テサロニケ人への手紙第一3章 「強められる信仰」


アウトライン

1A 励まし 1−5
   1B 福音の同労者 1−2
   2B 定められた苦難 3−4
   3B 誘惑者の存在 5
2A 生きがい 6−10
   1B 慰めとして 6−7
   2B 堅忍として 8
   3B 祈りとして 9−10
3A 祈り 11−13
   1B 開かれる道 11
   2B 満ちあふれる愛 12
   3B 聖潔 13

本文

 テサロニケ人への手紙第一、3章を開いてください。ここでのテーマは、「強められる信仰」です。

 パウロは、この手紙において、初めの部分を、「思い出す」ことに費やしています。テサロニケの人たちの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い出して、また、パウロたち自身の、テサロニケ人に対するふるまいを思い起しています。なぜなら、パウロたちは、テサロニケの町にもっと居たかったのですが、ユダヤ人たちの扇動による暴動によって、その場をすぐに立ち去らなければならなかったからです。一ヶ月未満という期間でした。短い期間であっても、そこで教えられたこと、またパウロたちの模範を思い出してもらい、主のうちにとどまっていてほしいと願っているのです。

 3章も、その切なる願いが表れています。パウロはここで、テサロニケの人たちが、その信仰を強くしたいと願っています。それでは本文に入りましょう。

1A 励まし 1−5
1B 福音の同労者 1−2
 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。

 「そこで」とありますが、これは2章17節の続きです。「兄弟たちよ、私たちは、しばらくの間あなたがたから切り離されたので、・・・なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。」とあります。そこで、パウロたちはがまんできなくなり、テモテをテサロニケ人のところに遣わしました。

 そして、「私たちだけがアテネにとどまることにして」とあります。パウロとシラスとテモテは、テサロニケの町を出て、ベレヤの町に行きました。そこでもテサロニケからのユダヤ人がやって来て、扇動して暴動を引き起こしたので、パウロだけがベレヤを離れて、テモテとシラスはベレヤに踏みとどまりました。パウロはアテネに行きました。追って、テモテがアテネにやって来ました。そのときに、パウロとテモテは、ぜひテサロニケに戻って彼らがまだ信仰を持っているかどうか見たいと願ったのです。それでテモテはテサロニケに行きました。そして戻ってきて、テサロニケの人たちについての良き知らせを持ってきたのです。二人はコリントの町に行き、そこでシラスがベレヤからやって来ました。そして、このコリントの町でパウロはこの手紙を書いています。

 それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。

 「強め励まし」とあります。ここの「強める」という言葉のギリシヤ語「ステイゾー」は、「しっかりと固定する」という意味です。ものすごくがっちり固めて、びくともしないというニュアンスがあります。例えば、このギリシヤ語が、ルカによる福音書16章の貧乏人ラザロの話で使われています。ラザロがなぐさめられているアブラハムのふところと、金持ちが苦しんでいるハデスの間には「大きな淵がある(26節)」とありますが、その淵が厳然と立ちはだかっていたため、金持ちは決してラザロのいるところには渡ることはできず、ラザロも金持ちのところには渡ることはできなかったのです。これが、ステイゾウの意味です。

 
つまり、パウロは、テサロニケの人たちが、自分たちの信仰について、外側からの苦難があっても、びくともしないようにしたかったのです。そのためにテモテを遣わしたのですが、パウロはテモテのことを「キリストの福音において神の同労者」と言っています。彼らの信仰をしっかりさせるのは、まぎれもなくキリストの福音そのものであります。人間の言葉や、また良い人柄などでは、決して人の信仰は強められません。キリストの福音をしっかりと握っている人、この福音に救いの力があり、いのちが隠されていると確信している人のみが、テサロニケに行くのにふさわしい人だったのです。

 さらに、「励ます」という言葉が使われていますが、これはご聖霊にも使われている「助け主」のギリシヤ語の動詞形「パラカレオー」が使われています。パラは「そばに」という意味で、「カレオー」は「呼ぶ」という意味です。つまり、キリストの福音を語ることによって、その人にとってキリストがともにおられることを確信することができるようになるとき、その人は励まされることとなります。一人ではなく、主がともにおられ、主の御霊が個人的に、親密にその人に語り、働きかけ、力づけてくださるときにその人は励まされるのです。

2B 定められた苦難 3−4
 またパウロは、「苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。」と言っていますが、苦難の中にいると、固定されたものも揺らいでしまいます。9月11日に、米国で同時多発テロが起こりました。そして、日本人でも多くの人がおびえ、恐れていました。テロリストたちの存在がますます明らかになれば、その恐怖はさらに増えるであろうと考えられます。そして、クリスチャンでも、心を揺がせた人たちがたくさんいます。これからどうなるのかが分からず、悩んでいる人たちもいます。これが、苦難の中で動揺することであります。しかし、パウロは、苦難の中にあっても動揺することがないように励ましたいと強く願っているのです。

 そこで彼はこう言っています。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。

 苦難の中にあって、動揺しないためには、苦難がもともと、神によって定められていることを認めることです。ペテロの手紙第一2章20節以降にはこう書いてあります。「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」ペテロは大胆にも、私たちがクリスチャンとして召されたのは、苦しみを受け、それを耐え忍ぶことであると言い切っています。私たちは、クリスチャンになったら、「幸福」を求めていることがいかに多いことでしょうか!クリスチャンは、苦しみを受けるために召されています。このことが分かれば、私たちに苦難が押し寄せても、心を揺るがせることはないのです。苦しみを受けるように、神がお定めになっていることを心の中で受け入れれば、そこに人知を超えるところの神の平安と、また言い尽くすことのできない喜びを自分の手にすることができるのです。ですから、パウロは、苦難にあうことを、前もってテサロニケ人たちに教えていたのでした。

3B 誘惑者の存在 5
 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。

 ここの「誘惑者」とは、サタンのことです。2章18節には、パウロがテサロニケに行こうとしたのだけれども、サタンが彼を妨げたと書いてあります。ここでは、パウロたちの労苦をむだにさせるような誘惑を、テサロニケの人たちに与えるということです。有名な、イエスさまのたとえを思い出します。4つの種類の土のたとえです。道ばたに落ちた種は、鳥が来て食べてしまいましたが、鳥はサタンのことです。サタンがやって来て、神のことばが人の心から取り去られてしまいます。そこでパウロは、テサロニケの人たちに信仰がまだあるか、なんとしてでも知りたかったのです。自分は妨げられて行けませんでしたが、テモテを遣わしました。

2A 生きがい 6−10
1B 慰めとして 6−7
 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。

 ここの「良い知らせ」とは、「福音」と訳されてもよい同じギリシヤ語が使われています。パウロにとって、それほどすばらしい知らせだったのです。それは、彼らの「信仰と愛」でありました。主イエス・キリストに対する信仰と、互いへの愛です。パウロは、この二つ、また希望を加えると、愛と信仰と希望を、すべてのものにまさる最重要三要素と考えたのです。

 仮にパウロが、テサロニケに大ぜいの信者がいたけれども、パウロが宣べ伝えた福音とは異なるものを信じていたら、彼の心は苦しみもだえることでしょう。あるいは、彼らの間に愛がなかったら、それでも悲しむでしょう。将来の、輝かしいキリストの来臨の希望もなかったら、彼はそれでも悲しんだでしょう。つまり、大切なのは外見ではなく、内実であります。今日のキリスト教会を見ると、その活動の規模、来ている人の数、人々への受けの良さなどが、良い知らせとして評価されます。しかし、外見にごまかされてはいけません。真に愛があるのか、信仰があるのかを試してみなければなりません。パウロは、彼らの愛と信仰を見たのです。

 また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。

 パウロは、テサロニケの人たちを祈りの中で絶えず思い出していましたが、テサロニケの人たちもパウロのことを思い出してくれていたのです。

 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。

 ここでの「あらゆる苦しみと患難」というのは、押しつぶされそうになるようなプレッシャーと、ストレスがあったというニュアンスもあります。これは、彼のこれまでのヨーロッパ宣教のことを語っています。ピリピの町においても、彼はシラスとともに監獄に入れられました。テサロニケでは、先ほど説明したとおりです。ベレヤも同じです。そしてアテネでは、数人の回心者のみが与えられました。このように、決して成功しているようには決して見えない心境の中に、パウロは置かれていたのです。その中で、テサロニケの人たちの信仰を聞いたのです。これは、パウロにとって大きな慰めでした。また力になりました。

2B 堅忍として 8
 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。

 パウロが苦しみと患難の中にいても、彼らの信仰が大きな慰めを与えた理由がここに書いてあります。パウロの生きがいは、人々が主にあって堅く立っていることそのものだったのです。このような心を持っている霊的奉仕者を牧師に持っている人は幸せです。あなたが、主にあって堅く立っていること、これを生きがいとしている人です。

 私たちは牧師に対し、また牧師も信者に対し、主ではなく互いに依存する関係を持つことにずれてしまうことが、しばしばあります。ある人は、自分の人柄に人々を引きつけようとします。また、信者たちが何も奉仕をせずに、牧師だけが奉仕をしている教会もあります。いずれにしても、信者が、「主にあって」堅く立っていることではありません。

 信仰を強くするとは、自分が主のうちにいる者であることをますます知って、その中にしっかりととどまることであります。何らかの活動をすることに立っているのであれば、「伝道」とか「奉仕」という言葉は使っていますが、主ご自身からは離れてしまっているのです。また、牧師に自分のことが分かってほしいと思っていることも、主から離れてしまっている証拠です。牧師の役目は、あなたのことを理解することではありません。あなたの問題を解決することではありません。主が真の理解者であり、すべての問題の解決者であることを、ますます深く知っていくように導く人であります。パウロは、テサロニケの人たちが、主にあって堅く立っていることを知り、それを福音とまでさえ思いました。

3B 祈りとして 9−10
 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。

 パウロは、この喜びをどう表したらよいか分からず、その感謝を神にささげ続けました。そして、彼らがキリストの身丈にまで成熟するように、彼らのところに行き続けて奉仕をしたいと、切に切に願っていました。この喜びと切なる願いを、パウロが祈りの中で行なっていることに注目してください。私たちは喜びを、主にそのまま言い表わしているでしょうか。また、切なる願いを主にぶつけているでしょうか。その深いうめきと、絶え間ない感謝を主におささげすれば、パウロのように昼も夜も熱心に祈りをささげることになるでしょう。

3A 祈り 11−13
 そしてパウロは具体的に、三つの祈りをしています。
1B 開かれる道 11
 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。

 ここから三つの祈りが始まりますが、その主語がみな、「私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が」となっています。すべてを成し遂げてくださるのは主ご自身であり、私たちが何かをするのではない、ということを知らなければならないでしょう。私たちが何かを計画して、戦略を立てて、そして主がそれを助けてくれるように祈るのでは、神ではなく私たちが主体となります。私たちが作為的に行なうことは、みな肉から出てくるものなのです。私たちは、まず第一歩さえ、そこから祈りが必要なのです。「主にあって堅く立つ」とありましたように、主からすべてが出発します。

 そこで、一つ目の祈りは、道を開いてくださることであります。テサロニケに行って会いに行くことは何か簡単なように見えます。事実、テモテはテサロニケに行けました。ところがパウロ自身が行こうとすると、二度もサタンに妨げられたのです。私たちは、神の許しがなければ、このような旅行さえもできません。イエスさまは、「わたしから離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」と言われました。すべての戸は主が開いてくださいます。主の導きを祈りましょう。

2B 満ちあふれる愛 12
 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。

 二つ目の祈りは、愛が満ちあふれるように、というものです。テサロニケの人たちには愛を見ることができたのですが、ますますあふれるように、と祈っています。

 愛というと、私たちは普段使っている「愛」としばしば混同します。教会でも、「愛がない」という言葉が使われますが、愛の定義をもう一度思い起こしたいと思います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(コリント人への手紙第一13:4-7」このリストを見ると、私たちが考えている愛とは、まったく異なる性質のものであることが分かります。これは、私たちのうちにはまったくない愛、神の愛なのです。

 したがって、私たちが持つべき焦点は、主の命令を行なうことであります。自分が愛したいと感じたりするレベルではなく、主が言われることを意志によって行なうことに焦点を合わせます。自分にはできないことも、聖霊によって行なうことができます。この積み重ねによって、愛が互いの間に増し加わるようになるのです。

3B 聖潔 13
 三つ目の祈りです。また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。

 パウロがキリストの再臨について、テサロニケ人への手紙で話すのは、これで三回目です。すべて各章の最後のところで話しています。1章では、「神が死者の中からよみがえなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望む」とあります。そして、2章では、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」とあります。そして、3章では、今読んだ個所です。

 キリストが戻って来られるときに、ご自分の教会を地上から取り去られるのですが、そのときの教会は、傷のないもの、聖いものであるようにというのが、パウロの祈りでした。むろん、これは主がなさるわざであり、私たちが完成するものではありません。けれども、地上における私たちの歩みは、聖潔がその特徴となっているのです。ペテロは、「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。(1ペテロ1:15」と言いました。

 先ほども話した、「苦しむことが定められている」ということも、聖めに関わります。もし私たちが、クリスチャンになっていてこの世における幸福を求めるのであれば、苦しみは邪魔なものであり、クリスチャンにとっての妨げであるのです。しかし、苦しみは私たちに聖めをもたらし、私たちがさらに主が来られて、すべての涙が拭い去られるその日を待ち望むように促されるのです。

 私たちはますます、主によって心を強めていただかねばなりません。苦難はおとずれるのです。そのために私たちは召されています。このときに心を揺るがすのではなく、むしろ主にあって心を強くし、ますます聖なるものとされ、来臨のキリストを待ち望むのです。ますますその日が近づいています。苦難と迫害のために備え、祈りましょう。

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