使徒の働き1章後半 「聖霊の働き」パート2

アウトライン

はじめに 1−2
1A 聖霊の約束 3−14
   1B 命令 「待っていなさい」 3−8
   2B 完成 「またおいでになります」 9−11
   3B 従順 「祈りに専念していた」 12−14
2A 人間の働き 15−26
   1B 神のみことば 15−22
   2B 祈り 23−26

本文

前半の続き)

3B 従順 「祈りに専念していた」 12−14
 こうしてイエスに聖霊の約束を与えられたあと、彼らはイエスの命令を守って、エルサレムで待っていました。次を見てください。

 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

 安息日にある一定の距離以上動いてはならないという戒めをユダヤ人は設けていましたが、その範囲内にオリーブ山があります。ただ麓を降りて、ケデロンの谷を渡ったらエルサレムです。

 彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。

 ここは、かつて最後の晩餐をした所であると言われています。今の「シオン山」と呼ばれているところに、聖霊が降られたと言われる屋上の間がありますが、建物自体は十字軍が建てたものです。

 この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

 彼らは祈っていました。いっしょに祈ることで、父の約束を待ちました。そこには11人の弟子たちとイエスの肉の家族たちがいました。次の節を読むと他の弟子たちもいました。

 福音書にも同じように使徒たちの名が記されていましたが、一人一人が非常に興味深い人物です。初めはもちろんペテロです。イエス様が名づけた名前で、もともとはシモンです。ペテロは「小石」という意味です。イエス様は、ペトラの上に、つまり大岩の上に教会を建てると言われ、ペテロが告白した、「あなたは、生ける神の御子キリストです」という告白に教会を建てると言われました。

 ペテロは、ヨハネ、そしてヤコブと共に、十二弟子よりもさらにイエス様に近づく恵みにあずかりました。ヤイロの娘が生き返るのも目撃し、イエス様が高い山で変貌するのも目撃し、そしてゲッセマネの園では、イエス様が苦しみ悶え祈られるそばにいました。

 彼は、とても感情的で、すぐ行動に移さずにはいられない人でした。イエス様が水の上を歩かれた時も、「あなたが呼んでくだされば、私は歩くことができる。」ということを言って、それで実際に歩いたのですが、波を見てしまい、イエス様から目を離して、沈みかけました。イエス様を捕える者たちが来た時に、彼は戦うべく剣を抜きましたが、その後、女中から「あなたは、イエスといっしょにいましたね。」と問い詰められると、「私は知らない。」と否みました。彼はそのような、私たちと同じ弱い人間だったのです。

 けれども聖霊に満たされ、初代教会の指導者としてしっかりとした働きを行ないます。言い伝えによると、彼はローマで逆さ十字架にはりつけにされ死にました。それは彼が申し出たもので、「私が主と同じように死ぬことはできません。」と言ったからだと言われています。

 そして「ヨハネとヤコブ」ですが、ペテロと共にイエスに近いところにいた三人のうちの二人です。彼らはゼベダイという漁師の息子たちでした。ペテロも漁師でした。二人は、「雷の子」と呼ばれています。なぜなら、イエス様を受け入れなかったサマリヤ人について二人が、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカ9:54」と言ったからです。

 さらに彼らはもっと面白いことをしています。二人の母を連れて、そしてお母さんがイエス様に、「あなたの御国で、ひとりをあなたの右に、もうひとりをあなたの左に座らせてください。(マタイ20:20-21参照)」と言いました。ちょっとマザコンみたいですが、彼らはイエス様が十字架につけられることを伝えたその後で、このようなことをやっています。

 そしてこの二人も、ペテロと同じように聖霊に満たされて変えられました。ヤコブは後に、ヘロデ・アグリッパによって殺され、殉教します。後にイエス様の半兄弟である「ヤコブ」が使徒の働きに登場しますが、彼はヤコブの手紙を書いた人であり、殉教したヤコブとは違う人です。

 そしてヨハネですが、彼はヨハネの福音書、ヨハネの三つの手紙の他に、黙示録も書いた人です。彼は他の使徒たちと違い、殉教せずに最後まで生き残った人で、紀元90年代にこれらの書物の記録を残したので、他の福音書にはない、彼だけが知っているいろいろな視点を見出すことができます。ヨハネは、「主によって愛された弟子」と自分を呼び、イエス様の御胸のそばに座っていたなど、自分こそがイエス様に愛されていたことを強調しています。

 ヨハネは言い伝えによりますと、エルサレムに家を持っていましたが、紀元70年のエルサレム滅亡によって、エペソに移ったそうです。当時のローマ皇帝ドミティアヌスによって、油が煮えたぎっている大釜の中に入れられましたが、害を受けませんでした。それで彼は島流しとなり、パトモス島にいましたが、その時にイエス・キリストの幻を受けて、黙示録を書き記したと言われています。

 アンデレはペテロの兄弟です。彼はいつも、誰かをイエス様のところに連れて行く人として有名になりました。兄弟ペテロを連れて行ったのもアンデレで、五千人に給食をイエス様が与えられる時も、わずかなパンと魚を持っている男の子を連れて来たのもアンデレです。言い伝えでは、アンデレは小アジヤ、ギリシヤ、そしてスキテヤと呼ばれる今のロシアにまで福音を携え、ウクライナ地方で十字架刑に処せられたということです。

 ピリポもアンデレと同じく、人をイエス様のところに連れてくるのに特徴がありました。次の次に出てくる「バルトロマイ」別名を「ナタナエル」と言いますが、彼をイエス様のところに連れて来たのはピリポです。そして、イエス様のところにギリシヤ人が来た時に、アンデレと共にその人を連れてこようとしたのも彼です。そして、「父を見せてください、そうすれば満足します。」とイエス様に尋ねたのもピリポです。言い伝えでは、彼は小アジアの北部に福音を伝え、ヒエラポリスというところで十字架刑に遭いました。

 そして「トマス」ですが、彼は面白い人です。すべての事柄に否定的な側面を見ます。他の人たちが、「ええ、なんでそんな発言をするの?」と思わせるようなことを言うのですが、よく考えてみると、言っている意味が分かるという人です。ラザロが死んだとイエス様がはっきり言われた時に、「では、私たちもいっしょに死のう。」と彼は言いました。それはエルサレムに近いところに行くので、死の危険があったからです。そしてトマスで有名なのは、「私は主の手と腹にある跡を見なければ、復活したことは信じない。」と言った人です。けれども彼は、言い伝えでは、インドにまで福音を携え、殉教したと言われています。インドには彼を記念する教会があるそうです。

 そして「バルトロマイ」は「ナタナエル」であり、カナの出身で、ピリポから「メシヤに私は会った」と言われた時に「ナザレから何か良いものが出てくるのか。」と言った人です。言い伝えでは彼は、多くの国々に福音を宣べ伝え、インドにまで行き、そこで酷く打ちたたかれ、十字架につけられた、とのことです。

 「マタイ」はレビという名でも知られていますが取税人でした。彼の福音書を読むと、几帳面にまとめているような書き方をしています。彼は仲間の取税人をイエス様のところに連れて行きました。言い伝えでは、彼はパルティアと呼ばれるイラン北部地方と、エチオピヤに福音を伝え、鉾槍で殺されたと言われています。

 そして「アルパヨの子ヤコブ」ですが、ヨハネの兄弟ヤコブとは違います。彼の母マリヤは、イエス様が十字架につけられていたときに、その光景を見ていた女たちの一人で、日曜日の早朝、墓のところに行った女たちの中にも彼女がいます。そして、言い伝えでは彼はエジプトに福音を伝えに行きました。

 そして「熱心党員シモン」ですが、ユダヤ教には「パリサイ派」「サドカイ派」「ヘロデ党」の他に「熱心党」もありました。その他、エッセネ派というのもありました。熱心党は、民族主義の過激派です。武力によってローマを倒し、ユダヤ人の独立と神の国の到来を待ち望んでいた人です。彼は言い伝えでは、アフリカに福音を携え、後に英国にも伝えたところそこで殉教したとのことです。

 興味深いのは、取税人のマタイと熱心党員のシモンが、同じイエスの弟子の仲間の中にいたことです。もしイエス様が主となっておられなかったら、シモンはその場でマタイを殺していたことでしょう。取税人はローマの犬だからです。けれども、政治思想がこれだけ違っても、イエス・キリストを主とする者たちの間には関係ありません。

 そして「ヤコブの子ユダ」ですが、彼は裏切り者のイスカリオテのユダとも違うし、イエス様の半兄弟であるユダ、ユダの手紙を書いたユダとも違います。彼がイエス様に、「イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。(ヨハネ14:22」と尋ねました。彼は言い伝えではオデッサというウクライナ南部の町で十字架につけられました。

 このように、弟子たちは生身のある人間でした。それぞれに人柄があり、それぞれを主イエス様は愛しておられました。そして復活を目撃し、さらに聖霊のバプテスマを受けた彼らは、その強いご臨在に導かれながら、福音を大胆に宣べ伝えていったのです。

 ところで、肉の家族がいることは興味深いです。彼らは、イエスが復活される前は、イエスを信じていませんでした。ヨハネ7章に、弟たちがイエス様に、「自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。(ヨハネ7:4-5」とあります。けれども、そのよみがえりを見て、この方がキリストであることを知ったのです。その中には、初代教会の指導者となったヤコブがいます。「ヤコブの手紙」の著者です。またユダの手紙の著者のユダも同じくイエス様の半兄弟です。

 興味深いことは、ここに「イエスの母マリヤ」がいることです。マリヤはイエスが言われた言葉にとまどいながら、自分の息子であり、かつメシヤであるという葛藤の中で思い悩みました。そして十字架上でイエス様は、ヨハネに対してマリヤを世話するよう指示されました。イエス様がよみがえられた今、彼女もこの方を自分の息子ではなく、自分の主として、神のひとり子としてあがめ、信じているのです。そして、これ以降には彼女は登場しません。ここに、カトリックのマリヤについてのあらゆる教義が間違っていることを示しています。彼女は「神の母」とし、イエスご自身よりも高い位置に置こうとする傾向を持っています。また彼女は生涯処女だったとも言いますが、半兄弟がいるという事実からして、イエスを産んだ後に夫ヨセフとの間に子を産んだというのは明白です。

 そして大事なのは、主イエスの命令に従って、祈りに専念して約束のものを待ち望んでいました。「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」とあります。これが教会が誕生する出来事になります。私たちが「教会だ」と呼ぶ時は、聖書の学び会ではありません。学びは教会の活動の一つでありますが、第一目的は「神をあがめること」つまり、礼拝をしていることにあります。そしてもう一つ大事なのは「祈り」です。祈りによって教会が生まれ、祈りによってご聖霊が教会を導かれます。

2A 人間の働き 15−26
1B 神のみことば 15−22
 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。

 ペテロは、持ち前のリーダーであることは、前回のヨハネの福音書21章でも学びました。「私は漁に行く。」と言ったら、他の弟子たちも付いて行きました。ここでも、ペテロが率先して立ち上がっています。

 「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。

 ペテロは、イスカリオテのユダについて語り始めましたが、そのときに彼は聖書のことばを持ち出してきました。これは、私たちにとって、とても大切な真理です。聖書のことばにより頼んで、自分の判断をしないということはとても大切です。ペテロはその正しいを行ないました。

 そして、聖書のことばについて、彼は2つのことを話しています。一つは、聖霊が人を通して預言されたということです。聖書は人によって書かれたのではなく、神が人を動かして書かれた、神のことばであります。聖書はすべて神の霊感によって書かれました。神が息を吹きかけている、という事です。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(2テモテ3:16

 そして、もう一つは、聖書のことばは、「成就しなければならない」と言ったことです。聖書のことばには誤りがなく、いつも正しいのです。聖書は、誤りのない神のことばです。「無謬」とも言われます、誤謬がないという意味です。

 ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)

 ユダは、イエス様の弟子チームの中で財布を管理していましたが、いつも盗んでいました。それで地所を買っていたようです。イエス様を裏切ることで、祭司長から銀貨三十シェケルも受け取りました。けれども自分がしたことを後悔して、その銀貨を返し、そして首をつって死んだと福音書にはあります。したがって、ここの記述と合わせると、首をつって死んだ時に、その縄から首が外れて、そしてそこからこの地所に落ちた、ということになります。

 このことが起こったのは、聖書の預言がありました。実は詩篇には、こう書いてあるのです。「彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。」また、「その職は、ほかの人に取らせよ。」

 ペテロがいかに聖書の言葉に精通していたかが分かるかと思います。使徒ペテロも、またパウロ、ヨハネ、その他の使徒たちがどのようにして主に用いられたのか、それは彼らが主イエスの御言葉、そして旧約聖書にある約束の言葉をよく知っていたからです。そして、必要な時にそれを取り出すことができたからです。

 このような賜物が与えられている人が、聖書の中では奉仕者と呼ばれており、パウロは「神の奥義の管理者」と呼んでいます(1コリント4:1)。またイエス様は弟子たちにこう言われました。「そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:52

 けれども、これは使徒たちだけ、また奉仕者だけの働きのみならず、信仰者すべてに与えられている働きでもあります。聖霊がこのことを助けてくださいます。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26」本当に必要な時に、思い起こすようにしてくださるのです。

 この聖書のことばに従って、ペテロは以下の判断を下します。ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」

 復活の証人を、イスカリオテのユダの他に立てなければいけない、ということです。聖書を見ると、つねに12の単位で統治が行なわれています。例えば、イスラエルの部族は12で構成されていました。だから、ここでも、ペテロは聖書的に行動しようとしています。

2B 祈り 23−26
 ペテロは、聖書に基づくだけではなく、祈りもしています。そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。

 このくじびきについて、批判をする人々がいますが、私はそうは思いません。なぜなら、くじびきは主に命じられて、イスラエルが何か一つを選択するための手段として使われていたからです。例えば、約束の地にはいったとき、相続の割り当てをくじで決めました。

 このように、ペテロは、実に思慮のある、正しい行動をしました。聖書にもとづいて使徒職の選出をし、その選出のさいは祈ってみこころを求めました。けれども、とんでもない事実がこの使徒行伝の後で発見されます。神が選んでおられた使徒は、マッテヤではなくパウロであったことです。このパウロがユダに代わる使徒であり、彼によって地の果てまでイエスことが証言されました。

 ペテロは正しいことをしたのですが、まだ聖霊のバプテスマを受ける前であったのです。人間的には非常に理にかなった、正しいことが行なわれました。内側では12人の使徒がおり、整えられていました。けれども、外側に対しては何の影響力もなかったのです。私たちもこうなっていないでしょうか。聖書的に正しいことをしています。内側では整えられます。けれども、外に対する影響力がない、みな内側にこもっているのです。

 2章から、聖霊に満たされた使徒たちの活動が始まります。ペテロは同じように、聖書のことばを使いながらキリストを力強くあかしし、また、教会では熱心な祈りがささげられ、原則はなにも変わっていないのです。けれども、彼らが聖霊に満たされるとき、それは自分が考えて、自分が願って、自分のしたいことをするというよりも、聖霊に自分が牛耳られて、乗っ取られて、とりつかれて行なわれているのです。このような、外側からの聖霊との関係を持つときに、初めて私たちは、外側へ向かい、効果的な福音宣教、実が残る宣教をすることができます。

 使徒たちは、聖霊のバプテスマを受けた後も、自分の理解力とは全く違う方法に、引きずられるようにして導かれていきます。ですから聖霊のバプテスマは一回性の働きでありますが、その後も継続して働きかけてくださる働きでもあるのです。聖霊のバプテスマを強調する人々の間では、この体験ばかりを強調しますが、そうではありません。ご聖霊の主権の中に自分たちを留まらせていかなければいけないのです。

 だから、大切なのは、何かをすることではなく、聖霊との関係を持つことです。自分が、今まで自分のしたいようにしていたけれども、今度は聖霊がなされたいままにします。聖霊を求めることは、自分に死に、神が生きて働かれることを受け入れることです。

 これはとても簡単なことであって、また難しいことであります。私たちがイエスさまを信じるのは、とても簡単なことですが、自分の理性が邪魔をしてなかなか信じられなかったように、です。けれども、私たちはまた同じような決断をしなければいけません。ただ、聖霊を受けることを祈り、祈ったら、聖霊を受けたことを信じて感謝するのです。イエスは言われました。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:13」お祈りしましょう。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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