ルカ241-8節 「ここにはおられません」

アウトライン

1A 死と罪の法則
   1B 死という不条理
   2B アダムによる死
   3B キリストによる贖罪
2A 復活の法則
   1B 自然にある復活
   2B 人に備わった復活
   3B 復活に気づかない人々
      1C 恐れという反応
      2C 通りがかりに気づかない姿
      3C 体という現実
   4B 世界の回復
3A 福音の言葉 

本文

 ルカによる福音書241-8節からお読みします。

1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」8 女たちはイエスのみことばを思い出した。

 天使が女たちに言った言葉ですが、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。6 ここにはおられません。よみがえられたのです。」とあります。女たちは、イエスが墓に葬られて、香料を遺体につけるために三日目の早朝に来ました。当時は遺体をそのまま洞窟のような岩の穴に葬ります。遺体臭を消すために香料をつけるのですが、そこにイエスの体がなかったのです。おどおどしているところ、天使が二人来て、「なぜ生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」と宣言しました。

 私たちキリスト者は、毎年この時期にイースター(日本語に訳すと復活祭)を祝います。ちょうどこの出来事が、この時期に起こったからです。日本では桜の花が咲く時期ですが、イスラエルでは大麦の初穂が出る時期であり、その時に「初穂の祭り」というものがあります。その日曜日の朝に起こった出来事です。

 私たち教会に集っている者たちは、ある意味で日曜日に、特にこの時期の日曜日の礼拝は墓参り来ていると言っても過言ではないでしょう。仏式の葬儀であれば、夏に盆の季節があり、その時に先祖の墓参りをします。そして何回忌ということで法事を行ないますが、私たちキリスト者も毎週日曜日、またこの復活祭の時期には墓を意識します。けれども、日本人であれば死んだ人々に対して礼を尽くし、死者に対して奉仕をします。けれどもキリスト者は奇妙なことをします。それは、「墓には死体がなかった」ことを確認しているのです。つまり、イエスが生き返ったこと、そして今も生きていることを確認しているのです。

 この写真を見てください。これは実際のイスラエルにおいて、イエスが葬られたと考えられる墓です。当時の墓はこのように岩を掘った穴を使いました。そして中に入れば、そこには遺骨がないのです。そしてこの看板は、"He is not here. He is risen."つまり、今ここで読んだ「ここにはおられません。よみがえられたのです。」とあるのです。この方は生きています。今も生きています!

1A 死と罪の法則
1B 死という不条理
 私たち人間は死ぬのは、当たり前だと思っています。人は必ず死にます。また生き返る、復活するという話をするのであれば、一笑に付してしまうことでしょう。「何をたわけた事を言っているのか。」と思われます。けれども私たちは、「死ぬのは当たり前」ということで満足して生きることはできるのでしょうか?愛する者の死を現実に目の前にして、それは当たり前であると受容することができるものでしょうか?「死」というものにある不条理をそこで見るのではないでしょうか?

 イエスには、マルタとマリヤという姉妹と親しい関係にありました。またラザロという兄弟がいて、彼は危篤になりました。イエスが彼らの家に到着した時には、彼は死んだ四日も経っています。そこには多くの人々が大声を出しながら嘆き悲しんでいました。そしてマリヤが泣いている姿を見、また他の人々も泣いている姿を見て、「イエスは涙を流された」とあります。そして、「心のうちに憤りを覚え」た、ともあります(ヨハネ11:35,38)。この後、イエスは「ラザロよ、出てきなさい!」と大声で叫ばれて、彼を生き返らせました。けれども、その涙と憤りは現実です。人が生を持ってこの世に現れたのに、なぜ死をもって終わらなければならないのか、というじれったさと憤りなのです。人間は「死んで当たり前」などと簡単に片付けられない呻きを、魂の中に持っています。

 私たちは日々の生活をこの現実を知りつつも、意識の奥深くに押し込めながら生きています。この生活は、人生に空しさを与えていきます。「今は生きているけれども、どうせ死ぬのだ。」という厭世感を持っています。聖書の中に、この世において「生きがい」と呼ばれるもののあらゆることを行なった人の伝記が残っています。「伝道者の書」と呼ばれています。彼ソロモンは、イスラエル国がもっとも大きく、豊かになった時に治めていた王でした。宮殿にあるものは、すべて金が使われていました。銀は石ころのように考えられていました。彼には知恵がありました。その王が下す裁判は、極めて優れていました。あらゆる箴言や植物図鑑も書き記していました。そして軍事的にも政治においても、極めて力を持っていました。そして快楽もありました。なんと妻が三百人、そして側めが七百人もいたのです。学問も、事業も、そして快楽もあったのですが、その伝道者の書の書き出しはこうだったのです。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。(1:2-3

 それでソロモンは、こういう結論を出しました。「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。(5:18」日々、家に帰ってテレビを見、ビールを飲んだりするのが神の与えた分け前なのだ、ということです。確かにそうかもしれません。多くの日本人が、これと同じ哲学を持って生きているのではないでしょうか?けれども、心の奥底では、「それだけはないはずだろう・・・。」という思いがないでしょうか?聖書には、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。(伝道者3:11」ともあります。日々の生活を超えたところの、真の命というものがあるのではないか、という疑問を薄々感じながら生きているのです。パスカルという数学者また哲学者がフランスにいましたが、彼はこう言いました。「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」その薄々気づいている疑問は、創造主である神にしか埋めることのできない空洞だと言うのです。

2B アダムによる死
 実は、人は元来、死ぬようには造られていなかったのです。天と地を創造された神は、人をご自分のかたちに造られました。そして、園にあるあらゆる木々とそこから出てくるあらゆる実を食べなさいとアダムに命じられました。けれども、園の中央には命の木と善悪の知識の木がありました。神はアダムに、「善悪の知識の木から取って食べてはならない。食べたら必ず死ぬ。」と警告しておられました。ところがアダムが食べたのです。そこから死が入りました。彼はすぐには死なず、長寿を全うしましたが、それでも死んだのです。神が命じられることに逆らったことにより、死がこの世界に入ったのです。つまり、罪によって死が生じたということです。

 世界の人々はみなアダムの子孫なので、ちょうどDNAのように罪をもって生まれ、そして死ぬようになってしまいました。ちょうど服の上のボタンを掛け違えますと、その下のボタンがすべて掛け違えるように、アダムから出てきた私たちはみな、初めからボタンの掛け違えのような状態で生まれてきたのです。自分の生命を与えておられるのは天地を造られた神なのに、この神を神として認めずに生きることが聖書では罪と呼んでいます。そしてその罪によって死ぬ運命の中にいるのです。これを聖書では、「罪と死の原理」とも呼んでいます。

3B キリストによる贖罪
 そこで先ほど話しに戻しましょう。イエスが墓からよみがえった、とのことですが、どのようにして死んだのでしょうか?彼は自然に死んだのではありませんでした。刑死でした。刑罰による死です。十字架という、ローマ帝国が編み出した、殺人や反乱・騒擾罪に適用した極刑です。あえて大通りのそばで手足に釘を打ちつけ、徐々に殺していく姿を見せることによって、人々にローマの法に逆らうことによる恐ろしさを見せつけたのでした。

 なぜイエスが、そのような刑に処せられなければいけなかったのでしょうか?福音書の記録では、ローマ総督ピラトは彼に何ら罪を見出すことはできないという証言があります。彼はユダヤ属州の支配者でしたが、ユダヤ人を治めることに手をこまねいていました。その中で、ユダヤ人がイエスを殺せという圧力に屈してしまった、というのが実情です。しかしながら、ピラトが「この者に何ら罪を見出さない。」と言ったし、他にもいくらでも刑を免れる方法はありました。しかし、この方はこう言われたのです。「こうならければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。(マタイ26:54」聖書に書いてあることが実現されるために、あえて冤罪を免れる方法を選ぶことせず、自らその刑を受けられたのです。

 聖書に書いてあること、というのは旧約聖書に書いてあることです。先ほどアダムが罪を犯した話をしました。その後に神は、羊などの動物によるいけにえを行なうようにされました。その羊を屠り、血を流し、そして祭壇の上で火で焼くのです。動物のいけにえをもって、ご自分を礼拝するように命じられました。それは、血を流すことによって罪を赦すためです。罪によって死が来ました。けれども、神は人の罪を赦したいと願われました。そこで身代わりとなる動物に死を与えられたのです。血を流すようにされたのです。そして火という地獄を表す祭壇によって、その捧げる者を、「あなたは、この動物をもって赦したのです。この動物が血を流し、火で焼かれているが、あなたの身代わりになったのだよ。」ということを語られたのです。

 そして、イエスがこの地上に現れた時に、バプテスマのヨハネという預言者がイエスを見て、「見よ。世の罪を取り除く、神の小羊」と叫びました。動物ではなく、神から来たイエスご自身が私たちの罪の身代わりのために、いけにえとなられたのです。

 これが、私たち人間の罪を取り除く方法です。私たちの内にある、罪の根っこを取り除くことができます。「罪」と言っても、単なる嘘をつくとか、盗みをするとか、嫉妬するとか、不品行、怒りなどのようなものではなく、心が自分自身に向いている、心の深みから出てくる、生まれつき持っているものです。これを宗教は、人の行為によって償うことができると教えます。善行を積んでいけば、死んだ後に良いところに行くことができると教えます。修行、また自己啓発によって人間の理想に到達できると教えます。けれども、聖書は、私たちの行為なんかでは決して拭い去ることのできない、実に私たちの中核にその罪が横たわっていることを教えているのです。それゆえ、私たち自身ではなく、神ご自身がご自分の独り子キリストによって取り除くようにしてくださったのです。

2A 復活の法則
 これが、イエスが十字架につけられた背後にある全貌でした。けれども、そのことが分かっている人は当時、誰もいませんでした。イエスを信じて、イエスについていった弟子たちや、女たちも分かっていませんでした。けれどもイエスは何度も、「わたしは引き渡されて、十字架につけられて、そして三日目によみがえる。」とはっきりと前もって言われていたのです。イエスが確かに復活されたことを知った後で、彼らはようやくこの方が死なれたことの意義を知るに至ったのです。

 イエスがよみがえってから、「罪と死の原理」に対抗する、「復活の原理」あるいは法則が始まりました。神はキリストにあって、この世界に復活という希望、死んでも生き返るという法則を導入されたのです。イエスはマルタに言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25

1B 自然にある復活
 「死んで生きる?そんなことあるわけないじゃないか。」と多くの人が反発すると思います。けれども、自然の中にも、相反する法則が働いています。空気力学を考えてみてください。あの鉄の塊である飛行機が、ものの見事に空中に飛んでいくのです。近代になるまで、飛行機のことを話したら「お前はなんと非科学的なものか。物は地面に落ちるのだ。そんなことがあるはずがない。」と答えたことでしょう。重力の法則がありますから。けれども、鳥がなぜ空を飛んでいるんでしょうかね、そんなことは考えずに私たちは、相反する法則を見るとそのように反発するのです。

 重力の法則は事実です。同じように人は必ず死にます。その事実は変わりません。けれども、重量の法則に対抗し、物を空に持ち上げる空気力学があるのと同じように、人が死んでも、それでも生き返るという法則があるのです。それが神は、二千年前にキリストを先駆者として開始されたのです。

 自然界の中には、「復活」を表すような現象はたくさんあります。例えば種を見てください。種はそのままでは何にも起こりませんが、土の中で分解すると発芽して、成長し、多くの実を結ばせます。人の生命力もその通りです。医学においても原因の分からない病というものはありますが、反対に医学によっても分からずに治癒された、という話は多く聞きますね。テレビ番組でも、「奇跡体験 アンビリーバボー」の中でしばしば出てくる話です。

2B 人に備わった復活
 私たちの教会は、ちょうど去年の今、東北の被災地に救援旅行に出て行きました。何度通ったことでしょうか、二十回近くになると思います。その中で私自身の心は喜びを持っていました。瓦礫を見て、けれども、そこでたくましく生きている東北の人々を見て、私は心の中で「神は生きておられる」と実感しています。このことをある時に話したら、ものすごく怒りだした人がいました。東北の人に失礼であるかのように話しました。けれども私は、信仰の中で神を見ていました。信仰の中で、この地域に復活の原理が働くことを見て、それで神をほめたたえました。考えてもみてください、17年前に震災を受けた神戸阪神地域は、今どのような姿になっているでしょうか?しっかりと復興しています。広島と長崎はどうでしょうか?原爆で命を失ったことに対する深い悲しみはありますが、エネルギーに満ちあふれる都市に変貌しています。今、福島の放射能汚染で日本は騒いでいますが、広島市民の女性は、日本の政令指定都市の中で、平均寿命で第一位となりました(2005)。人間の生命力においても、神は復活の原理を働かせておられるのです。

 人は死ぬということが、生きることの機会となります。被災地の話に戻しますと、宮城県の奥松島というところに、ある集落があります。津波によってほとんどの家が全壊しました。けれども、興味深いことに、昔、火事が起こってもそれが広まらなかったと言われています。なぜか?江戸時代か昔に大地震が起こり、その倒壊後、その集落を再興するときに小道を沢山つくったそうです。そのおかげで、火の手が回りにくくなったということです。そして今、家屋が全壊してしまったけれども、また皆の知恵をしぼり出して、むしろ以前よりもすぐれた村づくりをつくることができると、そこの地区長さんが話してくださいました。

3B 復活に気づかない人々
 このように神は、復活という原理を働かせてくださっており、事実、人の肉体が死んでもよみがえらせることを、キリストにおいて行なってくださったのです。けれども、多くの人がこの事実に気がついていません。イエスを取り巻く人々も、初めはこの事実に気づきませんでした。

1C 恐れという反応
 ルカ244節をご覧ください。墓にイエスの体がなかった、というのは、とてつもない喜びの知らせです。これまでイエスについてきた女たちは、イエス様をこよなく愛していました。ですから、空の墓を見て、イエスがよみがえられたことを喜ばなければいけません。ところが4節にどう書いてありますか、「途方にくれている」とあります。イエスがよみがえらえたという、極めて確実な状況証拠であるにも関わらず、途方にくれてしまったのです。

 それでそこにいた二人の天使が、5節で「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」と言いました。女たちは、墓にいるはずのイエスの体がなかったことで途方にくれていたのです。けれども、イエスが生き返ったという事実を知れば、実に単純明快なことです。けれども私たちの人生において同じことが言えるのではないでしょうか?自分にとっては途方にくれるような出来事が、自分の身に起こりました。けれどもそれは実は、神が生きておられることを示す一つの徴であるかもしれないのです。神が生きて働いておられると考えれば、実に単純なことなのに、なぜこんなことが起こっているのか分からないと、途方にくれることが多いのです。

 けれども天使たちは、イエスがよくお話になっていたことを思い出させました。十字架につけられるが、三日目によみがえると話しておられたではないかと言いました。それで8節、「女たちはイエスのみことばを思い出した。」とあります。

2C 通りがかりに気づかない姿
 けれどもルカによる福音書24章を読みすすめますと、弟子たちは信じられたなかったことが書かれています。その中の二人の弟子が、エルサレムから離れて、エマオという村に歩き始めました。けれども、なんと、よみがえられたイエスが二人に近づかれて、いっしょに歩かれたのです。イエス様は、ユーモアのある方です、しらばっくれて「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」と尋ねられました。

 そうしたら、興味深いことに17節、「するとふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。」とあります。自分たちの愛するイエス様が、今、よみがえって目の前にいるにも関わらず、その方を見ているのに気づかず、「暗い顔つき」になったのです。そして、「イエスという方は偉大な預言者だったのに、私たちの祭司長や指導者たちは彼を引き渡して、十字架につけた。」と言ったのです。生きているイエス様に向かって、「あの方は死んでしまった」と話しているのだから滑稽です。けれども、私たちの人生でもこれがしばしば起こります。横で歩いておられるイエス様に気づいていないのです。イエス様が生きているのに、人生で起こったことに対して失望して、その中にとどまっています。

 けれどもイエス様は、彼らに聖書の初めから終わりまで、キリストについて書かれていることを説明し、「確かにキリストは苦しみを受けて、その後によみがえることを教えているではないか。」と言われました。そしていっしょにパンを裂いて、食事を取られました。その時に弟子たちは、これはイエス様だと気づいて、けれども、イエス様はそこで見えなくなりました。

3C 体という現実
 だんだん、復活の事実に気づき始めた人が増えていったのですが、ついに皆が一同で集まっている真ん中にイエス様が現れてくださいました。みんな、あまりにも嬉しくて信じられないでいます。ほっぺたをつねっていたかもしれませんね。つねっていなくても、そのような心境でした。そこでイエスは、「わたしの手や足を見なさい。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。(39節)」と言われました。そして食事を持ってくるように命じられ、その食事を召し上がりました。

 つまり現実だったのです。復活というのが、幽霊を見るような夢物語ではなく、事実であり現実だったのです。キリストを信じる者にとって、その信仰は心の中で作り上げた物ではなく事実であり現実なのです。復活されたイエスが心の内に生きて、働いておられるのです。

 私事で話していただきますと、高校生の時は抑うつでした。それがイエス様を信じてから、しばらくしてすっかり直りました。先週は沖縄から、あるクリスチャンが私たちの教会を訪問されました。彼は酒とギャンブルにはまっていましたが、イエスを信じてそれをやめ、ギャンブルによる借金も返済しました。アメリカの人ですが、麻薬のやりすぎで、鏡で自分を見たら、頭と顔の半分がなくなっている状態の人がいました。廃人いや狂人になっていたのです。けれどもイエス様を信じて、完全に直り、今は一万人以上の信者を抱える教会の牧師になっています。私たちの思いの中で作り上げたお話であれば、そんなことが起こるでしょうか?生けるイエスは、信じる者の中に現実として、事実として働いてくださるのです。

4B 世界の回復
 そして聖書は、キリストから復活が始まったけれども、キリストを信じる者も終わりの日によみがえることを約束してくれています。そしてキリストが再び来られる時には、この世界全体も新しく造りかえられることを約束しています。世界が今はどんどん悪くなっています。異常気候、地震などの天災、そして経済や金融危機、戦争の噂など恐ろしいことばかりです。けれども、ここにも神は復活の原則を働かせてくださいます。キリストが再び来られるときには、世界が根底から新しくされるのです。

3A 福音の言葉
 これを、聖書では「福音」と呼びます。「良い知らせ」あるいは「喜ばしい知らせ」という意味です。英語ではゴスペル、そうゴスペル・ミュージックは「福音」の音楽という意味です。パウロという伝道者が、福音を次のように述べています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。(1コリント15:3-5」福音は、第一に私たちの罪のためにキリストが死なれたことです。第二にキリストが葬られたことです。つまり、確かに死んだのです。けれども、第三に、三日目によみがえられたことです。この三つを、自分に対する知らせとして受け入れるのであれば、復活のイエスはあなたの心の中にも入ってきてくださいます。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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