国民の歴史 − たえこの徒然草


 10年近くも前に、日本の自衛隊がカンボジアに派遣された。その時私の頭をよぎったのは、日本のかつてのシベリア出兵だ。日本が危ない道を歩み始めた気がした。それから少しして、バブルがはじけて日本経済は不況に突入した。その頃私は主人と結婚した。結婚して少し経って、私は主人に、「日本はこれからどんどん右傾化するかもしれない。」と話した。ちょうどその年は米が不作で、日本で主婦の多くが米のパニック買いをしていた。主人は、「なぜ?」と尋ね、私の言っていることがわからないふうだった。私は日本が右傾化する理由として、かつて戦前の日本がシベリア出兵を行ない、米騒動が起こり、昭和金融恐慌とともに軍国主義が強まり中国での戦争、太平洋戦争に突入していったことを挙げ、状況が第二次世界大戦の前に似ているからと言った。その時主人は、私の発言にそっけない反応だった。

 その後私たちはアメリカで数年を過ごした。日本に帰国して少ししたら、国歌国旗法と盗聴法が制定された。その頃主人は私が以前に「日本は右傾化する」と言った言葉を思い出して、盛んに日本の歴史について私に質問をするようになった。その時私は、「盗聴法は治安維持法みたいに将来的に使われるかもしれない。」と言った。そもそも治安維持法は、それが制定された時点ではそれほど危険視されていなかったが、軍国主義の拡大と共に、法解釈が広げられ、単に共産主義者だけでなく、キリストを王としその御国が再臨のときに建てられると信じるクリスチャンを含めて、天皇を礼拝しない者たちすべてに法が適用されていった。

 この他にも類似点はたくさんある。かつて帝政ロシアを牽制するために、イギリスが日本と日英同盟をむすんだ。もちろんイギリスの国益の都合でこのような軍事同盟が結ばれたのだが、これは日本にも有利な立場を与えた。今の日米同盟と似ている。現在の憲法で軍事力の保持さえ否定されているので、さすがに日米軍事同盟とは呼ばれず、日米安全保障条約と呼ばれているが、中身は軍事同盟である。近年さらにこれが日米新ガイドライン(これを書いている最中に、歴史資料をながめていると、かつての国家総動員法の一部が、かなり日米新ガイドラインに似ていることに気づいた)としてさらに強化されている。しかし、忘れてならないのは、かつて日本が日英同盟を盾に、第一次世界大戦に参戦し、漁夫の利を得たが、それをよしとしなかったイギリスの意向で日英同盟が解消された。もちろん表向きは国際連盟ができるからという理由だが、強くなり始めた日本を今度はイギリスが牽制し始めたからだ。こうした経緯を考えれば、今の日米同盟を盾に、チャンスがあれば日本はどこかへ(どこへでも)派兵するにちがいない(もちろんそれを表す言葉としては、国際協力とか平和維持軍という名前が使われるに違いないが、派兵であることに違いはない)。その時には、かつてのカンボジアへの自衛隊派遣が根拠を提供し、どんどんと既成事実に基づいてエスカレートしていくだろう。戦前もそういう調子だった。

 しかし、もし日本がそのような行動に出れば、アメリカが座視しているはずはない。すると日米関係に緊張が高まり、戦前に日本に対しアメリカが石油や鉄くずや様々な物資を禁輸したように、経済制裁にでるのは簡単に想像がつく。近年アメリカは、イラクに対して様々な禁輸措置を行なっている。イラクがクエートに進行する前まで、アメリカとイラクはそんなに悪い関係ではなかった国なのに。現在日本は、アメリカと仲良くしているので少々何をやっても赦されると考えているようだが、そういう甘えはアメリカには通用しない。日本の為政者はそれを肝に銘じておいたほうがよさそうだ。

 第一次世界大戦後、グローバル化が進んだ。国際連盟がその良い例である。元々国際連盟を提唱したのは、アメリカのウィルソン大統領だが、結局アメリカは国際連盟の加盟国にはなっていない。アメリカは世界の国々を動かすような提案は大好きだが、個人主義のためか内省的になって、孤立主義をとってしまう。今もグローバル化が叫ばれているが、これはもともとアメリカが推進してきた政策だ。しかし、そのアメリカの情熱もどこかで冷めてくる。京都議定書について、アメリカはさんざんいろいろ注文をつけたのに、結局離脱の方向に動いているのが、今の良い例であろう。典型的なアメリカ的な動きをしてくれている。

 日本の政局を見ていても、戦前を彷彿とさせる。戦前の日本の政党制度も、党の私利私欲で、結局国民のためにはならない方向に発展し、不景気対策のためもあり、挙国一致の名のもとに、大政翼賛会ができてしまった。今も長引く不況もあり、党の私利私欲が働き、本来の政党制が機能していない。

 日本の国民性も全く変わっていないのではないかと思わされる。ついこの間まで、森内閣の不人気が自民党の不人気になっていたのに、頭がすげかわっただけで、先の参議院選挙では、空前の自民党人気が復活。しかも、小泉首相という一個人に対して、国民の人気が集まってしまう。小泉首相の政策をよく吟味して投票した人はいったい何人いたのだろう。先日、ある人から、戦前の近江文麿内閣が、今の小泉内閣にとても似ていたという話を聞いた。何でも、近江文麿首相は、日本の主婦層に大人気だったそうだ。コロンビア大学のハーシャル・ウェブ元教授(故人)が、戦前の日本にはある程度の自由があり、決してドイツのような独裁主義ではなかったと述べているが、それに同感できる。今の日本人の動きを見ると、軍部だけが独走して戦争になったのではなく、ある程度国民がそれを容認し、悪いことをしているとか危ないことをしているという意識なしに、国民もその方向に流されてしまったのではないかと、思わざるを得ない。そして、戦後は、「あれは軍部のせいで、私たち国民は犠牲者」と考えている。よく、「国のせい」と言われるが、自分たちが国を構成している自覚があまり見られない。こんな調子では、また日本が危ない方向に行ったとしても、自覚なく、ただ流されていきそうだ。

 日本に帰ってきてから私は主人に、「日本はいつかアメリカと戦争をするかもしれない。」と言ったことがある。その発言に主人はすこぶる興味を持って、預言のように受けとめているようだ。それは単なる知識に基づく推測(educated guess)である。私は以前永住権を持っていたので、アメリカ市民になるチャンスはあったが、決してアメリカ市民になりたいとは思わなかった。その理由の一つは、一たび日米が戦争を起こすようなことがあるなら、必ずや日系人は第二次世界大戦勃発のときのように強制収容所に入れられるだろうと思ったからだ。昨今も、アメリカでアラブ系の爆弾テロが起きると、テロとは関係ないアラブ系のアメリカ居住者の人たちがアメリカ人から嫌がらせを受けていることで、何となく察しがつく。強制収容所行きはごめんだと思ったこともあり、アメリカ市民にはならなかった。その時から、日本がアメリカと戦争をすることもあるかもしれないとずっと思ってきた。それは、「絶対に日本がアメリカと戦争をする」というたぐいのものではない。そういう可能性もあるということである。

 日本には、そういう可能性さえ信じられない、いや否定する人たちが大勢いる。しかし、この世の中は何でもありの世界だ。新しい日本の歴史教科書の問題や小泉首相の靖国神社公式参拝問題など、日本人にはたいしたことではないと考えられていることでも、他の国にとっては我慢ならない問題もある。そうした国民感情を無視し続けるなら、アメリカどころか、中国とだって韓国とだって北朝鮮とだって、戦争になる可能性は否めない。日本人は概して、甘えているし、平和ボケしている。世の中そんなに甘くない。

 政治論や外交論をめぐり、新聞紙上でまた雑誌で、戦前もいろいろな論議がされた。今もそのような論議をよく聞くし、よく目にする。しかし、その多くは、議論に終わってしまい、世の中を良くするには至っていない。今巷で展開されている議論も、結局何の役にも立たずに終わってしまいそうだ。そうした「ための議論」が好きではないので、主人に頼まれても、なかなか歴史について書く気になれなかった。

 さて、戦前と今の状況の類似点を論じてきたが、だから結末があのときのようになるなどと預言するつもりは全くない。輪廻転生的な歴史観は持っていない。歴史は、その始まりからずっと一直線に終わりに向かって進んでいると思っている。戦前と今の状況が似ているのは、人間が罪人であり、同じような間違いを繰り返し続けているからにしか過ぎない。同じような間違いをすれば、同じような結果になってしまうと考えることは、預言ではなく、経験に基づく推測である。

 明石書店(別に私が所有しているのでも親戚がやっている出版社でも何でもない)から「韓国の歴史 − 国定韓国高等学校歴史教科書」という本が出ている。その中の「はじめに」という部分に、私の歴史観をうまく表現している言葉があるので、引用する。「歴史は事実にもとづく学問である。したがって過去にあった事実は恥ずべきとして隠蔽することのできるものではなく、誇るべきとして誇張することもできない。それは虚言で歴史を飾ることができないからである。われわれが歴史を学ぶのは、過ぎし日の華やかなりしときを鑑賞的に楽しもうとしたり、または困難なときを思って憤慨しようとするのではない。われわれは歴史を見るにあたって、心はより広く、眼はより遠くをめざさなければならないだろう。つまり、歴史を学ぶ究極の目的は、過去に対する理解をとおして現在を正しく認識し、未来を正しく設計することである。」

 クリスチャンとして、歴史を学んだ者としていま強く感じていることは、かつて第二次大戦中にあったような迫害は必ずやまた訪れるであろうということだ。その時に自分はどういう態度をとるのか、どういう行動に出るのか。かつて多くのクリスチャンがしたように妥協するのか、それとも殉教をも恐れず信仰を貫くことが出来るのか。私たちはみな最後に神の前に立ち、自分のしたことの説明責任を問われることになる。正しい選択肢を選び取っていくことが出来るように、祈るばかりである。みなさんは、どう感じておられるのだろう。


(あとがき)妻が、私の執拗なリクエストに答えて、日本近代史についてのエッセイを書いてくれました。彼女は、純粋に歴史学の立場から現代の日本を見ていますが、それが、聖書預言の絵巻の中にぴたっと当てはまる、というのが私の感想です。次に、きよきよのエッセイ、「反キリストの霊」をお読みになっていただければ幸いです。