使徒行伝8章 「福音の広がり」

 

アウトライン

1A 教会に対する迫害 1−8

   1B サウロの主導 1−3

   2B 神の御手 4−8

2A ピリポの伝道 9−40

   1B 大衆 9−25

      1C 信仰へのきっかけ 9−13

      2C 聖霊の取り扱い 14−24

   2B 個人 26−40

      1C 聖書からの導き 26−35

      2C 御手にゆだねた働き 36−40


本文

 使徒行伝8章を学びます。ここでのテーマは、「福音の広がり」です。

 

1A 教会に対する迫害 1−8

1B サウロの主導 1−3

 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

 

 私たちは前回、ステパノがサンヘドリンにおいて、長い説教をし、そのメッセージのために、石打ちにされ殺されてしまった個所を学びました。そして8章は、この殉教をきっかけとして、エルサレムにあった教会に迫害の手が伸びたことから始まっています。使徒たち以外の者は、周りの地域に散らされました。使徒たちがエルサレムに残ることができたのは、その不思議としるしのわざによって、サドカイ派を中心とするサンヘドリンは、彼らに手を加えるのを諦めてしまったからです。けれども、他の人々は激しい迫害に遭っています。この出来事は、とても悲しい事のように思えます。敬虔な人はステパノを葬って、非常に悲しみました。教会の多くの人が、次々と牢獄に入れられました。しかし、この試練は、実はイエスが最初から知っておられた事です。1節に、「みな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」とありますね。それでは、使徒行伝1章8節をお開きください。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」ですから、今まさに、イエスのみことばが実現しているのです。彼らは、聖霊の力を受けて、ユダヤとサマリヤの全土へと、イエスの証人となっていくのです。

 神は、私たちの思いをはるかに超えて、私たちの願いをかなえて下さる方です。一見、私たちには、とても不利に思えるようなことでも、神の目からは最短距離を走っていることが実に多いのです。エルサレムの教会は、とても愛に満ちあふれた交わりがありました。彼らは、自分たちの財産を教会に分け与えて、ともに暮らしていました。日々、パンを裂き、ともに主を賛美していました。すばらしい交わりがあったのですが、イエスさまには、それ以上の祝福を用意されていました。この福音を、エルサレムだけではなく、ユダヤとサマリヤにも広げていきたいと思われていたのです。だから、今、この迫害が起こるのをお許しになって、彼らがユダヤとサマリヤに散らされました。私たちも、彼らと同じように安定を求めます。その安定がいつまでも続くことを願います。けれども、私たちは、そうした快適な領域から出ていって、神に託された使命を果たすように遣わされることがよくあるのです。

 そして、この迫害の主導者はサウロであります。気が狂ったように迫害していますが、次の章では、このサウロがイエスに出会い、回心して、地の果てにまでわたしの証人となる、というイエスのみことばが実現していきます。皮肉ですが、サウロは、この迫害によって、人々をユダヤとサマリヤの地域へ散らすことの手助けをし、また、自ら福音宣教をすることによって、地の果てまで宣べ伝えることを手伝いました。神はすべてを支配されています。

2B 神の御手 4−8

 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。

 ここで大切なことばは、みことばを宣べながら、であります。ひどい迫害を受けたので、打ちひしがれて、がっかりきて、無目的に歩き回ることもできました。けれども、彼らは、そのような試練の中にいても、主に命じられたことを飽くことなく、行なってきたのです。ガラテヤ書6章9節には、「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあります。私たちには、試練に直面するとき、二つの反応が出来ます。一つは、その状況に対し怒って、苦々しく思い、行なっていることを止めてしまうことです。もう一つは、この状況は主によって起こされたものと信じ、さらに主に近づく機会とすることです。試練によって、信仰から離れることもできますが、試練によって、ますます神との関係が深めることもできるのです。彼らは、みことばを宣べ伝えながら、散っていったのです。

 そして次に、そうした人々の一人に焦点が当てられます。ピリポです。

 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。

 すばらしい神のみわざが、ピリポを通して行なわれました。他の使徒たちと同じように、多くのしるしを行ない、悪霊に縛られていた人が解放され、病気の人が直りました。そして、大きな喜びが起こっています。主のみわざがなされるとき、それを特徴づけるのは喜びです。教会は、主のみわざが行われ、喜びが満ちているところであります。


2A ピリポの伝道 9−40

 けれども、このような大ぜいの人たちの中に起こる聖霊の働きには、適切に応答していない人も現われます。現象面だけにとらわれて、本質的な部分を見逃している人たちが現われてきます。次に登場するのは、その典型的な人物です。


1B 大衆 9−25

1C 信仰へのきっかけ 9−13

 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。

 魔術師シモンがいました。彼が本当に超自然的なことをしたのか、あるいはトリックを使ったマジックを使っていたのかは分かりませんが、人々の関心を引き寄せていました。

 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。

 

 多くの人々が、イエスの御名を信じて水のバプテスマを受けました。シモン自身も信じました。けれども、彼の動機は、信仰の対象であるイエス・キリストご自身から離れて、ピリポの行なう、しるしと不思議のほうにずれていました。

2C 聖霊の取り扱い 14−24

 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

 エルサレムにいるペテロとヨハネがサマリヤにやって来て、聖霊を受けるように祈っています。いくつか、興味深い点があります。一つは、サマリヤにいる人々は、イエスを信じていたのに、そして水のバプテスマを受けていたのに、まだ聖霊は受けていなかったのです。私たちが信じたときに、聖霊は私たちの内に住んでくださいますが、上に臨んでくださっていません。福音を宣べ伝えるためには、この上からの働きが必要であり、イエスを信じた人はだれでも、聖霊を受けるよう求めなければいけません。そしてもう一つ興味深い点は、聖霊を受けるように祈ることを、ピリポはできなかった、ということです。そのため、ペテロとヨハネに来てもらいました。ここから、私たちにはそれぞれ異なる賜物が与えられていることがわかります。一人一人、聖霊はそれぞれに異なる賜物を与えて下さり、私たちがその賜物を用いることによって、教会が建て上げられます。

 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 どのような現象が起こったのかよく分かりませんが、次にシモンがこの権威を買いたいと言っているので、何か特別なしるしが伴なったのでしょう。他の個所では、だいたい異言であったり、預言であったりします。

 使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。

 彼がもしマジシャンであったとすれば、彼の言動は理解できます。トリックを売買することは、マジシャンの間で普通に行なわれているからです。けれども、彼には根本的な間違いがありました。自分が聖霊を受けることを望んだのではなく、自分が聖霊を授けることができる権威を望んだという点です。言いかえると、自分が聖霊によって支配されることを望んだのではなく、聖霊を利用しようとしているのです。言いかえると、祝福を与えて下さる神を求めるのではなく、神の祝福を求めます。私たちは、自分が祝福されるために教会に来るのではありません。神に仕え、神を礼拝するために来ています。

 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。

 神のもので売買することを、英語でSimonyと言いますが、ここから来ています。昔、中世のカトリックでは、法王職をお金で買っていた時がありました。


 あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。


 シモンの問題は心の問題でした。心が神の前に正しくありませんでした。

 だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。

 ペテロは、霊を見分ける賜物を用いて、彼の心にある状態を見抜きました。苦い胆汁と不義のきずながあったのです。おそらく、自分に集まって来た人々が、ピリポのほうに離れてしまった、という思いをシモンは持っていたのであろうと考えられます。それで苦みがあったのです。先ほど、試練には二つの反応があると言いましたが、その一つが苦みでした。私たちは、苦みから自分を守らなければいけません。

 シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

 彼は恐ろしくなったのでしょう、悔い改めています。 こうして、一つの問題が解決されました。


 このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。

 ペテロとヨハネは、エルサレムに帰る途中、サマリヤでも福音を宣べ伝えました。こうして、彼らが思いもしなかった迫害という方法で、サマリヤに福音が宣べ伝える、主のみことばが実現しました。大ぜいの人が救われましたが、その中に悪い動機で信じた人がいました。

2B 個人 26−40

 今度はそれとは対照的に、たった一人ですが、純粋な動機で主を信じた人が登場します。

1C 聖書からの導き 26−35

 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)そこで、彼は立って出かけた。

 簡単に書いてありますが、これは人間的に考えると、随分理不尽な命令です。どんどん救いが起こっているサマリヤの地域を離れて、荒れ果てたガザの地域に行きなさい、と言われています。普通なら、「主よ、あなたは間違っています。ここでおおぜいの人が救われているのだから、ここから離れるのは賢明ではありません。」とピリポは言うことができましたが、彼は、素直に立って出かけました。私たちは、神のみことばに直面するとき、「ちょっと、これはばかばかしいですよ。こんなことやったら、損するじゃありませんか。」と言い返すときがたくさんあります。けれども、箴言には、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。」とあります。主に導かれることを学ばなければいけません。

 すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。

 エチオピアの大蔵大臣がいました。

 彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。

 彼は、エチオピア人であったのに、エルサレムに行って神を礼拝しています。これを聖書では改宗者と呼んでいますが、異邦人なのだけれども、ユダヤ教のモーセの律法を守る人のことです。この宦官は、それだけ神を求めていました。おそらく、自分の周りにある偶像は何かおかしい、これを信じるのは愚かだ、と思っていたかもしれません。また、イスラエルの民に働かれた神の記録を読んで、この方に従いたい、この方のいのちにあずかりたい、と思ったかもしれません。いずれにしても、真理を求めている求道者であり、エルサレムに行っても、ほんとうに神を見出すことはできなかったようです。エルサレムから帰り、真理が分からないままで、聖書を読んでいました。けれども、神は、ご自分を求める人には必ずご自身を現わしてくださいます。本当に神を求めている人は、だれかを遣わして、その人をイエス・キリストに導くようにしてくださるのです。エチオピアの宦官に遣わされたのは、このピリポでした。

 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、声を出して読んでいたみたいですね。「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。

 多くの人が聖書を読んでも分からない、と言いますが、この宦官も同じでした。導く人が必要でした。

 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」

 これはイザヤ書53章です。有名な、イエスが十字架につけられる個所です。

 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

 宦官は、だれについて言っているのか分かりませんでしたが、ピリポはイエスについて言っていることを教えました。ここは有名なイザヤ書ですが、実は、旧約聖書のどこからでもイエスのことを宣べ伝えることができます。旧約聖書の律法も預言も、みなイエス・キリストについて説明されたものです。ですから、旧約聖書も新約聖書と同様に、イエス・キリストに私たちを導いてくださいます。

2C 御手にゆだねた働き 36−40

 私たちがイエスさまに導かれると、いのちが与えられます。今まで求めていた真理を見出し、完全に満足することができます。この方によってはじめて、私たちは聖書を自分のいのちの言葉として受けとめることができるのです。この宦官にも変化が現れました。

 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」

 池や、川のようなところがあったようです。水のバプテスマを受けさせてください。イエスさまが死なれて葬られたように、私も古い人が葬られ、イエスがよみがえられたように、私も新たないのちを得たいのです、という願いを持ちました。そして、脚注をご覧ください。37節が載っています。

 そしてピリポは言った。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。すると彼は答えて言った。「私は、イエス・キリストが神の御子であると信じます。」

 信仰告白をしました。心で信じただけではなく、口で告白しました。

 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。

 水の中に降りて行き、とあるように、バプテスマは水に浸るのが正しいやり方です。

 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

 宦官は喜んでいます。今まで分からなかった事、求めていたこと、そのすべてが与えられたからです。先ほどは、大ぜいの人が喜んでいましたが、ここでも、静かに神のみわざが行なわれました。そして面白いことに、ピリポは、御霊によって他の地域にテレポートされています。御霊が連れ去られた、とあります。エチオピアには、大きなキリスト教の一派がありますが、この宦官から福音が広まったものと考えられています。

 それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

 アゾドとは、ヨッパとカイザリヤの中間にあった町と考えられます。そこに御霊によって連れてこられて、彼はその町を巡って福音を宣べ伝えました。そしてカイザリヤに来ました。使徒行伝21章8節を見ると、ピリポは、カイザリヤで家を持っており、4人の未婚の娘がいることが書かれています。彼はそこに定住したようです。

 こうして、ピリポの伝道活動を中心に見ていくことができましたが、その福音の広まりは、私たちの予期に反することばかりでした。迫害が起こって、福音が伝えられたこと、また、御霊によって荒れ果てた場所に連れて来られたこと、さらに、信じたばかりの人を置いていって、テレポートされてしまったことです。けれども、それは、神の完全なご計画の中にあり、ピリポは、主が言われることをことごとく行なっていきました。私たちも福音を宣べ伝えなければいけません。もちろん、すべての人がピリポのように伝道の賜物を持っているわけではないのですが、教会には他の兄弟姉妹がいます。自分だけですべてをやろうとするのではなく、その賜物を持っている人に任せるのです。このように、すべての人の賜物が生かされて、福音が宣べ伝えられます。ただ、自分が祝福されるために来るのであれば、シモンと同じです。主にお仕えし、人々をキリストに導く働きにたずさわりましょう。