ヨハネによる福音書3章121節 「新たに生まれる」

アウトライン

1A 御霊による誕生 1−8
2A 信仰による命 9−15
3A 神の愛 16−21

本文

 ヨハネによる福音書3章ですが、ここはイエス様をまだ信じていない人にとっては、とても重要な箇所になります。1章13節で、「この人々は、・・・ただ、神によって生まれたのである」とありましたが、この神による誕生、新しい誕生について、イエス様がニコデモとの話で、説明しておられる部分だからです。

 場所は今、エルサレムです。先週学んだことを思い出してください、イエス様はエルサレムで宮にある牛や羊を売る者たち、また両替人を追い出しました。祈りのための神の家が、商売の家となっていたからです。そしてユダヤ人宗教指導者が激しく反発し、イエス様も応答されました。

 この出来事の後に、イエス様はエルサレムで奇蹟を行なわれました。2章23節から25節までをお読みします。「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

 イエス様は、「私はあなたを信じます。」と言って来た人たちに、弟子たちのように心を許して、お話になりませんでした。それは、イエス様は彼らの心を知っておられたからだ、とあります。信じた、と言っても、確かに奇蹟を行なう人として信じたかもしれませんが、神の子としてキリストとして信じたかというと違いました。いずれにしても、形だけの宗教に成り果てていたエルサレムでの神殿礼拝に、命の息が吹き込まれたのです。

1A 御霊による誕生 1−8
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

 ユダヤ人指導者の大半は、イエスが行なわれていることに強く反発していたのですが、独り、このようにイエスが行なわれていていることを好意的に受け止めている人がいました。ニコデモという人です。

 「パリサイ人」とあります。当時、ユダヤ教の中にはいくつかの教派がありました。主に、「パリサイ派」と「サドカイ派」でありましたが、パリサイ派は(旧約)聖書の言葉をすべて文字通り受け入れる人々です。霊や天使と言った、目に見えないもの、超自然的なものも、すべてを信じています。そして「サドカイ派」は、今の合理主義者と同じです。聖書もモーセの五書しか信じておらず、物質的なもの、目に見えるものだけを信じていました。

 サドカイ派の人たちはもっと打算的であり、政治的な力を持っていましたが、パリサイ派は聖書を字義通り従おうとするあまり、心の伴わない、形だけを追求する人々に変わってしまいました。けれども、宗教的にはパリサイ派のほうがもっと純粋です。

 そしてニコデモは、「ユダヤ人の指導者であった」とあります。ユダヤ人には「サンヘドリン」という、70人で構成されているユダヤ人議会がありました。ユダヤ人はローマ帝国の中にいましたが、ユダヤ属州と言って、自民族の自治は守られていたのです。ニコデモはその議会の議員でありました。

 ですから、宗教的にも優れた人であり、また政治的にも力のある人が今、イエス様のところに来ているのです。「」来た、とありますが、他のサンヘドリンの仲間に知られたくなかったからでしょうか、あるいは昼は、イエス様が病人を直すなど多くの事をしており、静かに、ゆっくり二人だけで話す時間を求めていたかもしれません。人間的には、実にできた人です。人格的な人です。

 彼は、イエス様が行なわれている奇蹟が神からのものであることを素直に認めました。「神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」と言っています。宗教者であればなおさらのこと、自分たちの信じていたことと反対のことをする人を嫌がります。特に自分たちの既得権益を揺るがすような人は脅威さえ感じます。ですから、彼のこの発言は勇気あることであり、彼が謙遜な人であることも分かります。

 私たちが、「神のところに最も近づくことができる人」と考えるなら、まずこのような人を考えるのではないでしょうか。人間的に優れた人であれば、神に近づくことができると。私たちが初めて教会に立ち寄るとき、どうしても自分は汚れた者だ、自分がここに入るには至らない、という気持ちにさせられます。敷居が高いのです。

2A 信仰による命 9−15
 けれども、次のイエス様の答えを読むと、非常に驚くのです。

3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 1章で私たちは、イエス様は「恵みとまことに満ちておられた(1:14」と習いました。恵みだけでなく、まこと、真理にも満ちておられます。そこで、「わたしは、本当のことを言いますが」とまず念を押しておられます。

 そして、「神の国を見ることはできません」ときっぱり言われているのです。ユダヤ人にとって、神の国に入ることは一番大切なことの一つです。世界を神が支配しておられる国を、聖書は約束しています。そこに入ることができるからこそ、希望があるのだと考えているのです。

 ユダヤ人でなくても、天国に入る、死んだら良いところに行きたいと感じます。誰かが災害で死んだ時、また誰かに殺害された時に、どうでしょう、「その人は今、地獄にいます。」と言う人はどれだけいるでしょうか。普通、そのように悪いことを死んだ人について話しませんね。やはり、死んだら良い所に行ってほしいと思うのです。けれども、イエス様ははっきりと、真実として「神の国を見ることはできません」と言われているのです。

 ここに私たちは、キリスト教について、いやイエス・キリストについて峻厳な事実があることを認めなければいけません。「私たちは、自分の努力では、どんなことをしても、神の所に至りつくことはできない。」ということです。ちょうどこれは、川を上流に流れに逆らって漕いでいって、ようやく目的地までやって来たと思ったら、百数十メートルある滝が自分の前を立ちはだかっているような気分です。

 神の国を見ることのできる条件は、「新しく生まれる」ことです。英語ですと、ここは”born again”(もう一度生まれる)となっています。また他の訳では、「上から生まれる」とあります。この「上から生まれる」が一番適切でしょう。「上」というのは、「天」からということです。聖書は、私たちが目で見ている世界、ここにある物質の世界だけでなく、神が王として座している天があることを教えています。まったく異なる次元から、まったく異質のところからの働きかけで生まれることができる、ということです。

3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

 ニコデモは、物理的な意味でイエス様の言葉を受け取りました。ニコデモは既におじいさんです。おじいさんのラビが、三十歳そこそこのラビに歩み寄ってきただけでもすごいと思いますが、ここまで低調にやってきたのですから、イエス様からさぞかしほめられるのでは、と思っていたかもしれません。けれども、反応は正反対でした。

 彼は物理的に、おじいさんである私が再び母の子宮の中に入ることができようか?と話しています。ところで、彼の質問にはここ「できましょうか」があり、そして後で9節「ありうるのでしょう」とありますが、すべて人間側からの可能性を話しています。これが、彼の限界だったのです。神を信じているとしていながら、人間の能力と可能性をもって生きてきた訳です。私はここに、人間的にはまじめに、一生懸命働き、生きている多くの日本人のことを思います。

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

 ここに、イエス様は聖書が教える人間理解を明確に提示しています。人間は本質的に「霊」であるということです。結論から言いますと、人間は、霊と魂(精神)、そして肉体によって成り立っています。

 すべての生き物には「肉体」があります。植物、動物、人間全てにあります。唯物的な考えの人は、すべては物質しか存在していないと考えますが、あまりにも無理がありますね。体だけしかないのは植物です。けれども動物には「意識」があります。意識があるので、動くことができます。つまり「体」だけでなく「魂」あるいは「精神」を持っているのです。

 けれども動物と人間の違いは何でしょうか?それは「神」と接触できることにおいて違うのです。祈っている動物を見たことがあるでしょうか?猿のような顔をした人はいるかもしれませんが、猿は神を礼拝することはあるでしょうか?いいえ。神について、永遠について、生きている意味について考えるのは人間だけです。ここで人間と動物の分かれ目があるのです。

 なぜなら、人間は体と魂の他に「霊」があるからです。神が人を初めに造られた時のことが、創世記2章7節に書いてあります。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」神は霊ですから、霊において人は神と交わる、つまり、語り合い、一緒に時間を過ごすことができるわけです。

 この人間の姿が、初めに造られた人アダムが罪を犯してしまったために損なわれてしまいました。罪を犯した後に、アダムと妻エバは、神を恐れて隠れます。そしてエデンの園から追放されます。神から離れて生きなければならないのです。

 離れれば、ちょうどコンセントが外れていて電気器具が全然動かないように、神から離れた人の霊には命がありません。アダムの子孫である私たちは、そのため生まれた時から霊的には死んでいます。だから、肉体は生きているのですが、実は死んでいるのです。だから霊が新たに生まれなければならないのですが、これがイエス様の言われている「水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」なのです。

 人間が三つの部分がすべて機能しているとき、霊・魂・体が機能しているとき、自分の魂、つまり意識・精神は、神のことを思っています。霊が上位に来ていて、その次に魂、そして下位に肉体があります。私たち生き物には肉体の欲求があります。空気への欲求、水への欲求、性の欲求、仲間が欲しいという社会的な欲求もあります。これら自体は何も間違ったものではありません。

 けれども、霊が神から離れ死んでいると、魂の上位に肉体の欲求が来ます。そうすると、私たちは動物と何ら変わりなくなってしまうのです。肉体の欲求、いや欲望が私たちを支配してしまうのです。

 この自分の生存欲求しかない人の姿を、イエス様はこのように言われています。「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。(マタイ6:25」私が皆さんに、「何のために学校に行ったり、また会社に勤めに出ているのですか。」と聞きます。会社に行っている人であれば、「食うため」と答えます。「では、なぜ食べるのですか、なぜ生きているのですか。」と聞くと、それより先を答えることができません。ただ、自分のこの体を生かしていくこと以上に、自分が生きていることの意味を見出すことができないのが、霊的に死んでいる状態です。

 外国から日本に来る人たちは、成田空港に到着し、乗り換えて電車に乗ると、乗っている人々の暗い顔つきに気づきます。とにかく一生懸命働き、また学校に通っているのですが、生気がないのに気づくのです。分かりますか?生きる意味を知らないで、一生懸命生きているからです。これが、「生きているけれども、実は死んでいる」状態なのです。

 だからイエス様は、「新しく生まれなければいけない」と言われているのです。肉体の誕生を経ました。今度は、神の御霊によって新しい霊の命を得なければいけない、ということです。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 おそらく、聞いていたニコデモは怪訝な顔をしていたのでしょう。「何をおっしゃっているのだろう、イエス様は。」とさっぱり分からないという表情をしていたのだと思われます。イエス様が、「不思議に思ってはなりません」と言われました。イエス様は、「風」を例えにして御霊について話されます。(ヘブル語では「風」も「霊」も同じ単語なので、イエス様は掛けておられます。)

 多くの人は、「神についてのことは、目に見えないから信じない。」と言います。本当にそうなんでしょうか?目に見えるものしか存在しないのでしょうか?風を肉眼で見ることはできますか?いいえ、風そのものを見ることはできません。なのに、なぜ風があることを信じて疑わないのでしょうか?

 目に見えないけれども、目に見えるものが風の影響を受けて動くから、風があると分かるのです。風によって揺れる木々を見て、風が吹いているのが分かります。同じように神の御霊によって生まれた人々も同じなのです。新しく生まれたことによって、どれだけ多くの人の人生が180度変えられたことでしょうか。私もその一人です。抑鬱で悩まされて、死にたいと思ったことがありました。それがイエス様を信じて、直ってしまいました。新しく生まれる、ということそのものは見ることはできませんが、私が変わったことで、神が生きていることを知ることができるのです。

3A 神の愛 16−21
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

 分かりますか、ニコデモは神を信じて、人に神を信じるように指導しているにも関わらず、この霊の領域、神の領域を信じていないのです。たとえ宗教的にパリサイ派と呼ばれるところにいても、実は御霊についてのことを知りませんでした。

 イエス様が「イスラエルの教師でありながら」と言われていますが、旧約聖書のエゼキエル書には、こう書いてあります。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(36:26」ちゃんと書いてあるのです、けれども分からなかったのです。ここから私たちは、どんなことをしても、たとえ宗教的になっても、新しく生まれることは決してできないことが分かります。

3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 風のことを話しているのにそれでも信じないなら、上から生まれるとか、新たに生まれる話をしたところで信じることはできませんね、ということです。

3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

 ここは、とても大切な箇所です。「だれも天に上った者はいない」についてですが、神は無限の方です。絶対者です。全知全能の方です。天の天に住まわれる方です。この無限の神のところに、有限の人間がどのように近づくことができるのでしょうか?できないのです。有限が無限に近づくことはできません。

 けれども宗教、他のあらゆる人間の努力は、このことを行なっているのです。人間の努力で、理想に達しよう、生きている意味を見出そうとするのです。その典型がここにいるニコデモです。けれども、その行き着くところは、絶壁なのです。先ほど話した、川上りをしているボートがぶるかる、どでかい滝なのです。

 けれどもその逆なら可能なのです。「天から下る」ことです。無限の方が有限の中に下りてくることは可能です。これが「人の子」つまり、神が人となられた、イエス・キリストなのです。新たに生まれる、上から生まれることは人間には当然できないことですが、神がキリストによって私たちのために行なってくださいます。 

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 新しく生まれる方法、ここでは「永遠のいのちを持つ」とありますが、その方法はここにあるとおり、ただ「信じる」だけです。私たちは天に上ることはできませんが、天から下ってきた方、神が人となられたキリスト・イエスを受け入れることはできます。

 イエス様は、ニコデモがイスラエルの教師なので、旧約聖書からの逸話を話しておられます。「モーセが荒野で蛇を上げた」話です。民数記21章のところに書いてあります。イスラエルの民がエジプトから脱出して、シナイ砂漠のところを40年間さまよっていました。ようやく40年後に、神が約束してくださったカナン人の地、今のイスラエルのところに向かいました。けれども灼熱の中で旅をするのが耐え切れなくなって、「パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」と言って、モーセと神に逆らいました。

 神はそこで燃える蛇を民の中に送られました。蛇が民に噛みつき、人々がばたばたと死んでいきました。そこで生き残っている彼らが、「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」と頼んだのです。

 すると主はモーセに、変な命令を出されるのです。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセはこれまでも、変な命令を受けてきましたが、ここでも理由を聞かずに青銅で蛇を作り、それを旗ざおにかけました。それで、蛇は取り去られませんでしたが、蛇にかまれても、その青銅の蛇を仰ぎ見れば、生きたのです。

 この不思議な逸話はいったい何かと言いますと、創世記には悪魔が蛇によってエバに現れて、エバを惑わした場面があります。そのためにアダムが罪を犯しました。この蛇は罪を表していたのです。そして青銅も聖書にはたくさん出てきますが、きまって神が裁きを行なわれる意味を持っています。したがって、罪が裁かれたことが旗ざおの木の上にかけられていたことを表していたのです。自分たちが犯した罪がその木の上で裁かれていることを見ることによって、罪が赦され、また生きることができる、というものです。

 イエス様が、同じように「人の子もまた上げられなければなりません」と言われました。十字架です。十字架の木の上にイエス様がかけられます。十字架は殺人であるとか、ローマの反逆罪であるとか、重罪を犯した者たちがかかる、極刑の道具です。けれども数多くの人が、イエス様が何の罪も犯していないと証言しています。イエス様は、ご自分のためではなく、罪を犯している私たちのために、その罪の罰を受けてくださったのです。このことを見上げる、つまり信じれば、死から命へと移されるのです。永遠の命を持つ、新しく生まれることができるのです。

 ですから、ヨハネの福音書に何度も出てきますが、「信じる」という簡単な、単純な行為によって、人間には到底できないことを、神が代わりに行なってくださるのです。

 今の青銅の蛇の話に戻りますが、宿営地で人々が蛇に噛まれています。けれどもモーセが青銅の蛇を旗ざおにかけて、引き上げました。そして見上げた人が、毒が回って苦しんでいたのに、その痛みが完全になくなりました。直りました。そこでまだ苦しんでいる人のところにかけよって、「おい、あの旗ざおの蛇を見るんだ。あれを見れば、死なずに生きることができるぞ。」と言います。ところが、その苦しんでいる人は、「そんなことで、直るわけがないだろ。そんな簡単なものではない。ずいぶん変なことを言うな。」と苦しみもだえながら話して、とうとう時遅し、死んでしまいました。苦しみもだえて話すぐらいなら、首をちょっとひねって青銅の蛇を見ればよかったのに。

 けれども、これを非常に多くの人が、キリストの十字架に対して行なっているのです。「信じれば永遠の命を持つ」という良い知らせに対して、「そんな簡単なものではない。努力をしなくなると、人間だめになってしまう。」といって、その単純なことを拒否してしまうのです。 

3A 神の愛 16−21
 そして次から、新しく命を与えようとされている神の心を読むことができます。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 私たちが永遠のいのちを持つようにしてくださるのは、神が私たちを愛しておられるからです。「ひとり子をお与えになったほどに」とあります。子を持っておられる親御さんは、誰か他の人のために、自分の子が死ななければならないと聞いたら、どうでしょうか?しかも、とてつもない罪を犯した罪人のために、自分の子が死ななければならないとしたらどうでしょう。そんなむごいことを!と思われるでしょう。でも父なる神はそれを行なわれたのです。なぜか?私たちをそれだけ愛しておられるからです。

3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 多くの人が、「神、罪、裁き」の話を聞いて、こう感じます。「聖書の話、キリスト教の話を聞くまでは、裁きなんてことを気にしなくても良かったのに。何か裁かれているみたいだ。」と。いや、実際は反対なのです。もう既に裁かれているのです。それをただ気づいていなかったのです。だから、その裁かれている状態から救い出すために、神は御子キリストを私たちに遣わしてくださったのです。

 そして信仰を持っている人でも、「ああ私は裁かれている」と自責の思いを強くする人が多くいます。ここの御言葉をしっかり握り締めてください。「さばくためではなく、救われるため」です。ローマ8章1節には、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

 多くの人が、イエス様を信じない理由として、「理解できないからだ」とか、「知的に困難を感じる」とかいろいろな事を言います。けれども、実は「自分の行なっている悪を愛しているからだ」が本音なのです。今までの自分の生き方を変えたくないのです。イエス様を信じることは、これまでの自分の心のままで生きてきた自分中心の生き方から方向転換し、神に中心軸を合わせる生活に変えることを意味します。自分が行なってきた悪が明らかにして、それを神の前に持っていかなければいけなくなります。だから、信じないのです。

3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 「真理を行なう」とは、自分の罪を認めて、神の前にへりくだって出て行くことを意味しています。「私は罪人です。神様、どうかこの者を憐れんでください。できますならば、この罪を赦してください。イエス様が十字架につけられたのは、まさに私のためです。そして生き返ってくださったことも信じます。このイエス様に、これから私は従っていきます。」こういう心を持っている人です。この人は光のほうに来ることができます。罪がすべて洗い清められ、新しく生まれ、神の子供としての特権が与えられます。どうでしょう?今、祈ってみませんか?


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