2003年3月18日 クリスチャンの少女、テロの被害者に
2003年3月5日 シャロン新政権
1.南の町に雪の山
スデロートというガザ地区から1キロほど東にある町に突然雪の山が出現しました。最近、特にその町はカザムロケットの標的となり、何発ものロケットが飛来し、一度は12歳から18歳の女子生徒が学ぶ女学校の僅か20メートルというところに着弾しました。しかし、奇跡的にけが人がなく、今まで守られています。そうした状況下で、少しでも子供たちの心が安らぐようにとヘルモン山から200トンにも上る雪が運ばれてきたのです。
2.ガスマスク騒動
いよいよ、対イラク戦争が起ころうとしていますが、そうした緊迫した中、外国人にも有料で(5千円ほどで、半額は使わなかった場合払い戻しがある)ガスマスクの配布が行なわれています。しかし、そこに大きな問題が浮かび上がってきました。それは、イスラエル人に対しては、ガスマスクは無料で配布され、さらに古いガスマスクは新しいものと無料で交換されますが、外国人に対しては有料で、しかも古いガスマスクが売られていたことが明らかになったのです。配布センター側の説明によれば、すべてのガスマスクは今回の戦争では有効であり、ただ、イスラエル人に対して、新しいものと交換するのは、彼らが将来的にも長く使えるためであり、外国人の場合は、この戦争のときに有効であれば問題がないためとの説明がなされています。
また、最近、ダン地域で配布された分の子供用のフード型ガスマスクに大きな欠陥があることも判明しました。それはフードとパイプをつなぐスクリューが、合わないということで、至急、回収作業と交換がなされています。
3.経済立て直し政策
シャロン政権は、パレスティナ暴動によって悪化の一途を辿る経済立て直しを第一の緊急課題としています。そうした中、ネタヌヤフー新大蔵大臣は、大きな予算の縮小と経済改革を断行しようとしています。予算の縮小は、子供の援助手当て、教育費、福祉、公務員の給与などの引き下げを中心に多岐にわたって引き締められる見通しです。子供の援助手当ては今までですと、1人から2人まで146シェケル(約3,600円)、3人目は289シェケル(約7,124円)、4人目は586シェケル(約14,445円)、5人目以降が724シェケル(約17,847円)ずつ支給されていたのが、1人目から3人目までが146シェケル(約3,600円)で、それ以降は292シェケル(約7,198円)の手当てと大幅に縮小される見込みです。教育費は約24億6千5百万円の縮小、そして他の省庁で73億9千5百万円あまりの縮小また、年金は対象を65歳から67歳に引き上げる考えです。しかし、防衛費も大幅な縮小をネタヌヤフー大蔵大臣は考えていましたが、イラク戦争やテロ対策などを理由に防衛庁側から押し切られる形で、防衛費予算の伸びを抑えるにとどまりました。全体として約246億5千万円あまりの2003年度予算の縮小が見込まれています。この予算縮小と共に、段階的な利率の引き下げや国営企業の民営化政策などを進めていく方針を打ち出しています。
4.アメリカとイスラエルの架け橋に
またもや多くの若者たちが自爆テロの犠牲となりました。3月5日の水曜の午後、多くの若者たちを乗せたハイファ大学に向かうバスが、テロの標的となり、16人の死者と40人余りの負傷者を出しました。その犠牲者の中に、14歳のアメリカ生まれで、イスラエル育ちの少女、アビガイル
ライトルさんが含まれていました。彼女がまだ生まれて7ヶ月のときに家族は、イスラエルにやって来ました。そして、彼女の父は、イスラエルのバプテスト教会代表に任命され、イスラエルに定住することになりました。
九日の彼女の葬儀にメシアニック集会の人々や教会関連の人々、彼女の学校関連の人々、また、イスラエルや海外の記者、さらにハイファの市長やアメリカの大使、国会議員のユバル・ステイニッツ氏等を含め数千人が参列しました。
父、フィリップ氏は涙ながらに、今は果たせない娘の将来の夢について語りつつ、彼のまた家族の心の痛みを吐露しました。しかし、その悲しみの中に彼の信仰の確信について次のようなことを語りました。それは、たとえ彼の娘がここに共にいなくても、彼女は主イエスのもとにあって、命と喜びに満たされていること。さらに、やがては顔と顔をあわせて再び会う日が来ることなどです。
アメリカの大使、ダニエル・カーツァー氏は次のように言いました。「今日、再びアメリカ人とイスラエル人とは嘆いています。そして、今日、またもアメリカ人とイスラエル人は、私たちの愛するアビガイルを亡くした悲しみを分かち合っています。彼女はアメリカで生まれ、イスラエルに育ち、私たち二つの国の本当の架け橋です。」
また、国会議員のユバル・ステイニッツ氏は次のように発言していました。「あなたの棺の上には十字架があります。しかし、旗(棺の上にかけてある)の上にはダビデの星があります。それは、あなたとあなたの家族が勇気もって示した希望と私たちの間にある新しい友人関係を象徴しています。」
5.パレスティナの首相指名
パレスティナ立法評議会は、賛成64、反対3の圧倒的多数でマフムード・アバス(通称:アブ・マゼン)氏を新たに首相に任命することを決議しました。アラファト議長は、世界の信頼を完全に失い、アメリカを始め、ヨーロッパ連合などから首相を任命して権力を譲渡するようにと強い圧力をかけられていました。さらに、イラク紛争に際して、イスラエルが彼を海外に追放する恐れもあることから、首相任命について同意し、今回の決議へとつながりました。
〈アバス氏の略歴〉
1935年にイスラエルの北の町サフェッドに生まれ、1948年の独立戦争の際に家族と共にシリヤに難民として逃れました。1950年代にPLOに参加し、1965年、アラファトを助けてファタ運動を築きました。1980年にPLOの実行委員長に任命され、1984年にはPLOの内務省の長に任命されました。彼が特に世界の注目を受けるようになったのは、時のビル・クリントン大統領を中心にイツハク・ラビン、シモン・ペレス氏や、アラファト議長と共にオスロー和平合意の場に立っており、このオスロー合意に至る一人の陰の立役者と目されるようになってからです。
彼は、暴力によるパレスティナの開放に反対の立場を持ち(但し、西岸地区とガザ地区におけるユダヤ植民地、あるいは、兵士に対しての武力闘争は反対しない。)、今後の和平交渉のチャンネルとしてアメリカ、ヨーロッパ連合、ロシア、国連の四連合をはじめイスラエルなども期待を寄せています。
しかし、彼にどれほどの権力がアラファト議長から譲渡されるかがポイントであると指摘しつつ、イスラエルのシャローム新外相は、客観的に今後の動きを見つめています。また、アバス氏はサフェッドの生まれであり、パレスティナ地区に彼の家族、あるいは部族を持たないということもあって、彼の基盤の弱さも指摘されています(アラブの国で、大きな家族あるいは部族の基盤を持たないことは、非常に不利なポイントになります)。
三宅弘之
LCJE海外協力レポーター
(ハ・アーレツ、エルサレム・ポスト、ICEJ、イスラエル・テレビ
ラジオ ニュース、その他)
最新号に戻る
きよきよの部屋に戻る
HOME
1.シャロン新連合政権
総選挙が大勝利で終わったものの、シャロン首相は他党との連合について難しい選択を迫られていました。今回の総選挙でオスロ合意に基づく和平推進派が大敗、そして、右派が120議席中70議席あまりと大勝利を収めました。シャロン首相が、右派と連合を組めば、簡単に過半数を超えることができました。しかし、右派との連合となると、対外関係に弊害をもたらし、特にアメリカとの関係が冷めてしまうという恐れもあり、シャロン首相は右派のみとの連合を避け、左派の労働党と世俗派で中道のシヌイ(「変化」という意味)との連合を模索していました。しかし、労働党の党首ミツナ氏が、選挙中に公言した「シャロン率いるリクード党とは決して連合しない。」との言葉に固執し、断固としてリクードとの連合を拒みました。シヌイ党は、世俗派の政党であり、宗教家の政党と連合を組むことを嫌っており、リクード党、労働党、シヌイ党の3党連合を望んでいました。しかし、労働党が連合を拒否した結果、15議席で第三党のシヌイ党は、宗教家の政党との連合もやむ終えないとの方向で妥協し、結局、リクード党40議席(イスラエル・ベ・アリヤ2議席がリクードに加わる)、シヌイ党15議席、宗教政党の国家宗教党6議席、そして、極右派の国家統一党7議席、合わせて68議席の連合政権となりました。労働党内では、総選挙の大敗の要因となり、また、多くの党員の意見を無視して連合拒否を貫いたミツナ氏に対して不満が高まっており、ミツナ氏は党内において非常に難しい立場に立たされています。
2.組閣について
新政権の組閣において大きな目玉となったのは、外務大臣と大蔵大臣の席を巡ってのドラマです。シャロン首相は、組閣構想をまとめる中で、前政権下で大蔵大臣であったシルバン・シャローム氏を大蔵大臣の席からはずすことを決定しました。そのことは、リクード党内で大きな影響力を持つ、シャローム氏とシャロン首相との間に大きな決裂を招きかねない状態になっていました。そのような状況下でネタヌヤフー氏の外務大臣は不動であると思われていましたが、突如、シルバン・シャローム氏に振り分けられることになり、ネタヌヤフー氏に大蔵大臣の席が移ることになりました。それにより、シャローム氏との問題は解決されましたが、外務大臣以外の席を考えていなかったネタヌヤフー氏は、その決定に憤慨し、一時はシャロン首相との関係の悪化も危惧されました。しかし、大蔵大臣の席とともに、首相が保持していた社会経済に関連しての他の権威も彼に移行されることになり、最終的にネタヌヤフー氏が大蔵大臣の席を受領することになりました。
エルサレム市長であったエフード・オルマート氏は新内閣での重要なポストを期待して、市長の席を退きました。そして、大蔵大臣の席が混沌としていた状況の中で、その席が自分に与えられるものと思い、経済の重鎮との会合を行うなど準備を進めていました。ところが、彼の思惑とは異なり、その席はネタヌヤフー氏に渡されることになり、彼には商工業大臣としての役が与えられることになりました。市長の席を犠牲にしてまで国政に関わろうとした彼の期待は裏切られた形で終わりました。
3.恵みの雨?
そのような被害が出ていても、イスラエルでは、やはり恵みの雨です。
三宅弘之
LCJE海外協力レポーター
(ハ・アーレツ、エルサレム・ポスト、ICEJ、イスラエル・ツデイ、Weather Site、イスラエル テレビ・ラジオ ニュース)
最新号に戻る
きよきよの部屋に戻る
HOME