映画「キリストの受難(The Passion of the Christ)」 (邦題:「パッション」)
きよきよの感想・解説(鑑賞後)
(内容を逐一追っていますので、前知識やネタばれを好まない方は、読まないことをお薦めします。)


かなり長文なので、必要な方は下のリンクを使って飛んでください。

1.ゲッセマネの園からピラト官邸まで
2.ピラト官邸から十字架刑宣告まで
3.十字架宣告から最後まで


メルギブソンの信仰と芸術作品


はじめに

 これまで予告編、写真集、そして他者の様々な論評から、私なりの意見や見解を述べてきましたが、実際に鑑賞したら、何から話せばよいか分からない気持ちになりました。あまりにも各場面に含まれているメッセージが多く、一つ一つが心に揺さぶりをかけてくるからです。これは、第三者的になるのが難しく、自分のこととして受け止めなければいけない、重いメッセージを含んでいる映画です。

 本映画を観るとき、特に聖書を信じるクリスチャンにとって念頭に入れておかなければいけないことは、これがメルギブソンの信仰と瞑想の中で培われてきた作品であり、いわゆる聖書の記述を平坦に描くドキュメンタリー映画ではない、ということです。確かに非常に聖書に忠実である部分が多くその背景が調べられており、現実的、写実的ある部分がたくさんありますが、けれども監督であり脚本家でもあるメルギブソンがその各場面で、どのような解釈を施し、それが自分にとって何を意味しているのかを発見できます。ある意味、彼の信仰の証しとも言える映画です。

自分を神にゆだねることが勝利の分岐点

 まず、イエスがゲッセマネの園で祈られる部分から始まります。(写真)その苦しみもだえは、父なる神のみこころに自分をゆだねていく、そのものです。そしてそこに、擬人化されたサタンが出てきます。(写真)その苦しみの中で、ひとりの者が全人類の罪を負うことは到底できない、とささやきます。しかし、主は、「どうか、できますならば、この杯を取り除けてください。けれども、わたしの願いではなく、あなたのみこころのままになりますように。」と祈られ、その後サタンから出てきて、イエスに巻き付こうとした蛇のかしらを、イエスは足で踏みつけられます。ここは、全人類のための贖罪(=罪の赦し)のために、すべてをゆだねられたイエスが、創世記3章15節にある「女の子孫が、蛇の子孫のかしらを砕く」という預言を成就するかのように、勝利を取られたことを意味していると私は解釈しました。

 そしてイエスは捕らえられます。(写真)祈らずに眠っていたペテロたちは、その準備ができていませんでした。そして剣を使って抵抗し、一人の兵士の耳を切り取りますが、主がそれをいやされます。そのいやされた兵士は、そこでその場で呆然として立ち上がることができず、イエスを捕らえた他の者たちに付いていくことができませんでした。イエスが、自分を捕らえる人に良くしてあげることに、驚いていることが分かります。

悪魔に魂を売り渡す

 この場面と交差して、イスカリオテのユダが出てきます。(写真)ユダは、祭司が投げてきた銀貨袋を受け取りますが、そこの場面がスローモーションになって(写真)、彼がそれを受け取るところは、彼が行ってはいけないところに入ってきてしまったことを印象づけています。つまり、― 後でどんどん明らかにされますが ― 彼が悪魔と悪霊どもの巣窟に入っていくようになります。これも聖書記述に反映された考えであり、聖書には、「サタンがイスカリオテのユダに入った」とあります。

 イエスを捕らえるための合図が、イエスへの接吻でした。少しとどまったけれども、イスカリオテのユダは行ないました。イエスがアラム語で、「ユーダッ」と愛のこもった声で語られたのが印象的です。(写真

マリヤとイエス

 ヨハネはイエスが捕らえられると、逃げていきますが、彼はイエスの母マリヤの家にかけこみます。(写真)ここから母マリヤがイエスの受難の道を追っていくストーリーが始まります。

 この映画は、どの部分が気になるか、また特定の部分が気になるか気にならないかは、観る人によって大きく変わるようです。私には気になったことが一つありました。それは、イエスの母マリヤでした。彼女が受難において登場するのは、福音書においてたった一つ、十字架にそばにいたマリヤとヨハネに対して、「女の人、息子がいます。」「あなたの母です。」とイエスが言われたところだけです(ヨハネ19:26-27)。他には出てきません。けれども、母マリヤと目が合うイエスが元気づけられたり、主を三度否定したペテロがそこに居合わせたマリヤに「私は、どうしようもないものです。」と告白したり、サタンとマリヤの目があったりと、あまりにもマリヤの位置が大きく置かれています。極めつけは、復活を除く最後の場面にて、彫刻「ピエタ」を真似しているのしょう、死んだ血らだけのイエスの体をマリヤが抱えるところで終わっています。(写真

 これは、私にとって、十字架における神の栄光に陰りを与えるものでした。父なる神に人間が近づくことができるのは、唯一イエス・キリストを通してであり、仲介者はただこの方だけです(1テモテ2:3参照)。そしてマリヤは、メシヤをこの世にもたらす器ではありましたが、福音書では注意深く、イエスの肉の家族がそのまま神の家族の中にはいるのではないことを記しています。ヨハネによる福音書では、イエスはマリヤを「女の人」と呼んでいます。そして、マリヤとイエスの兄弟たちがやって来て、みことばを人々に教えているイエスを呼びましたが、イエスは自分の回りに座っている人たちを母、兄弟と呼び、神のみことばを行なう人たちが自分の家族であることを話されました(マルコ3:31など)。

 マリヤもまた、イエスの肉の兄弟たちと同じように、その自分の家族であるがゆえに抱いた葛藤を経なければいけなかったのです。特にさほど知らない人を、そのお言葉とわざを見て、神の御子キリストであると信じることは比較的容易ですが、肉の家族は違います。イエスをずっと見てきて、血縁関係があります。イエスの肉の家族は、その一員にメシヤ性と神性を見出すのはさぞかし難しかったことでしょう。確かにマリヤは利点がありました。イエスをエルサレムに献児したときのシメオンの言葉、イエスが少年だったときに「わたしは父の仕事をしているのです」と言われた言葉、カナンの婚礼でのイエスの言動など、イエスについての本性を知るヒントはありました。けれども、イエスの贖いに参加していたというのは、解釈を拡大しすぎています。

 けれども、マリヤも他の息子たちと同じように、復活した主を知って、完全にこの方を自分の主とすることができました。使徒行伝において、イエスが復活し昇天された後に、一つになって祈っている弟子たちの中にマリヤがいます。つまり、彼女も他の弟子たちと同じように、イエス・キリストの弟子となりました。

 ですから、イエスとマリヤの関係はこの映画が描くような、子と母の関係ではありませんでした。イエスは、弟子になるためには自分の家族への愛よりも、ご自分との愛の関係を優先しなければいけないことを教えています。これは私には非常に重要なことで、神のアガペの愛は、家族愛よりもまさっていることを、体験を持って学んだからです。ですから映画に出てくるマリヤは、私の信仰とは相容れない存在でした。

 けれども繰り返しますが、気になる人と気にならない人がいます。そしてほとんど全員が、キリストが肉体の苦しみを受けられるところに一番、目が留まるでしょう。

ユダヤ人議会

 捕らえられたイエス(写真)は、途中で橋から鎖につながれたまま投げ出されます。(これは福音書にない場面です。)その橋の下にたまたまイスカリオテのユダがいます。イエスと目が合います。そしてそこに、気持ち悪い獣がうなり声を上げる場面がありますが、それは今話した暗やみの世界です。

 そして次に、サンヘドリン(ユダヤ人の宗教指導者議会)の招集が行なれます。大祭司アンナスとカヤパが出てきます。周囲の人々も集まってきます。この騒動はいったい何なのかとパトロールをしていたローマ兵らが、やってきました。そこでマグダラのマリヤが、不法に私刑を行なおうとしていると隊長に訴えますが、他のユダヤ人が、彼女はちょっと頭がおかしくなっていて、これは我々の神殿の掟を破った者に対する裁判である、と伝えます。

 あるユダヤ人クリスチャンの聖書教師の解釈によると、この日以降における祭司らの行動は、ユダヤ人たちの律法や規則に、十数か所もの違反があったことを指摘していました。イエスをねたみ、けれども人間なのに神の御子であると言っていることを冒涜だと思っている宗教的熱心さから、このような不法へと駆り立てられたのでしょう。人のねたみ、また宗教的熱心さ(あるいは人間のカルト性といっても良いでしょうか)は、人をここまで狂わせることは、社会を見ても、また自分の身近なところでも見いだすことができるものです。

 しかし、そのような中でも二人の議員がこれは不法である、と叫び出します。おそらくは、アリマタヤのヨセフとニコデモを想定しているのでしょう、二人ともサンヘドリンの決定には不満であり、イエスの埋葬に関わりました。しかし、もちろんそのような小さな声はかき消されてしまいます。

 このユダヤ人による裁判(というか私刑)の中で(写真)、イエスは大工をしている男性を見て、ご自分が大工をされていたときのころを思い出されます。イエスと母マリヤとの打ち解けた、朗らかな会話です。(写真1 )ところでこの映画は、ユダヤ人たちはアラム語を使用し、ローマ人はラテン語を使用していますが、このことはさらに、当映画にリアリズム(現実主義)を加えています。例えばアラム語では、イエスが「ジーザス」ではなく、"イェシュア"と聞こえます(ヘブル語とほとんど発音が同じです)。その他、英語で話していれば出てくるであろう一種のバタ臭さが、この映画には感じられません。

 話を戻すと、イエスを告発する証言が始まります。悪魔によって悪霊を追い出したという証言、神殿を壊してみなさい、三日で建て直す、と言ったという証言、それから、わたしの血を飲み、肉を食べたら、永遠のいのちを持つと言ったという証言です。みな、そのようなことをイエスは言われたことは聖書の中に出てきますが、発言の一部だけを切り取り、前後関係を無視した虚偽の内容です。人間がねたみを持って人に悪口を言うときに使う常套手段がこれです。

イエスは、神の御子キリストか?

 けれども、裁判は本質へと近づいてきます。大祭司カヤパ(写真)がもっとも気にしていたのは、イエスが人間であるのに自分をメシヤであると言い、神の御子であると言っていることに激しい怒りを抱いていました。そこで、彼に問いただしました。「あなたは、来るべきキリストなのか、生ける神の子なのか?」と。

 私は、この大祭司の怒りが少しだけ理解できます。もし、人間にしか過ぎないのに、自分を神とするということは、まさに、天使の身なのに、いと高き神のようになろうとしたサタンと同じ罪を犯していることになります。ヤハウェなる神以外のものを一切拝んではならないとする者にとって、これは重い罪です。ですからユダヤ人指導者が正しいなら、イエスは大うそつきであり、確かに彼らの律法にしたがって殺されなければいけません。

 しかし、もしイエスは本当にそうならどうなるでしょうか?イエスはご自分がメシヤであることを、その誕生から(自分の誕生を操作できる人間はいません)、生い立ち、その宣教活動、そして奇蹟と不思議によってことごとく証明されました。そして何よりも、死者からのよみがえりを、前もって伝えていたとおり成し遂げました。ですから、彼らが間違っていれば、彼らはとんでもない罪を、つまり、メシヤであり神の御子である方を殺すという罪を犯すことになるのです。

 しかしこれは大祭司の問題ではなく、実は私たち人間のすべての問題です。つまり、すべての人が、神の御子イエスに何をしたのかを、最後の日に申し開きしなければいけない、ということです。イエスはご自分が主張されたとおり、神の御子であり救い主であるのか、それともペテン師であるのかを、自分の肉体がまだ生きているときに決めなければいけません。二つに一つだけです。イエスは「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり(マタイ12:30)」と言われました。中立は存在しません。

 そしてこの大祭司の尋問に対して、イエスは、はっきりとお答えになります。ご自分がメシヤであり、ダニエル書の預言に書かれている、メシヤが神の右に座し、天から雲に乗って来られること、神の御子であることを宣言されました。大祭司は、これ以上の証言は要らない!と叫び、自分の衣を引き裂きます。そしてユダヤ人たちから平手やつばきをかけられ、暴行を受けながら牢獄につながれます。

イエスを否むペテロとユダ

 イエスが私刑をお受けになっているときに、それを傍から見ているペテロとイスカリオテのユダの姿が交差して出てきます。イスカリオテのユダのときは、やはり、薄気味悪い人物の姿が彼の周りに出てきますが、ペテロは周りの群衆の何人かに、「お前も、イエスの仲間だろう」と問われます。(写真)その度にペテロは、「あんな人のこと、知らない」と、平手で打たれ、なぶりものにされているイエスを見ながら、のろいを込めて言いました。この場面はしばしば、ペテロが人を恐れたからだ、という理由付けがなされます。けれどももしかしたら、「自分が信じている主が、このような惨めな姿を取られるはずがない」という、自分に対して念じるようにして語った言葉かもしれません。

 主は聖書の中で、「自分を否み、日々、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われています。私もペテロのように、自分の前に置かれている十字架の道を、「こんな惨めで、自尊心を壊すようなひどい道はこりごりだ。」と思ってしまうことがあります。心は燃えているが肉が弱いペテロに共感できます。

 いずれにしてもペテロは、イエスが前もって、「あなたは、鶏が鳴くときまで、三度わたしを知らないと言います。」と言われたことを思い出して、それで自分がひどい罪を犯したことに気づき、その場を立ち去ります。

 一方、イスカリオテのユダは、大祭司たちのところに行って、「あの人を釈放しろ。罪のない人を罪に定めるな。」と言いますが、大祭司は「しったことか!」と言い返します。それでユダは、自分が受け取った銭の袋を投げつけます。頭が朦朧(もうろう)とした状態で、道端に横たわっていましたが、子供たちがどうしたのかと聞いてきます。彼が子供たちを、「うるさい、餓鬼たちよ」と振り払おうとすると、本当にその子供たちが小鬼のような顔つきになり、ユダをいじめはじめます。何人もの小鬼たちに追われて、あるところでほとんどリンチ状態になりますが、そのとき背後にあのサタンがいました。そしてユダが気づくと、そこにはだれもいませんでした。しかし、蝿の音が聞こえます。すぐ横に、腐乱しているろばの死体がありました。それを見たユダは絶望し、ついに木にひもをつけて首吊り自殺を決行しました。このようにイエスを完全に否んでしまうと、その守りから自分を引き離すことになり、霊的、精神的異常状態に陥ることは十分にあり得ることです。

 マリヤとヨハネ、マグダラのマリヤの三人は、まだ先ほどの庭のところにいます。マリヤが、自分のほおを地面につけます。(写真)その下には、地下で鎖につながれているイエスがいます。(写真)母と子のつながりを、ここでも描いています。

ピラトとその妻

 この後、福音書でも、また映画においても重要人物である、ピラトが出てきます。彼はローマ帝国のユダヤ地域における総督です。この人物の描写が映画の中では史実と異なっているということで、批判を受けている部分です。批判者によると、ピラトは非常に残酷な人物であるのに、この映画では、イエスをなんとかして釈放しようとしてユダヤ人指導者らに押されて十字架刑を言い渡す、弱いピラトになっている、ということです。しかし、それは全然当たっていないと私は思いました。

 後で、ピラトが自分の苦悶を妻に吐露する場面が出てきます。(写真)そこで彼は、「私にとっての真理とは、暴動が起こらないようにするには、どうすればよいか、という差し迫った状況だ。イエスを釈放すれば、大祭司たちが許さないから暴動が起こるだろう。逆にイエスを処罰すれば、イエスの追従者らが暴動を起こすであろう。カエザルは、こんどユダヤ地域に暴動が起これば、その血の責任は私にあると、言ったのだ。」

 ローマ帝国が帝国であったのは、その大きな地域にいる諸民族の自治を認めつつ、支配したからに他なりません。ゆえに、「パックス・ロマーナ」と言われているように、反乱を絶対に起こさない、そして納税の義務を果たすという条件の中で、表面的な平和と秩序は保たれていました。ローマにとって、ユダヤ人たちをどのように泳がせ、転がすのかが焦点となっており、その支配の方法が「自治」と「鎮圧」の間で揺れ動いていました。そのような中でピラトが総督となっていました。

 ルカ伝の中で、ピラトが、ガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたと、書かれています(13章1節)。「福音書が史実を描いていない」というのは嘘であり、ピラトは確かに残虐な人間だったのです。その時代、ピラトの手によって十字架につけられたユダヤ人犯罪者らは数多くいたのです。しかし、それでもユダヤ人は、決してローマに対してこびへつらう態度を取ることをせず、ローマに対して挑発的な姿勢を取りつづけました。したがってピラトは、政治的駆け引きの狭間の中で苦しんでいたのです。(ちなみに、ユダヤ人が全体的に反乱を開始したら、ローマはユダヤ人を大量虐殺して、紀元70年にはエルサレムの神殿を破壊し、残りのユダヤ人を奴隷にしてイスラエルの地から引き離しました。)

 ピラトの罪は、善悪がはっきりしているのに、政治的な方法でユダヤ人をなだめようとした事にあります。妬みに駆られたユダヤ人の罪がありますが、彼の罪は、間違いは間違いとしなかったところにあります。この風潮が今日の社会でも蔓延しており、英語ではpolitical correctnessという言葉を使っています。善悪の判断ではなく、だれが政治的にどれだけ力を持っているか、その力関係によって言葉を選ばなければいけない、とされています。

 そしてこの映画が反ユダヤ主義であるという批判に対する反論を付け加えるならば、第一に、イエスとイエスの弟子たち、マリヤなど、この出来事に加担しなかった人々がユダヤ人としてよく描かれていること、第二に、この映画で描かれているローマ兵たちの横暴さはまさに、「キリスト殺し」と呼んでふさわしいものであり、罪性はユダヤ人だけでなくローマ人にも向けられていること、そして第三に(もっとも大事なことですが)イエスも、またマリヤの発言の中にも、この時のためにイエスが生まれてきたこと、父なる神の意志によってこのことが起こっていることが述べられており、責任は、罪を犯した一人一人の人間、私たちにあるということです。

 いずれにしても、この映画は何らかの反応を引き出さざるをえない力を持っています。私の場合はイエスのマリヤの関係が気になりましたが、一部のユダヤ人たちは、ユダヤ教指導者の描き方が非常に気になったのでしょう。この映画は、自分の肉が炙り出されるような力を持っています。

 そして話は戻りますが、ピラトの妻が悪夢で苦しんでいる場面が出てきます。その時に、百人隊長であろうアベナデールという名の人物がやってきます。彼が十字架刑に至るまでずっと付いている人であり、おそらくは、福音書の中で、「この方は正しかった」という言葉が、イエスが死なれた後に口からこぼれた、その百人隊長であると考えられます。

無罪宣言から十字架まで

 場所は総督官邸前広場です。(写真)そこに大祭司らと、ユダヤ人の群衆が集まっています。(写真)なぐられて片目がつぶれているイエスを見て、ピラトは、「あなたたちは、こうやって裁判に受ける前の者を、罪に定められた者のようにするのか?」と聞きます。そこでカヤパとアンナスは、自分がユダヤ人の王であるとイエスが言っており、メシヤであるとも言っている。ローマへの納税も禁じたりしている。この者は死刑になるべきだ、と言いました。

 このとき、官邸広場の空に、白い鳩が舞い降りてくるのをイエスはご覧になられます。これは、イエスが公生涯を始められるとき、水のバプテスマを受けられたとき降ってこられた聖霊が、鳩のようであると書かれていますので、聖霊を表しています。イエスが十字架刑の宣告を受けるまでの過程を、イエスは孤独ではなく三位一体の神の一人であり、父なる神と聖霊がおられること、そして聖霊がおられるがゆえに、人としてのイエスは力づけられていたこと、などが考えられます。

 「ユダヤ人の王」という告発がピラトは気になりました。ローマでは反乱罪がもっとも厳しく罰せられる罪だったからです。そこで官邸の中にイエスを連れてきて、そのことを問いただしました。(写真)イエスは、自分はユダヤ人の王であるが、わたしの国はこの世のものではない、もしこの世のものであったら、弟子たちがわたしのために戦うであろう。わたしは真理を明かすために来たのだ、と言われました。

 ピラトの妻が、ユダヤ人の前に立っているピラトの妻をずっと横から眺めています。そしてピラトは、「この者に何の罪も見出さない」と言います。これがピラトの判断であり、善悪にもとづく判断でした。

 ところが、先に話したとおり、彼はユダヤ人をなだめることにしました。第一の妥協は、ピラトは、イエスをヘロデのもとに送ったことです。今、過越の祭りのためにヘロデ王がガリラヤ地方からやって来ています。そこで、イエスをピラトのもとに送りました。(ヘロデはローマによって認められた、傀儡の王です。自分はユダヤ教徒であると言っていましたがイドマヤ人であり、ユダヤ人は彼を自分の仲間として認めていませんでした。)ここで政治的に彼は二つの目的に達成できます。一つは、彼はヘロデ王と仲が良くありませんでした。けれどもヘロデに裁判権をゆだねる意思表示をして、ヘロデに貸しを作ることができます。そしてもう一つの理由は、このややっこしい問題をヘロデに責任転嫁することができることです。

 ヘロデの役者が実に上手でした。いかにも、という感じの格好をしていました。周りには、快楽で乱れた姿が描かれており、一人は泥酔して、ヘロデがイエスに語っている間に転げ落ちたりしています。ヘロデは、イエスのことに以前から興味津々だったので、このようにして対面できて、とても嬉しそうです。「今、奇蹟をして見せてくれないか?」など、いろいろなお願いをヘロデはしますが、イエスは一切、口を開きません。それでヘロデは、「こんな馬鹿な奴は、ピラトに返しなさい」とのことでイエスをピラトに返します。多くの人はヘロデのように、この殴られたイエスに興味を持たなくなるでしょう。自分の興味を引かせる不思議なことをしてみせるような存在であれば信じるかもしれないが、受難の道を通る神など信じたくないと思うでしょう。

 しかし、ここでも監督メルギブソンは、さりげなく、イエスに反応している人を加えています。その遊興も盛り立てる、一人の黒人系女性がイエスと目が合い、罰の悪い恥ずかしい表情を顔に浮かべます。これが、神の聖霊によってイエスに出会った人の反応です。

 ピラトは、ヘロデからイエスが戻ってきたことを知り、少し驚きの表情を見せますが、けれどもすかさず、「ヘロデは、この者に何の罪も見いださなかった。」と言って、自分が責任を負わずして、ユダヤ人を説き伏せようとします。そこでピラトは第二の政治的妥協案を見つけます。それは、ユダヤ人の間で、極悪で知られるバラバをイエスと並べてイエスを釈放させる方法です。当時、ユダヤ人たちをなだめる方法として、ローマが寛容であることを宣伝するために、ユダヤ人の最も大切な例祭である過越の祭りのときに、ユダヤ人を特赦にする慣例がありました。過越の祭りのときに、ユダヤ人の民族主義感情は高揚しますから特赦は効果があります。この慣例を利用しようと、ピラトは思ったのです。

 ここに出てくるバラバも、いかにも悪人という顔をした適切な役柄です。ピラトが、ユダヤ人群衆から見て自分の左側にイエスを置き、右側にバラバを置き、その二人を対照的にユダヤ人らに見せつけます。(写真)悪いことをいっさいせず、聖い、正しいユダヤ人と、殺人と盗難、反逆の典型であるかのようなユダヤ人の男の対比です。しかし、ピラトの問い「あなたがたは、どちらを釈放させてもらいたいのか?バラバか、それともイエスか?」に対して、「バラバを!」と叫びます。やはり、ここでの人間の醜さが見事に現われています。人のねたみの恐ろしさが表れており、また、人は善よりも悪を愛する罪性があることを示しています。

 そして群衆らは叫びます。「十字架につけろ!」という声がピラトの耳に入りました。ピラトの顔が少し青ざめました。これは大変なことになった、という表情です。

メルギブソンの中心的課題 − むち打ち

 そこで、ピラトは三つ目の政治的妥協案を実行します。それは「むち打ち」です。映画のテーマはもちろん題名のごとく「受難(パッション)」であり、十字架刑が映画の最高峰になっていますが、もう一つの大きな峠は、ここ「むち打ち」であります。これは、映画の最初に出てくる聖書箇所の預言が成就する場面であり、メルギブソンの証しにも頻繁に出てくる、いやしと平安をもたらすこととなった、キリストが打ち傷を受ける場面であります。最初の出てくる聖書箇所は次です。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53:5)

 メルギブソンは、キリストの打ち傷について瞑想し、祈りを持つことによって、自分の罪によってもたらされている心の傷、また他の人たちによってもたらされた傷がいやされた、と述懐しています。

 一度、紀元前八世紀に預言された、メシヤ(キリスト)についての克明な受難の預言全体を読んでみましょう。

52:13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。14 多くの者があなたを見て驚いたように、・・その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。・・15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

 52章13節から15節には、キリストが十字架につけられて、高く上げられることが預言されています。その顔はそこなわれていて、人の姿をしていなかったとも書いています。後に十字架が上げられる場面で、イエスの目線から下にいる人々の姿が映し出されます。また、イエスの御顔が血だらけでめちゃくちゃになっています。それは、ここの聖書預言を描写しているからです。

 53章の1節から3節には、キリストの、十字架にいたる全生涯の特徴が描かれています。イエス・キリストは、絵画や映画などで誤解されていますが、決してハンサムな方ではありません。むしろ、砂漠の地から出てくる根のように育った、素朴な方であり、私たちが慕うような見ばえはありません。そして最後、十字架につけられるまでには、「人がそむけるほどさげすまれ」ます。映画館では、目線を映像からそらさなければいけなかった人が多かったと思います。

 そして4節から、なぜキリストが苦しんだのか、その理由と根拠が明確に書かれています。4節から6節までに繰り返されている言葉は「私たち」です。私たちの病、私たちの痛み、私たちのそむきの罪、私たちの咎、そして私たちがかってな道に向かったことです。このためにキリストが罰せられ、神から打たれました。映画ではイエスが、むち打ちの前に、「わたしは用意ができています。父よ、あなたにゆだねます。」というようなことを祈られますが、これはここの箇所を意識しているからです。

 しばしばこの映画のことで議論されますが、「だれがキリストを殺したのか?」の問いは明確です。それは、史実的にはユダヤ人でありローマ人です。ユダヤ人の指導者また群衆が煽り立てました。そして、ローマ人はその死刑を執行し、残虐な仕打ちをキリストに行ないました。ペテロは、五旬節の祭りのためエルサレムに都上りしていたユダヤ人たちに、「今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒2:36)」と言いました。パウロも、キリスト者への迫害を続けるユダヤ人について、「ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し(1テサロニケ2:15)」と言いました。一方、誕生したばかりの教会の信者たちは、祈りをささげているときにこう言いました。「『・・・地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストとに反抗して、一つに組んだ。』事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり(使徒2:26−27)」と言いました。つまりローマ人の手によって、イエスは殺されました。

 そしてキリストが殺されたのは、霊的には全人類であり、各人の罪です。ローマ人への手紙3章には、「すべての人が罪を犯したので、神の栄誉を受けることができず」と書いてあります。そして6章23節には、「罪から来る報酬は死です。」と書いてあります。ですから、ヘブル9章27節には、「人には死ぬことと、死後にさばきが定まっている。」とあります。そこでイエスがすべての人の罪を肩代わりされ、十字架上ですべての罪、そして今このコラムを読んでおられる貴方の罪のために死なれました。

 そして永遠の視点では、父なる神が計画されたものであり、子なるキリストが率先して私たちのために行なわれたことです。後に映画でも出てきますが、イエスは、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。(ヨハネ10:18)」と言われました。先ほど引用したペテロの説教やパウロの手紙の中にも、何回も何回も、これは永遠の昔から予め定められたものであることを述べています。ですからここに愛があります。私たちが頼む前に、父なる神が私たち人間をあわれんで、ご自分の独り子をも惜しまずに、罪のいけにえとしてささげられた、というのが映画のテーマです。

 イザヤ書53章に戻ります。7節から9節に、十字架から埋葬への各場面の預言が行なわれています。イエスが必要なとき以外、何も語られなかったこと、また、死刑囚二人の間に十字架につけられ罰せられたこと、そして、裕福なユダヤ人で、ユダヤ人議会の一員でもあったアリマタヤのヨセフが、自分の所有の墓を提供して、イエスを葬りました。そして、イエスに暴虐や、欺きはなかったことは、聖書の記述全体に、また映画全体に描かれていることです。

 そして10節以降は、キリストがよみがえって、自分が受けた苦しみをふりかえる預言が書かれています。多くの者たちが神からキリストに与えられ、彼は末永く子孫を見る、とありますが、これは現代にまで及ぶ、数限りない大勢のキリスト者が世界中で現れたことが成就しています。

 それでは、映画の場面の説明に入りましょう。

史実に即したむち

 イエスが両手を固定されます。そして背中が丸出しにされます。その横には、三つの種類のむちがある机があります。むち打ち刑執行を担当する隊長がその机の椅子に座ります。そして二人の兵士がむち打ちを始めました。彼らが初めに使用したのは、普通の革製むちであったようです。一回ずつ、その回数を数えられながら、イエスはむち打たれます。むち打たれる前に、イエスが、「父よ、私は用意はできています。」と祈られたところが印象的です。兵士たちは十数回打った後、キャット・オブ・ナイン・テイル(cat-o'-nine tail)と呼ばれる、九尾になっている、猫の引っ掻き爪のようなむちに交換します。一人の兵士が、そのむちを隊長の机のところに振りますが、その木製の木にしっかりと食い込みました。そして、イエスの肉体にそのむちが食い込みます。一度は、脇のところにその爪が食い込み、そしてほとんど肉片がちぎり剥がれる場面が出てきます。あまりにも残酷で、目を背けたくなる場面です。(写真

 そのため、多くの人があまりにも残酷であると批判します。しかし史実にしたがえば、ローマの処刑の方法として、このようなむち打ちが採用されたのです。ある聖書教師の解説を引用します。「むち打ちは、囚人から自白を引き出すために、ローマ政府が行なっていた慣行でした。囚人は、背中が十分丸出しになるように腰をかがめさせられました。砕かれたガラスや骨が埋め込まれた革製のむちを使いました。肉をかき裂くようにできていました。そのため、むち打ちが終わったとき、その人の背中がハンバーガーのように見えました(訳者注:まだ調理されていないハンバーガーの肉のこと) 。並々ならぬ痛みと失血のため囚人が死ぬことが、多発しました。むち打ちによって、気がおかしくなって狂人になってしまうことが多々ありました。時には、むち打ちのときむちが顔に巻き付き、むち打ちのために、目がえぐり出されたという記録もあります。これはおぞましい事でした。」(「マルコによる福音書15章」の講解。チャック・スミス)

 むち打ちをしているローマ兵士二名の顔は、初めはあざけり笑う表情でありました。けれども、回数を経るにしたがって、彼らの顔に疲労が出ています。もちろん肉体な疲れでありますが、同時に、打っても打っても、ある意味びくともしないイエスに対する焦燥感の表れであったのかもしれません。

 隊長の命令により、イエスの片手を手輪からはずして、今度はイエスの胸と腹のところに続けさまにむち打ちを受けさせます。(写真)その時に、あの百人隊長がやって来て怒声を上げます。「お前ら、ただ懲らしめるだけだと言ったではないか!殺してはいけない!」その時のイエスは、先の講釈にある、生のハンバーガー・ミートの状態そのものです。

 このことの意義は何でしょうか?先ほど話した、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」というイザヤの預言であります。また私は、キリストが文字通り、罪のためのいけにえであったのだ、と思いました。旧約時代に、罪の贖いのために動物のいけにえがささげられたように、御子が肉体を取られたその肉体は、いけにえのために備えられたのだ、と分かりました。

しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。(ヘブル9:26)

 このことを考えると、あのクリスマスが大きな意味を持ちます。天使としてではなく、100パーセント人間の肉体を持って生まれた、あの乳児の肉体とその血管に流れる血は、このいけにえのために存在したのです。

 このむち打ちの場面の間、祭司長らがむち打ちの場面を、冷たい目で見ています。途中でその場を立ち去ります。ピラトが意図していた政治的目的は、彼らの妬みを取り除くことはありませんでした。

 そしてピラトの妻が、恐る恐る、真っ白い布を携えて、マリヤとマグダラのマリヤ(写真)、ヨセフのところにやって来ます。そしてその布をマリヤに渡します。後でマリヤがその布を使って、その処刑場に飛び散った血の川を拭き取りました。(このような場面は聖書記述にはないことです。)

 さらに、イエスがむち打たれている間、あの擬人化されたサタンが再び出てきます。彼(彼女?)は、赤ん坊を抱いています。赤ん坊が振り向きました。大人の顔をした、不気味悪い表情です。(写真)この場面ももちろん聖書に出てきませんが、おそらく考えられるのは、「悪の母子」を描きたかったのではないかと思われます。マリヤが子イエスを抱いていたように、今度はその対抗として悪魔が悪魔の子を抱いている場面にしたかったのだろうと思われます。

回想場面

 他の場面でもそうですが、この映画の特徴に、イエスご自身の視線でカメラを動かしている点が挙げられるかと思います。むち打ちの場面においても、イエスが倒れ、ローマ兵の足にご自分の視線が行く場面が出てきます。そこでイエスが、あることを回想された想定になっていますが、弟子たちの足を洗われた時のことを思い出されています。(写真

イエスは、・・・夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。(ヨハネ13:4-5)

 イエスは弟子たちをこよなく愛されていました。そこで、ユダヤ人指導者らの手に渡されるその直前に、弟子たちとの最後の晩餐になるその過越の食事の席で、弟子たちの足を洗われました。この行為は当時、奴隷が主人に対して行なうものでした。当時はサンダルのような靴ですから、帰ってきたら家に入る前に足を洗わなければいけません。それを主人の奴隷が行なっていました。イエスは弟子たちに、イエスが彼らに仕えられたように互いに仕え合うことを教えられました。

マグダラのマリヤ = 姦淫の死罪から救われた女

 もう一つ回想場面があります。むち打ち場にてイエスの血をふき取っていたイエスの母とマグダラのマリヤですが、マグダラのマリヤは、身をかがめているときに、その地面からある出来事を思い出しました。乾燥したイスラエルの地の、埃立つ地面のところに、しゃがみ倒れている一人の女が、しゃがみながら手を伸ばして、一人の若いラビ(ユダヤ教教師)に触れようとします。(写真)そのラビはイエスです。(写真)イエスが、地面に何か文字を書いておられます。(写真)その間に、遠くにいる大ぜいのユダヤ教指導者が離れ去ります。この女は、姦淫の現場で捕まり、イエスのみもとに引きずり出されてきていたのです。

モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。(ヨハネ8:5-6)

 イエスは言われました。「あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そうすると、年長者からひとりひとりその場を離れていったのです。そしてイエスだけが残りました。そしてこの女に、「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言いました。「だれもいません。」すると、イエスが驚くべきことを言われています。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはいけません。(ヨハネ8:11)」ユダヤ人は、自分に罪があると知っていました。イスラエルの神は、異教の神々と異なり、聖なる方であり、欠けたところが一つもないことです。ですから、イエスが、「罪がないものが、石を投げつけなさい。」と言われたとき、すべてが立ち去ったのです。

 けれども、たった一人、石打ちをする資格がある人がいました。そこに立っておられるイエスです。何も罪を犯しておられなかった方です。しかし、人を死罪に定める権威を持っておられる方が、ここで罪の赦しを宣言しておられます。この解放宣言によって、彼女がイエスが勧めたように、罪の生活ではなく、新たな歩みを始めたことでしょう。

 そして、マグダラのマリヤが、この女であるとこの映画ではされています。けれども、聖書にはそのように書いてありません。しかしながら、聖書に出てくるマグダラのマリヤは、七つの悪霊にとりつかれていたのを、イエスによって追い出していただき、解放された女として出てきます。そして、イエスの死を最後まで見届けた人、そしてイエスの復活も、イエスが個人的に彼女に現われるという体験をしている人です。なぜなら、彼女はイエスに愛されたことを知っていたのです。自分の全存在がイエスに賭けていました。彼女はイエスにすがり、あがめていました。ですから、姦淫の現場から引きずり出された女と、マグダラのマリヤが同一人物とした設定は、事実とは異なるでしょうが、同じ、深い罪の赦しと解放のメッセージを携えています。

それでも「十字架につけろ!」

 むち打たれたイエスは、その場から兵士らによって引きずり出され、兵士たちに取り囲まれました。壁にもたらかかって地面に座られたイエスのお姿は、全身傷だらけであまりにも無残です。(写真)そのイエスを兵士たちは嘲弄したあげく、いばらの冠をかぶせます。いばらですから、当然、頭皮に食い込みます。すでに血まみれの顔面に、頭部からの血が流れ落ちてきました。(写真

 それから、王位を表す紫色の衣をまとわれて、ピラトの前まで出て来られました。イエスの体を見たピラトは、そのあまりにもむごたらしい姿に驚きを隠すことはできず、そぐそばにいた百人隊長をにらみつけたあと、再びユダヤ人群衆の前にイエスを立たせました。(写真)そして叫びます。「見よ、この人を!」予告編にも出てくる、有名な「エッケ、ホモ(ECCE HOMO)」という言葉です。

 これでもか、これでもか、とばかり、ピラトはユダヤ人たちに、政治的責任を突きつけました。「俺は、これだけのことをした。それでもお前たちが彼を罪に定めたいなら、私には責任がない。」ということです。しかしユダヤ人たちは、「十字架につけろ」と叫びつづけます。(写真

 ところでなぜユダヤ人が自分たちで殺さないで、ローマに死刑にさせようとするのか、不思議かもしれません。その理由は、すでにユダヤ人らがはじめにイエスをピラトに連れてきたところで言いましたが、「私たちは、だれを死刑にすることは許されていません。(ヨハネ18:31)」だからです。

 紀元6年に、ローマはユダヤ人から死刑執行の権利を剥奪していました。ユダヤ人には、メシヤ(キリスト)に関する預言を持っていました。「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。(創世記49:10)」とあります。シロはメシヤのことであり、統治者の杖がその足の間から離れないうちに、メシヤが来臨されるという預言です。ユダヤ人たちは、杖が、死刑執行権が国家存在を証明するしるしであると考えていました(創世記9:6)。そのため、ローマにこの権利を剥奪されたとき、メシヤが来なかった、神の約束が実現しなかった、と言って、多くの者が通りを嘆き悲しみながら歩いた、と言われています。けれども彼らが見失っていたのは、その時すでにエッサイの枝がすでに育っておられた(イエスがすでに生まれ、成長していた、ということ)のです。話はずれますが、この預言にしたがえば、ユダヤ人は紀元70年自治権も奪われたのですから、その前にメシヤが来なければいけなかったことになり、彼らには望みがなくなってしまいます。だから、メシヤであると確証できる人物は、ナザレ人イエスしかいません。

 話を戻しますと、「十字架につけろ!」との叫びの中で、ピラトが究極の選択を迫られます。横にいるイエスに、焦りながら語りかけます。「あなたは、わかっているのか?私には、あなたを釈放する権利があり、十字架につける権利もあるのだ。」けれどもイエスが答えられます。「もしそれが神から与えられていないのなら、あなたはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」この言葉は、非常に力があります。ピラトは、自分に与えられた権力がどれほど大きいのかをイエスに伝えました。けれどもイエスは、ピラトの権力は実は神ご自身から来ていることを指摘しました。つまり、イエスは自ら、ピラトの判決の下に入られたのであって、それが父なる神にしたがうことに他ならなかったのです。

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:8)

 ピラトがイエスを十字架刑にすることがいかに恐ろしいことか、直感で悟ったのでしょう。それで何とかしてこの状況を免れようとします。けれども、その間にユダヤ人群集の中のあちこちで、殴り合いが起こります。暴動に発展しそうです。そこでピラトは、「イエスを十字架につけるのは良くない」という良心に従うのではなく、暴動が起こりそうになるのをやめさせる政治的対処に屈してしまいました。その後、横の窓から夫を眺めていたピラトの妻が、その場を立ち去りました。

 伝承では、ピラトは後に自殺し、妻はキリスト者になったと言われています。イエスはピラトに、ユダヤ人たちのほうが「もっと大きな罪があるのです」と言われましたが、ピラトに罪はないとは言われませんでした。それは、ユダヤ人らのように妬みによる直接的な罪は犯していないが、けれども良心に従わず、全体の流れに合わせることもまた罪であることを教えています。その結果、彼は自殺をしたのです。聖書には、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:10)」とあります。全体の流れに合わせる選択を多くの人が取っている日本にて自殺が多いのは、ある意味当然の帰結なのかもしれません。

聖餐

 ピラトが、自分が十字架刑を決定するが私には罪がないことを示すために、水を取り寄せ、手を洗って両手を上げました。その洗盤で手を洗うところから(写真)、イエスは再び回想されます。ユダヤ人に捕らえられる前に弟子たちと取られた、過越の祭りの、食事の場面です。この場面は、イエスが十字架につけられるところまで続けて出てきますので説明をします。カトリック教徒のメルギブソンにとって、これは聖体拝領と呼ばれる秘跡(儀式)の場面であり非常に重要になりますが、私たちクリスチャンにとっても、非常に重要な意味を持っています。

主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。(1コリント11:23-26)

 「最後の晩餐」と言えば思い出すことができる人もいるかと思います。ダビンチの絵画です。けれどもそれは、いかに聖書的キリスト教が西洋化されてしまったかを示す、典型的な例として知られています。イスラエル、いや聖書の舞台全体は、中近東であり欧米ではありません。したがってその舞台背景は西洋のそれではなく、アジア的な要素が多く含まれます。この映画では最後の晩餐が正確に描かれていましたが、イエスと弟子たちは腰を地面におろして、ちょうど私たち日本人が使っているお膳のように、低いテーブルの上で食事をされていました。(写真

 そして、この食事は非常にユダヤ的です。なぜならそれは、イスラエル民族が誕生した、エジプトからの脱出を記念する祭りである、過越の祭りの一部であるからです。

イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。

あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。・・・あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。 (出エジプト記12:3-11)

 イスラエル人は、過越の食事として、セダーという礼拝形式を持っています。その中で、イスラエルがエジプトでの奴隷状態であった先祖たちを、神がエジプトに災いを下し、それからエジプトのすべての初子(長男)が死に、それでエジプトを出て行くことが出て行くことができました。紅海が分かれ、エジプト軍は全滅しました。このように神がイスラエルを救われたことをお祝いします。その礼拝の中で彼らは合計四杯のぶどう酒を飲み、また種なし(イースト菌がない)パンを食べ、その他、苦菜もあり、カロセトと呼ばれる、すりつぶしたりんごとナッツを混ぜたもの、また赤わざびなどがあります。その中で、パンを裂いて食べる場面にて(写真)イエスが弟子たちに、「これが、あなたがたのために砕かれる、わたしのからだです。」と言われ(写真)、四杯の杯のうち、三番目の杯を回すときに、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。」と言われました。(写真

 これは非常に重要な意味を持っています。イスラエルがエジプトから救い出されたその出来事は、キリストがご自分の肉体を裂かれて、ご自分の血を流されることにより、罪から人を救う出来事を予め示していたものだった、ということです。このとき以来、過越の食事はキリストの肉体の苦しみと流された血によって、罪が赦され、罪から救われたことを思い出す出来事となりました。今もキリスト者らは教会として、この儀式を守り続けています。

 したがって、イエスは、ピラトが手を洗うところから、ご自分が過越の食事を弟子たちと取られる前に、儀式にしたがって手を洗われた、その場面を思い起こした、ということです。

ビア・ドロローサ

 そしてイエスは、ローマ兵たちに引き渡されます。そしてイエスは、ご自分がつけられる十字架を背負わされ、ゴルゴタ(どくろの地)と呼ばれる場所にまで行かれます。(写真)他にも、二人の罪人が十字架を背負わされ、歩いていきます。十人程度のローマ兵がいっしょに付いて行き、周りの大勢の観衆と群集が、三人、特にイエスに押し迫らないようにします。大ぜいの者が、イエスに罵声をかけているようであり、また、大ぜいの女がイエスを見て、目をそらし、また嘆き悲しんでいる様子が出てきます。

 イエスは、十字架を背負わされたとき、その木を抱擁されました。(写真)そして、「わたしはあなたの僕、あなたのはしための子です」と言います。これは、カトリック教会で用いられている聖書の巻で「知恵の書」9章5節からのものです。(新共同訳聖書では、「旧約聖書続篇」の中に収められています。)これは、キリストが苦難の僕として、そしてカトリック的には、父なる神のはしためマリヤの子として、悲しみの道をたどることを意味しています。

 私は、メルギブソン自身も明言しているそうですが、彼が今日のエルサレム旧市街にある「ビア・ドドローサ(悲しみの道)」をかなり意識していることが分かりました。次のサイトをご覧ください。ピラトがイエスを死刑にする判決を下した、アントニオ要塞から、イエスが死なれて、その死体が引き下ろされるゴルゴタまでの道に、合計十四留の要所が設けられています。下のサイトをごらんください。詳しく写真つきで説明が書いてあります。

 http://holylandnetwork.com/jerusalem/via_dolorosa/via_dolorosa.htm

 それぞれを日本語に直すと、下のようになります。このうち、いくつかの留は聖書には出てこないものですが、聖書記述があるものはその箇所を引用します。

第一留 イエス、死刑の宣告を受ける (マタイ27:2-6等)
第二留 イエス、十字架を担わされる (ヨハネ19:17)
第三留 イエス、初めて倒れる
第四留 イエス、母に会う
第五留 イエス、クレネのシモンの助力を受ける (マタイ27:32等)
第六留 イエス、ヴェロニカより布を受け取る
第七留 イエス、再び倒れる
第八留 イエス、エルサレムの婦人らを慰める (ルカ23:28)
第九留 イエス、三度倒れる
第十留 イエス、布を剥がれる (ヨハネ19:13等)
第十一留 イエス、十字架に釘付けされる (ヨハネ20:25,27等)
第十二留 イエス、十字架に死す (マルコ15:37等)
第十三留 イエス、十字架より下ろされる (ヨハネ19:31-38)
第十四留 イエス、墓に葬られる (マタイ27:59-60等)
http://www007.upp.so-net.ne.jp/catholic/katsura/michiyuki.htmを参照しました)

群衆の移り気な姿

 イエスが十字架を担ぎ、歩き始められたとき、押し寄せてくる群衆を見て、あることを回想されます。それは、つい五日前に、群衆たちが棕櫚(しゅろ)の枝の葉を振りながら、ろばの子に乗っておられるご自身の前にそれを置く場面です。これは、イエスがエルサレムに入城されるとき、「ホサナ!(救い給え)」と喜び叫んでいたときのことです。つい五日前は、ユダヤ人群衆はこのようにして、イエスをメシヤ、救い主として喜び迎え入れていたのでした。なのに今は、おそらくはその中にいた多くの者が、イエスの十字架を喜んでいるほうに回っているのです。悲しきかな、これが人間の性(さが)です。人間は本当に感情的な存在です。本当に大切なことだと信じていることを一貫して行なうのではなく、その時々に応じて、気分次第で自分に態度や意見を変えます。

 彼らが態度を豹変させた主な理由は、エルサレムに入られてからのイエスを見て、自分の思っているような人物ではなかったからでしょう。後に祭司が、「おまえが神の子なら、自分自身を救ってみろ。」また、イエスの横で十字架につけられている罪人が、「おまえが救い主なら、俺を救ってくれ」と叫んだように、今の一時的な圧迫感を取り除きたいため、また目に見えるしるしをただ求めているので、本当に大切な事柄、永続する価値観を見失っていました。「友人のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はありません。」とイエスは言われますが(実際後で回想場面にて、このイエスの言葉が出てきます)、神の愛の究極の姿がこの十字架であるのに、そのようなことを思わず表面的なところでイエスを判断します。「こいつは弱い奴だ。」「大きい事を言っていたくせに、何もできないではないか。」と思うわけです。

マリヤの接近

 けれども、そのような群衆の中に、何人か、イエスを慕ってやってくる人物がいます。初めは、イエスの母マリヤです。イエスの悲しみの道をたどっているマリヤのところに、その道を挟んで向かいに、サタンも歩いています。目が合うときが一瞬あります。熾烈な霊の戦い、というところでしょうか?そして一人のローマ兵がマリヤを見て、「彼女はだれか?」と他のローマ兵に行きます。「あのガリラヤ人の母だ。」と答えると、そのローマ兵は彼女から目が離せなくなりました。けれどももう一人のローマ兵が、「ほら行くぞ!」と言ってようやく目を離すことができました。

 そして途中で、群衆によってイエスの姿を見ることができなくなったとき、マリヤがヨハネに、もっと近づく方法はないかと尋ねます。それでヨハネは、別の回り道をつかって急いで行けば、他の地点で主に会えるかもしれない、ということで、イエスの母マリヤとマグダラのマリヤ、そしてヨハネは、その道を走っていきました。

 そして間に合いました。イエスはすでに、一度、大胆な倒れ方をしています。かなり疲弊しています。マリヤは、間に合ったのですが、イエスに会う勇気がありません。けれども、イエスが再び倒れます。その時に、幼少期のイエスのことをマリヤは思い起こしました。(写真)野外で汁を作っているとき、坂道を上るイエスが転びました。マリヤは両手を前に広げながら、イエスのところに走っていきます。そして抱き上げました。このことを思い出し、同じようにしてイエスのところに走りより、倒れたイエスに話しかけました。(写真

 イエスは言われました、「わたしは、すべてを新しくします。」と。これは、イエスの再臨(再び戻ってくる)の後に、この天地万物が完全に新しくされ、新しい住まいである天のエルサレムが与えられるとき、神が言われる言葉です。

・・彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」(黙示録21:4-5)

 マリヤが涙して泣いていましたが、その涙も悲しみも完全に拭い去られる、まったく新しい秩序が来ることをイエスが語られた、ということです。コリント第二5章17節には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。キリスト者になれば、この新しい創造を霊的に経験し、新しい秩序に対する希望を持つことができます。

 マリヤとの出会いによって、イエスは力を得た(?)ようです。

シモンという人


 そして、次に出てくるのは、シモンというユダヤ人です。彼は過越の祭りに参加するために、たまたま、イエスの悲しみの道に通りかかった人物です。このとき、イエスがかなり疲弊していました。にもかかわらず、ローマ兵らは面白がるようにして、この方をむち打ちます。(写真)けれども、あの百人隊長が馬に乗って通りかかりました。そして兵士の一人に言いました。「見ろ、イエスは自分では十字架を運べないだろう。手伝え!」と命じました。そこでその兵士は、そこに居合わせたシモンに、十字架を担げ、と命令します。非常にいやがったシモンですが、「私は、この有罪者と何のかかわりはない。」と周りの群衆に聞こえるようにして断わりを入れてから、十字架の片側に自分の肩を入れました。イエスはもう一方の側を担いでおられます。(写真

 このシモン、聖書では、もしかしたら後にキリストの弟子になったのではないかと思われる記述があります。マルコによる福音書は、主にローマ人を読者として意識して書かれたと言われていますが、マルコ15章21節には、シモンが、「アレキサンデルとルポスとの父」であると紹介されています。そしてローマ人への手紙の中で使徒パウロは、「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。(16:13)」とあります。この"ルポス"が同一人物であれば、イエスの十字架を担いだシモンの息子は、キリスト者であったということになります。さらに、使徒行伝13章1節には、アンテオケにある教会の奉仕者たちの中に、「ニゲルと呼ばれるシメオン(1節)」が挙げられています。シメオンはシモンの別名であり、ニゲルとは浅黒い肌という意味があります。シモンはクレネ人でアフリカ人ですから、アンテオケにいるシメオンは、十字架をかついだシモンである可能性は大です。

 そう考えると、映画に描かれているシモンをじっくり眺めると非常に面白いです。彼は、初めは、ローマ兵に強いられて十字架を担ぎました。しかし途中で、倒れたイエスをローマ兵らがむち打つのを止めないので、彼は怒りだし、「止めろ!」と大きく叫んで、「こんなことしているなら、もう十字架をかつがないぞ!」と言います。それから、しばらくしてゴルゴダの丘が見えてきました。シモンは、もう一度倒れてしまい立て直したイエスに、「もうすぐだ」と励ましの言葉をかけます。(写真)そして、ゴルゴダの丘に着いたとき(写真)、彼は大声で叫んで十字架を取り降ろし、そして血だらけのイエスとじっくりと目を合わせ、顔を合わせます。その時にローマ兵が、「ほら、もういいぞ!早くここから出て行け!」と言われますが、彼はイエスから目を離すことがなかなかできません。ついに、目を離してその場を離れるときは、彼は泣いていました。シモンは確かに、受難のイエスに触れて、それで気持ちと心を変えたのです。

ヴェロニカ(写真

 もう一人、イエスに近づく人がいます。途中でユダヤ人の顔をした女性が出てきます。彼女は自分の家から出てきて、白い布をもってイエスのところに近づきました。顔からは涙が流れています。そして倒れたイエスにその布を差し出すと、イエスは顔を拭かれました。彼女は水も与えようとしましたが、ローマ兵に止められます。

 けれども、このヴェロニカという人物、聖書には全然出てこないので、私はヴィア・ドロローサのことを思い出すまでは、いったい彼女は誰なのかさっぱりわかりませんでした。

敵を愛す

 間もなくゴルゴダに到着します。シモンが、「もう少しだ」と励ましたとき、イエスの目には、頂上のゴルゴダが見えました。その時に、イエスは再び回想されます。それは、山上の垂訓のことです。イエスがガリラヤ湖畔で宣教を行なわれていたとき、弟子たちの前で、彼らがどのような生き方をしなければいけないかを教えられました。(写真

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:43-48)

 この場面から十字架に磔にされるところまでで強調されているのは、「敵を愛す」ること、そして反抗者らの罪の赦しを願うことです。おそらくはメルギブソン個人の中で、大きな位置を占めている内容なのでしょう、イエスの他の、愛についての言葉にお語りになった回想場面も出てきます。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)

と、過越の食事のときにイエスは言われました。残虐性や、ましてや反ユダヤ主義を触発するためにこの映画を作ったのではなく、愛、平安、希望を伝えたいから、というのが彼の動機です。メルギブソンはこの映画に関連して、かなりひどいことを言われたり、ひどい仕打ちを受けたりしたようですが、米テレビ局ABCのインタビューの中で、「仕返ししたい気持ちはもちろん出てくるけれども、それでも愛さなければいけない」という内容のことを話していました。

 イエスは、ローマ兵が釘をご自分の手足に打つとき、「父よ、父よ!どうか、彼らを赦してください!」と叫ばれます。そして、大祭司が十字架につけられているイエスを見ながら、「神の子であれば、自分を救ってみるが良い。」とののしったとき、「父よ、彼らは何をしているのかわからないのです。どうかお赦しください。」と祈られます。ひどい仕打ちを受けられているイエスから、憎しみの声はもちろんのこと、悲壮な叫びさえ聞こえてきません。そこには、父なる神にゆだねきった心と、ある意味、攻撃的なまでに、敵の罪の赦しを選び取られるイエスの姿があります。

 信者ではない人の多くは、「敵を愛す」という聖書の言葉はよく知っておられるようで、「このような高い規準で生きることは自分には到底できない」ということで、キリストへの信仰を持たない理由にしています。けれども救いは、ただ神がキリストにあって行なってくださったことを信じて受け入れることによって、もたらされます。自分が敵を愛せない不完全な存在だけではなく、聖なる、正しい神の前では、汚れた、救いようのない罪人であることを認めることによって初めて、キリストの救いを求めることができます。

 ですからこの高い倫理性は未信者の人たちではなく、キリストの弟子であるクリスチャンに向けられたものです。そこには激しい葛藤があります。メルギブソンが正直に告白したように、敵を愛することなど自分の力では到底できません。しかし、ゲッセマネの園でもだえ苦しみながら祈られたイエスのように、私も、自我との葛藤を主に申し上げるなかで、主の御霊によって取り扱われます。それでようやく、自分ではなくキリストが、自分を通して事を行なってくださいます。どうしても仕返しをしたいと願う自我が砕かれ、キリストが自分のうちで生きてくださるなら、その神のゆだねきった心から、敵を愛する愛がにじみ出てきます。パウロは、「自分ではなく、キリストが」と言って、自分の世界から、キリストに生きていただく生活に変えられた事を告白しています(ガラテヤ2章参照)。

良い牧者

 シモンが泣きながらゴルゴダから立ち去ったその直後に、マリヤとマグダラのマリヤ、そしてヨハネがやって来ます。(写真)イエスは十字架につけられそうになっていました。その時、騾馬に乗って大祭司らも到着していました。血だらけで、めちゃくちゃにされているイエスを、さげすむような目つきで眺めました。そのときイエスはまた回想されます。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。・・・だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 (ヨハネ10:11,18)

 ここで、暗示的に祭司たちとの対比が行なわれています。このヨハネ伝10章における箇所では、牧場にいる羊をねらう狼についてイエスが話されていますが、これはユダヤ人宗教指導者らのことです。一般のユダヤ人を神の御国に導くのではなく、地獄に招き入れている張本人であると指弾されているわけです。そして、雇われ羊飼いのことも出てきます。雇われているから、羊に対する重荷はありません。狼が来たら逃げてしまいます。しかし、イエスは良い牧者です。羊は羊飼いの声を聞き分けることができますから、イエスについていきます。そして牧者は羊のために、いのちを惜しいとは思いません。イエスは、わたしはそのような良い牧者である、と言われているのです。

 そして非常に重要なことがあります。イエスは十字架につけられ、死にますが、それは、ある意味で(語弊があるかもしれませんが)自殺であった、ということです。「だれも、わたしのいのちを取った者はなく、わたしがいのちを捨てる」とイエスは言われているからです。イエスは、非常にたやすく、ユダヤ人に捕らえられるときその場を免れることができました。実際映画では、イエスが「わたしがそれだ。」と言って威厳を持って立っておられ、彼らによって捕らえられるを待っていたかのような印象も受けます。マタイ伝には、天使を大勢呼んできて、彼らを滅ぼしてしまうことはできる、と言われています。

 またピラトの前で、ご自分の弁明をなさいませんでした。けれども、弁明されれば、ピラトは簡単にイエスを釈放することができたかもしれません。そして最後の場面で、ローマ兵がまだ息絶えていない罪人二人のすねを折って、窒息死させましたが、イエスはその前に、「わが霊を、あなたにゆだねます。」と言われて、息を引き取られていました。したがって、すべてにおいて、イエスご自身の明確な意思決定による死であったことを知らなければいけません。イエスは弱かったのではありません。この方は全能の神の独り子です、何でもすることがおできになります。しかし、あえてしもべの姿を取り、私たちの罪の供え物となるために、十字架に至るまでご自分の意思で従われたのです。

 そして、ここに愛があります。私が初めてクリスチャンになることを人の前で言い表わしたとき、イエスが自ら進んで十字架の道を歩まれたことを知ってのことでした。それまでは、自分の罪のために、キリストが死ななければいけないことはわかっていました。けれども、それが嫌々ながらであれば、そこには愛を感じませんでした。けれども、イエスは私のような者を心から愛しておられて、それで、自ら願われて十字架刑に服されたのです。ですから自分がイエスさまを愛しているのは、その前に、初めにイエスが愛してくださったからです。

イエスのみが救いの道

 イエスは、再び母マリヤと目が合います。そして主は目を空に向けられ、また回想されます。先に言及しました、過越の食事の場面です。(写真)友のために自分のいのちを捨てることが、一番大きな愛であると言われて、さらに、次のことばを言われます。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

 多くの人は、「すべての道は神に通じる」と言って、どのような宗教を持っていても神に到達することができる、と言います。しかし、それはイエスがここで言われていることと真っ向から対立します。原語では、道、真理、いのちの前に不定冠詞、英語ならtheが付いています。つまり、イエスのみが道であり、イエスが真理であり、イエスがいのちであり、その他に神のところに行くことはできない、とイエスが言われています。

 もし他の方法や宗教的行為によって救いが得られるのだったら、イエスは十字架につけられる必要はまったくなかったのです。だから、イエスは、「できますならば、この杯を私から取り除けてください。」とゲッセマネの園で祈られたのです。宗教も含めて、人間の営みによって神のところに行くことができないから、神は、ご自分の御子に私たちの罪を負わせ死に渡させるという、残虐な方法を取られたのです。それは、だれひとり滅びることなく悔い改めてほしいという、神の愛と願いから出てきているものです(2ペテロ3:9)。

釘打ちからほとばしる血

 ローマ兵が、十字架の上に載せたイエスの手足に釘を打ち付けます。この場面は、どの、イエスについての映画においても、目をそらしたくなるところですが、この映画ではもっともっと詳しく、そしてリアルに描いています。特徴的なのは、飛び散る血であり、流れ出る血でしょう。釘を打つその手から、注射の針の先から薬がピッと出てくるように、血が出てきます。イエスの左手を釘つけてから(写真)、今度は右手に釘を打ちます。

 けれども、右手に釘を刺し通すときに、予め木に空けておいた穴のところまで、イエスが腕を伸ばすことができません。痙攣して、まっすぐに左右に大きく両腕を広げることができなくなっています。そこで兵士の一人が、「こうすればいいんだ」と言って、イエスの右の手首にロープを巻いて、思いっきり引っ張って、両腕を無理やり伸ばさせました。イエスはその痛みによって叫ばれます(写真)、そして、ぐきっと腕が伸びました。明らかに、腕の関節がはずれたから伸びたことがわかります。十字架刑などと言うものが存在しなかった紀元前1000年ごろに、イスラエルの王ダビデは、十字架刑についての詳しい説明を詩篇の中で書いています。「犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。(22:16-17)」

 右手が釘打たれたとき、その十字架の木から、血が地面にしたたりおちているシーンもあります。

 この様子をずっと眺めているマグダラのマリヤにカメラが向きます。(写真)彼女の顔が一瞬青ざめたかのようになりました。なぜなら、ローマ兵たちがイエスの十字架を反対向きにしようとしたからです。そうしたらイエスは地面へ打ち付けられることになります。

 ところが不思議なことが起こりました。イエスが地面に打ち付けられる直前のところで十字架が固定されました。マグダラのマリヤは驚いています。(私も驚いています、そしてなぜこのような不思議な場面があるのかまだ理解できていません。聖書にも書いていません。)そして、ローマ兵は、反対側に突き抜けて出っ張っている釘の先を、ハンマーで板に打ち付けて、平らにします。そのときもまた、血が少しピッと出てきました。

十字架が立てられる写真

 そして今度は足に釘を打ち付けます。足は両足を重ねて、一本の釘で打ちつけます。(写真)そして、ついに十字架が垂直に立てられます。あらかじめ掘っておいた、十字架の縦木が入る穴があります。十字架の横木の両側に紐を取り付けて、それで十字架を立てていきます。ほぼ垂直になったときに、その穴の中にスポンと入れるのです。当然、穴に入るときの振動で、イエスの体には激痛が走ったことでしょう。

 このときに流れる音楽が、「ついに十字架につけらえた!」という高揚をますます促進しています。マグダラのマリヤは、布で頭を覆って、イエスを眺めます。彼女は、十字架がまだ地面に寝ていたときに、イエスを見るために顔を地面にこすりつけるようにして見ていたので、その眺めている顔は汚れまくっています。(写真

 この時を前後に、最後の晩餐の回想が入りました。イエスが、「これは、裂かれるわたしのからだです」と言われてパンを裂かれる場面と、「これは、あなたがたのために流される新しい契約の血です」と言われて、ぶどう酒の杯を回される場面です。

十字架の苦しみ(写真

 この時の苦しみは、福音書の記事だけを見るのであれば不完全でしょう。先ほどの引用したダビデの詩篇を読む必要があります。22篇からです。

22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。・・・

22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。22:8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」・・・

22:13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。22:14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。22:15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。22:16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。

22:19 主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。22:20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。22:21 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。

 22篇は、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉から始まりますが、これは後でイエスが叫ばれるアラム語「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」の日本語です。そして2節には、昼に叫び、夜に叫ぶ、と書かれていますが、午前9時から十字架刑が始まって、正午になったとき全地が暗くなって、午後三時までそれが続きました。そして6節以降にご自分のことを、人間以下の虫けらのようにされていることが書かれており、人々が口をとがらせて、「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」とののしるとあります。これがそのまま、祭司などの口から発せられました。

 こうした罵りの言葉の中で、自分の肉体の状態が記されています。「水のように注ぎ出されて」つまり血が体からほとばしり出て、「骨々がはずれる」つまり関節がはずれ、心臓がろうのようになる、つまり心臓が過度に動くことによる水化現象が起こり、「土器のかけらのようになり」つまり脱水症状に陥り、舌がかわききり上あごについた、とあります。この渇きは福音書にも記されており、イエスはあえて、ローマ兵が差し出した酸いぶどう酒を受け取られませんでした。

 そして18節、「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」は文字通り、イエスが十字架につけられているその現場で、ローマ兵らがイエスの着物を分け合いました。これが聖書における十字架刑の、イエス本人側からの説明です。そして医学的な説明を紹介します。

「人間が縦方向に吊るされますと、非常な苦しみを感じながら、ゆっくりと死が訪れます。十字架での最終的な死因は窒息死です。

この窒息死の仕組みを説明しましょうか。息を吸いこむためには、筋肉と横隔膜に力を入れる必要があります。一方、息を吐き出すためには、足を突っ張らなくてはいけません。こうすることで、筋肉の緊張が一時的にほぐれるわけです。このとき、足に刺さった釘がさらに深く刺さって、最終的には足根骨を完全に固定します。

息を吐き出しますと、身体を少し下げ、リラックスしてまた息を吸い込みます。その後、また息を吐き出すために足を突っ張って身体を持ち上げるのですが、このとき、すでに傷めて血だらけの背中が、ざらざらとした十字架の板にこすりつけられることになります。身体が完全に疲労困憊して、呼吸のために身体を持ち上げる体力がなくなるまで、この単調で痛みを伴う作業が繰り返されるわけです。

このようにして呼吸が難しくなりますと、血液の中の二酸化炭素が分解して炭酸になり、血中の酸度が増加する呼吸性アシドーシスという症状が起きます。この結果、心拍異常が発生します。このように心拍異常が発生した段階で、イエスは自分の死が間近なことを悟り『父よ。わが霊を御手にゆだねます』と言ったのでしょう。そしてこの言葉の後、心停止して死亡しました。」(「ナザレのイエスは神の子か」いのちのことば社 325−326頁)

パラダイスに入る罪人

 イエスの両脇には、同じく十字架刑に処せられている罪人がいます。一方がイエスをののしってこう言いました。「おまえはキリストではないか。自分と俺たちを救え。(ルカ23:39参照)」苦しんでいるときに、よくこんなこと言えたものだなあ、と思います。

 そして、そこに祭司カヤパが通りかかります。そして、こういって罵ります。「神殿をうちこわして、三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。(マタイ27:40)」自分たちの神殿をこわすと言われたことに、相当頭に来ていたのでしょうか?イエスが言われていたのは、ご自分の肉体を比喩していた、つまり十字架刑によって死ぬがそれから生き返る、ということでした。けれども、祭司はそんなことはわかりません。そして罵ったのですが、「十字架から降りて来い。自分を救え。」という彼の要求に答えることは、イエスは十分に可能でした。確かに神の御子であり、そこから降りることは容易いことだったのです。

 けれども、それを行なったら大変なことになります。イエスがご自分を救ったら、世界中の人々は救われなくなるからです。イエスが救われないで死なれるから、交換として、私たちは代わりに救われ、永遠に生きるのです。だから、ここで十字架から降りたら、すべての人が地獄に行く運命に定められます。それを避けることができるようにするために、イエスが地獄の苦しみを十字架の上で受けられたのです。

 そして、その祭司のことで、イエスは祈られます。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」そして、十字架につけられている、もう一人の犯罪人が祭司に声をかけます。「おい、見ろ!この方はあなたのために祈っておられるぞ。」

 そして彼はイエスに向きます。先ほどイエスを罵った男について、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだから、当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と言って、そしてイエスに願い事をします。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときは、私を思い出してください。(ルカ23:42)」そしてイエスはこの願いをすぐに聞き入られます。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」イエスは、罪を悔い改める者には、こんなにも早く赦し、永遠のいのちを与えられます。救いは、私たちの努力や行ないではなく、ただ自分が罪人であることを認め、そしてキリストにある神の赦しを求めるだけで与えられます。

 そして、もう一方のイエスをののしった犯罪人の十字架のところに、烏がやってきました。そしてなんと、犯罪人の目を突きました。彼の目はつぶれたことでしょう。これは聖書には出てこない場面ですが、おそらくはイエスを拒んだことによる神のさばきを、もう片方のパラダイスに入る犯罪人と対比させているに違いありません。(メルギブソンは、聖書だけでなく、他の本も典拠としているので、そこに出ているのかもしれません。)

暗くなる空

 ローマ兵たちは、十字架の真下で、イエスの着物を分けるためにくじ引きをしていました。その時です、雲行きが怪しくなってきました。いや、雲行きではなく空が暗くなってきました。それで、これまで十字架刑を見物していた多くの者が、その場から離れていきます。祭司長らも神殿のほうに戻りました。

 ところで、この現象は皆既日食ではないことは確かです。なぜなら過越の祭りが行なわれるのは満月の時であり、満月の時に完全な皆既日食が起こることは不可能だからです。では、これはいったい何だったのでしょうか?この出来事が起こる八百年ほど前に、羊飼いであったアモスがこう言いました。「その日には、・・神である主の御告げ。・・わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。(アモス書8:9-10)」驚くべき預言です。まさにイエスが十字架につけられた時のことを描いています。そして、「ひとり子を失ったときの喪のようにし」とありますが、神の子イエス・キリストがこのときに失われました。全人類の罪が神の御子に置かれたときです。神の裁きと怒りがその独り子に下った時です。そのため、真昼に地が暗くなりました。

マリヤ、イエスに近づく

 この時にずっと前から眺めていたマリヤが、イエスの十字架に近づいて来ます。(写真)十字架のところに近づかないように立っていたローマ兵が彼女を見ます。ヴィア・ドロローサでマリヤをじっと見て、目を離すことができなかったあの同じローマ兵です。彼は近づくマリヤを追い払うことなく、むしろ彼女が近づくことができるように、さっとよけました。

 そしてマリヤは、イエスの血だらけの足の指先に接吻します。(写真)彼女の口と顔には、当然ながら血糊がたくさん付きました。その顔でイエスを見上げてこう言います。「私の骨の骨、私の肉の肉よ!私はあなたと死にたい。」するとイエスは、マリヤに言われました。「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」マリヤのそばに立っている人はヨハネでした。そしてヨハネに対しては、「そこに、あなたの母がいます。」と言われました(ヨハネ19:26−27)。イエスを失う母について、イエスが家族の世話を果たされる最後の場面です。

完了した業

 そして、イエスは叫ばれます。(写真

エロイ・・・・エロイ・・・ラマ・サバクタニ!

 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、という意味です。イエスがもっとも恐れたのは、ゲッセマネの園でもだえ苦しみながら祈られ、「できますならば、この杯をとりのけてください。」と言われたその一番大きな理由は、これでした。「杯」は肉体の苦しみ以上に、父なる神から霊的な断絶を意味していました。イエスは神の独り子です。この方は永遠の昔から、御父のふところにおられた神です。この方が、今、罪の結果である神との離反を、つまり地獄の苦しみを味わっておられたのです。

 そして、イエスは「渇く」と言われました。その時に百人隊長は、酸いぶどう酒がはいった海綿を槍の先に突き刺し、先のローマ兵に対し、これを飲ませよ、と指示します。酸いぶどう酒は痛みを麻痺させる効用を持っていますが、イエスは顔をそむけて受け取られようとされません。

 そしてイエスは言われました。

完了した(It is accomplished.)(ヨハネ19:30)

 なにが完了したのでしょうか?日本語の字幕で上手に訳されていましたが、「救いの御業」です。神が、人を罪から、死から、地獄からお救いになるための業をすべて完了させてくださった、ということです。イエスがすべての罪とのろいと神の怒りをご自分の身に受けられて、それで終了しました。

 そしてイエスは言われます。カメラの視線は、イエスの上からイエスを撮影しています。血だらけのイエスの顔が上空を向いています。(写真

「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

 息を引き取られました。

悲しむ父

 そしてカメラははるか上空から下の刑場を映し出します。その画面が歪みました、なぜなら、大きな涙がそこから落ちていくからです。これはもちろん、父なる神の涙です。私たちは誤解してしまうのは、父なる神が私たちに怒っておられて、罰を与えようとするところをイエスが割り込んできて、その拳骨を受けるような、怒っておられる神を想像してしまうことです。けれども、それは違います。

 このことが起こった二千年ほど前に、同じ場所であるモリヤ山にて、アブラハムがイサクを連れて、ここに来ました。彼が数十年待ってようやく生まれ、大切に育てたイサクを、です。神はアブラハムに、「あなたの愛するひとり子、イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」と命じておられたからでした。アブラハムはその命令に従い、刀を振り落とそうとしたとき天使が介入し止めさせましたが、そのとき味わっていた痛みはイサクだけのものだったでしょうか?いいえ、刀を愛するひとり子に振り落とす父アブラハムこそ、肉体的に傷を受けるイサク以上に痛んでいたに違いありません。神も同じです。父なる神はご自分が愛する独り子が失われたこと、無残な死を遂げられたことを、独り子と同じように悲しみ、痛まれていたのです。

大地震

 その涙が地面に落ち、はじけました。(写真)すると地が揺らぎ始めました。大地震です。ローマ兵たちは慌てふためきました。そして場面は、ユダヤ人の神殿に移ります。神殿の中にある祭具が倒れ落ちています。祭司らも慌てふためいています。そしてついに、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けます。そして中にある契約の箱も露に見えてしまいました。あれだけ執念を燃やしてイエスを死に至らしめさせた祭司カヤパは、垂れ幕が裂けてしまったのを見て、嘆き悲しみます。

 これは大きな意味を持っています。旧約聖書に、幕屋や神殿のことを描くのに多くの紙面を割いていますが、神のところに近づくために、隔ての幕があり、また動物のいけにえ、手足の洗いを経なければなりません。そして、祭司たちしか入ることができない聖所があり、その中は二つの部分に分かれていて、さらに奥に至聖所と呼ばれるところがあります。そこは大祭司が年に一度、イスラエルの民の罪を神にきよめていただくために、中に入ることできるところです。そこにモーセの十戒の石の板が入っている契約の箱があります。

 聖書の神は非常に聖なる方であり、完全な存在です。少しでも罪、汚れがあれば、その者は死ななければいけません。隔絶された存在です。しかし、救いの御業が完了した今、聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕が裂け、神が臨在されるところに自由に行くことができるようになったのです。祭司にとっては、映画が描くように悲劇的な出来事であったでしょう。(メルギブソンは、もしかしたら、神殿をこわしてみるとイエスが言われたことが、実際に起こったというように解釈しているのかもしれません。)けれども、私たちにとっては良き知らせであり、この聖なる神に、キリストを通して大胆に近づくことができるようになったのです。

いのちを捨てられた方

 そして十字架の刑場に場面が移ります。大地震が起こったので、犯罪者らが振り落とされるかもしれないと思ったのでしょうか、百人隊長は部下らに棍棒でもって、三人のすねを折るように命じました。先の十字架刑の医学的説明で書かれていたように、十字架は緩慢な窒息によって死に至らしめる刑ですが、かろうじて息ができるのは足を突っぱねることによって可能になります。(したがって十字架刑に処せられた者たちは、二・三日も生きることもあったと言われています。)けれども、すねの骨を折ることによって、息をする過程を経ることができず、窒息死を早めることができます。

 ローマ兵は、これを先に左右の犯罪人に対して行ないました。そして真ん中のイエスのすねを折ろうとしますが、思いとどまっています。百人隊長が、「どうした、早くしろ!」と言います。ローマ兵は答えました。「もう死んでいます!」そこで、「確認しなさい」と槍をローマ兵に渡して、これをイエスに突き刺すように命じます。ローマ兵は心臓めがけて、わきから槍を突き刺しました。(写真)するとどうでしょう、イエスの体から水と血がほとばしり出ました。そのローマ兵は、ほとんどイエスを拝するような姿を取って、ひざまずき驚嘆します。そして、この映画の最初のほうから出てくるあの百人隊長は、これらすべての出来事を見て自分のかぶとを脱いで、死なれたイエスに敬意を払いました。この百人隊長は、イエスを神の子であると信じたのです。福音書には「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『この方はまことに神の子であった。』と言った。 (マルコ15:39)」とあります。

 そして、水と血が出てきたことに戻りますが、医学的な説明が可能です。「すでに血液量減少性ショック状態にあったイエスの心拍数は、死を迎える前にすでに以上に上がっていて心機能不全を起こしていたと思われます。この結果、心臓の周りの細胞膜周辺に心外膜液という液体が、そしてその肺には胸水という液体が集まります。」・・・「槍は右肺から右心臓に到達します。そして槍を引き抜くときに水のように見える心外膜液と胸水が体外に排出され、その後、大量の血がやはり体外に排出されます。」(「ナザレのイエスは神の子か」リー・ストロベル著 いのちのことば社

 イエスは確かに死なれました。そして、人にいのちを取られたのではなく、自分でいのちを捨てられました。

悪魔の敗北

 そして悪魔が出てきます。彼は、(彼女? − 女優が演じており、映画の中でも女性的な部分が見え隠れします。けれども聖書に出てくる悪魔は、他の天使を含めて、男性名詞ですから、「彼」と言ったほうがふさわしいです。)同じゴルゴダの丘にてわめき叫び、この出来事によって敗北しました。コロサイ書には、「神は、キリスト(十字架)において、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。 (2:15) 」とあります。(ここの引用の「すべての支配と権威の武装」とは、堕落した天使どものことです。)

 悪魔は、ものすごい力と高い位を持っている存在ですが、神とは比較にならず、被造物にしか過ぎません。彼はあらゆることを行なって、イエスを殺すように仕向けましたが、彼は有限の知識しか持ち合わせていません。キリストが最後まで、十字架に至るまでその使命を果たされることまでは、考えることができなかったのでしょう。

 パッション(受難)を理解するのは、悪魔や闇の勢力による、人としてのイエスに対する凄まじい戦いが背景にあることを知る必要があります。メルギブソンは、映画の初めにゲッセマネの園からサタンの誘惑を挿入し、受難の間必ず彼を出演させていたことは、この霊の戦いの壮絶な様をよく描くためでなかったかと思います。

ピエタ

 そしてイエスの死体は十字架から取り降ろされます。(写真)そのぐったりとした体は、本当に死んでいるように見え、すばらしい演技だと思いました。(注:パンフレットを読んだら、プロダクション・ノートに、十字架のイエスには人形が使われたシーンがあったと書いてあります。となると、演技のすばらしさではなく人形のメイクアップのすばらしさ、ということになるでしょう。)そしてその遺体は、マリヤの両腕の中で抱かれます。(写真)そこで終わります。その姿は先に話したようにミケランジェロのピエタ像そのものです。

 そして、最後の場面は、石の上に置かれている、イエスのいばらの冠と、三本の釘、そして釘を打ち付けたハンマーです。ああ、これですべては終わったのだ、という感慨を与えます。

すべての希望 − 復活

 ここで映画がすべて終わったかのように、黒い画面が数秒続きます。ところがそうではありませんでした。そこは暗くなっている墓の中だったのです。大きなごろごろという音が聞こえます。墓の石がころがっている音です。(当時の墓は、特に富んだ人の墓は、ほら穴に墓の石をころがすというものでした。)光が差し込んできました。そして、死体を包まっていた布がふわっとしぼみます。数秒前までそこに死体があったことが分かります。そして出てきました、血だらけのイエスではなく、きれいな顔をしたイエスです。(写真)裸体のイエスは立ち上がり、墓を出て行かれます。そして立ち上がられたとき、手が見えましたが、その手には・・・残っていました、釘が刺された穴です。

 これで映画はすべて終わります。イエス役の俳優は、「ここの最後の場面が大切なのです」と言っていました。30秒ほどのシーンですが、新約聖書では十字架と並ぶ中心的出来事として描かれています。イエスの復活です。新約聖書の中で一番早く書かれたと言われているパウロの、コリント人への第一の手紙にはこう宣言されています。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。(コリント人への手紙第一15:3-7)

 今も、イエスの墓がエルサレムにあります。そこには遺体がありません。看板が掲げられているだけです。「彼はここにはいません。よみがえられました。」と書かれています。

 実にこの事実のゆえに、使徒たちは文字通り命を賭けて、イエスの御名を宣べ伝えました。そしてこの知らせはユダヤ地域だけでなく、小アジヤ(現在のトルコ)にも伝わり、そしてギリシヤ、ローマへとヨーロッパに伝えられていきます。何十万、何百万のキリスト者が、ただイエスを主と告白するゆえに、殉教しました。ローマのキリスト者らは、競技場に連れて行かれ、その中で観衆が見ているところで、ライオンに食い殺されました。とてつもない迫害と拷問を受けてきました。日本の土地も聖徒らの血で潤っています。キリシタンが大ぜい苦しみ、死にました。

 そして今は、これまでの殉教者数を足しても、前世紀だけで死んだ人数は多いと言われています。イスラム教国はもちろんのこと、となりの中国や北朝鮮でも、キリスト信仰者ということだけで、ローマが行なったのとさほど変わりない仕打ちを受けています。けれども彼らは喜んでいるのです。彼らは信仰を捨てないのです。むしろ何不自由なく暮らしているはずの人たちよりも、輝いて見えるのです。なぜか?それは、イエスがよみがえり、今も生きているイエスに自分が出会っているからです。イエスがよみがえったのだから、キリストに連なる私たちもよみがえるのだ、という信仰を持っているからです。永遠のいのちの希望があるからです。

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)


(無断転載はお控えください。転載されたい方はメールにてご連絡ください。)


付録:鑑賞前後の背景知識に役立つサイト

以下の二つが、非常に詳しく、体系的に映画の説明をしています。

パッション 鑑賞前にこれだけは押さえておこう (ヘラルドの公式サイト)

MARRE.JP/THE PASSION OF THE CHRIST


映画「キリストの受難(The Passion of the Christ)」に戻る。
 


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