アモス書1−3章 「吼える獅子」

アウトライン

1A 国々への裁き 1
   1B シオンから叫ぶ主 1−2
   2B 四つの背きの罪 3−15
2A イスラエルへの裁き 2
   1B 周囲への裁き 1−5
   2B イスラエルの虐待 6−16
3A 預言者による警告 3
   1B 啓示による実行 1−8
   2B 宮殿の暴虐 9−15

本文

 アモス書を開いてください。今日は1章から3章までを学びたいと思います。ここでのテーマは、「吼える獅子」です。アモスについての紹介が1章1節にあるので、さっそく読んでみたいと思います。

1A 国々への裁き 1
1B シオンから叫ぶ主 1−2
1:1 テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。

 アモスは、他の預言者と異なり普通の「牧者」でした。「テコア」という町はベツレヘムから南東数キロに位置して、ベツレヘムのそばにあるヘロディウムから私もその町を眺めたことがあります。今はそこに小さな入植地がありますが、何の変哲もない小さな村落でした。

 アモス自身が自分のことをこう説明しています。7章14,15節です。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。ところが、主は群れを追っていた私をとり、主は私に仰せられた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ。』と。」そして彼が遣わされたところは、北イスラエルのベテルです。時代はホセアと同じで、イスラエルの領土がソロモンの時代に近いほど拡大した、ヤロブアム二世の時です。ベテルは、イスラエル南端の町であり、かなり大きな町でした。

 つまり、アモスは羊飼いとして、いちじく桑の木を栽培するものとして、何でもない平凡な生活を送っていました。そしてテコアという田舎町からベテルという都市に行き、北イスラエルに対する神の言葉を宣言しました。神が宣教の言葉をゆだねられるのに、「この世の取るに足りない者や見下されている者(1コリント1:28」を選ばれる、とあるとおりです。

 そして「地震の二年前」とありますが、預言者ゼカリヤもウジヤの時代に地震が起こったことを言及しています(14:5)。

2B 四つの背きの罪 3−15
 そしてこれからアモスは、北イスラエルの周囲の国々に対する預言を行ないます。シリヤ、ペリシテ、ツロ、エドム、アモン、モアブ、そして南ユダです。それから北イスラエルに対する預言を行ないます。これまで見た預言書では、その逆でしたね。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルはみな、初めにユダとエルサレムに対して語り、それから周辺諸国に対する預言を行ないました。

 ですからアモスの預言を聞いていた北イスラエルの人々は、初めはにやにやしながら預言を喜んで聞いていたことでしょう。神は、周辺諸国に対してイスラエルの民に対して行なった悪に対する報いを宣言しますが、「よしよし、我々は選ばれた民だ。選ばれた民に対する悪事には報いがあるのだ。」と思っていたかもしれません。けれども、アモスの意図はその逆で、「いや、あなたが問題なのだ。彼らが神に裁かれたのならなおさらのこと、あなたがたは神の裁きを免れることはできない。」と宣言するのです。

1:2 彼は言った。「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。羊飼いの牧場はかわき、カルメルの頂は枯れる。」

 主はシオンに住まわれる方です。そこから主が叫び、声を出されます。私たちは前回の学びで、既にヨエルがこの言葉を言ったことを読みました。

 その声はイスラエルの地を干からびるようにする裁きの声です。アモスが普段から目にしていた牧場の草が乾き、そして「カルメルの頂」が枯れます。カルメル山は、北イスラエルの地中海に面するところにある山です。あのエリヤがバアルの預言者と対決したところですね。そこは海からの湿気により、雨がたくさん降るため緑豊かです。ところが、その頂も枯れるのです。

1:3 主はこう仰せられる。「ダマスコの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが鉄の打穀機でギルアデを踏みにじったからだ。1:4 わたしはハザエルの家に火を送ろう。火はベン・ハダデの宮殿を焼き尽くす。1:5 わたしは、ダマスコのかんぬきを折り、アベンの谷から、住民を、ベテ・エデンから、王位についている者を断ち滅ぼす。アラムの民はキルへ捕え移される。」と主は仰せられる。

 主が叫ばれる国々の一番手は「ダマスコ」です。シリヤの首都であり、古代名はアラムです。「三つのそむきの罪、四つのそむきの罪」というのは、具体的な個数ではなく、強調表現です。神の裁きを受けるに値する確かな罪をお前たちは犯している、ということです。この言い回しが、それぞれの国々に対して使われます。

 彼らが「鉄の打穀機でギルアデを踏みにじった」とあります。ギルアデはヨルダン川沿いの東側の地域です。ヤボク川とヤムルク川の間にある地で放牧に適したところです。マナセ半部族とガド族の地になっていました。

 そこにシリヤの王「ハザエル」が攻め込んできました。ハザエルが、王ベン・ハダデの僕であったとき、預言者エリシャが彼をじっと見つめて、ハザエルが恥じ入るほど見つめました。そしてこう言いました。「「私は、あなたがイスラエルの人々に害を加えようとしていることを知っているからだ。あなたは、彼らの要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八裂にし、妊婦たちを切り裂くだろう。(2列王記8:12」ハザエルは、自分は気弱な男なのにそんなことできましょうか?と言い返しましたが、なんと彼は王に水に浸した毛布で彼を殺してしまったのです。

 ハザエルは、自分でも信じられないほどの恐ろしい、凶暴な性質を持っていたのでした。私たちは、世間で起こっている凶悪事件を見るにつけ、なんて恐ろしいことだと思いますが、実際にその罪を犯す人々の多くが、同じように「まさか自分が?」と信じられないほどおとなしい人なのです。ここに、私たちが自分自身にある罪の性質、堕落した姿を直視しなければなりません。

 そしてハザエルは、このギルアデの地域を、エリシャが預言したように残虐な方法で侵略します。「そのころ、主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土を打ち破ったのである。すなわち、ヨルダン川の東側、ガド人、ルベン人、マナセ人のギルアデ全土、つまり、アルノン川のほとりにあるアロエルからギルアデ、バシャンの地方を打ち破った。(2列王10:32-33」このように、主の民とその土地を荒らした残虐な行為のゆえ裁かれます。

 4節の「ベン・ハダデ」はハザエルの元主君のベン・ハダデではなく、自分の息子のベン・ハダデのことでしょう。そしてレツィンがシリヤの王の時、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルがシリヤを攻めました。そして列王記第二169節には、「その住民をキルへ捕え移した。」とあります。アモスの預言の通りです。

  ここの「アベンの谷」とは、レバノンの二つの山脈の間にある「ベッカー渓谷」だと言われています。つまり当時シリヤの地であったところから捕え移されたということです。そして「ベテ・エデン」は、ユーフラテス河畔の町「カラン」に近いところにあると言われています。アブラハムが父テラと一時滞在したところです。そして「キル」はもっと南東にあり、ティグリス川とペルシヤ湾に近いところにあったと言われています。つまり、彼らはイスラエルに対して行ったことによって、報いとして遥か遠い国に捕え移された、ということです。

1:6 主はこう仰せられる。「ガザの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らがすべての者を捕囚の民として捕え移し、エドムに引き渡したからだ。1:7 わたしはガザの城壁に火を送ろう。火はその宮殿を焼き尽くす。1:8 わたしはアシュドデから、住民を、アシュケロンから、王位についている者を断ち滅ぼす。わたしはエクロンにわたしの手を向け、ペリシテ人の残った者を滅ぼす。」と神である主は仰せられる。

 二番手の国は「ペリシテ」です。「ガザ」という、日頃よく聞く名前が出てきていますが、「ガザ地区」というのは、まさにこのガザという町から来ています。当時、ペリシテ人の主要な町でした。そして、ペリシテ人には五つの町がありましたが、ここに書かれていない「ガテ」は既にウジヤが倒したからだと思われます(2歴代26:6)。

 彼らへの刑罰は、イスラエルの民を捕え移したことにあります。ヨラム王の時の出来事(2歴代21:16)か、あるいはアハズ王の時の出来事(2歴代28:18)のことだと思われます。この時に、イスラエルを執拗に憎むエドムに引き渡したのです。ヨエル書3章に同じ出来事が記されていますが(48節)、そこの記述から、ペリシテ人は捕囚の民の一部をエドム人に売り渡し、そして残りをツロに引き渡したと思われます。そしてツロは彼らをギリシヤ人に売りました。つまり、神の民を商品扱いして売却したという罪に対する罰です。

 このため、後にペリシテをアッシリヤが攻めます。そしてギリシヤのアレキサンダー大王もガザを攻め、最後にハスモン朝のアレクサンドロス・ヤンナイオスがガザを攻め、ペリシテ人は殺されました。

1:9 主はこう仰せられる。「ツロの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らがすべての者を捕囚の民として、エドムに引き渡し、兄弟の契りを覚えていなかったからだ。1:10 わたしはツロの城壁に火を送ろう。火はその宮殿を焼き尽くす。」

 ツロの背きの罪は、ペリシテが犯した罪と同じです。捕囚の民を売りました。けれどもペリシテ人との違いは、「兄弟の契りを覚えていなかった」ということです。ツロの王ヒラムは、ダビデから続いていた友情を保っていたので、息子ソロモンと契約を結びました(1列王5:12)。それにも関わらず彼らを売った、という裏切りです。そして歴史的にも、イスラエルはツロを攻めたことがありません。

 そしてツロに対しては、バビロンのネブカデネザルが、そしてギリシヤのアレキサンダー大王が攻めました。このことについてはエゼキエル書26章に詳しい預言があります。

1:11 主はこう仰せられる。「エドムの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼が剣で自分の兄弟を追い、肉親の情をそこない、怒り続けていつまでも激しい怒りを保っていたからだ。1:12 わたしはテマンに火を送ろう。火はボツラの宮殿を焼き尽くす。」

 四つ目の国はエドムです。ヨルダン南部、死海の南にあった国です。エゼキエル書35章で詳しく学びましたが、かつてヤコブにだまされたことを根に持ってヤコブを殺そうとしたエサウに代表される、執拗な復讐心、ねたみがエドム人の問題です。いつまでも赦さない心、根に持つ心は私たちを神の恵みから引き落とし、他の人々を汚します(ヘブル12:15)。

 そしてエドムの主要な都市であるテマンとボツラが滅びます。テマンはエドム南部にあったと言われます。アッシリヤが紀元前八世紀に攻め入り、マラキ13節には彼の時代にはすでに廃墟となっていることが書かれています。そして紀元前二、三世紀にボツラの町はナバテア人による古代都市となります。

1:13 主はこう仰せられる。「アモン人の犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが、自分たちの領土を広げるために、ギルアデの妊婦たちを切り裂いたからだ。1:14 わたしはラバの城壁に火を放とう。火はその宮殿を焼き尽くす。これは戦いの日のときの声と、つむじ風の日の暴風のうちに起こる。1:15 彼らの王は、その首長たちとともに、捕囚として連れて行かれる。」と主は仰せられる。

 アモンは、ヨルダン北部にあった国です。シリヤと同じくギルアデの町を攻め入り、そこの妊婦たちを切り裂いたのですが、その目的は単に「自分たちの領土を広げるため」であった、ということです。単なる貪欲ですね。具体的には、バビロンがユダを攻めた時に、共に略奪したことが列王記第二242節に書いてあります。

 そのために彼らの首都ラバが攻め取られます。ラバは現在のヨルダンの首都アンマンです。アッシリヤに攻められ、また後にバビロンが攻め捕え移される身となりました。

 ここまで読んで、私たちが気をつけなければいけないことは、「神の民に手をかけてはいけない」ということですね。今年の56月にイスラエル旅行に行ったとき、お店でユダヤジョークのTシャツがたくさん売られていました。その一つが、世界史に登場した大国、ことにユダヤ民族を苦しめた大国が列挙されているTシャツがありました。古代エジプト、アッシリヤ、バビロン、ペルシヤ、古代ギリシヤ、ローマ、オスマントルコ、みななくなってしまいました。そして、次はイランでしょうか?という問いがあります。それから、「ユダヤ人とは仲良くしておいたほうがいいよ。」と最後に書いてあります。これは、神ご自身がおっしゃられていることなのです。主がイスラエルについて、「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。(ゼカリヤ2:8」と言われました。

2A イスラエルへの裁き 2
1B 周囲への裁き 1−5
2:1 主はこう仰せられる。「モアブの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼がエドムの王の骨を焼いて灰にしたからだ。2:2 わたしはモアブに火を送ろう。火はケリヨテの宮殿を焼き尽くす。モアブは、どよめきのうちに、角笛の音と、ときの声のうちに死ぬ。2:3 わたしはさばきつかさをそのうちからたち滅ぼし、そのすべての首長たちを、彼とともに切り殺す。」と主は仰せられる。

 六つ目の国はモアブです。ヨルダン中部、死海の東側にあった国です。彼らが行なった背きの罪は、「エドムの王の骨を焼いて灰にした」ということです。おそらくこの出来事は、イスラエル、ユダ、エドムがモアブを攻めた時に起こったことだと思われます。列王記第二3章に記されていますが、モアブがその戦いが不利になったので、「エドムのところに突き入ろうとしたが、果たさなかった。(26節)」とあります。その時におそらく、エドム人の墓を掘り起こし、その骨を焼き払ったのではないかと考えられます。

 これまでも学んできましたが、当時の社会において、そして今もその地域はそうですが、人は生きている時だけでなく、死んだ後も丁重に葬られます。墓にも尊厳があったのです。ですから、それを掘り起こして骨を焼き尽くすという行為は、冒涜以外の何でもありません。これを行なったので、主は同じ報いをモアブに与えられます。

 「ケリヨテ」は、モアブの首都「アル」の別名です。他の諸国と同じように、その国の王の宮殿と町が燃えつくされます。これは、アッシリヤがモアブを攻めたとき、またバビロンが攻めた時に実現しました。

2:4 主はこう仰せられる。「ユダの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが主のおしえを捨て、そのおきてを守らず、彼らの先祖たちが従ったまやかしものが彼らを惑わしたからだ。2:5 わたしはユダに火を送ろう。火はエルサレムの宮殿を焼き尽くす。」

 ついに自分たちの同胞、ユダに対する言葉になりました。これまでの異邦人の国々に対するものとその内容が大きく異なることに気づかれたかと思います。背いたのが「主のおしえ」です。他の国々に対しては、主が彼らに与えられている一般啓示にしたがって裁かれましたが、神の民に対しては、主が御言葉によって与えられた特別啓示にしたがって裁かれるのです。

 このことはローマ人への手紙の中で使徒パウロが詳しく論じています。「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・(2:14-15」たとえ、聖書を一度も読んだことがない人でも、神が与えられた良心があります。それが、例えばモアブの場合は、エドム人の墓であったわけです。いくら戦いといえども、これはやってはいけないという限度があり、その境界線は神が与えておられるものなのです。

 けれども、神の民に対しては御言葉を主は与えておられます。パウロが続けて論じているのは、ユダヤ人、殊にユダヤ人教師に対するものでした。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。(ローマ2:21-23」私たちが主を知り、そして主の御言葉を学んでいるということには、それだけ責任が伴うのです。

 そしてエルサレムの宮殿が焼かれますが、これは紀元前586年にバビロンがエルサレムを破壊した時に成就しました。

2B イスラエルの虐待 6−16
 ここまでが実は序幕です。アモスは、この預言をイスラエルのベテルで語っていました。聞いていた人々は他人事のように考えていたことでしょう。パウロが、「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人々よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。(ローマ2:3」と言いましたが、今度は北イスラエルが、周囲の国々、またユダが刑罰を受ける背きの罪を、彼らも行なっていることをアモスは責め立てます。

2:6 主はこう仰せられる。「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが金のために正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。2:7 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。2:8 彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。

 イスラエルが犯していた罪は、物質の中で溺れた生活をしていたこと、そしてその豪奢な、安逸を貪る生活を送ることによって、貧しい人々を虐げていることでした。

 ヤロブアム二世の時代、このことが起こりました。列王記第二14章を開いてください。彼の治世の記述を読んでみましょう。23節からです。
 

ユダの王ヨアシュの子アマツヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムが王となり、サマリヤで四十一年間、王であった。彼は主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪をやめなかった。彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通して仰せられたことばのとおりであった。

 領土が「レボ・ハマテからアラバの海まで回復した」とあります。レボ・ハマテはレバノンのはるか北にあり、ユーフラテス流域に近づいたところにある町です。主が約束の地として与える北の境界線の町として与えられています(民数34:8)。ソロモンがこの町まで影響力を及ぼしていました(1列王8:64)。そしてアラバの海は死海のことです。 

 けれどもヤロブアム二世は悪い王でした。悪い王であったのになぜこのようにしてくださったのかの理由が、次に書かれています。
 

主がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたからである。そこには、奴隷も自由の者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。(以上23-27節)

 先にダマスコに対する預言で見たように、シリヤの王ハザエルがイスラエルを苦しめていました。その息子ベン・ハダデ二世も苦しめていましたが、その頃から主がイスラエルに憐れみをかけられたのです。イスラエルの王は相変わらず悪を行なっていましたが、主の一方的な憐れみによって、その圧制から脱却しつつありました。

 そしてアッシリヤの王アダド・ニラリ三世が、シリヤに攻めてきます(2列王13:5)。けれどもその時のアッシリヤはまだ他の地域でてこずっていたので、そこを支配するには至りませんでした。けれどもヤロブアム二世の父ヨアシュまたヤロブアム二世自身が、その地域を攻め入ることができました(2列王14:28)。

 しかし、この神の憐れみを、イスラエルは神の憐れみと受け取らずにかえって自分の腹を満たす機会としたことを、私たちはホセア書で学びました。神が祝福を与えるにしても、取り上げるにしても、何とかしてご自身に気づいてほしいと願っておられるのに、彼らはどうしても振り向きません。

 ではアモス書に戻ってください。彼らが行なっていたことは、まさに周囲の民がイスラエルに対して行なっていたことを、同胞の貧しい民に行なっていたのです。何か一足の靴を買いたいな、と思ったら、自分の家にいる奴隷を市場で売ってしまいます。覚えていますか、主はレビ記において、貧しくて身売りをしている同胞を、奴隷として仕えさせてはならないと命じておられます。ましてや、異邦人に奴隷として売られることなど、もっても他です。逆にどんな犠牲を払ってでも買い戻しなさいと命じられました(25:3954参照)。

 そして裁判において、貧しい人の正しい訴えを曲げて、彼らの頭をちりに踏みつけるようなことをしています。それから何と、父と子が同じ女のところに通っているのです!神殿娼婦か、あるいは自分の家の女奴隷でありましょうが、このような近親の間での肉体関係を聖なる主は「破廉恥な行為である」と厳に戒めておられます(レビ18章)。

 そして8節に、「祭壇のそば」に質で取った着物の上に座っている、また、「罰金で取り立てた」ぶどう酒を神の宮で飲んでいる、と言っています。これらの祭壇と神の宮は、もちろんベテルにある金の子牛とその祭壇のことです。この偶像崇拝自体が誤っているのですが、それを貧しい人たちから取り上げた質物、また罰金によって行なっていることがここでは悪であると断罪されています。出エジプト記22章にこう書いてあります。「もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。(26-27節)

2:9 エモリ人を彼らの前から滅ぼしたのは、このわたしだ。彼らの背たけは杉の木のように高く、樫の木のように強かった。しかし、わたしはその上の実と下の根とを滅ぼした。2:10 あなたがたをエジプトの地から連れ上り、荒野の中で四十年間あなたがたを導き、エモリ人の地を所有させたのは、このわたしだ。

 覚えていますか、イスラエルの民が荒野の旅でカデシュ・バルネアまで来て、そこから12人が偵察隊として約束の地に遣わしました。そこにはカナン人が住んでいますが、その中でも力強いのはエモリ人です。偵察した十二人のうち、十人がそこにいる住民が非常に大きいことを報告しました。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。(民数13:32」これは事実でした。けれどもカレブとヨシュアだけは、「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。(9節)」と訴えました。事実、約束の地に入ってからその地からその住民を追い出すことができました。彼らは不信仰によって四十年間、荒野をさまよわなければならなくなりましたが、けれどもその放浪の旅さえも主が守ってくださったことも主は言及されています。

 したがって、彼らは祝福された民なのです。神に選ばれた民なのです。それなのに、彼らは周囲の異邦人と同じように、いやそれ以下の生活を送っていたのです。

2:11 わたしは、あなたがたの子たちから預言者を起こし、あなたがたの若者から、ナジル人を起こした。イスラエルの子らよ。そうではなかったのか。・・主の御告げ。・・2:12 それなのに、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には、命じて、預言するなと言った。

 イスラエルには、神の言葉を伝える人たちがいました。預言者たちです。それから、ナジル人がいました。彼らは、ぶどう酒も干しぶどうも、自分たちが誓約を立てた期間、一切食べずに、そして自分の髪の毛も切らないでいました。主にささげられた者として時間を過ごすのです(民数記6章)。ですから預言者は神の御言葉を伝え、ナジル人は信者の模範を示しました。

 ところがイスラエル人は、そのどちらをも拒みました。ナジル人には、その誓約を破らせ、罪を犯させるつまずきの石を与えました。聖い生活を送っている人を見て、「うざったい」と思ったのでしょう。私も一度、会社で「これはウーロン茶だ」と言われて飲んだところが、なんとウィスキーを入れられていました。けれども、それは未信者の人たちが行なったことです。酒を飲んでいない人を、うざったいと思うわけです。けれどもここでは神を知っているはずのイスラエル人が行なっています。

2:13 見よ。束を満載した車が押えつけるように、わたしはあなたがたを押えつける。2:14 足の速い者も逃げ場を失い、強い者も力をふるうことができず、勇士もいのちを救うことができない。2:15 弓を取る者も立っていることができず、足の速い者ものがれることができず、馬に乗る者もいのちを救うことができない。2:16 勇士の中の強い者も、その日には裸で逃げる。・・主の御告げ。・・」

 どんなに逃げ足が速くても、どんなに力強い者も、これから来るイスラエルへの神の裁きから免れることはできない、ということです。車に踏みつけられても、その車をもちあげるなり、引きずり出るなりすることができるかもしれないが、束を満載していたらできないよ、という比喩です。

3A 預言者による警告 3
 そして3章から、北イスラエルに対する神のさまざまな裁きの言葉をアモスは告げます。ここから出てくるメッセージ、説教の始めは「このことばを聞け」です。4章の始めにも、5章の始めにも、アモスが新しいメッセージを語る時に使っています。

1B 啓示による実行 1−8
3:1 イスラエルの子らよ。主があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。3:2 わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。

 これは申命記4章37節に出てくる言葉です。「主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。」神が彼らを選ばれたから、それゆえ、あなたがたのすべての咎に対して報いると言われています。

 主から選ばれていること、それは特権であり、そして責任です。イスラエルの民は、自分たちが選ばれているから自分たちには、異邦人にふりかかるような災いは下ることはないと安心していました。けれども、むしろ選ばれた民だからこそ、それだけ自分の行ないに対して責任があるのだ、ということです。

 これは私たち、キリストにあって選ばれた者たちも同じです。私たちが、神の恵みによって、信仰によって救われた。だから行ないによるのではないから、罪の中に生きていても、赦しという特権があると多くの人は錯覚しています。恵みが放縦の機会となっているのです。

 恵みによって救われたのは、その通りです。罪が増し加わるところには、恵みも満ち溢れるというのは、本当にその通りです。けれども、神がそこまでして私たちを救ってくださったその理由は、私たちを変えたいと願われているからです。恵みによって救われたのだからこそ、ますます主を畏れかしこんで、良い行ないに励むようにしたいからです。神の恵みの栄光が現れるために、罪を犯すしかなかった、罪の奴隷であった私たちをあえて選ばれて、キリストの力が私たちの内に現れるようにしてくださいました。そのために、主は私たちにご自分の御霊も与えてくださったのです。肉によってはできなくなっていることを、神の御霊が私たちの内で行なってくださいます。

 ですから、選ばれたのだから、私たちは他の選ばれていない人々とは違って、悪い行ないをしても災いを受けないと考えたとしたら、大きな誤りなのです。むしろ、神を信じていない人々よりももっと悲惨になると、使徒ペテロは警告しています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。(2ペテロ2:20-21

3:3 ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。3:4 獅子は、獲物がないのに、森の中でほえるだろうか。若い獅子は、何も捕えないのに、そのほら穴から叫ぶだろうか。3:5 鳥は、わながかけられないのに、地の鳥網にかかるだろうか。鳥網は、何も捕えないのに、地からはね上がるだろうか。3:6 町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。3:7 まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。

 3節から始まる、数々の例示は何を表しているのでしょうか?7節にある、「主が、そのはかりごとを、預言者らに示してから行なわれる。」ことを示すために、これらの例えを話されています。

 全てのものには、因果関係があります。二人のものが一緒に歩いているのは、その前に仲が良いという前提があります。そして、獅子が吼えるのは獲物があるからです。同じく洞穴にいる獅子の子は、獲物を母親が持ってきたから吼えます。鳥が網にかけられるのは、鳥網があるからです。角笛が町に鳴り響いたら、それは敵が攻めてきていることを警告するものでした。だから、因果関係がすべてあるのです。

 同じように、神がご自分の計画を行なわれる時、必ず預言者によってその計画を前もって示してから、実行されます。この二つは一対になっており、切っても切り離せないものなのです。

 例えば、主がソドムとゴモラに火と硫黄を降り注がれるとき、前もってそれをアブラハムと、ソドムの町にいるロトに御使いが告げました。アブラハムに対しては、主の使いは、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(創世18:17」と言われました。そして、今度はヨセフの時のことですが、七年間の飢饉がエジプト全土と世界中に襲う前に、前もってエジプトのパロに夢をもってそのことが起こることを神は示されました。ずっと後で、ネブカデネザルに対しても、これから世界の大国の行く末はどうなるのか思い悩んでいた時に、夢の中で、金、銀、青銅、鉄、粘土による人の像をお見せになったのです。同じく、高くそびえる気が、根株だけ残されて切り倒される夢も、ネブカデネザルがそのようになってしまう前に、主はお見せになりました。

 だから、これから起こることで、主が預言者によって前もって警告せずにわたしは災いを下すことはない、とここでおしゃっているのです。主が語られたことは、その結果が必ず伴うことをおっしゃっています。

3:8 獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。

 主がアモスを通して語られることを、獅子が吼えることに例えています。ここでアモスが強調したいのは、その声が響き渡っている事です。この獅子が吼える主の姿のことを考えますと、ナルニア国物語を思い出します。アスランが吼えると、その一面に音響による波が広がっていきます。だれも、その声から免れることはできません。そしてアスランは行動を開始します。

 これと、主が語られるのは似ているのです。主は大声で私たちに語っておられます。誰もが聞こえるように、聞こえない人がいないように語っておられます。だから、「知らなかった」では済まされないのです。

 私の出身大学はミッション系でした。ですからキャンパスには、今週の標語が掲げられていて、それは聖書の言葉でした。礼拝はほぼ毎日あります。けれども、それだけいつも御言葉を目にしていても、神について、キリストについての知識を、ほとんど全ての学生が持っていないというのが現状です。

 英語に、宣教について語る時に、"unreached"という言葉と"enevangelized"という言葉を使います。Unreachというのは、reachという「届く」という単語から来ています。Unをつけることで反対語になり、「まだ福音が行き届いていない地域あるいは国」を指しています。後者は"evangelize"という「福音化する」という言葉の反対語で、「福音化されていない国」のことです。

 日本のクリスチャン人口は1パーセント以下だと言われますが、宣教についての世界地図を見るとunreachedではなくunevangelizedの国になっています。福音の声が届いていない国ではなく、届いているけれども福音によって人々が変わっていない国になっています。なぜなら、もう既に多くの人々は福音を聞いているからです。明治維新の開国以降、プロテスタントの宣教師が入ってきて、数多くの知識層が大きな影響を受けました。有名な文学者で聖書を読んでいない人はおそらく一人もいなかったでしょう。けれども、それらの文学者の多くが自殺しているのです。

 多くの人が「知らなかった」「聞いていなかった」というのですが、もうすでに話しているのです。悟ったときに、初めて聞いたと言っているのですが、すでに聞いているのに、心が閉ざされていただけなのです。

 だから主は獅子のように吼えておられます。全ての人が聞くことができるように、預言をもって語っておられます。「耳のあるものは聞きなさい」そして、ここアモス書でも「このことばを、聞きなさい」なのです。

2B 宮殿の暴虐 9−15
3:9 アシュドデの宮殿と、エジプトの地の宮殿に告げて言え。「サマリヤの山々の上に集まり、そのうちの大恐慌と、その中のしいたげを見よ。3:10 彼らは正しいことを行なうことを知らない。・・主の御告げ。・・彼らは自分たちの宮殿で、暴虐と暴行を重ねている。」

 今、ペリシテ人の王に対して、またエジプトの王に対して呼びかけています。「サマリヤの山々の上に集まりなさい。そしてサマリヤの町の中で行なわれていることを見なさい!」と呼びかけているのです。

 それはなぜか?サマリヤの宮殿の中で、暴虐と暴行が行なわれているからです。覚えていますか、先ほど主がペリシテ人に対して、その宮殿を火で焼くという主の裁きを読みました。それは彼らが捕囚の民をエドムに売るという暴虐を働いたからです。けれども、このペリシテ人でさえ、またかつてイスラエルの民を虐げたエジプト人でさえ、サマリヤの町の中で行なわれている暴虐を見て、驚いているのです。

 選ばれた民が、神を知らない人々によって驚かれるほど悪くなっています。もし私たちが、イスラエルのように、選ばれた民の意味を履き違えたのであれば、私たちは世の人々よりももっと悪くなってしまうのです。教会はしばしば、「社会の縮図」と呼ばれています。社会で起こっていることが、教会という小さな空間の中で如実に現れる、といいます。教会においてキリストの光を見なければいけないのに、むしろ自分たちよりも低い倫理基準で動いているものを見るのです。

 神はこのことを許されたままにはされません。ご自分の栄光のゆえに、裁きを行なわれ、その裁きによって、異邦人たちも確かに神は生きておられることを恐れをもって見ることができるようにされます。

3:11 それゆえ、神である主はこう仰せられる。「敵だ。この国を取り囲んでいる。彼はあなたの権威を地に落とし、あなたの宮殿はかすめ奪われる。」3:12 主はこう仰せられる。「羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように、サマリヤに住んでいるイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長いすから救い出される。」

 アッシリヤがサマリヤを取り囲み、滅ぼした時の預言です。宮殿が滅ぼされています。諸国の民の宮殿が滅ぼされたのと同じです。

 そして次に興味深いのは、羊飼いが雄獅子から羊を取り返す例えです。これはいったい何を意味しているかと言いますと、羊飼いは命をかけて自分の羊を救い出そうとします。けれども獅子が自分の羊を喰らってしまいました。ところが羊飼いは、羊を救い出すその情熱のゆえに、口からはみ出している二本の足だけでも、または口から出ている耳たぶだけでも、引っ張り出して奪い取ります。

 したがって、もちろん羊はもうすでに死んでいます。けれどもすべてがなくなったわけではありません。これが、主がこれからサマリヤの町に対して行なわれることです。主はサマリヤを滅ぼされる時に、生き残っている者たちを零人にすることはなさいません。何とかして、強引に引っ張り出してでも、十数人だけでも、数人だけでも残しておこうとされます。だから民としては失われてしまうのですが、けれども全てが失われたわけではありません。

 ここに神の熱情を見ることができます。神は罪を犯すものを獅子によって食い殺されるようにされます。これは神が義なる方であるゆえです。ご自分の義と聖にしたがって、背く者、反逆する者を滅ぼさなければいけません。けれども、それでも何とかして救い出したいのです。その涙ぐましい努力の結果、手足と耳ぶしか残っていなかった状態です。

 そしてサマリヤに住んでいる者たちが、「寝台の隅」や「ダマスコの長いす」から救い出される、とありますが、どちらも豪奢な姿を表しています。これは壁際に置く、背もたれや肘掛のないソファのことです。中東にある独特のもので、ゆったりとした時間をくつろぐためのものです。「ダマスコ」とあるのは、ヤロブアム二世の時代、ダマスコも彼らのものとしていたからです。このように大きな国の中で、富と豪奢の中で溺れていた状態に対する裁きの言葉を表しています。

3:13 「聞け。そして、これをヤコブの家に証言せよ。・・神である主、万軍の神の御告げ。・・3:14 まことに、イスラエルがわたしに犯したそむきの罪を、わたしが罰する日に、わたしはベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折られて、地に落ちる。3:15 わたしは冬の家と夏の家とを打つ。象牙の家々は滅び、多くの家々は消えうせる。・・主の御告げ。・・」

 ここでは偶像礼拝の拠点ベテルに対する裁きです。偶像礼拝だけでなく、冬の家と夏の家、つまり別荘を主は打たれます。そして象牙の家々を打たれます。こうしてイスラエルが安逸をむさぼっているのを止めさせます。

 これらのことを、平凡な羊飼いであったアモスが、吼えるようにしてベテルで語っているのです。どれだけの人が耳を傾けたのかは知りません。けれども、主は私たちに対しても同じように語っておられます。最後に箴言を開きたいと思います。8章です。
 

知恵は呼ばわらないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つ角に立ち、門のかたわら、町の入口、正門の入口で大声で呼ばわって言う。「人々よ。わたしはあなたがたに呼ばわり、人の子らに声をかける。わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。愚かな者よ。思慮をわきまえよ。聞け。わたしは高貴なことについて語り、わたしのくちびるは正しいことを述べよう。わたしの口は真実を告げ、わたしのくちびるは悪を忌みきらうからだ。わたしの言うことはみな正しい。そのうちには曲がったことやよこしまはない。これはみな、識別する者には、正直、知識を見いだす者には、正しい。銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。えり抜きの黄金よりも知識を。知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。(1-11節)

 道端で、大声で叫んでいる知恵です。大声で叫んでいる人として知恵を例えています。知恵というのは、単なる御言葉の知識だけではありません。主への恐れをともなったところの、実際の生活に適用する知識です。私たちは、このように生活の中で至るところで神の言葉が叫んでいます。御霊の働きに敏感になればなるほど、その声が聞こえます。単に聖書の知識だけを学んでも、それで聞けるようになるのではありません。御霊の声に耳を済ますのです。御言葉が自分自身にどのように適用されるのか、聞こうと思えば簡単に聞こえるのです。なぜなら、大声で叫んでいるからです。