ヘブル人への手紙2章 「こんなにすばらしい救い」

アウトライン

1A ないがしろにするときの処罰 1−4
2A 人となられたイエス 5−18
   1B 身代わりの死 5−9
   2B 神の家族 10−13
   3B 助ける働き 14−18


本文 

 ヘブル人への手紙2章を開いてください。ここでのテーマは、「こんなにすばらしい救い」です。

1A ないがしろにするときの処罰 1−4
 ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。

 2章は、「ですから」という接続詞から始まります。これはもちろん、1章からの続きです。私たちは前回、御子が御使いよりもすぐれた御名を相続されたことについて学びました。御使いは、大きな権力と主権を持っているけれども、御子はそれよりも、すぐれたお方です。御子は、神のひとり子であり、また永遠の御国の王となっておられます。イエスさまは、父なる神から「神よ」と呼ばれており、天地を創造する創造主でもあられます。御使いは、仕える霊であり、神とまた私たちに仕えています。そこで1章14節をごらんください。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」救いの相続者となっている人々に仕えている、とあります。イエスを救い主と信じて、神の救いにあずかった人たちです。この救いの相続というのは、永遠の御国を相続されるキリストとともに、自分たちも神の国を相続するという、キリストと共同の相続人である、ということです(ローマ8:17;エペソ1:10−11)。これは、とてつもない救いと栄光です!

 そこでヘブル書の著者は、この救いについて聞いたことを、ますますしっかりと心に留めて、押し流されないようにと警告しています。「押し流される」とは、ちょうど海の浮かんでいるボートが、いつの間にか潮の流れによって、沖へ行ってしまい、だれかが救命しなければいけないような状態です。御子について、また、救いの相続について、いつの間にか自分が離れていってしまい、もう取り返しのつかない状況にならないようにしなさい、ということであります。

 ヘブル人への手紙は、ヘブル人、すなわちユダヤ人に対して書かれた手紙であることを思い出してください。ユダヤ人の中で、多くの人たちがイエスさまを約束のメシヤとして信じました。けれども、彼らは律法にも熱心な人々であり、神殿礼拝も守り行なっていました。ユダヤ教の中でイエスを信じていたのです。ところが、ユダヤ人たちは、彼らがイエスを信じているということで、彼らを迫害しました。そこで、この迫害から免れるために、彼らは自分たちが信じているイエスさまから目を離して、ユダヤ教の中に舞い戻ろうとしていました。ヘブル書の著者は、ユダヤ教の中に押し流されて、イエスの御名によって与えられている救いの相続を失ってはいけない、と警告しているのです。

 もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。

 「御使いたちを通して語られたみことば」というのは、神の律法のことです。前回もお話しましたが、モーセの律法は、神から御使いに伝えられ、御使いからモーセに伝えられました。ですから、御使いを通して与えられた律法が、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けた、ということになります。そうですね、モーセの律法を読むと、それは決して変更されることなく、また律法に違反したら、その人は死刑などの処罰を受けました。

 そこで、ヘブル書の著者は、ましてや、救いの相続について、主イエスご自身のことばをないがしろにするなら、あなたがたは、神からの処罰をまぬかれることはできませんよ、と警告しているのです。ヘブル書10章28、29節にはこう書いています。「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

 この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。

 この救いのことばが、どのようにして伝えられていったのかを、ここで話しています。最初主ご自身によって語られ、それを聞いた12使徒たちによって、確かなものとして示されました。また、しるしと不思議をともなった宣教を使徒たちは行なっていましたが、そのような力あるわざによって、主のみことばがあかしされました。そして、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物とありますが、これはコリント人への手紙第一12章に、同じように言い回しが出てきます。御霊の賜物について、知恵のことば、知識のことば、預言、奇蹟を行なう者、いやしの賜物、異言、異言を解き明かすのは、みな御霊がみこころのままに、それぞれに与えられます。この賜物によっても、彼らは、主のみことばが確かなものであることを知っていました。

2A 人となられたイエス 5−18
1B 身代わりの死 5−9
 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

 御子が永遠の御国の王となられますが、そのときに救いにあずかった人たちは、キリストとともに御国の王となることが聖書には書かれています。黙示録には、「(キリストは)、私たちを王とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」(1:6参照)とあります。これは、イエスさまが再び地上に戻って来られて立てられる、千年王国によって実現するものです。ですから、今話しているのは「後の世」のことであり、これは人間が相続するものであり、御使いが相続するものではありません。

 そこで、次に、詩篇8篇を引用して、人間がいかに神のみこころに留められた存在であるかを論じています。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」

 この詩篇の個所の手前には、「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。(8:3)」と書いてあります。私たちは夜に、月や星を見ます。それがいかにすばらしく、大きな存在であるかを思います。けれども、自分はこんなにちっぽけな存在である。なぜ、神はこのような者にみこころを留めておられるのか、と言っているのです。創世記1章を思い出してください。そこには、最初の人アダムが神によって造られ、そしてこう命じられています。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。(1:28)」神が人を造られたとき、人が行なうことは、この地を支配して、生き物を従わせることでした。これが、神が人に与えておられるご計画であり、もともと人間は、神に支配されながら、地を支配する存在だったのです。

 万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。

 アダムが罪を犯して、この世界が悪魔のものとなって以来、この世界は人ではなく、悪魔によって支配されました。悪魔は「世の君」とも呼ばれ、神に不従順な者たちのうちに働いている霊となっています(エペソ2:1−2)。ですから、私たちは、すべてのものが人間に従わせられているのを見ていません。そこで、イエスさまは、このような状態から人間を救われるために、あることをなさいました。

 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。

 イエスさまは、この世界を贖い、また私たちを贖い出して神のものとするために、人となられました。「御使いよりも、しばらくの間、低くされた方」というのは、イエスさまが、人となられたことを意味します。ピリピ書2章で、パウロがこう言っているとおりです。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(2:6−8)

 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

 ピリピ人への手紙2章には、今引用したところの続きにこう書いてあります。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(2:9−11)」ですから、イエスさまは、十字架の死の苦しみを味われたので、栄光と誉れと冠をお受けになりました。そして、この十字架における死は、「神の恵み」とありますが、イエスさまが、私たちの罪のために、代わりに死んでくださったところに、神の恵みがあります。私たちが受けなければいけない死の苦しみを、イエスさまが受け取られたのです。

2B 神の家族 10−13
 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

 なぜイエスさまが、人となられたのでしょうか?神であられる方が人となるだけでも、とてつもない卑しいことであるのに、さらに人間のもっとも陰惨な部分、醜い部分が現われた、あの十字架刑になぜ処せられたのでしょうか?それは、ここに書いてあるように、「多くの子たちを栄光に導く」ためなのです。ここに「救いの創始者」と書いてありますが、救いの先駆者と言っても良いでしょう。神のかたちから堕落してしまい、沈みかけている船の中にいる人間を救われるために、イエスさま自らが、その沈みかけている船の中に乗り込まれ、そしてイエスさまが、その船の中でおぼれ死ぬ者となられたのです。神と人との間には、大きな隔たりがありますが、それを埋めるのは唯一、イエスさまが人と同じになり、また苦しまれることによってです。

 イエスさまが、多くの苦しみを通られることによって、罪と死の中にいる私たちを解放し、再び神の子ども、神の相続人としての地位を得ることができるようにしてくださいました。

 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。

 「聖とする方」とはイエスさまのことです。「聖とされる者」とは私たちのことです。すべては元は一つというのは、イエスさまは人となられて、アダムと同じような人間になられた、ということです。私たちはアダムの子孫ですが、イエスさまも同じようになられました。だからアダムにおいて「一つ」です。

 それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。

 主は、よみがえられてマグダラのマリヤのところに行かれたとき、こう言われました。「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。(ヨハネ20:17)」主は、弟子たちのことを「わたしの兄弟」と呼ばれるのを恥とされませんでした。

 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。

 主は、御霊によって、教会の中で兄弟たちを導いておられます。父なる神の御名を告げ知らせ、父なる神をほめたたえるように導かれます。また、神に信頼するように導かれます。そして、イエスさまは、ご自分と同じように、神の子どもとして導かれます。

 この11節から13節までの個所が言いたいことは、イエスさまが苦しみを通られたゆえに、私たちが神の家族の中にはいることができるようになった、ということです。私たちが聖なる者とされて、この世のものから切り離され、神の家族の中に入りました。イエスさまが死んでくださったおかげで、私たちは、互いに兄弟姉妹になることができるようになりました。

3B 助ける働き 14−18
 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

 この個所においても、イエスさまが人間となられたことが書かれています。今までのところをまとめますと、イエスさまが人となられたのは、私たちを神の当初のご目的である、地を支配する地位にまで回復されるためであり、また、イエスさまが人となられて十字架につけられたのは、聖なる者とされて神の家族の中にはいるためです。そして、この個所では、私たちを死の恐怖から解放するためである、とあります。

 私たちは自分の足台に、すべてのものが従っているのを見ていません。ことに、「死」というのは、私たちには決して支配できない、どうしようもないことです。どんなに権力があり財力があっても、だれもが死ぬのであり、これは避けられない事実です。けれども、これは、神が初めに人を造られたときにお考えになっていたことではありませんでした。イエスさまが、ラザロの家におられたとき、泣いているマリヤの姿を見て、またいっしょに泣いているユダヤ人たちの姿を見られて、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられました。そして、イエスさまは涙を流されました(ヨハネ11:33−35)。死というものが、人にいかに悲しみと絶望をもたらすものであるかを、主は憤っておられたのです。私たちは死を恐れます。死んだらどうなるのか、と恐れます。その死によって、私たちが生きていることが、不条理にさえ思えます。そこで、コリント人への手紙には、死は「最後の敵」であると書かれています(1コリント15:26)。

 しかし、ご自分が死なれることによって、死の恐怖をもたらしていた悪魔のしわざが打ち叩かれました。コロサイ書には、「神は、キリスト(十字架)において、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(2:15)」とあります。そして、イエスさまはよみがえられました。キリストを信じる者もよみがえる希望が与えられました。

 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。

 私たちは1章からずっと、御使いのことが出てきていました。1章では、御使いと御子が比べられていましたが、2章では、御使いと私たちが比べられています。私たちが神からみこころにかけられているのは、御使いが神から気にかけられているよりも、はるかに大きいことを2章では述べられています。御使いではなく人が、そして御使いではなく、アブラハムとの契約の中に入っている子孫が、神から助けを受けていました。

 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

 著者は、再びイエスさまが、私たちと同じになられたことを話しています。それは、あわれみ深い忠実な大祭司となるためである、と言っていますが、大祭司の務めについては、3章にて書かれています。けれども、ここでは、「民の罪のために、なだめがなされる」とありますが、大祭司は、年に一度、至聖所の中に入って、契約の箱の贖いの蓋の上に、血をふりかけて、イスラエルの民の罪のなだめを行ないました。神が人の罪にたいしてお怒りになられているのですが、それをその怒りが満足されるよう、そこでいけにえの血がふりそそがれたのです。イエスさまは、ご自分がそのなだめの供え物となられました。

 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

 イエスさまは、罪は犯されませんでしたが、誘惑はお受けになりました。人と同じように、肉体にある弱さを持っておられました。罪を持たず、なおかつ誘惑を受けることは理解できないのですが、けれども、実際にイエスさまのからだのうちでは、そうなっていたのです。ですから、私たちが受けている誘惑、また試練は、イエスさまに知られていないものは何一つありません。私たちが日々の生活の中で、「このことは、だれにもわかってもらえない。」という苦しみがあるでしょう。けれども、主はそのすべてを知っておられます。なぜなら、人となられたときに、その試みをすべて経験されたからです。ですから、すべてのことを知っておられるイエスさまに、力をいただくため、大胆に神の御座に行きましょう。

 このように、イエスさまが人となられたことで、私たちは神の子どもになることができ、神の家族の中に入ることができ、また、助けを受けることができます。これほどまでにすばらしい救いを、ないがしろにしてはいけない、と2章は訴えています。私たちは、この手紙を読んでいるユダヤ人のように、この救いのすばらしさを、いつの間にか忘れて、押し流されてしまうことがありえます。けれども、しっかりと、イエスさまを見ていき、この救いに感謝しましょう。


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