ヨハネの福音書8章3136節 「真理はあなたを自由にする」

アウトライン

1A 信者から弟子へ 31
2A 真理による自由 32−36
   1B 偽りによる奴隷化 32
   2B 真実への盲目状態 33
   3B 行動と隷属 34
   4B 子による自由 36

本文

 今日のメッセージ題は、「真理はあなたを自由にする」です。これはもしかしたら、聞いたことのある言葉かもしれません。国会図書館に掲げてある言葉だからです。学問の追及によって真理を知り、それによって私たちが自由にされるという願いを込めて掲げられています。けれども、これはここでイエスがお語りになった所であり、読めば分かりますが、知的な自由を意味していません。「罪からの自由」をイエスはお語りになっています。

 この話は、前回の学びからの続きです。主は、姦淫の現場で捕えられた女に罪の赦しの宣言をされた後、「わたしは世の光です。(12節)」と言われました。彼女のように罪の赦しを得て、罪を犯さない生活の中に入るのが、光の中に生きることです。けれども罪があることを認めないで、続けて罪の中で生活するのであれば、暗闇の中を歩いている、ということです。

 そこで神殿の敷地の中で、この話を聞いていたユダヤ人たちは反発します。「あなたがなぜ、その光なのか?あなたがなぜそんな権威を持っているのか?神からの者でなければ、自分が世の光などと言えるわけではないか?」と反発したのです。

 そこでイエスは、「あなたがたは罪の中で死ぬ。あなたがたは、わたしが行くところに来ることはできない。」と言われました。イエスが行かれるところとは、天のことです。罪のあるままで生きていれば、決して天国に入ることはできない、ということです。

 そしてイエスは、「あなたがたは、わたしを引き上げることになる。」と言われました。それは、ユダヤ人たちが自分を十字架につける、ということを意味していました。その後で、あなたがたはわたしが誰であるかを知るようになる、と言われました。イエスが十字架につけられ、三日目に復活し、天に昇られた後に、多くのユダヤ人が、イエスがキリストであり、神の子であることを信じるようになりました。

 この話を聞いていたユダヤ人は、30節を見てください「イエスを信じた」とあります。私は教会の中で、「罪人の祈り」というものをたくさん聞いてきました。それは、イエス様を自分の救い主として信じて、自分の罪のためにイエスが十字架につけられ、そして三日目によみがえられたことを信じ、イエスを自分の人生の主としてお迎えし、生きていくと口で告白する祈りです。この祈りを祈ったら、あなたはもう永遠の命を持ち、クリスチャンになると宣言します。

 ところが、ヨハネの福音書には「イエスを信じた」と言っても、本当に信じたのではない人々が現れます。その一つは、ここに出てくるユダヤ人たちです。信じたはずの彼らは、イエスと少し議論を進めているうちに、見てください8章の最後ですが、「すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。」とあるのです。イエスを信じたはずの人々が、イエスを殺そうとしているのです。

 そうなのです、イエスが確かに救い主であると知的に認識しても、その知識が心の中に入っていなければ、本当に信じたことにはなりません。イエスを自分の生活における中心として、自分の人生の主として心からこの方を受け入れていない限り、聖書に約束されている永遠の命は自分のものとならないのです。

1A 信者から弟子へ 31
 それでも知的にはご自分を受け入れたユダヤ人に、イエスはまことの信仰に入るように、続けて働きかけられます。

8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

 イエスはまず「わたしのことばにとどまるなら」と、ご自分の言葉に重きを置いておられます。ユダヤ人たちが自分たちの思考で、自分たちの考えでこの人はメシヤ、キリストかもしれないと思って受け入れたのですが、イエスが語られたことをそのまま心から受け入れたわけではありませんでした。

 聖書の言葉には力があります。聖書の言葉を、数多くの人々は理解しようとします。悟ろうとします。まるで哲学のように、自分の思想としてまとめあげようとします。けれども、聖書そのものが、そこに書かれている言葉をこう定義しています。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12」生きていて、力があるのです。他の箇所には、「真理のことばをもって私たちをお生みになりました。(ヤコブ1:18」とあります。私たちを新たに生まれさせる力があるのです。書かれてあることの全てを理解できなくとも、その言葉をそのまま心に受け入れるのであれば、私たちがこれまでどうしようもなく苦しめていた罪の束縛から、私たちを解放します。

 そして「わたしのことばにとどまるなら」とあります。留まるというのは、他の箇所では「宿泊する」とも訳されています。いっしょに時間を過ごすことです。つまり、イエスのことばを自分の内に、まるで宿泊するかのように留めて、じっくりと考え、祈り、思い巡らし、そしてその通り行なってみようとすることです。

2A 真理による自由 32−36
1B 偽りによる奴隷化 32
 そして主はこう言われます。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

 偽りというのは、私たちを奴隷状態にします。「偽りの広告」など、その言葉に踊らされていろいろなものを買った挙句に、実はだまされていたことが分かり、大きな損失を被ります。「偽り」というのは、自分が欺かれている間は、それが偽りだと分かりません。だから奴隷状態になるのです。

 聖書の初めのところに、この偽りによって罪の奴隷となってしまった人の話が出てきます。蛇の形をして現れた悪魔にだまされて、禁断の実を食べたエバとアダムの話です。神はアダムに対して、「園の中央にある、善悪の知識の実から取って食べてはならない。もし食べるなら、あなたは必ず死ぬ。(2:17参照)」と言われました。けれども蛇はエバに対して、「あなたがたは決して死にません。」と言いました。神が言われたことと全く反対のことを言っています。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(3:45」と言いました。

 結果はどうだったでしょうか?アダムとエバは食べて、神のように賢くなったのでしょうか?いいえ、むしろ自分たちが裸であることを恥ずかしくなり、神を恐れるようになり、エデンの園から出て、罪の縄目の中で苦しむようになったのです。そしてアダムの子孫である私たち人間はみな、罪の奴隷なのだと聖書は宣言しています。

 私たちの周りには偽りがいっぱいあります。テレビの広告など、すぐに与えられるという効果があります。自分の彼氏または彼女は、「あなただけを本当に愛しているよ。」と言いましたが、実は二股でした。私が大学生の時は90年初めの経済バブルがはじける直前でした。私の大学では銀行が最も有望な業界とされていました。ところがその直後に、大銀行や証券会社が次々と倒産しました。ですから、私たちは知らず知らずのうちに偽りの奴隷となっているのです。

2B 真実への盲目状態 33
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」

 聞いていたユダヤ人は、自分が奴隷状態になっていることを認めたくありませんでした。そりゃあ、人間ですから自尊心があります。自分が今、何かの奴隷になっているなど信じたくありません。それでイエスのこの言葉に反発しました。

 けれども、彼らはあまりにも明らかなことに盲目になっていました。彼らは、「決してだれの奴隷になったこともありません」と言っています。ちょっと待ってください。ユダヤ民族は、まさに奴隷状態から始まった民族です。アブラハムが確かに彼らの父祖ですが、その400年後彼らはエジプトにおいて、奴隷として労役と苦しみの中にいました。そしてモーセを神が遣わされて、エジプトから出て解放されました。

 けれども、イスラエルの約束の地に入ってから、彼らは神を捨てて、他の神々、偶像に仕えました。それで周囲の外敵に攻められ、苦しめられました。さらに彼らはアッシリヤ、そしてバビロンという超大国によって国が滅ぼされ、捕囚の民となりました。世界史にも「バビロン捕囚」というのが出てきます。

 そして彼らは今、ローマ帝国の支配を受けています。彼らが話しているその外では、ローマの兵士が行進しており、軍靴の音が聞こえます。ローマ兵はいつでも、人々の肩に剣を置いて、「俺の荷物を運べ」と命令することができました。これが自由な状態なのでしょうか?それでも彼らは、自尊心、プライドから「だれの奴隷になったこともありません。」と言ったのです。

 このように私たちは、自分が奴隷状態にいるのだということを認めないと、自分の本当の姿、真実の姿に対して盲目になります。ちょうど麻薬をやって幻覚や幻聴を見るように、本当の世界を見ることができなくなるのです。だからまず必要なのは、「自分は奴隷なのだ」という真実を見つめることです。

3B 行動と隷属 34
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。

 イエスはこの「まことに、まことに、あなたがたに告げます」という言い回しが好きです。「これから本当のことを言うからね。」ということです。だから耳垢をほじって、注意して聞かなければなりません。

 「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷」です。私たちは自分が主体性のある存在だと思っています。実は、善と悪を区別して、そして選択して生きている自由な存在なのだと思っています。そして罪だと言われていることに対して、自分がそれを行なっても、いつでもそれを止めることができる、自分がそれを支配しているのだ、制御しているのだと思っています。けれども真実は逆です。一度罪を行なえば、私たちはもはやその罪を支配しているのではなく、罪が自分を支配しているのです。

 麻薬中毒になっている人、また他の中毒になっている人に聞いてみてください。彼らがなぜ、それを止めることができないのでしょうか?「あと一回で、最後だ。それでもうやめるから。」と言います。そのあと一回が、またもっとやりたいと思わせるようになり、いつまでも止められないのです。でも自分は麻薬に対して自由なのだ、と思っているのです。

 ローマ人への手紙6章16節を読んでみたいと思います。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6:16」自分はどちらかに従属することによって、初めて他のものから自由になります。神を信じる、宗教を信じるのは窮屈だ、自由がなくなると言います。けれども、実は自分はどちらかに従うかしかないのです。どちらにも属せず、自由になっているのではありません。神に自分のすべてをささげて生きることを選べば、罪から自由になります。反対に、神から自由にされたいと願えば、罪の奴隷になります。

 キリスト者が持っている自由は、何でもすることができる自由ではなく、しなくてもよいことをしなくてもよい自由であります。

4B 子による自由 36
8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

 この「子」とは、イエスご自身のことです。天と地をお造りになられた創造主の子のことです。ここで言っている「家」とは、天のことです。神がおられる家、つまり天にイエスは神の子としてずっとおられます。つまり何を言いたいかと言いますと、「人間が人間を自由にすることはできない」ということです。人間ではなく、人間を造られた方が自由にしてくだされば、本当に自由になる、ということです。

 いかがでしょうか?私は、数多くの自由にされた人々を見ました。アメリカにいた時、いっしょに聖書を勉強していた人々の九割は、元麻薬患者でした。麻薬中毒になってから、それを止めるのがどれだけ大変なのかはその経験者が語ります。「リハビリ・センター」なるものがありますが、それは死ぬより恐い、という人たちもいます。けれども私の学友たちは、イエスを自分の救い主として心に受け入れたことによって、自ら進んで麻薬を捨てたのです。

 私自身は、大学入試の準備で、鬱で悩みました。父が夜遅く帰宅すると、私が自分の顔を自分で殴っている私を見て、彼は心配しました。私は人生の意味を求めて、いろんな本を読みました。哲学的なもの、人生の教訓的なものなどです。いろいろ良いことは書いてありますが、実際にそれを実行する力がありませんでした。けれども、私がイエスを自分の救い主として受け入れ、信じて、それで欝の症状はすっかりなくなりました。

 もし教会に来られたら、このような証言が山ほどあります。なぜか?それは、子がその人たちを自由にしたからです。他の人間が他の人を自由にすることはできません。なぜならはその人自身も罪の奴隷だからです。罪の奴隷ではない、第三者が奴隷を解放しなければならないのです。

 だから神の独り子が自由にするなら、本当に自由になります。この方は、あなたの罪の代価として、ご自分の命を与えられました。十字架に付けられ死なれました。神が要求する、あなたの罪に対する罰をすべて身代わりに受けてくださいました。そして、死なれただけではありません。三日目によみがえられました。罪とそれがもたらす死を打ち滅ぼしてくださったのです。

 このことを信じて、自分の心にイエスを自分の主として救い主として受け入れるならば、この力はあなたのものになります。