使徒行伝2章 「教会の誕生」

1A 源泉 − 聖霊の満たし 1−13
   1B 他国のことば 1−4
   2B 人々の驚き 5−13
2A 中心 − イエス・キリストの証し 14−39
   1B 神の約束 14−21
   2B キリストのみわざ 22−36
      1C 説教 22−36
         1D 導入 − 十字架刑 22−23
         2D 内容 − よみがえり 24−32
         3D 結論 − 主キリストとされたイエス 33−36
      2C 招き 37−39
3A 活動 − いっしょに集まること 40−47

本文

 使徒行伝2章を開いてください。ここでのテーマは「教会の誕生」です。私たちは、前回、「聖霊の働き」という題で使徒行伝1章を学びました。イエス・キリストは、復活されてから天に昇られましたが、その働きは聖霊によって依然として続きます。イエスは弟子たちに、父なる神の約束があるから、エルサレムで待っていなさいと命じられました。そして、こう言われました。1章8節です。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」この約束は、使徒行伝2章から始まって、最後の章に至って実現されます。実に、この使徒行伝という書物は、このイエスのみことばがいかに実現されていくかの記録の書なのです。

 2章においては、集まっている弟子たちの上に聖霊が降られる記事を読みます。それから、使徒ペテロの説教によって多くの人々がイエスを信じ、教会が始まりました。この2章に、教会が誕生した出来事が描かれているのです。ですから、私たちは、この2章を読むことによって、教会とは何かを知ることができます。教会が教会ならしめる3つ特徴が、この章に書かれています。3つの特徴があります。

1A 源泉 − 聖霊の満たし 1−13
 まず一つ目は、教会は、人々が聖霊の満たしを受けるところです。教会は、聖霊の満たしを受けるところです。1節から13節において、そのことが書かれています。

1B 他国のことば 1−4
 1節をご覧ください。五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 このように、キリストの弟子たちが聖霊に満たされました。時は、五旬節の日です。五旬節とは、ユダヤ人が守っていた例年の三大祭りの一つであります。旧約聖書に記されていますが、特にレビ記23章にあります。まず4月の初めに過越の祭りがあります。そしてその50日後に五旬節、あるいはペンテコステがあり、10月の初めに仮庵の祭りというのがあります。この3つの祭りには、ユダヤ人成年男子はエルサレムに来て、神を礼拝することが聖書の中で義務付けられています。そして、この五旬節は、年の初めての小麦の収穫を主にささげて感謝する祭りです。冬に種が蒔かれた作物は、この時期に実を結ばせます。その最初の収穫を主にささげます。この五旬節の日に、人々がイエスを信じてバプテスマを受けました。ですから、魂の収穫の日ともなったのです。

 そして、彼らが聖霊に満たされたとき、不思議な現象が起こりました。激しい風のような音が聞こえ、炎の舌のようなものがひとりひとりの上にとどまりました。「風」はヘブル語でも、ギリシヤ語でも「霊」と語源を同じくします。そして炎は、バプテスマのヨハネがかつて主が与えられる聖霊のバプテスマを予告した時に、こう言いました。「その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。(マタイ3:11」ペテロの説教を聞いたユダヤ人は心が刺され、悔い改めましたが、聖めを行なうバプテスマです。

 そして、彼らは「他国のことば」で話しています。これは正確に訳せば、「知られない言葉」であり、聖書の他の個所で「異言」と呼ばれているものです。話している本人が、その言葉を理解することはできないことを話します。聖霊が、その舌を動かす神経を支配して、本人の理解できない言葉を語らせるのです。自分が語りだし、それをやめることについて理性で制御できますが、舌の動きについては自分で制御していません。使徒行伝においては、聖霊に満たされて異言を語る人々がこの他に何回か登場します。そして、これは今日にまで続いています。クリスチャンで異言を語る人は数多くいます。

 けれども、異言を語ることのみが聖霊に満たされる証拠とはなりません。コリント第一12章から14章にかけて、御霊の賜物についての教えが書かれています。13章に、数ある賜物の中でも愛がもっともすぐれた道とし、そして14章において異言の賜物をどのように用いるのか、その指針をパウロは書いています。パウロは、「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。(コリント第一13:1」と言いましたが、肉的なクリスチャンが異言を語ることもできるのです。聖霊のバプテスマを受けた証拠は、1章8節にありましたように、あくまでもイエスの力強い証人となっていることであり、その大きな特徴は溢れ流れる神の愛です。

2B 人々の驚き 5−13
 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

 先ほど説明したように、五旬節には世界中からユダヤ人がエルサレムに集まっています。ですから、そこに集まって来たユダヤ人はいろいろな国語を話していました。驚きあきれてしまいましたが、それもそのはずです。弟子たちは、自分たちの理解できない言語を語っていただけではなく、そこにいる人々に理解できるちゃんとした人間の言葉を語っていたからです。

 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」

 ここで列挙されているものだけでも15種類の言語が語られていたようです。そして、さらに驚くべきことは、その言葉で神のみわざを語っていたことです。神をほめたたえていました。すばらしいと思いませんか。自分が制御していないから、その話していることが良くないことではないかと不安になるかもしれません。けれども、神を賛美していました。異言の賜物は、このように神に祈り、神を賛美するために与えられた賜物であることが、コリント第一14章に書いてあります。

 またローマ826節には、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8:26」とあります。私たちの知性では、何が神のみこころか分からない時、自分が言葉にならないうめきを持っている時に、異言で祈れば、自分自身は理解できないけれども、確かに御霊が神のみこころに沿って祈りを助けてくださっているのだという確信を持つことができます。個人的な祈りの助けとなる賜物です。

 

 けれども、コリントにある教会では無秩序に、礼拝において異言を多用していました。それでパウロはコリント第一14章において、それを理解することができないのだから、解き明かしの賜物がある人が解き明かしをすることがなければ、黙っていなければいけないと教えています。教会は、全ての人の益になるように賜物を用いなければいけないからです。

 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言ったしかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。

2A 中心 − イエス・キリストの証し 14−39
 この「甘いぶどう酒に酔っているのだ。」という発言に反応して、ペテロが次から説教をします。そこで、教会の特徴の二番目である、「イエス・キリストの証し」について学んでいきます。14節から39節までに書かれています。教会の1つ目の特徴は、「集まっている人々が聖霊に満たされる」ことでした。2つめの特徴は、「イエス・キリストの証し」です。イエス・キリストという方が中心になり、イエス・キリストがつねに宣べ伝えられているところが教会です。

1B 神の約束 14−21
 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

 ペテロは、人々の、「これはいったいどうしたことか。」という質問に対し、「こういうことです。」という返答をしています。ここで起こっている出来事は、酒に酔っているのではなく、旧約の預言の成就であると言っています。預言者ヨエルが次のように言いました。

 神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。

 これは、終わりの時についての預言です。ヨエルという人は、だいたい紀元前800年ごろに生きていた預言者です。南北に分裂したイスラエルのうちの南ユダ国にいました。彼が生きていたときに、とてつもないいなごの大軍が襲ってくる災害があったようです。彼はその出来事から、神さまに、この世の終わりはこのようになることを告げられました。いなごのような大軍がイスラエルを攻めるというのです。けれども、イスラエルの人々は悔い改めて、主に立ち返るので、彼らは救い出され、終わりの日には祝福を受けることが預言されています。

 その中で、この終わりの日に、聖霊が人々に注がれる預言があり、ペテロが引用した部分はその箇所でした。イエス・キリストが再び来られる前に、聖霊が注がれるという預言です。したがって使徒たちは、「イスラエルの国を再興してくださるのは、今なのか。」とイエス様に質問した時、「それはいつか、知らなくてよい。聖霊があなた方の上に臨まれて、地の果てまでわたしの証人となる。」と言われましたが、聖霊降臨の後にすぐ大患難があり、それからイスラエルが再興すると理解しました。

 これが教会の姿です。主が戻って来られます。けれども、その間、私たちは聖霊の満たしによってキリストの証しを国々にくまなく証しするのです。終末の幻を抱きつつ、聖霊の力を強く信じて生きるのが教会の姿です。

 そして1章でもそうでしたが、ペテロは、すぐに神の御言葉を取り出しました。弟子たちそれぞれが他国のことばを話している現象は、「聖書のここに書かれていることだ」と根拠を示すことができました。私たちの間に、さまざまな徴や不思議な現象が起こりますが、聖書的根拠がはっきりしていないものは、信じてはいけません。逆に、聖書にはっきりと書かれている奇蹟を、「これは非科学的だ、非合理的だ」と言って退けてしまうのも、同じように間違っています。つねに、聖書によって吟味し、聖書によって信じていくのです。

2B キリストのみわざ 22−36
 こうしてペテロは、今起こっている現象を聖書から説明したあと、イエス・キリストについて語ります。22節から36節まで語りますが、主イエス・キリストがどのような方か、またどのようなことをなさったのかを語ります。

1C 説教 22−36
1D 導入 − 十字架刑 22−23
 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。

 ここには、イエスについて、三つの事柄が書かれています。一つ目は、イエスはナザレ人であったということです。実在する人間でした。ペテロの説教を聴いているユダヤ人は、このイエスについてよく知っていました。つい五十日前には、同じように世界中からユダヤ人がやってきて過越の祭りを祝っていたのですから、周知の事実だったのです。「イエスは歴史上の人物である」このごく基本的な事実でさえ、日本の人たちには知られていないかもしれませんね。

 そして二つ目は、イエスは、多くの不思議なわざと奇蹟を行なわれて、ご自分が神であることを証明なさったことです。神にしかできないわざを行なわれて、ご自分が肉体を宿している神であることを主張されたのです。ヨハネの福音書を見れば、イエス様は何度も、「わたしが行なうわざによって信じなさい。」と言われました。他の宗教創始者、例えばモハメットや仏陀などは、何一つ、それが確かな真理であることを証明する徴を行ないませんでした。ただ、教えを垂れただけです。

 そして三つ目は、イエスが十字架につけられたことです。このことが、「神の定めた計画と神の予知とによって」と書かれていることに注目してください。あの事件はたまたま起こったのではありません。確かに、ユダヤ人指導者のねたみによって起こされ、ローマの不正な裁判に基づくものでありました。けれども実は、この出来事は、父なる神が永遠の昔から、私たち人間を罪から救われる方法としてお定めになっていたのです。旧約聖書には、イエスの十字架についての預言が膨大にあります。その代表的な預言は詩篇22編とイザヤ書53章です。

2D 内容 − よみがえり 24−32
 そして次にペテロは、イエスのよみがえりについて語ります。24節から32節にまで及びますが、イエス・キリストの復活は、福音の核心になるメッセージです。イエスが死者の中からよみがえられた、という事実が福音であります。ローマ14節には、「聖なる御霊によれば、(御子は)、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」とあります。復活によって、この方が確かに天地万物を創造された神の御子であり、神が人として来られた方であることを公にされました。そしてこの方が言われたすべてのことが正しく、この方以外に天下において救われるべき名としては与えられていないことが明らかにされたのです。

 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダビデはこの方について、こう言っています。「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」

 これは詩篇16篇の言葉です。ペテロは再び、旧約聖書の言葉からイエスを論証しています。聖書に精通し、聖書を運用することができました。これはダビデが書いたので、ここに出てくる「私」はダビデ自身であるように読んでしまいます。けれども、ペテロは「そうではない」と言っています。次を読んでください。

 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。」と語ったのです。

 今も、エルサレムの南側に「シオン山」と呼ばれるところがあります。実際のシオン山は、神殿の丘とその下に続くオフェルなのですが、後世の人々が誤ってそこがシオン山だと思い、そう名づけました。いずれにしても、そこにかつて主が最後の晩餐を行なわれたであろうと言われているところ、そして弟子たちが祈っていた屋上の間であろうと言われているところがあり、その下に「ダビデの墓」があります。そこにダビデが葬られているのではなく、先ほど話した本当のシオン山に葬られているのですが、けれどもユダヤ教徒がそこをダビデの墓として、今でもその前で祈りを捧げています。

 ですから、ユダヤ人にはダビデの墓は歴然とあったのです。そして詩篇16篇には、「あなたの聖なる者をハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。」とあるのです。したがって、これはダビデ本人を指しているのではなく、「ダビデの世継ぎの子」として預言されていたキリストを指していた、と論じているのです。

 ところで「ハデス」は、地獄の一部です。旧約聖書には「陰府」とも訳されています。新改訳聖書の巻末に説明があります。「新約聖書で、〈ハデス〉〈ゲヘナ〉と訳出されているのは、それぞれ、「死者が終末のさばきを待つ間の中間状態で置かれる所」「神の究極のさばきにより、罪人が入れられる苦しみの場所」をさす」キリストが十字架に付けられる前は、神を信じて死んだ人々はみな陰府に下りました。その中には、二つの区画があり、一つは「アブラハムのふところ」と呼ばれ、アブラハムと同じように、メシヤの約束を信じて死んでいった聖徒たちです。もう一つは苦しみの場所であり、不信者が下る所です。金持ちとラザロの話でイエス様はこのことを語られました。

 けれどもイエス様が十字架で死なれた後に、主は陰府の、アブラハムのふところの部分に下られました。イザヤ611節に、「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とあります。そして使徒ペテロは、「キリストは捕われの霊たちのところに行って、みことばを宣べられた(1ペテロ3:19」と言っています。さらには、エペソ489節で使徒パウロがこう言っています。「そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」・・この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。

 したがって、イエス様はハデスに下られて、そして天に昇られる時にそこに捕えられている聖徒たちを引き連れていったのです。今は、死んだらすぐに天に引き入れられます。十字架の贖いが完了しているから、仕切りとなる罪が完全に取り除かれているからです。旧約時代は、動物の血によるもので、罪は覆われこそしたもの、取り除かれてはいませんでした。

 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

 そうです、ペテロも他の弟子たちもみな、よみがえったイエスを自分たちの目ではっきりと見ました。また、自分たちの手でそのからだを触り、幽霊や幻ではないことも知りました。イエスはよみがえったのです。

3D 結論 − 主キリストとされたイエス 33−36
 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

 イエスは復活されてから、天に昇られました。その後に、父なる神から聖霊をお受けになって、それを今、弟子たちにお注ぎになったのです。使徒14節で、「父の約束を待ちなさい」とイエス様が弟子たちに言われましたね。ですから、先ほど、天から、激しい風のような音がして、炎のような分かれた舌がとどまったとありましたが、それは天におられるイエスが行なったことだったのです。

 ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。「主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」

 ダビデは詩篇の中でいろいろ「私」と語っていますが、実は聖霊によって自分の子として生まれるキリストを預言していました。そしてここの詩篇1101節も同じで、キリストを「私の主」と呼び、父なる神である主が、キリストのなるダビデの主に言われて、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」と言われました。主が立ち上がれるのは、殉教者が出てくるとき、そして最後に再臨される時です。今は、神の右の座に着いておられます。

 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

 ペテロは言いました。あのイエスは、実は主ご自身でありキリストであったのだ。そのキリストである方をあなたがたは、こともあろうに、十字架につけて殺したのだ、と言っています。先に話したように、五旬節で集まってきているユダヤ人は、その多くが過越の祭りにも集まってきていたのです。そこで、ペテロは、そのことの罪をはっきりと指摘しました。

 けれども、これは、彼らだけのことではありません。聖書にははっきりと、「あなたがたの罪によって、イエスは死なれたのです。」と告げています。私たち一人一人が、イエスを十字架につけたのです。私が、地球でたった一人生きている人間であったとしても、それでも、イエスは十字架につけられたのです。それは、私は罪人だからです。あなたは罪を犯したのです、とペテロははっきりと告げました。

2C 招き 37−39
 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

 聴いていた人々は、心を刺されました。すばらしいですね、自分が罪人であることを自覚しました。それで、「どうすればよいでしょうか。」と尋ねています。

 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

 ペテロの答えは、「悔い改めなさい」ということです。もともとの意味は「思いを変える」ということです。けれども思いだけでなく、自分の生きるべき方向を変えるということです。自分を中心にして生きていた生活から、神を中心にして、神にささげて、神により頼む生活に変えるということです。そして、悔い改めると「罪の赦し」が与えられます。悔い改めない者に罪の赦しはありません。「私はそんなに悪いことやっていませんよ。」と言っている人には、罪の赦しはありません。けれども、「主よ、私は罪人です。私はあなたに罪を犯しました。」と自分の責任を認め、へりくだる人には、神は豊かに赦してくださいます。

 そして、賜物として聖霊が与えられます。先ほどの、聖霊に満たされる約束のことです。バプテスマのヨハネも、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。(マタイ3:2」と言い、「私は水のバプテスマを授けているが、後に来られる方は聖霊と火によるバプテスマを授けます。(3:11参照)」と言いましたが、今まさに、その約束があなたがたのものになるとペテロは説いているのです。

 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。

 この約束」とは、もちろん父の約束であり、ヨエル書の預言にある約束です。したがって、当時の弟子たちだけでなく、また後世の信者たちだけでなく、はるか遠方にいる人々に対しても、全ての人々に与えられている約束です。この連続性が大事です。「使徒行伝の働きは、聖書の正典が完成されてまでの間、神の権威を表すために一時的に与えられた聖霊の賜物である。けれども、聖書の正典がある今は、そのような徴はない。」という考えがあります。それは、ここの個所から間違いであることが分かります。聖霊のバプテスマの約束は、私たちにも与えられているのです。

3A 活動 − いっしょに集まること 40−47
 このように、ペテロの説教はイエス・キリストを中心にしたものでした。教会は、イエス・キリストがを中心になっているところです。そして、3つ目について学びます。教会の特徴の3つ目について話します。それは、「いっしょに集まる活動をする」ということです。クリスチャンになって、自分ひとりで信仰を持つことはできません。神は、いっしょに集まってともに活動を行なうように命じておられます。

 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。

 ペテロは、信じたばかりに人に多くの勧めのことばを語りました。新しくイエスさまを信じた人には、多くの勧めが必要です。これからどうやって生きていけば良いか、その指針となる勧めのことばを聞く必要があります。ここでは、イエスをキリストだと認めず、退けてしまった曲がった時代から救われなさい、という勧めでした。実は現代に生きる私たちにも必要な勧めですね。現代は、キリストはいらない、という曲がった世の中です。そこから救い出されなければいけません。

 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

 教会の活動として最初に行なわれたのは、この水のバプテスマです。イエスを信じて、心に受け入れた人は、バプテスマにあずかって、自分の信仰を公に表明します。水のバプテスマは、自分がキリストとともに死んで、キリストとともによみがえったことを表しています。古い自分は死にました。過ぎ去りました。そして、新しく造られました。新しいいのちを持っており、そのいのちにあって、キリストとともに歩む生活が始まりました。そうしたことを象徴する儀式です。

 三千人が受けたとありますが、ものすごい人数ですね。今でもエルサレムに行くと、神殿の周囲に数多くの洗礼槽が見つかっています。ユダヤ人は水の洗いの儀式を行っていたので、バプテスマを受けることのできる場はたくさんありました。

 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 これは、教会が定期的に行なうべき四つの活動であります。一つ目は、使徒の教えを堅く守ることです。使徒の教えとは、まさしく聖書であります。新約聖書は使徒たちによって書かれ、その言葉は旧約聖書に基づいています。したがって、聖書の教えを堅く守ることが教会の活動の中心であり、毎週の礼拝において、また家庭集会において、私たちは聖書の教えを聞かなければいけません。

 そして、二つ目は交わりをすることです。これは、単に集まって、おしゃべりをすることではありません。交わりのギリシヤ語はコイノニアです。これは一つになることを意味しています。ひとりが苦しめば、みなも苦しみ、ひとりが喜べば、みなも喜びます。ですから、私たちはいっしょに集まって、そのような、いたわり合い、励まし合う関係を築くのです。

 そして、三つ目はパンを裂くことです。これは、聖餐式とも主の晩餐とも呼ばれています。主イエスが、十字架につけられる直前の夜に、過越の祭りの食事を弟子たちともに取られました。そのとき、パンを裂いて、「これは、わたしのからだです。取って食べなさい。」と言われました。そして、ぶどう酒の杯を取って、「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの血の契約です。多くの人の罪を赦すために流されます。」と言われました。このように、私たちは定期的に、パンを裂いて、主が私たちの罪のために死なれたことを思い出すのです。

 そして、四つ目は祈りです。祈りは、個人的なクリスチャン生活の原動力だけではなく、教会の原動力でもあります。教会におけるすべての願い事を主に知っていただく必要があります。私たちは自分ばかりのことではなく、教会の指導に務めている人のため、またお互いのためにいつも祈っていかなければいけません。ですから、祈りも定期的な教会の活動です。ですから、聖書の教えを聞く、交わりをする、パンを裂く、祈るということが、教会の定期的な活動になります。

 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

 これは、必ずしも教会が行なわなければいけないというものでありません。なぜなら、この財産共有によって、後でエルサレムの教会にいろいろな問題が起こっているからです。でも、お互いの必要のために、愛をもって自分の財産を分かち合うことは教会においてすべきことです。礼拝における献金を、「教会に取られていく費用」と考えないでください。一義的に、「主に与えられたものの一部をお返しする」のです。そして二義的に「互いに分かち合っていく」というものがあります。私たちは、地上の共同体から贖い出されて、神の共同体、神の家族、神の民とされました。ですから、この中で自分のものを分かち合っていく、共有するという意味があるのです。

 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。

 彼らは、毎日集まっていました。喜びをもって共に食事をしていました。心を一つにして神を賛美していました。つまり、共同体生活です。イエスが言われた、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」の実践です。私たちがこのように聖書を学んでいますが、それはあくまでの教会という共同体生活の中で行なっていることの一部です。

 そして最後に、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。とあります。イエス様も言われました。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:35」救われる人々が仲間に加えられるのです。愛があるところに人が来て、キリストが生きておられることを知ることができるのです。ですから、結局のところ、教会とはキリストの愛が満ちているところ、と定義することができるでしょう。教会は建物ではありません。また組織でもありません。信者が集まってキリストの愛があるところ、それが教会です。そして、最後にみなさんにお伺いしたいのは、「教会の一部」になっていますか、ということです。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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