ダニエル書4章 「へりくだる王」

アウトライン

1A 手紙の挨拶 1−3
2A 大きな木の夢 4−18
3A 解き明かすダニエル 19−27
4A 夢の成就 28−36

本文

 ダニエル書4章を開いてください、私たちはこれから世界で最も大きな国の王が、イスラエルの神の前にへりくだる記述を読みます。世界の諸国を牛耳り、絶大な権力を持っていたネブカデネザルが、ついに天の神を個人的に認めます。それはたやすいことではなく、本人が獣のようになってしまうという辛い教訓を通してでありました。

1A 手紙の挨拶 1−3
4:1 ネブカデネザル王が、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに書き送る。あなたがたに平安が豊かにあるように。4:2 いと高き神が私に行なわれたしるしと奇蹟とを知らせることは、私の喜びとするところである。4:3 そのしるしのなんと偉大なことよ。その奇蹟のなんと力強いことよ。その国は永遠にわたる国、その主権は代々限りなく続く。

 4章は、ネブカデネザルの個人的な手紙です。いま読んだのは手紙の挨拶です。宛て先は、彼が支配していたあらゆる民族、国々、国語の者たちでありました。つまり全世界に対して彼は、この神がいかに偉大であるかを証言する手紙を書き始めています。

 彼は、「平安が豊かにあるように」と言っています。パウロやペテロの手紙の書き出しととても似ていますが、これは3章で燃える火の炉にダニエルの友人三人を投げ入れた時の彼の態度とは、大きく異なります。三人が火の中から救い出された後、彼は、「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。(29節)」と言ってその横暴な態度は変えませんでした。その彼が今や「平安が豊かにあるように」と言っています。

 人は自分の性格や気質を変えることは非常に難しいです。たとえ思いを変えられるとしても、その心の態度を変えることは本当に難しいです。けれども、ネブカデネザルは神との出会いを通して、その心が砕かれ、へりくだることができました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ5:3」とある通りです。

 そして、ダニエルの神、またダニエルの友人三人の神を、「いと高き神」と呼んでいます。これまでのダニエル書の記述で、バビロンの神々と彼らが信じる神との違いが強調されました。バビロンの知者たちは夢を示すことについてこう言いました。「王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。(2:11」そして、金の像を拝まない三人に対してネブカデネザルは、「どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。(3:15」と挑みました。これまで自分が信じてきたバビロンの神々とは比べ物にならない方であり、はるかに高い所におられることを彼は認めたのです。

 そしてその方が行なわれる奇蹟と徴のことで、ほめたたえています。その奇蹟と徴とは、自分が獣のようになってしまったのに再び王の地位に戻り、今まで以上に権力と威光が与えられていることです。

 そして、これだけの強大な国の王であるにも関わらず、彼は、神の国を「永遠にわたる国、その主権は代々限りなく続く」と認めていることです。ネブカデネザルが統治を始めた時から、夢の中で示されてきたことでした。彼は夢の中で、人の像を、人手によらず切り出された石が打ち、それを粉々にし、そして大きな山となった事を見ました。それは、メシヤが来られて人間の国を粉々にし、永遠の国を立てられることを意味していました。そして、自分の権力に逆らって、神に仕えるダニエルの友人三人が、燃える火の炉の中から救い出されるのを目撃しました。確かに、自分の国の上に永遠の御国が存在するのです。

 考えてもみてください、一つの国が自分たちの上にさらに主権を持っている国があるなんて、容易に認められることでしょうか?とても難しいことです。そして、個人が自分の人生において、さらに自分を支配する方がおられるのを認めることも難しいです。けれども、このことを認める時、私たちの心は平安です。「平安が豊かにあるように」とネブカデネザルが書き始めているように、平安になることができます。

2A 大きな木の夢 4−18
 そしてこれからネブカデネザルは、自分が通った経験を記述していきます。

4:4 私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき、4:5 私は一つの夢を見たが、それが私を恐れさせた。私の寝床での様々な幻想と頭に浮かんだ幻が、私を脅かした。

 ここから、この手紙を彼は自分の統治の後半に書き送っていることを知ることができます。「宮殿で栄えていた」からです。2章における夢は、彼が統治を始めて間もない頃でした。これからこの国の行く末はどうなるのかと悩んでいたために、神が示してくださったのがその夢です。そして3章における金の像は、彼が国を、力をもって平定しようとしていた中期の頃でありました。軍事的また政治的に安定させるために、全バビロンにいる役人たちを集めて、自分を表す金の像を彼らに拝ませたのです。

 けれども今は、そのような政治的、軍事的不安定要因は消えて、彼がバビロンの建築事業に取り組むことができた時期に入っています。バビロンがいかに栄華に輝いた町であるかは、世界の七不思議に入っている「空中庭園」からも窺い知ることができます。大きな事業はほぼ成し遂げて、それで彼は自分の家で気楽にしていました。

 しかしこの「気楽」は最も危険です。イザヤがバビロンの破滅について預言したとき、「楽しみにふける、安心して住んでいる女。(47:8」と呼んでいます。人間、走っている時は比較的安全です。けれども走るのを止めて、もうこれで目的は達成されたと満足している時、一番罪を犯しやすくなくなります。ダビデがバテシェバと姦淫の罪を犯した時もそうでした。だから使徒パウロは、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。(ピリピ3:12」と言いました。

4:6 それで、私は命令を下し、バビロンの知者をことごとく私の前に連れて来させて、その夢の解き明かしをさせようとした。4:7 そこで、呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちが来たとき、私は彼らにその夢を告げたが、彼らはその解き明かしを私に知らせることができなかった。

 以前、彼が夢を見たときと同じように、バビロンの知者たちは彼の助けになりませんでした。

4:8 しかし最後に、ダニエルが私の前に来た。・・彼の名は私の神の名にちなんでベルテシャツァルと呼ばれ、彼には聖なる神の霊があった。・・私はその夢を彼に告げた。

 なぜダニエルが最後に来たのでしょうか?おそらく、秘密を最も告げることができる人を最後に取っておいたからだと思います。小さな事柄は、ダニエルの下にいる知者たちに任せていたのでしょうが、まず彼らに尋ねてみたのだと思われます。ちょうど医者にかかるとき、その分野の第一人者の所には後に行くように、です。

 そしてダニエルと言ってから「ベルテシャツァル」と言い換えているのは、手紙を読むバビロンの人々にとっては、ダニエルはこのバビロン名で知られていたからでしょう。けれどもダニエルというイスラエルの神の名前が入っている名前を彼は使いたかったのだと思われます。

 ベルテシャツァルは、「私の神の名にちなんで」とネブカデネザルは言っています。その名とは「ベル」のことです。これはあくまでも、習慣的に言っていることなのでしょう。この章全体で、ネブカデネザルはイスラエルの神がいかに優れているかを話し、この方のみに栄光をささげています。

 日本人のクリスチャンの間でも「縁があって」という言い回しを使いますが、「縁」はあくまでも仏教の言葉です。また「盆」の時期を「お盆」と丁寧に呼びます。けれども習慣的に使っているにしか過ぎません。信仰的に成長すれば、そのような言葉も使わないように気をつけますが、けれどもまだ回心していないとは言えません。ネブカデネザルもおそらくそのような状態だったのではないかと思われます。

 信仰にはその段階があります。新しく信じた人々に完璧を求めることはできません。むしろ大事なのはその人が告白している中心です。それが神とキリストであれば、その人は確かに救われているのです。

 そしてネブカデネザルは、ダニエルに「聖なる神の霊があった」と告白しています。これは驚くべきダニエルについての評価です。私たちは簡単に「イエスを信じる者には聖霊が内に住んでおられる。」と言いますが、はたして周囲の人がどれだけそれを認めることができるでしょうか。

 ダニエルはネブカデネザルと共に歳を取ったといっても過言ではありません。十代の時から彼に仕え何十年もいっしょにいます。その間、ダニエルは神の聖さについて証しすることができました。

 バビロンの神々には、この聖さがありませんでした。偶像というのは、元来、人間の欲望を表出するためのものです。金が欲しければ「マモン」を拝み、権力が欲しければ「バアル」を拝み、情欲を求めるならば「アシュタロテ」を求めました。だから聖さは存在しないのです。けれども、まことの神は、私たちが肉に従うのではなく、御霊に従うように導かれます。

 そして、先ほどバビロンの知者たちが解き明かしをすることができなかった理由の一つとして考えられるのは、この夢の内容が、ネブカデネザルのプライド、自尊心を激しく傷つけるものだった、ということです。彼のあり方を肯定するものであれば、いくらでも王にお世辞として語ることができます。けれども、まことの神は私たちの悪を明るみに出されます。私たちが悔い改めて、光のところに来ることができるようにされます(ヨハネ3:2021参照)。だから、ネブカデネザルに都合の悪いことを話すことができたのは、ダニエル以外にいなかったと考えられます。 

4:9 「呪法師の長ベルテシャツァル。私は、聖なる神の霊があなたにあり、どんな秘密もあなたにはむずかしくないことを知っている。私の見た夢の幻はこうだ。その解き明かしをしてもらいたい。

 思い出してください、ダニエルは以前の夢の解き明かしによって、バビロンの知者たちをつかさどる長官へと昇進しました(2:48)。だから今「呪法師の長」です。

 そして「どんな秘密もあなたにはむずかしくない」と言っていますが、同時期にバビロンにいたもう一人のエゼキエルは、ツロについて預言しているとき、「あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。(28:3」と言いました。つまり、ダニエルが夢を解き明かすことにおいて、全バビロンにその評判が広がっていたようです。

4:10 私の寝床で頭に浮かんだ幻、私の見た幻はこうだ。見ると、地の中央に木があった。それは非常に高かった。4:11 その木は生長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てのどこからもそれが見えた。4:12 葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があった。その下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。

 これは後で、ダニエルによって「ネブカデネザル本人」を指していると解き明かされます。非常に高くなる木、そして鳥や獣にもその潤いを与える木ですが、同じくエゼキエルはアッシリヤやエジプトのパロを、そびえ立つ杉の木として形容しました(31章)。

4:13 私が見た幻、寝床で頭に浮かんだ幻の中に、見ると、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。

 これはもちろん神からの天使であります。天使の働きを聖書の中で見ますと、権力、権威、力は神から来ており(ローマ13:1)、それを天使に神が託しておられるのを見ることができます(エペソ1:21、ダニエル10章など)。バビロンの王にも天使がいて、彼を見張っていたのです。 

 私たちは、自分は必ず見張られていることを知らなければいけません。特に、王のように、権力が権威を持っている立場において、自分の裁量でいかようにでもできる領域において、天からの見張りがいることを知る必要があります。自分が命令系統の一番上にいると思ったとき、非常に危険です。自分を命令する神がおられることを思って、畏れる必要があります。例えば、自分が雇用者であれば、「主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。(コロサイ4:1」という戒めがあります。

4:14 彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。4:15 ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。

 「木を切り倒せ」とこの見張りは言っていますが、「その根株を地に残し」とも言っています。完全に根こそぎにするのではありません。ここに主の、ネブカデネザルに対する憐れみがあり、愛があります。懲らしめというのは、いつもそうです。切り取られるのは非常に痛いです。けれども、それは失われるためではなく、主は必ず私たちに、立ち上がるための二度目の機会を与えてくださいます。

4:16 その心を、人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、七つの時をその上に過ごさせよ。

 この「七つの時」は、ダニエル書に出てくる他の「時」を考えると「年」であると考えられます。12章に、「ひと時、ふた時、半時」とありますが、黙示録によればそれは三年半であることを知ることができます。つまり「時」は一年であり、「七つの時」は七年間のことです。

4:17 この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。』

 二つのことを言っています。一つは、「神が人を支配している」ということです。人間は、自分の今の地位は自分が得たものだ、と錯覚しています。けれども、神が今すぐにそれを取り上げようと思えば取り上げることができるのです。今の立場は神から与えられているのです。

 もう一つは、「へりくだった者を神は高める」ことです。これは聖書全体に貫いている神の原則です。自分を高くするものは低くされ、低くするものは高くされます。そうすることによって、神は全ての人がご自分の栄光を見ることができるようにするのです(イザヤ40:45)。

4:18 私、ネブカデネザル王が見た夢とはこれだ。ベルテシャツァルよ。あなたはその解き明かしを述べよ。私の国の知者たちはだれも、その解き明かしを私に知らせることができない。しかし、あなたにはできる。あなたには、聖なる神の霊があるからだ。」

 ネブカデネザルは再び、ダニエルへの信頼を言い表しています。けれども、これは一方通行ではありませんでした。ダニエルもネブカデネザルを愛し、尊敬の心をもって仕えていることを次の節から読むことができます。

3A 解き明かすダニエル 19−27
4:19 そのとき、ベルテシャツァルと呼ばれていたダニエルは、しばらくの間、驚きすくみ、おびえた。王は話しかけて言った。「ベルテシャツァル。あなたはこの夢と解き明かしを恐れることはない。」ベルテシャツァルは答えて言った。「わが主よ。どうか、この夢があなたを憎む者たちに当てはまり、その解き明かしがあなたの敵に当てはまりますように。

 ダニエルは真にそう願っていたに違いありません。ネブカデネザルは横暴な王でした。残酷で、無慈悲な王でした。後でダニエル自身も、「貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。(27節)」と勧告しているように、決して彼は善い王ではなかったのです。

 けれども彼は、ネブカデネザルの身にこの災いが襲いかかることを望みませんでした。それは彼を敬い、愛していたからです。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。(1ペテロ2:18」そして愛は、「人のした悪を思わず(1コリント13:5」とあります。

 そしてこれが救霊の愛、伝道する時の愛です。キリストが罪人の反抗を忍ばれて、そして彼らのために死なれたのです。彼らが滅びることなく、罪の赦しを受けて、救われることを願われたのです。その人たちに何か悪いことが起こったとき、私たちはその不幸を決して喜ぶことはできません。もし喜ぶのであれば、その人への愛はありません。けれどもその人の罪を是認するのでもありません。ダニエルは、ネブカデネザルのことをずっと見てきても、決してその愛を冷やすことはありませんでした。

4:20 あなたがご覧になった木、すなわち、生長して強くなり、その高さは天に届いて、地のどこからも見え、4:21 その葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があり、その下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿った木、4:22 王さま、その木はあなたです。あなたは大きくなって強くなり、あなたの偉大さは増し加わって天に達し、あなたの主権は地の果てにまで及んでいます。

 人の像で見た「金の頭」と同じ姿です。世界に広がる帝国を築き上げました。

4:23 しかし王は、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来てこう言うのをご覧になりました。『この木を切り倒して滅ぼせ。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、七つの時がその上を過ぎるまで野の獣と草を分け合うようにせよ。』4:24 王さま。その解き明かしは次のとおりです。これは、いと高き方の宣言であって、わが主、王さまに起こることです。4:25 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。

 おそらく、何らかの精神病を患うのでしょう。人間の理性が取り去られ、獣のようになってしまいます。

4:26 ただし、木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立ちましょう。

 先ほど話したように、根株が残っているのです。だから彼が王位から退かれるのではなく、バビロンが倒れるのではなく、むしろ立ち直ることができるという希望です。

4:27 それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行ないによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。」

 バビロンが破滅に至る理由は、次の学び5章に出てきます。神の宮にあった器を使って、偶像を賛美したことが原因です。けれどもその他に、捕囚のユダヤ人を酷使したことがあります。「わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。(イザヤ47:6」神は、イスラエルの民を「わたしのひとみ(ゼカリヤ2:8」と言われました。

 私たちは「神は神、人は人」と考えてしまいがちですが、「この最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにもしたのです。(マタイ25:40」と主は言われました。人にしていることは神に対してしているのです。

4A 夢の成就 28−36
4:28 このことがみな、ネブカデネザル王の身に起こった。4:29 十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、4:30 王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」

 「十二か月の後」です。ダニエルからの勧告を受けてからもう一年も経っていました。聞いた時はその解き明かしを真剣に受け止めたかもしれませんが、一年も経てば忘れてしまいます。だから主イエスは私たちに、「目を覚ましていなさい(マタイ25:13等)」と命じられます。いつも、忘れないようにしていることです。神からの警告を心にいつも留めているのです。

 そしてネブカデネザルは宮殿の屋上を歩いていました。たぶん空中庭園もその眼中にあったことでしょう。

 それで彼が言ったことは、注目に値します。「私」という言葉が繰り返し出てきます。日本語の翻訳だと少なくなっていますが、英語だとIとかmyとか何度も出てきます。これが高慢の種です。

 バビロンの王に対する歌が14章にありますが、その背後にルシファーと呼ばれる悪魔がいたことを知ります。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。(13節)」ここにも「私は」とか「私の」が繰り返し出てきます。

 その反対は何でしょうか?そうです「神の主権」です。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。(ローマ11:36」「私」ではなく「神」なのです。自分の生活のあらゆる領域で神の介入と支配を認めるのです。これがへりくだりの道です。 

4:31 このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。

 「口にあるうちに」です。これは恐いことですが、同時に神がネブカデネザルを愛されている表れです。なぜなら、彼がもっと高慢になり、もう取り返しがつかないようになる前に、語りかけておられるからです。

4:32 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」4:33 このことばは、ただちにネブカデネザルの上に成就した。彼は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになった。

 この状態はおそらく、現代で言うなら精神病の何かだったのだと思われます。王が突然、狂気の沙汰に陥りました。けれども王位は退けられていません。おそらく王の顧問たちは、ダニエルの助言を聞いて、おそらくは彼をそのまま宮廷の中で守っていたのでしょう。ダニエルも、王の不在の期間、行政をつかさどっていたのだと思われます。彼に理性が戻った後で、顧問たちが彼にまた仕え始めるからです。

4:34 その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。

 すばらしいです、理性が戻ってきた後に彼から出てきた言葉は、神への賛美です。このような目に合わせた神をののしってもおかしくありません。けれども、ここにダニエルの忍耐深い証しが、ネブカデネザルを正しく応答せしめたと言えます。彼はこの辛い経験を、苦みを抱く原因にするのではなく、むしろ謙虚になる機会とするほどの神の知識を得ていました。

4:35 地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押えて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない。

 神の偉大さと、その主権をほめたたえています。まず、「無きものとみなされる」についてですが、イザヤ書40章に、「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。(15節)」とあります。こんなに神は大きな方なのですから、「君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。(23節)」のです。

 そして、地に住むものだけでなく「天の軍勢」も、みこころのままにあしらっておられます。天使がどれほど勢いよく、力強いかは、聖書の中でしばしば紹介されています。黙示録を読んでみてください、天使が自然災害をもたらしたり、また逆に、風を吹き付けないように押しとどめたりしています。主が復活された後、墓に一人の天使が来ただけで、大きな地震が起き、石が転がりました。そして黙示録には、このような天使が「万の幾万倍、千の幾千倍(5:11」いるとあります。これら無数の天使を、みこころのままにあしらっておられるのが、私たちの神です。

 そして、「御手を差し押えて、『あなたは何をされるのか。』と言う者もいない。」と言っています。神がなされることは、誰も止めることはできません。けれども私たちは言い逆らってしまいます。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。(ローマ9:20-21

 言い逆らうことは、まるで陶器が陶器師に訴えるのと同じなのです。私たちが神に訴えることよりも、神の私たちに対する訴えに対して、へりくだって、悔い改める時、信仰の成長があります。そして形を変えられるのは痛いかもしれないけれども、陶器師である神の御手によって、尊い器になることができます。

4:36 私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった。

 すばらしいですね、主が彼を引き上げてくださいました。以前にもまして大いなる者となりました。次の使徒ペテロの言葉がネブカデネザルにぴったりと当てはまります。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(1ペテロ5:6 下線筆者)」神は恵み深い方です。神は立ち上がる者にはいつでも機会を与え、以前にもまして祝福することもなさるのです。

4:37 今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。

 彼は、この「高ぶり」と「へりくだり」の原則を痛い方法で学びました。必ずしも通らなくても良いのですが、通らなければ学ぶことのできない事が多いです。痛いです、でもそれが癒しへの最短の道です(ヘブル12:13)。

 次回は、この教訓をさえ学ばなかったバビロンの最後の王ベルシャツァルについて学びます。その時、残されているのは破滅のみです。私たちは、いつかどこかの時点で神の国が永遠であることを学びます。自分ではなく神が支配しておられるのです。それが早ければ、平安に満ちた生活をその後送ることができます。遅ければ遅いほど、砕かれる時の痛みは増します。けれどもそれは幸いなことです。遅すぎれば全てを失うのみです。いつ、私たちがへりくだることができるのか?これが、神が私たちに問われている質問です。


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME