使徒行伝15章 「エルサレム会議」

1A みこころを求めるとき 1−35
   1B 問題 1−5
   2B 解決 6−29
      1C 判断 6−21
         1D 恵みと信仰 6−11
         2D 知恵のことば 12−21
      2C 一致 22−29
   3B 前進 30−35
2A みこころを求めないとき 36−41

本文

 私たちはこれまで、異邦人への宣教が進んでいっているのを見ました。けれども、教会の中で大きな亀裂が起こりそうになりました。それはユダヤ人の信者の中で、「異邦人もユダヤ教徒にならなければ救われない。」と言う人々が出てきたことです。異邦人がユダヤ教徒になるというのは、割礼を受けて、モーセの律法を守るということです。私たちはかつて、宗教改革というものを歴史の中で経験しました。カトリック教会が、さまざまな儀式を守り行うことによって救いに達すると教えていたのですが、そこから「いいえ、信仰によってのみ救われる」という主張をした人々が現れました。この問題は、いつも私たちの生活の中に表れてきます。なぜならば、人はやはり何か自分が行うことによって救いを得ると思ってしまうからです。

 ですからこれから見ていく内容は、恵みの福音の真理をかけた大きな闘いでありました。

1A みこころを求めるとき 1−35
1B 問題 1−5
 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

 アンテオケの教会において、問題が起こりました。私たちは前回、パウロとバルナバが第一次宣教旅行からアンテオケの教会に戻って、神が自分たちとともに行なってくださったことを報告した、という個所を読みました。神が、大ぜいの異邦人に信仰の門を開いてくださいました。そして、二人は、かなり長い期間、アンテオケの教会の人々と過ごした、とあります。

 比較的平穏な日々が過ぎていたときに、混乱と動揺をもたらす者たちがやって来ました。彼らは、ユダヤから来たもの、つまりエルサレムの教会から来ていました。言わば「母教会」からの権威をもってやってきたわけです。けれども、パウロとバルナバは決して屈することなく、彼らがエルサレムの教会から遣わされていると自称しているので、エルサレムの教会で決着を図ろうということになりました。

 具体的には、その様子はガラテヤ書の中に詳しく書いてあります。「実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。そして、おもだった者と見られていた人たちからは、・・彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。・・そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。(2:4-10

 覚えていますか、ペテロはすでに、コルネリオの回心を通して異邦人にも分け隔てなく神は救いを与えてくださることを知っていました。それは彼が天から与えられた啓示であって、だれからも教えられたのではありません。そしてパウロも、律法についてならば最も厳格に守り行おうとしていたパリサイ派の信者でしたが、復活のイエス様が現れて、異邦人への福音の呼びかけを行われました。そこには御霊による麗しい一致があったのです。ただ宣教の相手がペテロの場合は主にユダヤ人であり、パウロの場合は異邦人であった、ということです。

 このように、御霊の流れの中には麗しい一致があります。それは恵みによって救われた、信仰によって救われたというところから来ています。それを、エルサレムから来た者たちのように、自らを神からではないものによって権威付けて、神が与えてくださった救いを妨げようとする動きを起こすのです。これは、教会の中でいつでも起こりえます。みなさんが新しい信者であっても、長い信仰歴を持っていても、神の命令に聞き従うということについてはまったく同じところに立っているのです。それを壊そうとする分子です。これについてはガラテヤ書を詳しく学ぶことによって知ることができます。

 ここに出てきた、「割礼とモーセの律法に異邦人が聞き従わないといけない」という考えの持ち主は、「ユダヤ主義者」と呼ばれます。この存在が、ガラテヤ書をはじめ、パウロの手紙の中で危険な存在としてしばしば登場します。パウロは異邦人に福音を伝えることに召されていたため、その反対は本当にすさまじいものでした。当時の異端です。ちなみに、もう一つ使徒の手紙に出てくる異端は「グノーシス主義者」と呼ばれるものです。この存在を意識していたのは特にヨハネでした。ヨハネの手紙に、彼らが反キリストであると呼ばれています。

 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。

 エルサレムまで行く途中、フェニキヤやサマリヤにある教会に立ち寄りました。つまり、サマリヤで伝道していた実が十分に結ばれていたことになります。

 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。

 「迎えられ」ていますね。つまり、エルサレムから来たといってモーセの律法を主張した人々とは違い、エルサレムにある教会の指導者たちは、パウロとバルナバの働きを神からのものとして受け入れていました。先ほどのガラテヤ書2章で読んだとおり、ペテロもまたヨハネやヤコブも、交わりのしるしの右手を差し伸べています。

 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言った。

 分かりますか、パウロとバルナバの宣教報告にある特徴は「喜び」でした。けれども、ユダヤ主義者、律法主義者の主張にあるのは重圧感です。これが、律法にしたがって生きるようにさせる者たちの特徴です。信仰によって恵みによって救われたことには、喜び、愛、平安などの聖霊の実を見ることができますが、そうではいけないと言い張るところには束縛しかありません。

 「パリサイ派だった」とありますね。以前はパリサイ派が主導で、イエス様に対峙して十字架につけるように仕向けました。安息日の解釈をめぐる論争があったからです。けれどもイエス様が復活されてからは、彼らは聖書にある復活の希望をそのまま信じていたので、確かにこの方がメシヤではないかという受け入れが起こったのです。そのことについてはもうすでに学びましたね。ガマリエルという律法学者が、使徒たちを殺そうと考えていた者たちを諌めたのです。

 けれども彼らは、自分がユダヤ人であることの誇り、肉の誇りを棄てることなく信仰生活を守ろうとしました。もちろんユダヤ人であることを否定する必要はありません。けれども、ユダヤ人であるということ自体が何か神の前で優位に立っていると考える肉の誇りが問題であったのです。これらもすべて何の役に立たないのだという悟りがあってこそ、キリストの十字架の前に出て行くことができるのであって、その誇りを残したまま信仰生活を続けることはできないのです。イエスさまは、「肉は何の益ももたらしません。(ヨハネ6:63」と言われました。

2B 解決 6−29
1C 判断 6−21
 これでは、教会が分裂してしまいます。そういう危機になりました。けれどもここから聖霊が働かれます。次から登場するペテロとヤコブの発言によって、この問題に解決がもたらされました。

1D 恵みと信仰 6−11
 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。ここから公の会議が始まります。激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。ペテロはここで、コルネリオの回心のことを話しています。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

 コルネリオが異邦人であるのに、モーセの律法を守っていないのに聖霊を受けたことを話しています。ただ、彼らが福音のことばを聞いて、それを信じていただけで、割礼も受ける時間もなく、律法も守っておらず、それで聖霊を受けたのです。そして、ペテロは、聖霊が注がれたことが、彼らが神に受け入れられた証拠であると言っています。自分たちが勝手に考えるのではなく、神のみわざを見なさい、とペテロは言っているわけです。

 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。

 この「くびき」とは、モーセの律法と、それにまつわるしきたりのことを話しています。あまりにも細かく、硬直した掟だったので、ユダヤ人は、このすべてを守ることができませんでした。律法主義者の盲点は、自分自身が自分の主張している律法を守れていない、ということにあります。律法主義的になっている人は、自分がいかにも霊的であることを語っているのに、その言動には大きな食い違いが出てきます。自分がありのままの姿で十字架の前に出ていないからです。

 ヤコブの手紙では、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(2:10」と書かれています。だから、律法によって彼らは死罪に定められており、神のさばきを受けなければならず、救いようもない存在である事を知らなければならないのです。律法自体が悪いものではなく、むしろ良いもので、正しく、聖なるものです。けれども、律法によっては誰一人正しいと認められることはなく、ただ私たちが罪深い存在であることを示すだけなのです。

 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」

 これが、新約聖書で明らかにされた、救いの教えです。救われるためには、ただ神がキリストにあって成してくださったことを信じるだけであり、決して行ないによるものではない、と言うことです。百パーセント「信仰」なのです。そして恵みによってのみ、救われています。

2D 知恵のことば 12−21
 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行なわれたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。」

 ここに出ているヤコブは、十二使徒のヤコブではありません。彼はすでにヘロデによって殺されています。彼は、イエス様の半兄弟であるヤコブであり、イエスの復活を目撃することによって全き信仰に入りました。そして彼はエルサレムの教会において監督者になりました。

 ペテロは今、自分の体験を通して神の証しをしたのですが、ヤコブはこれが聖書に沿っていることを説明します。とても大切な姿勢です。私たちが、ただ自分が体験した、確信したということでそれで真実にしてはいけません。ペテロは、以前、主イエスが変貌されたのを目撃しました。けれどもこう言っているのです。「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。(2ペテロ1:19」体験したことよりもさらに確かなのが、預言の言葉つまり聖書の言葉だと言っているのです。

 この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。

 これは、アモス書からの引用です。ダビデの幕屋つまり、イスラエルの民が立ち直る時に次は異邦人が主の御名を呼び求める、と書かれています。これをヤコブは初代教会に当てはめて、エルサレムで主に立ち直ったイエスを信じるユダヤ人たちによって、今度は異邦人も同じ神を求めるようになる、ということです。

 そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。

 偶像に供えられた汚れた物、不品行、血のしたたる肉は食べてはならないことは、律法に書かれてあることです。これらは、異邦人が普通に行なっていたことですが、これらのことを異邦人のクリスチャンが行なって、周囲にいるユダヤ人をつまずかせることになってしまいます。ユダヤ人をつまずかせないために、これらのことは守ってくださいという判断です。

 ですから、これは、救われるための条件ではなく、周囲にいるユダヤ人たちのことを考えた配慮であります。愛の行為ですね。これなら異邦人の信者は受け入れられるし、ユダヤ人信者が気にしていることもほぼ、満足させることができます。ローマ14章で学んだことを思い出してください。確かに律法主義は問題です。けれども、信仰というのは必ずしも初めから全ての知識が与えられるのではありません。あることはキリスト者として行って一向に構わないのに、そこまで信じることができていないことがあります。それを「あなたは自由になっていない」と侮るのではなく、むしろ愛をもって接しなければいけない、ということです。

 ここでヤコブは、知恵のことばを用いています。異邦人の教会とユダヤ人の教会が分裂させないで、一つにすることができる知恵のことばです。これは教会にはとても大切ですね。コリント人への第一の手紙12章には、知恵のことばが、聖霊の賜物の一つとして数えられていますから、ヤコブはここで、聖霊に導かれた判断を下したのです。

2C 一致 22−29
 そこで使徒たちと長老たち、また、全教会もともに、彼らの中から人を選んで、パウロやバルナバといっしょにアンテオケへ送ることを決議した。選ばれたのは兄弟たちの中の指導者たちで、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスであった。

 この会議の決議を、書面にして、さらに、エルサレムの指導者を連れていきます。パウロとバルナバだけが、「こう決まった。」と言っても、「そう勝手に言っているだけだ。」と反論されてしまいます。ですから、ユダとシラスを連れていくようにしました。

 彼らはこの人たちに託して、こう書き送った。「兄弟である使徒および長老たちは、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟たちに、あいさつをいたします。私たちの中のある者たちが、私たちからは何も指示を受けていないのに、いろいろなことを言ってあなたがたを動揺させ、あなたがたの心を乱したことを聞きました。そこで、私たちは人々を選び、私たちの愛するバルナバおよびパウロといっしょに、あなたがたのところへ送ることに衆議一決しました。

 一決しました。教会での対立、妨げの力は排除されました。

 このバルナバとパウロは、私たちの主イエス・キリストの御名のために、いのちを投げ出した人たちです。

 バルナバとパウロを認めて、ふたりを非難する人々の意見を封じ込めることができます。

 こういうわけで、私たちはユダとシラスを送りました。彼らは口頭で同じ趣旨のことを伝えるはずです。

 エルサレムで認められている奉仕者も彼らと共に連れて行き、確かにパウロとバルナバの立場はエルサレムのと一致していることを表しました

 聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。

 私たちは、ではなく、「聖霊と私たちは」となっているのです。彼らは集まって、論議をし、判決を下しましたが、それは、彼らの判断ではなく、聖霊ご自身の判断だ、というのです。言い換えますと、自分たちが自分の言いたいことを言い合うのではなく、「まず祈りましょう。」「まず、神が何を考えておられるのか考えてみましょう。」という姿勢を持っていたのです。今のペテロとヤコブの発言にも、そのことを発見することができました。聖霊のみわざと聖書にたより、そして知恵のことばが用いられていました。

 私たちも、ここが大切です。教会の中では、いろいろなことが起こります。外側からの反対であれば、私たちは、一つになって祈ることができるし、互いに励まし合い、祈り合うことができます。けれども、教会の中でこのような対立が起こるときは、私たちはまず、へりくだって主のみこころを求めるべきなのです。これは、教会の中だけではなく、個人の生活においても同じです。肉の問題を解決するには、主のみこころを求めてください。まず祈り、聖書を読み、自分の判断で動くのではなく、神の判断を待ち望むのです。

 すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。

3B 前進 30−35
 そして、これからこの通達がアンテオケの教会に送られます。さて、一行は送り出されて、アンテオケに下り、教会の人々を集めて、手紙を手渡した。それを読んだ人々は、その励ましによって喜んだ。

 すばらしいですね、混乱と同様がアンテオケの教会に立ち込めていましたが、この手紙を読んで大いに喜びました。やはり聖霊の実はこの喜びなのです。

 ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、また力づけた。

 ユダとシラスは預言の賜物を持っていました。エペソの手紙4章の中に、教会の指導者としての賜物に使徒、預言者、伝道者、そして牧者また教師とあります。そしてその預言は何か未来を告げるものではなく神の言葉であり、彼らを励まし、教え、慰める働きをします。

 彼らは、しばらく滞在して後、兄弟たちの平安のあいさつに送られて、彼らを送り出した人々のところへ帰って行った。34節は、脚注のところにあります。しかし、シラスはそこにとどまることに決めた。シラスはとどまっていました。パウロとバルナバはアンテオケにとどまって、ほかの多くの人々とともに、主のみことばを教え、宣べ伝えた。

 預言によって励ましを受け、今度は教えによって導かれました。とても健全な教会です。宣べ伝えること、勧めること、教えることの3つの働きがなされていました。

 こうしてアンテオケの教会は、教会内の問題が起こってもそれを克服することによって、さらに前進することができました。これが理想の姿です。教会に問題が起こることが問題ではありません。その問題を、神のみこころを求めることによって克服することができるからです。そして克服することによって、さらなる前進をすることができます。成長できるのです。

2A みこころを求めないとき 36−41
 けれども、この後しばらしくして、パウロとバルナバの間に、少し悲しいことが起こります。幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」

 私たちが13章と14章で読んだ、ガラテヤ地方へまた行こうではないか、とパウロが誘っています。主を信じた人たちは、教会として健全と成長していなければいけません。信じるのも大切ですが、その後の成長はもっと大切です。ですから、パウロが、いっしょに行こうともちかけました。

 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。

 バルナバは、そのことには賛成でしたが、自分の甥であるマルコをどうしてもいっしょに連れていくと言い出しました。

 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。

 覚えていますよね、一行がキプロスからトルコに上陸したあとに、マルコはすぐにエルサレムへ帰ってしまいました。このことはかなり宣教チームには大きな打撃でしたから、パウロは、それは賢くないと判断しました。

 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。

 こうして、彼らは別々の行動を取ることになってしまったのです。どちらも生まれ故郷に近いところに宣教に行っています。バルナバはキプロスです。そして、パウロは小アジヤです。

 エルサレムでの会議では、異邦人の教会とユダヤ人の教会が分裂せず、一つとなることができましたが、パウロとバルナバは、分かれ分かれになってしまいました。これはなぜでしょうか。36節の、パウロのことばを見てください。「見て行こうではありませんか。」と言っているだけで、なにも祈りをしたとか、断食をしたとか書いていません。主のみこころを求めたような形跡が何もありません。自分の願いなのです。みこころを求めなかったために、バルナバと激しく反目しなければならなくなったのです。覚えていますよね、13章でふたりが遣わされるときは、教会の指導者が断食をして、主を礼拝していました。そこで聖霊が語られて、また再び断食をして祈って、手を置かれて出発したのです。このように、主が何を考えておられるのかを求める姿勢が必要であり、それによって、私たちが通る必要のない痛みや、混乱や、対立を免れることができるのです。「聖霊と私たちは」という姿勢が必要なのです。

 ただ、神はとても憐れみのある方です。パウロのこれからの宣教は、御霊に導かれていきます。聖霊に導かれるとは、自分の願いではなく、聖霊ご自身の願いに引っ張られるようにして導かれることを、私たちは使徒行伝の2章で学びました。16章において、パウロは御霊に行くところを禁じられて、自分の当初の思いとは違うところに出かけました。そして、ヨーロッパへの宣教が開始します。宣教はさらに、イエスさまの言われた、地の果てへ果てへと向かっています。

 そして、もっと喜ばしい知らせは、パウロがマルコに対する思いを変えていることです。彼の晩年の手紙であるテモテへの第二の手紙で、「マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(4:11」と言いました。また、ピレモンへの手紙でも、マルコを同労者と呼んでいます(24節)。こうして聖霊に導かれるとき、つまり、神のみこころを求めて歩むとき、私たちは一つとされます。教会の内部の問題も、また、クリスチャン個人の内面の問題も解決されるのです。「聖霊と私たちは」という姿勢で、これから生きていきましょう。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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