ヨハネによる福音書1章1418節 「肉となったことば」


アウトライン

1A 独り子の栄光 14−15
   1B 間に住まわれる方 14
   2B 先におられた方 15
2A 満ち満ちた豊かさ 16−18
   1B 恵みの上の恵み 16
   2B 律法との対比 17
   3B 神の説き明かし 18

本文

 ヨハネによる福音書1章です。今日は14節からですが、キリスト教の真髄とも言える、とても大事な言葉から始まります。

1A 独り子の栄光 14−15
1B 間に住まわれる方 14
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 「ことばは人となった」という言葉です。ここの「人」は元々「肉」と訳されています。

 私たちはこれまで、「ことば」ロゴスについて見てきました。この方は世の初めからおり、この方は世にある全てのものを造られ、この方に命があり、この方が人の光であった、とあります。そして、この神が今、人となった、あるいは肉体を取った、という驚くべき発言です。

 イエス・キリストは神であられるのに、人となってくださった、ということです。二千年前にベツレヘムで、家畜小屋の飼い葉おけの中におられたイエス様は、この天地すべてを造られ、永遠の昔から生きておられる神ご自身である、ということです。これを神学の用語では「受肉」と言います。神が肉体を受ける、ということです。クリスマスはまさに、この聖書の箇所をお祝いしているのです!

 ですから、聖書の、そしてキリスト教の主張は、「イエス・キリストは神であり、かつ人である」ということです。百パーセント神であり、百パーセント人間であります。人間としては私たちと全く変わりなく肉体を持っておられ、すべて肉体が感じるものを感じておられましたが、神としては全てのことがおできになります。

 そしてイエス様は人間の肉体を取られただけでなく、「私たちの間に住まわれた」とあります。この「住まわれた」というのは「天幕を張られた」と訳すことができます。つまり、「同じ屋根の下で暮らしてくださった」ということです。

 私たちの生活のすべてを分かち合ってくださった、ということです。まずベツレヘムにおいて生まれた時から、家畜小屋として使われていた洞窟で生まれました。家畜が草を食べる時に使う飼い葉おけの中におられました。王様の宮殿の柔らかい布にくるまれておられたのではなく、人間のむさくるしい生活のど真ん中に来てくださったのです。

 私たちは教会というと、ステンドグラスのある美しい建物を思い浮かべます。そして世俗の空間から離れ、少し神聖な気分になります。けれども、そこにはイエス様はおられません。その教会から離れ、人ごみの中でもまれ、ついでに財布がすられた!「この野郎!」と叫びたくなるようなところに、主がおられるのです。

 そしてヨハネは、この出来事を驚きの言葉を持って受け止めています。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」ここの「見た」というのは、単に見たのではありません。じっくりと見た、目撃した、確かに私は証人として立てられてもよいほど、確かに見た、という意味です。この驚きの言葉を、ヨハネは手紙の中でこう言っています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、(1ヨハネ1:1」目で見て、じっくりと見て、そして手でも触ったのです。

 この方が永遠の昔からおられた、全知全能の偉大な神そのものだ!という、震えるような感動をもって証言しているのです。ヨハネは自分の福音書の中で、自分のことを「イエスが愛しておられた者(13:23」と呼んでいます。主の愛をいっぱいに受けて、自分こそがイエス様に一番愛されているという気持ちを言い表しています。同じように主が愛してくださったペテロに対して競争意識を抱いていたかもしれないと思われるほどです。

 そしてイエス様が十字架につけられる前の夜、過越の祭りの食事の時にテーブルを囲んでイエス様と弟子たちが座っていました。座っていたと言っても、当時は「もたれていた」「横になっていた」と言ったほうが良いでしょう。それで、イエス様の隣に横たわっていたのですが、イエス様の胸の辺りに、自分が近づいていました。それでヨハネは、「イエスが愛しておられた者が、イエスの胸のそばでからだを横にしていた。(13:23 引照参照)」と言っています。神ご自身である方を、このように親密に、身近に感じることができたという感動です。

 皆さんは、自分の心に、自分の生活に、イエス様をお迎えしたいと思わないでしょうか?この世は不条理でいっぱいです。生活は過酷です。いろいろな不都合なこと、不便なこと、つらいこと、嫌なことが起こります。聖書の中で、これほど理不尽なことはないと思われる苦難を受けた人がいます。ヨブという人です。彼は神を畏れ敬う正しい人でした。数多くの家畜を持ち、その地域では一番の金持ちでした。息子たち、娘たちにも恵まれました。

 ところがある時、彼のところに、いろいろな悪い知らせがやって来ます。「家畜が他の人に襲われてしまいました。私たち牧者も殺されました。」「火が天から降ってきて、家畜や羊飼いを殺してしまいました。」「らくだが殺されてしまいました」そして一番恐ろしい知らせはこれでした。「息子さん、娘さんたちが食事をしている家に強風が吹いて、家が倒れ、みなが死んでしまいました。」

 彼はこのような悲報を聞いても、神を恨みませんでした。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ1:21」と言ったのです。

 ところが今度は、彼自身の体が蝕まれました。頭のてっぺんから足のつま先まで悪性の腫瘍ができたのです。彼は土器のかけらを使って自分の身をかきました。こんな苦しみが続く中で、彼の友人が見舞いに家を訪れました。彼があまりにも苦しんでいるので、彼らは何も言うことができませんでした。けれどもヨブのほうから、口火を切ります。「私の生まれた日は滅びうせよ。(3:1」彼は、自分が生まれてきたことを呪ったのです。

 友人らは、「神がこんな悪いことをするはずがない。だから、あなたが何かしたのではないか。」と助言しました。彼の苦しみに対して何の答えもなかったからです。ヨブは反論しました。「私がこんな苦しみを受けるにふさわしい罪は、思い当たらない。私は潔白だ。」と。

 そして彼はうめくようにして、こう神に言ったのです。「神は私のように人間ではないから、私は『さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。』(9:32-33」神と人との間に立って、両方に手を置く仲裁者がいない、と言いました。神はあまりにも大きく、強く、遠くにおられ、今、この苦しみに会っている自分にどのように届いてくださるのか分からない、ということです。

 この仲裁者がまさしく、私たちの主イエス・キリストなのです!「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(1テモテ2:5」イエス様は神であられながら肉体を取られたので、私たちの肉体にある弱さをすべて知っておられます。そしてその苦しみの究極を、世の不条理の究極を味わってくださいました。自分は何の罪も犯しておられなかったのに、十字架というローマの極刑をお受けになったのです。

 この感動が、ヨハネの「見た」という言葉に含まれているのです。神であられ人であられる方が行なわれた橋渡しによって、究極の癒し、究極の慰めを得ました。「どうせ、天にいる神は、私のこの小さな苦しみは分からない。」いいえ、キリストにあってすべてを感じておられます。「どうせ、私が苦しんでいるこの罪の問題、神は私を無慈悲にも罰するだけだ。」いいえ、キリストはその罪のためにあの十字架につけられました。どんな些細に見えるような事柄であっても、心の痛みと悩み、また肉体の苦しみさえ、すべてに行き渡ってイエス様は共有しておられるのです。

 そこでヨハネは、「この方は恵みとまことに満ちておられた」と言っています。また後でこの表現が出てくるのでその時に説明します。

2B 先におられた方 15
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

 バプテスマのヨハネは、血縁関係ではイエス様のいとこに当たります。そして、イエス様より数ヶ月前先に生まれました。けれども、ここで「私より先におられた方である。」と言っています。これは、この前学んだ、「初めに、ことばがあった」、イエス様は永遠の昔から存在しておられたからです。

2A 満ち満ちた豊かさ 16−18
1B 恵みの上の恵み 16
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

 ヨハネは、ここ14節から17節までで、「恵み」という言葉を繰り返し使っています。「恵み」というのは何でしょうか?ギリシヤ語ではもともと「美」という意味です。それから、「一方的に受ける神の好意」という意味です。私たちが何も労していないのに、神から好かれている、愛されている、という意味です。

 神が私たちに向ける態度について、三つのご性質があります。一つは「公正」あるいは「正義」です。これは受けるに値するものを与えます。つまり、私たちが行なったことによって、それに値する裁きを行なわれる、ということです。神であればそれを行なうことは、私たちはよく知っています。

 そして「憐れみ」という性質があります。それは、「与えなければいけないが、あえて控える」態度です。私たちが裁きを受けなければいけないのに、神は私たちを憐れみ、それをあえて行なわれない。」というものです。

 そして「恵み」があるのです。恵みは、「私たちが受けるに値しないものを、受けることができるようにしてくださる」神の働きです。私たちは、神から祝福を受ける資格はありません。けれども、それを豊かに与えてくださるのが神の恵みです。

 この考え、神との関係は到底、理解ができないでしょう。まったく何もしていないのに、全然努力していないのに、神が一方的に良くして下さるのです!こんなことは、この世に住んでいる限り存在しません。特に日本人は、一生懸命努力して、周りに迷惑かけないで、前もって準備して計画して、受けた恩は義理で返しますから、全然理解できないのです。

 けれども、もしこの「恵み」というものが存在するとしたらどうなのかを想像してください。自分のほうでは全く何もしなかったのに、主のすばらしさを豊かに与えられるのです。主の愛が無尽蔵に注がれます。これを知れば人生が180度変えられます。ただただ、喜びと感謝と楽しみの生活に変えられます。聖書には、「多く愛しているのは、多く赦されたからだ」というような言葉があります。これを知ればその神の愛に感動して、無責任な生活どころか、愛と献身の生活に変えられます。

 多くの人がこの恵みを受け入れない大きな理由は、「自分が罪人だ」という真実をまだ受け入れていないからです。「自分は死に値する罪人であり、地獄に行かなければいけない」という事実を、自分のプライドのため受け入れられないことです。「恵みを信じたら、自分の生活はふしだらになる」と考えるのは、まだ自分の力に可能性があると思っているからです。倒産寸前の会社かもしれないが、まだ倒産していないと思っているのです。けれども、聖書は、「あなたはもう遅すぎます。倒産してしまっているのです。再起不能なのです。」と断言しているのです。

 このように自分は救いようのない人間だということを認めてはじめて、神の一方的な好意、恵みを感謝することができます。

 そして、この節の「恵みの上にさらに恵み」に注目していただきたいと思います。特にもう既にイエス様を信じた人は注意してください。一度、恵みを受けてそれで終わりではないのです。波が何度も何度も岸に打ち寄せるように、恵みに注がれる生活がクリスチャンの特徴なのです。「恵みによって救われたけれども、後は行ないによって完成させるのだ。けれども、私は罪を犯して失敗してしまった。もうこれでクリスチャン生活は終わりだ、と。」いいえ、違います。恵みの上にさらに恵みなのです。私たちの信仰生活が恵みによって始まったのなら、恵みによって完成するのです。

2B 律法との対比 17
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 律法というのは、紀元前1445年にイスラエルの民がエジプトで奴隷生活をしていたところから解放されて、シナイ山のところで神の民となった時に与えられたものです。イスラエルが国民として、神を中心とした社会生活ができるように、また神の幕屋を通して神に近づくことができるようにしてくださいました。いろいろな掟と戒めが書かれています。

 それまでは、人々は、神がこのような小さく、無力な人間の細かい生活の中にどのように関わっているかを知りませんでした。けれども神はイスラエルを選ばれて、生活の細かいところにまで指示を与えてくださり、神はいったいどのような方であるかを身近に知ることができる特権に預かっていました。

 ところが、それでも律法の下に生活するのには問題がありました。それは、「その律法を守り行なうことができない」という問題です。イスラエルの民は、モーセを通して十戒が与えられてから40日もしないうちに、金の子牛を造って、乱痴気騒ぎをして神に背きました。旧約聖書を読めば、イスラエルの民が最後の最後まで律法を破り、そして神からの裁きを受けてしまっている、失敗の歴史なのです。律法には、その律法を守り行なう力がない、という問題があるのです。

 そして律法は、実体がなかったという問題もありました。例えば、らい病の人が清められた時の掟が、レビ記というところに書いてあります。祭司のところに行き、清めの儀式をしてもらって、それでイスラエルの共同体に戻ることができることが律法に書かれていますが(14章)、では、肝心のらい病が清められるにはどうすればよいか、その内容が書かれていません。

 けれども福音書の最初の所には、イエス様がらい病人を清める出来事が書かれています。そしてイエス様は、「祭司のところに見せに行きなさい」と言われています。この癒しの力があって、初めて律法に意味を持つのです。ですから、イエス様が実体であり、律法に定められていることは陰にしか過ぎない、とコロサイ書217節に書いてあるのです。

 これからヨハネの福音書のいろいろな出来事を読むにあたって、この律法とキリストとの対比が絶えず行なわれています。ユダヤ人のしきたりの中に、命と力と奇蹟を吹き込んでいくイエス様の姿を見ることができます。清めのしきたりのための六つの壷にあった水をぶどう酒に変えてみたり、商売の場所と化してしまった神殿を清めてみたり、儀式や慣わし、しきたりになってしまったユダヤ人社会に命と光をお与えになったのです。

 これはユダヤ人社会だけでなく、日本社会にも当てはめることができます。私たちの周りには数多くのしきたりがあります。先祖の墓をまもらなければいけない、仏教のお葬式ではこれこれのことをしなければいけない、お盆の季節にはお中元を忘れないように、などなど、私たちの生活はしきたりを守るのに明け暮れます。

 ところが、そこに命が果たしてあるのか?ということを考えてみてください。「家に仏壇があるので、イエス様に従うことができない」と言う人が大勢いますが、ではその仏壇に本当に意味があるのでしょうか?そのしきたりによって、私たちは命を得ることができるのでしょうか?一度しかないこの人生、どちらの道を歩みたいと思いますか?

 ヨハネは、モーセの律法と対比して「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」と言っていますね。先ほど恵みについては説明しましたが、「まこと」つまり「真理」についてはまだ説明していなかったので説明します。

  私たちは「恥ずかしい」「不都合だ」という理由で、多くのことを偽りながら生きています。けれども、真理や真実に逆らって生きるほど、つらいことはありません。偽りがあればその偽りを隠すために、さらに嘘を尽きます。そしていつか破綻してしまうのです。

 イエス様が、この福音書の中で「まことに、まことに、あなたに告げます」と何度も言われています。イエス様はご自分のことを「わたしは真理です」と言われたところもあります。そして「真理はあなたを自由にします」とも言われました。真理を知ってこそ、私たちは自由で、解放された生活を歩むことができるのです。

 だから、イエス様は「恵み」に満ちた方だけではないのです。「まこと」にも満ちておられる方です。イエス様を知れば知るほど、その恵み深さに圧倒されますが、同時に、自分の本当の姿を嫌というほど見せつけられます。イエス様は、「お前は、こういう罪がある。」と責め立てることは致しません。けれども、イエス様の行動、話している言葉を通して、自然に自分の罪があぶりだされてくるのです。自分の本当の姿を知って、それで悔い改めに導かれるのです。

3B 神の説き明かし 18
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 皆さん、神をこれまで見たことがありますか?ないですね、神は霊だから肉眼で見ることはできません。17節に出てきた「モーセ」という預言者、「主は顔と顔を合わせて選び出された(申命34:10」と言われています。けれども、それは顔と顔を合わせるほど親密に、近しく語り合うことができたという比喩であって、実際は、彼は神の栄光の後姿しか見ることができなかったことが書かれています。

 モーセが一度、神に、「あなたの栄光を私に見せてください」と頼みました。主は、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」と言われて、モーセを岩の裂け目に入れて、ご自分が通り過ぎるまで彼が見ることができないようにされました。

 だから私たちは神を見ることができないのです。けれども、できるのです!この感動を、今ヨハネは、「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた」という言葉で言い表しています。

 神の独り子は、神の「ふところ」に永遠の昔からおられました。最も親しく、最も近しくしておられました。いや、実はそれ以上で、一つになっておられます。「わたしと父は一つです。(ヨハネ10:30」と言われました。だから、この方が人となってくださったことによって、父なる神がどのような方かを知ることができるようになったのです。「説き明かし」というのは、そういうことです。目に見えない方が、見える人間の姿によって説き明かされたのです。

 イエス様は、ご自分の弟子たちを連れて、約3年間いろいろなところに行かれました。生活も共にしておられました。そしてついに、十字架につけられる最後の晩が来ます。この時に、ご自分が去ることを弟子たちにお話になりました。(復活で戻ってきますが、その後、天に昇られます。)それで弟子たちが、独り残されたらどうしようと不安になるだろうといけないと思って、いろいろな慰めの約束を与えられます。

 そして、弟子の一人ピリポが、「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。(ヨハネ14:8」と言いました。これが最後になるのなら、このことだけしてくだされば満足します、とお願いしたのです。ちょうどモーセのお願いと同じですね。

 そうしたら、「あなたにはそれはできない」と主はお答えになりませんでした。こう言われたのです。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。(9節)」わたしを見た者は、父を見た。イエス様を見ていたら、それはまさに父なる神そのものだ、ということです。

 だから、私たちにとってあまりにも遠く感じる「神」という存在は、イエス・キリストによって急接近したのです。イエス様をじっくりと見てください。福音書を通して、じっくり見てください。その方の語る言葉、一挙一動はみな神ご自身そのものなのです。神がここまで私たちに近づいてくださいました。この方を受け入れるのも、拒むのも、皆さんお一人お一人の選択です。私の願いは、どうか受け入れてください、です。


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