テサロニケ人への手紙第一2章 「神の教会にならう者」


アウトライン

1A 神の福音をゆだねられた者 1−12
   1B 話し方 1−6
      1C 大胆さ 1−2
      2C 神を喜ばせる心 3−6
   2B ふるまい方 7−12
      1C 母の優しさ 7−8
      2C 父の厳かさ 9−12
2A 神の使信を受け入れる者 13−20
   1B 内に働くみことば 13−16
      1C 真理として 13
      2C 苦しみの中で 14−16
   2B 喜びの冠 17−20
      1C 再会の願い 17−18
      2C キリストの再臨 19−20

 

本文

 テサロニケ人への手紙第一2章をお開きください。ここでのテーマは、「神の教会にならう者」です。

 

 私たちは前回の1章の学びにて、パウロが、テサロニケの人たちのことについて、神に感謝の祈りをささげている部分を読みました。彼らの信仰の働き、愛の労苦、そして主イエス・キリストへの望みを思い起こして、祈っていました。また、彼らのそのありさまは、アカヤやマケドニヤ地方の他の信者たちの間で良い評判ともなっており、信者たちの模範となっていました。このように、パウロは、テサロニケの人たちのことを思い起こしていますが、今度2章においては、自分たちのことについて彼らに思い起こさせようとしています。

 

1A 神の福音をゆだねられた者 1−12
1B 話し方 1−6
1C 大胆さ 1−2
 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。

 「むだではありませんでした」と言っている限り、むだであったのではないか、と思われるような要素があったからこそ、むだではなかったと言っていると考えられます。次の節には、「私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けた」とあります。つまり、パウロたちの宣教旅行は、苦しみと迫害の連続でありました。

 パウロが小アジヤにいたときに、幻を見て、マケドニヤ人が私たちを助けてくださいと呼んでいました。そこでピリピの町に来たのですが、そこではパウロとシラスは、人々の扇動により、牢屋にぶちこまれ、またむち打ちに遭いました。これは主のすばらしいご計画の一部であり、そこの看守とその家族が悔い改めて、主イエスを信じましたが、それでも、ひどい仕打ちを受けてピリピの町を去ったのです。そしてテサロニケに来ました。ここでは、ユダヤ人会堂で、安息日にイエス・キリストの福音を論じていましたが、多くのユダヤ人から激しい反対に会い、ついにそのユダヤ人たちが、煽り立てて、町全体が騒然としました。彼らはパウロたちを捕えようとしましたが、パウロたちは夜のうちに逃げることができました。そして近くのベレヤの町で、福音を宣べ伝えていましたが、なんとテサロニケのユダヤ人がここにもやって来て、騒ぎを起こしたのです。

 そしてアテネに行き、コリントの町に来て、今パウロは手紙を出しています。パウロは確かに、マケドニヤ人が助けを求める幻を見ました。これが、パウロに対する主の呼びかけでした。けれども、思ったように事が進まずに、むしろマイナス要因が多い旅行であったのです。このようなときに、自分が試されます。たしかに主から、「そこに行きなさい。」と命じられたのに、そのとおりにならないのを見て、がっかりするのです。しかしパウロは、「むだにはなりませんでした」と言っています。テサロニケの人たちが、そのような苦しみの中でも福音を心に受け入れて、聖霊による喜びに満たされていたからです。

 私たちは、宣教の働きをすると、必ずこのような信仰の試練が訪れます。神が何かを仰せになって、そのとおりに行おうとすると、まったく反対のことが起こります。けれども、パウロがここで言っているように、その労苦は決してむだになることはありません。コリント人への手紙においても、パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(Tコリント15:58」と言いました。主にある労苦は必ず報われます。

 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。

 ここでの「苦闘」というのは、「激しい反対」と言いかえることができるでしょう。反対にあって、苦労が多いという意味です。そして「大胆に」という言葉がありますが、これは、大声とか雄弁にという意味ではなく、「自由に」と言いかえることができます。福音をありのまま、そのあるべき姿を十分に伝えることのできる自由があることが、「大胆に福音を語る」ということになります。

 私たちが自分たちが宣べ伝えている福音について、反対や非難が帰ってくると、それをすべて語らないほうがよい、という誘惑があります。一部だけ語ればよい。人を不快にさせるようなものは語らないほうがよい、と考えてしまいます。そこで、福音を語る自由を、自分自身で制限してしまうことになります。けれども、私たちは大胆に語らなければいけません。パウロはいつも、教会の人たちに、自分がキリストの奥義を大胆に語ることができるように、祈ってほしいとお願いしていました。テサロニケにおいては、パウロは大胆に福音を語ることができました。

2C 神を喜ばせる心 3−6
 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。

 パウロはここから、自分がどのような心でもって福音を語っていたのか、神のみことばを伝えていたときの動機について話します。7節からは、テサロニケにいた自分たちのふるまいについても話していますが、このパウロたちの宣教の姿勢は、私たちクリスチャンの、宣教の姿勢の模範となります。

 パウロたちの勧めは、「迷いや不純な心からのものではない」と言っています。迷いとは、神が聖書によって話していることに堅くとどまらないで、さ迷い出ることであります。そして自分の意見を語っていることです。「不純」というのは、道徳的な不純のことです。みことばから迷い出るその心は、不純に満ちています。そして「だましごと」とは、そのまま人をだますような話しであります。真実はそうではないのに、別のことを話します。パウロたちは、そのようには勧めなかった、と言っています。

 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

 ここには、福音を語るときに必要不可欠な二つの要素が書かれています。「神に認められて福音をゆだねられている」という要素と、「私たちの心を神がお調べになっておられる」という要素です。私たちは、自分の信仰と確信の中で、自分はこの人に福音を語るように、神からゆだねられているという確信がなければいけません。そして、その任務をしっかりと果たしているか、その忠実さを主からいつも調べられている、という意識が必要です。一つは、自分が任務が与えられているという確信と、もう一つは、その任務を忠実に遂行するという自覚です。そして、この二つの要素があるときに、私たちは人を喜ばせるのではなく、神を喜ばせるように話すことができます。

 私たちが、このような確信がなく迷いがあると、必ず、相手をどのように説得すべきか、相手にどのように気に入られるべきか、という相手の反応が気になってしまい、ついに、福音の真理さえも曲げてしまうことがあるのです。ですから、パウロは、神に認められて福音がゆだねられていることと、自分たちの心を神がお調べになっていることを知りつつ、福音を語っていました。

 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。

 へつらいの言葉、つまり、お世辞ですね。相手の気持ちを良くするようなことばを話しています。そして、それは「むさぼり」の心から出ています。相手から良く思われたい、栄誉を受けたいというむさぼり、もっとお金がほしいというむさぼりから、耳ざわりのよいことばを語るのです。

 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。

 パウロたちは、キリストの使徒ですから、多くの権威と権利が与えられていました。例えば、福音を語る者は、その働きにふわさしい報酬を受ける権利があります。けれども、パウロたちはそのような権利を主張しませんでした。そして、使徒であるからと言って、その立場を利用して名誉を受けようとも思いませんでした。

 ところで、今、パウロが列挙してきた不純な動機が、彼らが置かれていた「苦しみ」の状況の中と無関係ではないことに、気づかなければいけません。私たちは人間ですから、もちろん苦しみを受けたくはありません。受けたいのであれば、それはもはや「苦しみ」ではありませんね!そこで、私たちは、福音を語るときに、この苦しみを避けたいという誘惑が出てきます。そこで神を喜ばせるのではなく人を喜ばせようとし、神の真実から迷い出て、耳ざわりのよい言葉を語ろうとする誘惑があります。そして、なんとか自分たちの金銭的状況を良くしたい、名誉を持ちたいという誘惑があるのです。しかし、パウロたちはそうした誘惑に屈しませんでした。ここに、私たちが学ぶべきこと、また彼らにならうべき事があるのです。

2B ふるまい方 7−12
1C 母の優しさ 7−8
 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。

 3節から6節までは、福音を語っているときの心の動機について話されていましたが、ここからは、パウロたちの「ふるまい」について語られています。どのような行動を取っていたのかについてです。

 そのふるまいは「優しさ」に特徴づけられたものであり、「母が子どもたちを養い育てる」ようなものでありました。これは、赤ん坊に乳を飲ませている母親の姿さえ思い浮かべることができるような表現です。ですから、パウロたちは、使徒の権威をふりかざすどころか、非常に優しく、相手の必要に敏感に接していました。

 パウロは若い牧者であるテモテに、「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。(2テモテ2:24−25)」と言いました。真理は人を悔い改めへと導き、主の奉仕者は真理をまっすぐ説き明かさなければいけないのですが、人々への接し方は深い同情心と、優しさと、柔和さに特徴づけられたものでなければいけないのです。

 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。

 パウロたちは、「福音を語って、それで終わり!」ではありませんでした。自分たちのいのちさえ与えたいと思うほどの愛情を持っていました。

2C 父の厳かさ 9−12
 このように、宣教においては、「優しさ」と「愛情」が特徴になっていなければいけません。けれども、パウロは次から、宣教においてのもう一つの側面を話しています。

 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

 パウロたちは、昼も夜も仕事を持ちながら、その合間に福音を伝えていました。

 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。

 パウロたちは、彼らに対して優しかっただけでなく、敬虔であり、正しく、また非難されるところがないようにふるまいました。「愛情」だけでなく、「正義」や「公正」などの特徴も備えていたのです。

 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

 パウロがここで、「父がその子に対してするように」と言っているところが興味深いです。パウロたちは、愛情においては母がその子を養い育てるようであり、威厳においては父がその子を教え諭すように接したのです。この二つの要素が、宣教をする人には必要です。正義を求めなければいけません。罪を犯して、悔い改めない者がいるならば、悲しみと涙をもってさばかねばなりません。不正を許してはならないのです。しかし、同時に、優しさがあり、愛情があります。つまり、父と母のどちらの特質も備えています。

 そして、「勧め」と「慰め」と「おごそか」という言葉が出てきましたが、これは教会における三つの種類の言葉と言えるでしょう。「勧め」は、人を行動に移すことばです。知っていても行なっていない人に、「ほら、やってごらんなさい。」と勧めます。これが勧めの言葉です。「慰め」は、むろん苦しんでいる人、試練の中にいる人が耐え忍ぶことができるような、希望のことばであります。そして、おごそかに命じることばとは、チャレンジを与える言葉です。自分の根本的なところが問われている言葉、自分の考え方や人生のあり方に変化が求められるような言葉です。これが教会の中にあると健全になります。

 そして、「ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩む」とありますが、私たちは天に国籍がある存在です。地上のルールと天のルールは異なりますが、私たちはこの地上においても、天のルールにしたがって歩むということです。

2A 神の使信を受け入れる者 13−20
 こうしてパウロは、彼らの前における自分たちのふるまいについて話しましたが、次から、テサロニケ人たちのことについて再び話しはじめます。

1B 内に働くみことば 13−16
1C 真理として 13
 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

 パウロは1章で、「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信によったのです。(5節)」と言いました。ここでも同じことが語られています。ここで「事実どおりに神のことばとして」とありますが、「真理をもって、すなわち神のことばとして受け入れた」と言い換えることができます。真理のことばとして受け入れた。人間のことばのように、「こうではないか。」「ああではないか」という推測や、「こうであるべきである」という意見でもなく、絶対的真理として受け入れた、神ご自身のことばとして受け入れたということです。

 聖書の中において、神のことばが、とこしえまでに堅く立ち、必ず成就することが書かれています。イザヤはこう預言しました。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ55:10-11」神のみことばは、これほどに確かなのです。一方、人間のことばには、このような力はなく、人の心を一寸も動かさないことが実に多いのです。

 ですから、テサロニケの人たちが神のことばとしてパウロの福音を受け入れたときに、そのことばが生きて、彼らのうちで働きました。ここのギリシヤ語は、「作用した」とか「動いた」と言いかえることができます。私たち人間が、神のことばをなにやらかにやらいじくるのではなく、神のことばそのものがその人を動かし、支配し、力と知恵を与えるのです。

2C 苦しみの中で 14−16
 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。

 1章において、パウロは、テサロニケの人たちが、「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」と言いましたが、テサロニケの人たちはみことばを受け入れたために、同胞の民からいやがやせ、反対、迫害を受けていました。パウロは今、その彼らを励ましているのですが、初めに苦しみを受けたユダヤ地方にいる兄弟たちのことを話しています。例えば、エルサレムにある教会では、ステパノが初めに殉教者となりました。

 そしてパウロは、ユダヤにある教会を苦しめていた、一部のユダヤ人たち、またユダヤ人指導者たちが行なっていることを明らかにしています。ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。

 ユダヤ人宗教指導者は、主イエスを十字架につけるように仕向けました。また過去には、ユダヤ人の指導者たちが、彼らのために遣わされた預言者を殺しました。そして、テサロニケでは、言うことの聞かないユダヤ人が、パウロたちを追い出しました。このようにして神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。

 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。

 人が救われるのにそれを妨げる − これほど大きな罪はありません。そして、神の怒りが極みに達しているとパウロは言っていますが、これは、紀元70年、エルサレムがローマによって破壊され、ユダヤ人が離散の民となったことを話しているのかもしれません。いずれにしても、福音のことばを妨げる者たちは、このように、神の怒りから免れることはできなのです。

 そして、このことを知ることは、私たちクリスチャンにとってとても大事なのです。なぜなら、聖書のことばを、本当に神のことばとして、真理として受け入れ、そしてそのことばが私たちのうちで働くならば、反対や迫害にあうことは必至だからです。そこで、福音を語る者だけではなく、福音を聞く者も、聖書のことばを差し引いて聞くという誘惑があるのです。聖書が語っているとおりに聞くのではなく、自分の都合の良いように聞きます。その典型的な例が、ガラテヤの教会でした。彼らに割礼を強要していた教師たちは、実は「迫害を受けたくないのです」とパウロは言っていました。見た目は良く見えるのですが、真理のことばとして、神のことばとして聞かないために生じたことです。ですから、クリスチャンは、苦しみを受けることを知らなければいけませんが、同時に、苦しみを与える者たちには、神が公正なさばきを行なってくださることを知る必要があります。神が復讐してくださることを知ることによって、悪に対して悪で報いようとせず、善をもって応答することができるようになります(ローマ12章後半部分参照)。

2B 喜びの冠 17−20
1C 再会の願い 17−18
 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので、・・といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、・・なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。

 パウロは彼らのことを本当に慕っているので、切に会いたいと願っています。

 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。

 ここではサタンがパウロを妨げましたが、小アジヤの旅行を続けるのを妨げたのは、ご聖霊自身でありました。ですから、どのようにすれば、戸が閉ざされているのか、それとも敵からの妨げなのかを見分けることができるのか、と言いますと、ご聖霊であれば、また新たに戸を開いてくださるでしょう。パウロたちがマケドニヤに行ったように、福音を語ることのできる機会を与えてくださるでしょう。サタンが妨げるときは、神のみことばがその人々にだれも伝えてくれない、あるいは伝えられても、人々の心の根づかずにしおれてしまう場合です。

2C キリストの再臨 19−20
 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

 再び、パウロはイエス・キリストの再臨について話しています。1章の最後においても、他の地域の信者たちが、テサロニケの人々が、主イエスが天から来られるのを待ち望んでいることを話していた、とパウロは言っています。ここでは、主が再び来られるときに、テサロニケの人々が、パウロたちの喜びの冠になると言っています。

 主が天から来られて、キリストの教会を携え挙げてくだるとき、それは私たちがそれぞれ冠を受け取るときであります。他のいろいろな個所で、「いのちの冠」「義の冠」など、自分たちが地上から離れたときに受ける冠について、使徒たちが話しをしています。私たちが天に引き上げられたとき、主イエスは私たちに、受けるに値しない栄光を与えてくださいます。

 パウロは、テサロニケの人たちが自分たちの冠だと言っています。これは、自分たちが苦闘の中で宣べ伝えた福音のことばによって、テサロニケの人たちが信仰を持ち、愛と希望に満たされて生きていたからです。彼らは大変苦労しましたが、テサロニケの人たちのことを見ると、主が自分たちの労苦に豊かに報いてくださるという慰めが与えられるのです。それゆえ、パウロは、彼らのことが誇りであったのです。

 ここから現代に生きる私たちも、みならわなければいけません。福音のことばを受け入れるのも、宣べ伝えるのも、そこには反対がともない、迫害があります。もしなければ、それは、本当には福音が福音として伝えられていないからかもしれません。不純な動機があり、みことばをみことばとして伝えず、欺きがあるかもしれません。へつらいがあるかもしれません。しかし、このような誘惑に抵抗して、パウロが宣べ伝えたように純粋な動機を保つ必要があります。またテサロニケ人のように、神のことばを神のことばとして、真理として受け入れつづける必要があります。報いはあるのです。主イエスが再び来られるときに、私たちは歓喜に包まれ、主から栄光の冠を受け取ります。

 私たちも、ユダヤにある、イエス・キリストにある神の諸教会にならう者になりたいです。


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