの明確な証拠を我々は持っている。そして、テロはそれを行うための道具である。」と語ると共に、リクード党党員に対してそのようなテロに屈することなく、投票に出かけるように何度も強く呼びかけていました。

 リクード党党首選の選挙結果は、シャロン首相が55.8%の票を集め、彼に対抗する外相のネタヌヤフー氏が40.08%、そしてもう一人の候補者、モーシェ・フェイグリン氏は3.46%で、予想通りシャロン首相が大差で勝利を収めました。パレスティナ国家建設に反対し、徹底したテロとの対決姿勢を示すネタヌヤフー氏の明確な右翼色に対し、テロとの対決を唱えながらも中道を探るシャロン首相の政策に、党員の支持が集まったかたちです。

 その結果を受けてシャロン首相は、早速、次期の連合政権に向けて最左翼のメレツ党党首、ヨシ・サリード氏との会見をも含め、その準備に入りました。来年の128日が総選挙の日で、実質的には、一方的なイスラエル軍のパレスティナ自治区からの撤退と入植地からの撤退を公約とする、ミツナ氏率いる労働党とシャロン首相率いるリクード党との議席争いが焦点となります。現時点では、リクード党に対する国民の支持が、大勢を占めています。

4.UNRWA(パレスティナ難民救済機関)職員の死を巡って

 イスラエル国防軍が、イスラミック・ジハードのリーダーを逮捕するためにパレスティナ難民キャンプに入り、銃撃戦となりました。そのような状況下で、イギリス人UNRWA職員、イアン・フック氏52歳が、銃弾に倒れました。イスラエル国防軍の調査報告によると、その国連の建物が、パレスティナの銃撃手たちによって用いられており、その建物から銃撃が続けられていたということです。そして、一人のイスラエル軍の兵士が、携帯電話を手に出てきたフック氏を手榴弾を持ったパレスティナ人武装団の一人と誤認して銃撃したものと言われています。しかし、国連側では、パレスティナ銃撃手たちが国連の建物内部にいたことを否定すると共に、フック氏が銃撃されたときには、銃撃戦はなかったと言っています。

 しかし、過去におけるUNRWAの体質について少し触れておきたいと思います。1982年にイスラエルが、PLOをレバノンから追い出すための作戦を実施した際、UNRWAの施設が、テロリストの訓練基地として使われていたことが明るみになりました。UNRWA独自の調べによってもPLOが、シブリン訓練センターを許可なく軍事使用していたと、その事実を一部認めていました。また、その作戦時にイスラエル軍は、PLOに関与する仕事をしていた200人を超えるUNRWA職員を逮捕しています。そして、そのようなUNRWAの体質は今も変わっていません。

三宅弘之

LCJE海外協力レポーター
(ハ・アーレツ、エルサレム・ポスト、BBCニュース、ICEJ、イスラエル・ツデイ、イスラエル テレビ・ラジオ ニュースなど)


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