ヨハネによる福音書11章 「わたしはよみがえりです」

 

ヨハネが福音書の中で書き記したイエスの徴(しるし)は合計八つある。六つ目は生まれつきの盲人を直されたことであったが、七つ目は死んで四日経った者をよみがえらせる徴であった。

1−6節: イエスが愛される人々
イエスとマルタ・マリヤ姉妹との関係 − ルカ113842
 マルタは行動するタイプの人で、マリヤは思索するタイプであった。
 イエスとこの姉妹・兄弟との間には親しい関係があった。

「神の栄光のためです(4節)」: 生まれつき盲人に対してもイエスは、「神のわざがこの人に現われるため(9:3)」と言われた。

「マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた(5節)」: 姉妹たちが「あなたが愛しておられる者が病気です」と言った時は、友人の愛、感情の愛を示す「フィレオ」というギリシヤ語が使われている。しかし、イエスが愛しておられる愛は「アガペ」である。これは神の愛であり、霊的な愛である。

「なお二日とどまられた(6節)」: これが霊的な愛の行為である。感情の愛にしたがえば、すぐにでも出て行ってラザロを癒したことだろう。しかし、それよりも大きな業をイエスは用意しておられた。死んでいるのに生き返らせることを行なわれたかったのだ。

→ 神の愛は、私たちの考えでは意地悪に思えることがある。けれども私たちは一時的なことしか考えないので、永遠の愛を持つ神のことを誤解する。

7−16節: 「眠っている」ラザロ
10章で、エルサレムにてユダヤ人がイエスを石打ちにしようとした(10:3139)。それで今、ヨルダン川の東側におられるが、またユダヤ地方に戻ろうと弟子たちに言われた。

ラザロが「眠っている」 − 信仰者にとって、死は一時的なものである。また生きることを約束されているからだ。しばらくすれば目が覚めるのと同じように、しばらくすれば生き返るのだから、今の死は「眠っている」のと同じである。

17−29節: 信じる者に与えられる命
「大ぜいのユダヤ人が(19節)」: 当時のユダヤ人は自分たちが愛する人を失ったとき、人を雇って共に泣いてもらうことをした。

「マルタは迎えにいった。マリヤは家で座っていた(19節)」: 二人の性格の違いが表れている。

マルタはイエスがすぐに来てくださらなかったことを少しなじっているが、それでも「神にお求めになることはあなたにお与えになる」と信じた。それでイエスが、その求めたものが「兄弟がよみがえる」ということであった。そこでマリヤは「終わりの日に彼はよみがえる」と答えた。ダニエル書122節に書いてある。けれどもイエスは、「わたしがよみがえりであり、いのちです。」と答えられた!

二種類の復活
「わたしが信じる者は、死んでも生きるのです(25節)」: これは体の復活である。肉体の死が訪れても、新しい天からの体を神が与えてくださる(1コリント15章、2コリント5:14

「決して死ぬことがありません(26節)」: これは霊の命である。人間は、肉体が誕生しても、その罪の性質のため霊的に死んでいる。けれども、イエスを信じることによって霊的に新しく生まれる(ヨハネ3:36)。この新しい霊的な命は肉体が生きているうちから与えられ、肉体が死んでも続いている。

30−37節: 憤り、涙を流されるイエス
イエスは、マリヤや他のユダヤ人が悲しんでいる姿をご覧になって、「霊の憤りを覚え」「心の動揺を感じ」そして「涙を流された」。なぜか? → 「死」が人間にいかに大きな悲しみと苦しみをもたらすか、それに対する憤りと悲しみである。

聖書は「死」を「最後の敵」と呼んでいる(1コリント15:26)。罪によって死が世界に入った(ローマ5:12)。元々は永遠に生きるために人間は造られた。したがって、「死ぬために生まれる」ということが人生に苦しみと悲しみと、空しさをもたらす。

神は終わりの日に「死」そのものを滅ぼされることによって、これら苦しみや悲しみを取り除かれる。「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:4

38−44節: ラザロのよみがえり
「ラザロよ。出て来なさい。(43節)」: 大声で言われた。出てこなかったらイエスはインチキということになる!アウグスチヌスと言う人は、「もし名前を特定しなかったら、これまで死んだすべての信者がよみがえったことだろう。」と言った。

45−57節: イエスを殺す計画
「そのうちの幾人かは(46節)」: なんとこの奇蹟を見ても、なおイエスを信じられない人々がいた! → 人は見ることによって信じるのではない。信じない人は、見ても信じないのだ!

ユダヤ人指導者の政治的判断
「ローマ人がやって来て」: 当時はローマ帝国がユダヤ人を支配していた。もしユダヤ人がイエスをメシヤ(救世主)として信じたら、他に王を立てたことになりローマがそれを反乱とみなして鎮圧するだろう。

「われわれの土地も国民も」: 自分たちの立場が危うくなる。

「ひとりの人が民の代わりに死んで」: 国民みながローマによって滅ぼされるのを防ぐために、イエスを殺すことにしよう。 → カヤパは政治的判断でこの発言をしたが、実は神が、全ての人の罪ためにイエスを死に渡される計画を、カヤパの口を通して言わせたのである。 

あなたは信じて、復活の希望を得たいですか?それとも罪の中で滅びたいですか?