イスラエル・レポート



                                               2004年1月

1.ハヌカの奇跡

 ハヌカの祭りは、セレウコス王朝の王アンティオコス・エピファネスの弾圧にマタテヤとその5人の子供たちが中心に立ち上がって、王朝の末期にあったとはいえ圧倒的軍事力を誇るアンティオコス軍を打ち破り、先に汚されていた神殿を清め、再奉献したことを記念して祝う祭りです。

 八日間にわたってこの祭りは祝われますが、この期間にひとつの奇跡的な出来事が起こりました。それは、数人の外国人と共にコロンビアのテロ組織ELN(民族解放軍)の手によって誘拐され、102日間拘束されていた4人のイスラエル人と一人のイギリス人が無事に解放されたのです。しかもそれは金銭的な交渉によるものではなかったとテレビのニュースで伝えていました。

 
ニュース・マガジン「イスラエル・トゥデイ」2004年1月号にイスラエル版の「岸壁の母」とも言えるような話しが掲載されていました。人質となったイスラエル人のうちの一人、オルパズ・オハヨンの母タミーさんが、息子の開放を求めて早くからコロンビアに来ていましたが、彼女は次のようにその心境を語っています。「私の息子が人質としてジャングルに捕らえられているのに、どうしてイスラエルに留まっていられるでしょう。私はできる限り息子の近くにいたいのです」

 開放劇のあった12月の22日は、テレビのニュースでその開放のシーンと家族の喜ぶ姿が繰り返し繰り返し映し出されていました。シャローム外相が次のように語っていました、「ハヌカの時期の人質解放劇はイスラエルのすべての家庭に喜びと光を加えるものとなった。愛するものと再び結び合われた家族が、イスラエルに戻って最後のハヌカのろうそくを灯すことを希望する」。


2.寂しいベツレヘム

 インティファーダーの影響により、2003年のクリスマスもベツレヘムは閑散としたものとなってしまいました。テロを放棄することを拒み続けているとして、3年続けてアラファト議長のベツレヘムでのミサの参加は認められませんでした。

 
2000年のクリスマスシーズンには、日に5万人もの宿泊客でにぎわっていましたが、今年はクリスマスイブの日でさえ1,200人余りに止まりました。

 一時、イスラエル政府は、ベツレヘムが他のパレスチナ地域に比べて比較的平穏であるとして、軍を撤退させ警戒を緩和していました。しかし、その期に乗じてテロリストたちが入り込み、再びテロリストの巣窟となってしまったため、警戒を強めざるを得なくなってしまいました。再びにぎやかなクリスマスを迎えるためには、テロとの決別が不可欠であると言えるでしょう。


3.2003年の観光客数

 ハ・アーレツ紙によるとイスラエル全体としての観光客数は、2003年は100万人を超え、2002年の862,000人に比べると22%の増加となりました。しかし、インティファーダー前の2000年には270万もの人々がイスラエルを訪れていたのと比べると3分の1強に過ぎません。

 1223日に100万人目の旅行客がベングリオン空港に降り立ち、観光大臣のビニヤミン・エロンから証明書を受け取ると共に、4日目のハヌカのろうそくを灯す式典に参加しました。

 観光客の増加は、単にイスラエル経済を潤すだけではなく、失業率の増加にあえぐイスラエルにとって、職場の提供にもつながるものです。10万人の観光客で、4,000人の仕事が創造されることになります。


4.血塗られたクリスマスの日

 去る25日のクリスマスの日にほとんど時を同じくして、パレスチナ人による自爆テロとイスラエル国防軍によるテロ組織イスラム聖戦のリーダー、マクレッド・ハミッドの暗殺が起こりました。イスラエル政府がハミッドの暗殺に踏み切ったのは、イスラム聖戦がイスラエル市民を標的にした大きなスケールでのテロを計画していることが発覚し、ハミッドがその首謀者であったからです。

 その自爆テロ事件は、テルアビブの郊外、ペタハ・ティクバとブネイ・ブラクの間にあるゲハ交差点で起こりました。ラッシュアワーで人のごった返したバス停でパレスチナ人テロリストが自爆したのです。この自爆テロによって、4人が殺され、20人が負傷しました。

 この二つの出来事の間には、何らつながりはありません。この自爆テロは、21人の死者を出したハイファのレストラン、マクシマムでの自爆テロ以来2ヵ月半ぶりのことです。しかし、そHagueの間に何事も起こっていなかったのかというとそうではありません。自爆テロを含め多くのテロ攻撃が試みられ続けていました。しかし、イスラエル国防軍が防備を固めているために事前に食い止められていたのです。

 このことは、イスラエル軍が如何に防備を固めたとしても完全にテロを防ぎきることはできないということを明らかにしています。


5.防護フェンスを巡っての抗争

  イスラエルが建設中の防護フェンスに対して大きな議論が国際的に巻き起こっています。その論点は、その防護フェンスがはたして純粋に保安を目的としたものか、あるいは一方的な領土確定を画策したものであるかというところにあるかと思います。防護フェンス建設反対を訴える側は、領土問題を盾にしてその建設を阻もうとします。その反面、建設推進を押す側としては、イスラエル市民の安全問題を強調します。

 パレスチナ側は、イスラエルの防護フェンス反対を訴えて国連にその件をハーグ国際裁判所にゆだねることを求めました。908の賛成多数で決議され、ハーグ裁判所の裁定を求めることとなりました。

 また、平和運動家たちによるデモが行われ、激しくフェンスを揺さぶったり、ペンチで柵を切断したりしました。それに対して、指揮官の命令により、兵士が発砲しイスラエル人運動家一人が重傷を負い、一人のアメリカ人は軽傷を負うという事件が起こりました。

 
防護フェンスは、とてもホットな問題となっています。イスラエル・トゥデイ誌でパレスチナ側が防護フェンス建設に反対する第一の理由について意見が書かれていました。それは、防護フェンスが完成されるならば、彼らにとってテロを行うことが非常に難しくなり、そうなると脅しの武器を取り上げられることになり、彼らにとって非常に不利となるというものです。この言葉は、また、別な視点でこの問題を見ることの必要性を想起させてくれます。


三宅弘之

LCJE海外協力レポーター

(ハ・アーレツ、エルサレム・ポスト、イスラエル・トゥデイ、ICEJ、イスラエルテレビ、ラジオニュース、その他)


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