ガラテヤ人への手紙3章 「律法よりもすぐれたもの」


アウトライン


1A 御霊による祝福 1−14
   1B 聞くことによる信仰 1−9
      1C 経験から 1−5
      2C 聖書から 6−9
   2B 律法のもたらすのろい 10−14
2A 神の約束 15−29
   1B 変更がない確約 15−25
      1C 相続の恵み 15−18
      2C キリストへ導く律法 19−25
   2B キリストにある者 26−29


本文

 ガラテヤ人への手紙3章を開いてください。ここでのテーマは、「律法よりすぐれたもの」です。

 私たちがガラテヤ人への手紙1章と2章において、パウロが宣べ伝えていた福音について学びました。これは、人によって教えられたものではなく神からのものであること、また、パウロ一人に与えられたものではなく、他の使徒たちにも与えられたものであることを学びました。恵みの福音は、だれかによって教えられたから得られるのではなく、今の私たちは、御霊によって、生けるイエス・キリストに出会うことによって与えられます。

 そして、パウロは、2章の後半部分で、信仰による義について語りました。律法を行なっても、それが人を神の前で義とするのではない。信仰によるのである。そして、私たちは、キリストを信じる信仰によって生きるのである、と話しました。「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。(ガラテヤ2:21)」という言葉で終えています。

1A 御霊による祝福 1−14
 そして3章に入ります。パウロは、ここまで信仰による義を話したあとで、この教えを直接、読者であるガラテヤ人たちにぶつけます。

1B 聞くことによる信仰 1−9
1C 経験から 1−5
 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

 パウロは今、ガラテヤ人たち自身が経験したことについて、思い出させています。彼らは十字架につけられたイエス・キリストを、自分たちの目の前ではっきりと示されました。それは御霊の働きによるものでした。ガラテヤ人は、福音のことばを聞き、十字架につけられたキリストをはっきりと示されて、そしてそれを信じたのです。信じたときに、御霊を受けました。この御霊の満たしも、ガラテヤ人ははっきりと覚えていました。聖霊は、私たちが信じるときに与えられる神からの賜物です。これを、私たちの行ないによって得られる報酬であるかのように、クリスチャンの間でも語られていますが、聖霊は、聞いて、そして信じて与えられるものなのです。

 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

 ここがガラテヤ人たちの問題でした。彼らは福音を聞いて、信じて始まり、それにともなう御霊の注ぎを受けました。それなのに、その歩みを律法の行ないによって完成させようとしたところに問題がありました。御霊で始まったのに、それを肉によって完成させようとしたのです。ここが、クリスチャンの大きな問題でもあります。私たちは、初めに福音を聞いて、それを信じて救われました。そして、救われてから、「このようなことをしなさい。あのようなことをしなさい。」ということばを聞きます。これはキリストを信じる者が、キリストの弟子として歩むために必要なことであります。しかし、その言葉をあたかも、自分が良きキリスト者となるための道具であるかのように受けとめてしまうのが、私たちです。パウロは、「信仰をもって聞いたからですか、それとも律法を行なったからですか。」と言いましたが、初めに福音を信じたときも、今も、同じように神の御声を聞き、それを受け取っていくことが私たちの務めなのです。「クリスチャンになりました。さあ、これから、きちんと祈って、聖書も読んで、それから教会に通って、伝道もしましょう。」というような間違ったクリスチャン・ライフを考えてしまうのです。これがガラテヤ人たちが陥ったわなでした。御霊で始まったのに、肉によって完成しようとしたのです。

 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。

 これは別訳ですと、「あれほど苦しみを受けたことが無意味なことだったのでしょうか。」とあります。ガラテヤ人たちは、御霊によって新しくされ、それゆえ、ねたみを持つ人たちが彼らを迫害しました。私たちもそうですね、イエスさまを信じ、救われて、それで喜んで他の人たちに福音を伝えます。すると、嫌がらせを受けたり、無視されたり、ひどい待遇を受けたりします。そうした経験が無意味だったのでしょうか、と聞いています。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。神は、キリストの十字架をはっきりと示してくださっただけではなく、奇蹟を行なってくださいました。パウロを通して、人々がいやされて、悪霊が追い出されたのでしょう。これも、ただ単純に信仰をもって聞いたから起こったことなのです。

 このようにしてパウロは、ガラテヤ人たちが救いにあずかったときのことを、思い出させています。あの麗しい御霊の働きは、信仰によるものでした。律法の行ないによるものではありません。しかし、私たちは不思議な存在です。このような単純なことを、すぐに忘れてしまい、自分たちの行ないによって祝福を得ようとしてしまいます。自分が行なって、その結果得られる成果に対して、充足感を得てしまうのが、私たちの姿です。けれども、私たちのすべての歩みは、聞いて信じていくところに常にあるのです。

2C 聖書から 6−9
 パウロは、ガラテヤ人たちに、自分たちの体験を思い出させました。次に彼は、聖書に焦点を当てさせます。

 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

 聖書も、パウロが語っているように、信仰による義を教えていました。アブラハムのことを彼は話しています。ユダヤ主義者たちは、モーセの律法をすべての土台として語り、それでイエス・キリストに加えて、律法の行ないを要求しましたが、実は、モーセの律法の前に、アブラハムが義人と認められたという記事があるのです。パウロはここから、アブラハムに対して神が行なわれたことを柱として、福音を説き明かしていきます。

 「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。」というところは、創世記15章6節で出てきます。アブラハムは、すでに信仰によって、自分の父の故郷を離れ、カナン人の地にまで来ていました。そして、甥のロトも来て、ともに住み始めていました。けれども、アブラハムが持っていた羊や牛と、ロトが持っていた羊や牛が多くなってしまい、彼らは離れ離れに住むことになりました。ロトはソドムに住みました。ところが、ソドムやその他の地域に攻め入る王たちが、ロトと彼の持ち物を奪い去ってしまいました。それをアブラハムが追跡し、彼らからロトを奪い返したのです。そして、メルキデゼクがアブラハムを祝福しました。

 その後の出来事です。神はアブラハムに、「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言いました。アブラハムはこのとき、すぐに、その報いは、自分に与えられる子孫であることを理解しました。そこで、「私には、まだ子がありません。私の家の相続人は、召使いのエリエゼルになるのでしょうか。」と聞きました。しかし、神は、「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」と仰せになりました。そして、アブラハムを外に出し、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるか。」とお聞きになりました。もちろん数えることができないほど多いです。そこで主はこう仰せになりました。「あなたの子孫は、このようになる。」そして、創世記15章6節の言葉があります。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。アブラムは、義と認められたとき、何一つ、自分で行ないをしたのではありません。ただ信じただけなのです。そして、その信仰が義と認められているのです。

 そして、その信仰によって、アブラハムは祝福を受けました。そして、私たちも信仰によってその祝福にあずかります。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。パウロが引用している聖書個所は、創世記12章3節です。アブラハムがまだ父の故郷ウルの町にいるときに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と約束されました。そして、この祝福はアブラハムに注がれましたが、それは彼が信仰をもって聞いてからであり、彼の行ないによってではないのです。そして、この祝福の約束は、「すべての民族」にまで及んでいます。つまり、ユダヤ人だけではなく異邦人も、アブラハムに約束されたところの霊的祝福にあずかることができる、ということです。その条件は信仰であり、律法の行ないでありません。

 「愚かなガラテヤ人よ」とパウロに叱られているガラテヤ人ですが、ユダヤ主義者たちのまことしやかな律法の教えに引き込まれていったに違いありません。その聖書の知識に引かれて行ったと言いましょうか、キリストへの単純な信仰以上のものを求め始めました。しかし、パウロは、聖書から、信仰だけによって祝福されることを語っています。私たちも同じです。私たちが聖書を読むときに、それを律法の行ないであるかにように受けとめるか、それとも信仰をもって聞くようにして読んでいくのかによって大きな違いが出てきます。そして、ある聖書個所を取り上げて、いかに私たちが神を喜ばせるために、行ないに励まなければいけないのかを牧師は教えますし、また信徒たちもそう考えます。しかし、パウロが聖書を解き明かしているように、聖書ははじめから最後まで、信仰による義という真理を貫いているのです。

2B 律法のもたらすのろい 10−14
 そしてパウロはさらに、聖書を解き明かします。ガラテヤ人が魅力的に感じた律法について、聖書は何と言っているのでしょうか?

 というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

 ものすごいですね。律法の行ないには、のろいの約束がともなっています。ここでは、「すべてのことを守る」というところがキーワードです。律法の一部を守るのではなく、すべてを守らなければ、その人はのろいのもとに置かれます。ヤコブも同じことを話しています。「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、『姦淫してはならない。』と言われた方は、『殺してはならない。』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。(ヤコブ2:10-11)」律法の性質について、私たちは知らなければいけません。先週も説明しましたが、一つの法律を破れば、他の法律を守っていても、一つの法律の違反によってさばかれるということです。一つの律法を守り行って、それで義を神さまの前に積み上げるという類いのものではなく、一つでも違反すれば、その違反によってのろわれるのです。

 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。パウロはこの、預言者ハバククに与えられた神の預言を、三つの手紙で引用しています。一つは、ローマ人への手紙1章17節です。もう一つは、ガラテヤ書であり、三つ目は、ヘブル書10章38節で引用されています。どの手紙も、信仰による義について語っていますが、それぞれ強調点が異なります。ローマ人への手紙においては、「義人」というところに力点が置かれていました。つまり、いかに神の前で義と認められるか、救われるのか、ということです。ヘブル人への手紙では、「信仰」に力点が置かれています。神殿における犠牲のいけにえの制度がまだ続いていたときに、ただ一度ささげられたキリストのいけにえこそが、私たちが信ずるべき対象であることを、パウロが書いています。そして、ここガラテヤ書では、「信仰によって生きる」の、「生きる」について力点が置かれているのです。もうすでに信仰を持ったガラテヤ人にパウロは書いています。そして、ガラテヤ人は十字架につけられたキリストという信仰おの対象も知っていました。問題は、信仰によって生きていなかった、ということなのです。信仰によって始まったのに、肉によって完成させようとしたところに問題があります。

 しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。

 律法と信仰は相反するものあります。先ほどパウロは、律法は行なうものであり、信仰は聞くものであることを言及しました。律法は、「これこれを行ないなさい。」と言いますが、信仰は、「よく聞きなさい。」と言います。ちょうど、自分の話を聞いてくれないせっかちな人がいるとします。こちらが話そうとしているのに、何も聞かないで勝手に自分がしたいことを行なっています。これが、律法の行ないによって義と認められようとしている人の姿です。神が喜ばれるのは、私たちが、神が言われることを聞き、それを信じて聞くことであります。行ないによって喜ばれることはありません。

 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

 
すべての律法を守り行わなければのろわれるのですから、当然ならが、誰一人として律法によって祝福を受ける人はいません。もちろん、ひとりの例外がいました。イエス・キリストです。キリストは、律法を完全に守り行なわれました。この方が、律法によってもたらされるのろいを、私たちの代わりに受けてくださったのです。「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」とあるように、イエスさまは十字架にかけられて、死なれました。

 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

 祝福は、律法によってはもたらされません。律法によっては、のろいがもたらされるだけです。しかし、キリストがそののろいをご自身の身に受けてくださいました。それゆえ、キリストを信じる信仰によって贖い出されます。この信仰によって、アブラハムへの祝福を受けることができ、この信仰によって御霊を受けることができるのです。

2A 神の約束 15−29
 こうしてパウロは、信仰によるところに神の祝福があることを教えています。ガラテヤ人たちが、律法の行ないによって得られると思っていた祝福は、実は信仰によって得られるのです。そこで次に、パウロは、この祝福の基になっている「約束」について話し始めます。
1B 変更がない確約 15−25
1C 相続の恵み 15−18
 兄弟たち。人間のばあいにたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。

 ここの「契約」という言葉は、「遺言」と訳すことができます。遺言は、その後、他のだれかによって無効にされたり、付け加えられることは一切できません。遺言どおりのことが実行されるだけです。このように人間社会の中で起こっていることをパウロは話しています。そこで再び、アブラハムのことを話し始めます。

 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

 先ほど読みました、創世記15章にあった、主のアブラハムへのことばですが、そこは「あなたの子孫は、このようになる。」と言われたのであって、「子孫たちはこのようになる。」とは言われていませんでした。むろん、イスラエルの子孫が星の数のように、海の砂のようにふえることを神は約束されているのですが、それだけではなく、実はアブラハムの子孫に与えられるところのメシヤ、キリストのことを話していたのです。アブラハムは、このキリストを信じて、それで義と認められたのです。

 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。

 430年とありますが、これは、ヤコブの家族がエジプトに移り住んでから430年ということです。アブラハムへの祝福の約束は、イサクへ、そしてヤコブへと引き継がれました。それから430年経って、イスラエルはエジプトを脱出しました。脱出した時から三ヶ月目に、主がモーセをとおして律法を授けられました。ユダヤ主義者たちはモーセの律法を教えましたが、けれども、その前にアブラハムへの約束があったのす。そしてその約束は、律法が後から入ってきたからと言って無効にされたり、変更されたりしていないのです。つまり、アブラハムへの約束は、今の私たちにも有効であるということをパウロは話しています。なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。ですから、祝福を受ける、パウロはここで、相続の恵みと言い換えていますが、相続の恵みを受けるのは、あくまでも約束に基づいているのであり、私たちの律法の行ないによるのではありません。

 ここが私たちが押さえなければいけないポイントです。つまり、私たちは神の約束によって生きている、ということです。神がキリストにあって行なってくださることを信じて、その中で生きていきます。今日、キリスト教会の中でいろいろな教えがあります。先ほど話した、聖霊の満たしが行ないによる報酬であるかのように語られることもその一つですが、携挙についても、人の行ないであるかのように考える人たちがいます。行ないをきよめて、十分に霊的であるならば引き上げられるという考えがありますが、それは間違っています。イエスさまが戻って来られるという約束に、私たちたちは、どれだけの行ないをして得なければならないのでしょうか。何一つありません。ただ、キリストを信じる信仰によって、私たちは引き上げられるのです。神の祝福は、あくまでも信仰によって受け取るのであり、信仰によってはじめて私たちは相続を受けます。

2C キリストへ導く律法 19−25
 では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。

 約束が有効であり、それが変わることがなければ、律法は何のために与えられたのか、ということになります。そこでパウロは、律法の目的を話しています。それは、「違反を示す」ためのものである、ということです。義の行ないをするためではなく、自分が罪を犯した者であることを明らかにするためのものであります。

 仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神は唯一者です。

 律法は、神から御使いの手に渡りました。そして御使いがモーセに手渡しました。それからモーセがイスラエルの民に語られました。このように仲介者モーセの存在が必要でしたが、約束を賜わる方はお一人です。アブラハムが神から約束を受けたとき、そこには仲介者はいませんでした。神お一人から受けました。

 とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。

 
ここで、律法は良いものであることをパウロは話しています。律法は聖なるものであり、もしこれを守り行なうことができれば、本当にいのちを与えることのできるようなものなのです。ただし、問題は私たちが守り行なうことができない、ということなのです。

 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

 ここが大事です。律法の目的は、私たちがいかに罪深いかを示すところにあります。そしてその罪のために、キリストが十字架につけられたことを知るところにあります。私たちに何ら良いものはなく、ただ救いはキリストにあることを知るためです。ですから、律法は、神の約束に反するものではありません。

 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。

 
私たちが信仰によって義と認められるためなのです。ここの「養育係」とは、主人の子どもを学校にまで送り迎えするところの奴隷のことを指しています。つまり、律法は、私たちをイエス・キリストのところまで導く働きをしている、ということです。この律法の役目をよく悟っていたイスラエル人も一部いましたが、大ぜいのイスラエル人は、その目的を見失っていました。イスラエル人たちは、律法に違反したときに、動物をたずさえて、それを罪のためのいけにえとしました。その頭に手を置き、それから祭司が動物の喉を切り、血を流し、それを祭壇にも振りかけ、肉は祭壇の上で焼かれました。これらのいけにえを見つつ、イスラエルの民が、やがて来られる罪を取り除く方が来られることを、切に願い求めように律法は意図されました。メシヤよ、来てください、と必死になって祈りも求めるように律法は意図してあったのです。したがって、イエスさまが来られたとき、「わたしは、律法と預言者を成就するために来ました。」といわれたときに、律法の目的は達成されました。また、「今が恵みの時です。」と宣言されたとき、律法の目的が達成されたのです。しかし、そのことを悟っていたイスラエル人はごくわずかであり、多くが、律法によって生きなければいけないと思っていました。罪から救い出すところのメシヤ待望の思いを持っていなかったのです。そしてメシヤが来られて、この方を受け入れ、信じます。このことが義と認められるのです。

 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

 キリストを信じる信仰に至った私たちは、キリストが来られる前に生きていた人々とは、異なる生き方の指針が与えられています。それが、26節に書かれている、「神の子ども」としての生き方です。

2B キリストにある者 26−29
 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

 
ここの「神の子ども」というのは、年少の子どものことを表していません。むしろ、大人でだれかの息子である状態を指しています。幼少のときは養育係の下にいましたが、今は、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもになりました。ここからパウロは、私たちが「キリストにある者」という定義をしています。律法によってキリストに導かれた私たちは、今は、キリストにとどまる生き方を始めます。これから神に近づくための道のりを始めるのではなく、すでに神が近づいてくださり、キリストにあって完全な者とされたのです。私たちの務めは、このキリストのうちに居とどまりつづけることです。これ以上に完全な義はありません。ここの点を、私たちが知っているか知っていないかで、クリスチャン生活が実りあるものか、そうでないかの分岐点となります。

 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

 
バプテスマを受ける、とは、その媒体に浸されていっしょになる、ということを表しています。白い布を紫色の染料に入れると、紫色の布に変わるようにです。ここでは、キリストにつくバプテスマであります。つまり、キリストといっしょにされたもの、キリストから切っても切り離せない、結ばれた者ということになります。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。「キリストにある者」という中には、人間が設けるところの差別がなくなります。アメリカ人、日本人という区別がなくなり、みな「クリスチャン」というアイデンティティーを持ちます。男と女も、奴隷も自由人も、みなキリストにあって一つです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。ここでも、「キリストのものであれば」となっていますね。キリストのものであれば、異邦人であっても、霊的にはアブラハムの子孫であり、霊的な祝福を受け継ぐところの相続人であるのです。

 そこで私たち一人一人は、自分の生き方をふりかえってみなければいけません。自分は果たして、キリストにあって生きているかどうか、ということです。自分がだめなもので、これから何かを達成しなければいけないかのように、神の義を追い求めていたのだろうか。それとも、すでに完全な者とされたという確信を持ち、その確信によって、キリストにとどまることを主眼としてきたのか。自分がクリスチャンとして追い求めていたものは、果たして正しかったのかどうかについて知らなければいけません。ガラテヤ人は、信仰によって聞いて、それで御霊を受けました。私たちも、信仰によって聞いて、それで救われました。そこから信仰によって生きてきたかどうか、それとも、あたかも、これから神からの好意を得られるように、行ないによって生きていたのか、自分を試してみなければいけません。私たちが今、見てきたように、律法よりも、福音のほうがはるかに祝福された生き方なのです。