エペソ人への手紙2章 「以前の『あなた』と今の『あなた』」

アウトライン

1A 救われた 1−10
   1B 罪過の中に死んだ者 1−3
   2B よみがえらせられた者 4−10
      1C 神の豊かなあわれみ 4−7
      2C 恵みによる救い 8−10
2A 近づけられた 11−2
   1B 契約から離れた他国人 11−12
   2B ひとつとされた人 13−22
      1C キリストの十字架 13−18
      2C 神の御住まい 19−22

本文

 エペソ人への手紙2章を開いてください。ここでのテーマは、「以前のあなたと今のあなた」です。

 パウロは、1章から、イエス・キリストに霊的祝福について語っています。これがいかに恵みにとみ、栄光に富み、そして偉大であるかを彼は1章において語りました。そして、この2章においては、この祝福をさらに際立たせるため、キリストを知る前の私たちの状態と対比させています。2章の1節は「あなたがたは」から始まりますね。そして、11節も、「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は…」と始めています。パウロは、私たちがいかに悲惨で、最悪で、どうしようもなく、失われ、絶望状態であったかを描いています。そうした対比によって、神が私たちにキリストにあって成してくださったわざが、いかに偉大で、すばらしく、栄光に富み、恵みに富んでいるのかを知らせたいと願っているのです。ですから、「以前の『あなた』と今の『あなた』」をこの2章では述べています。

1A 救われた 1−10
 それでは1節をごらんください。
1B 罪過の中に死んだ者 1−3
 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

 パウロは、初めからかなり強烈な言葉を使っています。「あなたがたは死んでいた者です」と言っています。私たち人間が考えられるような、あらゆる可能性、能力、称賛に値するもの、栄光、それら私たちの生活全般に関するすべてのものに対して、パウロは、「死んでいた者です。」と言っています。イエスさまは、「いのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25」とおっしゃられました。私たち人間は、自分のいのちを救おうとして生きています。何か自分に満たされるものを求め、この「自分」というものが、自分として成り立っていくために、いろいろな工夫をして、計画を立てて、何とかして保とうとします。しかし、イエスさまは、「そのようなことをすれば、あなたがたは失いますよ。」とおっしゃられているのです。しかし、イエスにあって、自分は実は死んだ者であることを認めるときに、初めて生きることができます。

 そしてパウロはここで、「罪過と罪の中で死んでいる」と言っています。罪過とは、文字通り、「罪となる境界線を過ぎ越してしまう。」という意味です。与えられている規則や決まり事に違反するということであります。そして「罪」とは「不完全」と言ったらよいでしょうか。もともとの意味は、「的外れ」ですが、神から離れた的外れな生き方をしている、ということです。この罪過と罪の中に、私たちは死んでいました。

 そして、この罪の中に生きていると、「この世の流れに従」っていた、とあります。ここの従うというのは、流れたままにさまよい歩く、と言い換えたほうがよいと思います。死んだ魚が流れにしたがって下流へと向かうように、罪の中に生きていると、この世の流れのままに翻弄されていくのです。

 この世の流れに従っているだけではありません。「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って」いると書いてあります。空中の権威を持つ支配者というのは、悪魔のことです。聖書には、いくつかの天について述べていますが、空としての天、神の御座があるパラダイス、そして、ここの空中の天があります。神の御座のパラダイスから追い出された悪魔は、今、空中にいます。そして、神に不従順である者たち、神に背を向けている者たちの中に、この悪魔が働いているのです。神から自由になり、自分は主体的に生きていると思っていても、実は悪魔に従っているのです。

 これだけ見ても、とてつもなく悲惨な状態ですが、それだけではありません。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 私たちは、肉の欲の中に生きている者たちでした。肉の欲というのは、「からだにある欲求を、過度に、無制御に求めること。」と言い換えたらよいでしょうか。食欲がありますが、過度に求めるとむさぼりになります。性欲がありますが、過度に求めると不品行や姦淫になります。バランスをくずしていることが、「肉の欲の中に生きている」ということです。そして、肉の欲は、「肉と心の望むままを行なう」ところに現われますが、肉の望むところというのは、肉体に関する欲望でありますが、心の望むままというのは、自慢や高慢、ねたみ、憎しみなど、思いの中にある欲望のことです。

 そして、このような生き方をしていると、「御怒りを受けるべき子ら」とありますが、神の御怒りを受けることとなります。罪の中に死んでおり、肉の欲の中に生き、そして最後は神のさばきを受ける、これが私たちの運命だったのです。

2B よみがえらせられた者 4−10
 とてつもなくひどい状況ですが、4節をごらんください。「しかし」という言葉から始まります。どうしようもなく救われようもない状態になっている私たちに、神ご自身が介入されたのです。

1C 神の豊かなあわれみ 4−7
 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

 死んでいた私たちに対して、神は生かす御業を行なってくださいました。私たちはこの前、「神が、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座につかせて」という部分を学びました(1:20)。神が、キリストに対して働かせた力を、キリストとともに私たちのうちにも働かせてくださったのです。

 私たちはまず、生きました。罪の中に死んでいたのですが、御霊によって新しく生まれさせてくださいました。今はいのちを持っています。それだけではありません。イエスさまは神の右の座に着いておられますが、ともに天の所にすわらせてくださっているのです。これは物凄いことですね。私たちは、今、この地上にいるのですが、天におられるキリストの中にいるのです。私たちはすでに天に属している者とさせられているのです。

 そして、パウロは、このことを行なってくださったのは、「神のあわれみと愛」であると言っています。さらに、私たちが救われたのは、ただ恵みによると言っています。私たちには、何ら愛させるべき理由も原因も要素もありません。罪の中に死に、この世の流れのままにされ、悪魔の霊に従い、肉の欲に生きている私たちに、神から何ら好意を寄せられるような者はないのです!ですから、神が私たちをお救いになったのは、純粋にそのあわれみによります。

 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

 ここの文の意味は、一言でいうと、イエスさまの恵みが啓示されるのは、永遠という時間を費やすということです。あとに来る世々において、このすぐれて豊かな恵みが明らかにされていきます。私も思います。私がイエスさまを信じてから、その恵みのすばらしさを知りましたが、11年経った今は、もっとその救いのすばらしさを知っています。これは、掘っても掘っても、そこから命の泉が湧き出てくるような救いです。私たちが引き上げられて、主にお会いし、主とともに永遠を過ごすときには、ますますその恵みは明らかにされて、賛美をやめることはなくなってしまうでしょう。

2C 恵みによる救い 8−10
 こうしてパウロは、死んでいた私たちが生かされたことを話しましたが、神の恵みについて、さらに詳しく話していきます。

 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 救いは、私たちから出たものではなく、また、私たちの行ないによるものではない、と言っています。2章の1節は、「あなたがたは」から始まりましたね。私たちが引き起こしたものは、死と神の怒りでありました。しかし、4節は、「神は」から始まりました。ですから、救いは神から出たものであり、私たちから出たものではありません。

 ただパウロは、ここで、「信仰によって」という言葉を差し入れています。私たちは何もしなくても、自動的に救われるのではありません。神の救いを受け入れるという行為が必要です。信じることによって、初めて神の恵みがその人のうちに働きます。

 そしてパウロは、「だれも誇ることのないためです。」と言っています。もし救いが神から出たものであり、私たちから出たものでなければ、その栄誉は神に至ります。私たちの行ないによって救われるのであれば、私たちは誇ることはできますが、神が行なってくださったのですから、神に栄光が帰されます。自分の行ないに拠り頼みたくなるのが私たちの性質ですが、それは自分を誇りたいという動機があるからです。しかし神の恵みは、私たちの誇りをすべて取り除きます。

 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 救われた私たちは「神の作品」であると、パウロは言っています。この作品とは、ギリシヤ語で「ポエマ」であり、その言葉から英語の「ポエム」つまり「詩」が派生しました。つまり、私たちは神の芸術品なのです。私たちは、他の聖書個所で、「陶器」であるとも言われています。神が陶器師であり私たちが陶器です。神の願われるままに、神の喜びとして、私たちは形造られていきます。私たちはただ、主の御手の中に生き、主に委ねて、主がなされることに身を任せることが必要です。

 そして、パウロは、この作品は、「良い行ない」によって作られることを話しています。私たちが救われたのは行ないによるのではないのですが、救われた私たちは良い行ないをするようになります。しかし、ここで注意していただきたいことは、「神が、その良い行ないをあらかじめ備えておられる。」ということです。良い行ないでさえも、私たちからではなく神から出たものなのです。

 キリスト教会、カトリックだけでなくプロテスタント教会の教えで、疑問に思っていることが私にはありますが、それが、「救われた者は、行ないをしなければならない。」という教えです。あたかも、神が行なわれた救いのみわざが足りなかったでもあるかのように、良い行ないをすることを強調します。祝福されるために賛美をしましょう!伝道しましょう!奉仕をしましょう!良い行ないによって、あなたたちは神さまに祝福されます、と言います。私たちが主体となり、私たちの行為により神が応答してくださる、というものです。これは間違っています。パウロは、神が、良い行ないをあらかじめ備えておられる、と言っています。主体者は私たちではなく神なのです。神が私たちのために行なってくださったことが主体なのです。私たちが、神が行なってくださったことを思うとき、神さまの恵み、あわれみ、栄光、すばらしさを思うとき、私たちは駆り立てられるように良い行ないをします。私たちの眼中には、自分が何かを行なっているという意識はありません。神がなしてくださっていることを意識しています。

2A 近づけられた 11−22
 こうして、救いにあずかった私たちを見ることができましたが、これは言わば、どん底から頂上まで引き上げられたようなわざであります。次から見る神さまのみわざは、下から上に引き上げるような垂直のわざではなく、遠く離れている者が近づけられるという、言わば「水平」のみわざです。イスラエルに対する神さまの祝福から遠く離れていた私たちが、それに近づけられる者となった、という話しです。

1B 契約から離れた他国人 11−12 
 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、

 パウロは再び、以前の私たちの姿を思い起こさせています。私たちは罪に死んでいただけではなく、肉における異邦人でした。イスラエル人ではない民族はみな異邦人でありますが、エペソの町のほとんどは異邦人でした。私たち日本人も、もちろん異邦人です。そしてイスラエル人をイスラエル人たらしめるしるしは、割礼でありました。アブラハムの子孫の中にはいる契約のしるしとして割礼がありました。これはモーセを通して授けられた律法の中にも定められています。そして、ユダヤ人は、割礼を受けていない者たちを「無割礼ども」と呼びました(士師記15:18など)。こうやって、神の民という共同体の中から、異邦人は疎外されていたのです。

 パウロは次に、異邦人、あるいは無割礼と呼ばれる者たちの状態を描いています。そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

 4つの状態が書かれています。一つは「キリストから離れ」ていることです。ここはキリストではなくメシヤと言い換えたほうが、その意味が分かるでしょう。神は、イスラエルの子孫からメシヤを与えられることを約束されました。この方はイスラエルの迷える羊たちのために来られました。イエスさまは、12人の弟子たちを遣わし、「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの滅びた羊のところに行きなさい。(マタイ10:5-6」と言われました。メシヤは、イスラエルをお救いになることを意図され、そのように動いておりました。

 二つ目は、「イスラエルの国から除外され」ていることです。イスラエル人であるがゆえの市民権を私たち異邦人は持っていませんでした。さまざまな特権がイスラエル人に与えられていましたが、異邦人は蚊帳の外に置かれていたのです。そして三つ目は、「約束の契約については他国人で」あるということです。神さまはイスラエルの民と契約を結ばれて、さまざまな約束を与えられました。「わたしは、あなたの子孫を祝福する。」というアブラハムへの約束からはじまり、モーセをとおして、「あなたがたを宝の民とする。聖なる祭司とする。」という約束も与え、イスラエルのためにはカナン人の土地も与えられました。それから、ダビデから王を出されることを約束され、また彼らが立てた神殿に住まわれることも約束されました。このように、数多くの約束がイスラエルに与えられ、それが「契約」という、深い関わりによって成り立っていましたが、私たち異邦人は、それらの約束や契約とは無縁の存在だったのです。そして四つ目の状態に、「希望もなく、神もない」とあります。将来に対する確かな約束は何一つありません。自分たちが信じているのは神々と呼ばれるものであり、木や石にしかすぎないものでした。

2B ひとつとされた人 13−22
 ここまでが私たちの悲惨な状態です。次からが、再び神の恵みのみわざが書かれています。

1C キリストの十字架 13−18
 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

 先ほどは、「キリストから離れ」と書かれていましたが、今では、「キリスト・イエスの中にある」と書かれています。こんなにまで近くにされました!そして、それはキリストの血によって成し遂げられている、とあります。ここが、とてつもない神のすばらしいみわざなのです。

 イエスさまはイスラエルの滅びる羊たちを捜すために来られましたが、彼らのほとんどは、イエスさまをメシヤとして受け入れませんでした。イスラエルの指導者たちが、イエスを、「ベルゼベルの力で悪霊を追い出している」と言って、悪霊つきであるとみなしました。神がご自分のみもとに招いていたのに、それに応じなかったのがイスラエル人なのです。このイスラエル人によって、また異邦人の手によって、キリストなるイエスは十字架につけられました。

 しかし、ここに神さまの不思議なみわざを見ることができます。イスラエルがメシヤを拒んだことによって、かえって、すべての人に神への道が開かれたことであります。神がイスラエルに律法をお与えになっていましたが、イスラエルは、それを守り行なうことができないことがついに証明されました。そして、神は、彼らが律法を守り行なえないことを見て、究極的な計画を実行されました。それは、ご自分でその律法ののろいを身に受けるという計画です。神はご自分の御子において、その律法ののろいをお受けになりました。それが十字架でした。「木にかけられる者は、すべてのろわれる。(ガラテヤ3:13」と律法の中にあります。キリストが十字架にかけられたことにより、神は律法を破棄されて、まったく新しい条件でご自分に近づく道を備えられたのです。それが、信仰による義です。すでに律法は破棄されたのですから、そこにはユダヤ人と異邦人の差別はありません。すべての人が罪の中に閉じ込められて、すべての人が、キリストによって神のあわれみを受けることができます。これが、ここで書かれていることです。異邦人は、キリストの血によって、近い者とされたのです。

 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

 パウロはここで、律法の中にある、いけにえの制度のことについて触れています。レビ記において、イスラエル人が、全焼のいけにえ、穀物のささげもの、そして、和解のいけにえをささげることについて書かれていますが、そこの「和解」というのが、ここで出てくる「平和」であります。ヘブル語では、シャロームです。イスラエル人が、自分を神に聖別するための全焼のいけにえをささげてから、神を賛美し、神に感謝し、人々と楽しく交わるときには、和解のいけにえをささげます。牛や羊をほふり、血を祭壇に流します。そして、脂肪や内臓の部分は火で焼いて神におささげします。けれども肉の部分を食べることができます。このような分け隔てのない主にある交わりを和解のいけにえによって行なうのですが、ここではキリストがこのいけにえになられた、ということが書かれているのです。イエスさまがいけにえとして血を流され、そしてイエスさまの肉によって、ユダヤ人も異邦人も一つとなって、神を賛美し、礼拝することができる、というものです。

 ここに「隔ての壁」とありますが、これはおそらく、神殿における異邦人とユダヤ人を隔てる壁であったと思われます。神殿には、祭司だけが入ることができるところ、またイスラエル人の男子は入れても女子は入ることができないところ、そして婦人の庭、そしてその外側に異邦人の庭がありました。異邦人の庭との隔ての壁には、「異邦人、諸国の民は、ここから入れば、死の痛みをともなう。」という言葉が刻み込まれていました。しかし、キリストが十字架につけられた今、この隔ての壁はなくなったのです。

 敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

 パウロは、二つのものと隔てるものがあるときに、そこには敵意があるとしました。そしてその隔てがないときに、それは平和であると言っています。私たちは「平和」という言葉を聞くとき、「平穏」という意味と混同してしまいます。何も災いや変動が起こらないときに、それが平和であると言います。しかし、それは大きな間違いです。もし私たちの互いの間に、目に見えない壁があるのであれば、いくら平穏であっても、それは平和ではなく敵意ある状態なのです。そう考えますと、私たちはすぐに平和を壊してしまう存在であることを知ります。自分と気の合わない人たちとの間に、私たちは壁を設けてしまいます。そして、自分と気の合わない人たちは、仲間に入ることができず疎外されていきます。これが、聖書が語っているところの敵意でありますが、イエスさまはこの敵意を葬り去るために十字架につけられたのです。

 そして、ここに「新しいひとりの人」という言葉が出ています。ユダヤ人と異邦人が、キリストにあって新しい一つのからだになるということです。クリスチャンになるということは、ユダヤ人が異邦人のようになるということでも、また、異邦人がユダヤ人のようになるということでもありません。そうではなく、ユダヤ人も異邦人もキリストのようになるのです。キリストにある新しい性質を身に着けるのです。

 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

 イエスさまは、十字架につけられてからよみがえられました。そして弟子たちに平和を宣べ伝えられました。つまり、神との和解です。神は私たちに対する敵意を、ご自分の子に置かれた。それゆえ、神はただ私たちに和解のことばだけを残されている、というメッセージをです。宣べ伝えました。遠くにいた異邦人に対しても、使徒たちをとおして宣べ伝えられました。また近くにいたユダヤ人に対してもそのようになさいました。

 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

 父のみもとに近づく − これはユダヤ人でさえもできなかったことです。イスラエル人は神殿に行って、いけにえを携えることができましたが、それをほふるのは祭司であります。そして祭司のみが聖所に入ることができます。至聖所には、年に一度、大祭司一人だけが入ることができ、聖所と至聖所には垂れ幕がありました。しかし、キリストが十字架につけられたときに、その垂れ幕さえも引き裂かれました。今や、すべての人がキリストによって父なる神のみもとに近づくことができるのです。ああ、なんと私たちはこのとてつもない特権をないがしろにしているのでしょうか!私たちは、おりにかなった助けを受けるために、恵みの御座に大胆に近づかなければいけません。

2C 神の御住まい 19−22
 パウロは今、「一つの御霊において」と言いました。私たちは御霊によって新たに生まれ、またキリストのからだの一部とされました。そこでパウロは、キリストのからだにおける御霊の働きについて次から話していきます。

 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

 私たちは他国人ではなく、聖徒たちと同じ国民です。ここでの聖徒は、旧約時代の神を信じる者たちのことです。同じように神の民であり、そして神の家族の中に入れられました。

 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

 今、私は、神殿のことを話しましたが、パウロ自身が、神殿の建物のことを話しています。パウロがこの手紙を書いているときには、まだ完成されていないヘロデの神殿がエルサレムにあります。この建物を使って、私たちが今、神の建物であることを話しています。

 私たちが土台としているのは、「使徒と預言者」であります。信徒たちは、日々家に集まって、パンを裂き、祈っていましたが、また、使徒の教えを堅く守っていました。使徒が宣べ伝えていた神のことばが、私たちキリストのからだの土台となっているのです。私たちは今、使徒たちが書いた新約聖書を手にしています。これが土台となっています。しかし、旧約聖書もまた私たちの土台です。なぜなら、新約聖書は旧約聖書の律法と預言がキリストにあって成就したことを宣言する書物だからです。そして、礎石は、キリスト・イエスご自身です。

 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

 これは面白いですね。エルサレムのヘロデの神殿がまだ完成していませんでしたが、私たちもまだ完成しておらず、建築中であるとされています。私たちが集まるときに、相手に期待しすぎる傾向がありますね。けれども、「鉄が鉄を研ぐ」という箴言の言葉があるように、互いに成長するために存在するのです。相手の不完全さを見てもがっかりしないでください。むしろ、不完全な者どおしで、成長できることを喜びとしてください。

 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

 私たち自身が神の御住まいとなる、という偉大な真理がここに書かれています。イスラエルは、神を礼拝するために神殿に行きましたが、なんと私たちは、その神殿そのものになっているのです。それは神の御霊が私たちのうちに生きてくださっているからです。

 このように、私たちは、遠く離れていた者たちから、神の御住まいそのものになってしまいました。また、罪の中に死んでいた者から、天にキリストとととに座する者となってしまいました。「以前のあなたと今のあなた」です。私たちはどれほど、このすばらしい恵みの豊かさに浴しているでしょうか。あたかも、だれかから請わなければいけないように、貧乏人を装っていることはないでしょうか。神は、すべての霊的祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。キリストにあって、私たちは満ち満ちています。