ダニエル書5章 「バビロンの終焉」

アウトライン

1A 神に対する冒涜 1−4
2A 恐怖のしるし 5−12
3A 終わりの宣言 13−28
   1B 質問 13−16
   2B 説教 17−23
   3B 解き明かし 24−28
4A 突然の破滅 29−31

本文

 ダニエル書5章を開いてください。私たちはここでバビロンの終焉を見ます。ネブカデネザルが見た人の像の夢の中に、「金の頭」であるバビロンを「銀の胸と両腕」であるメディヤ・ペルシヤが取って代わること見ましたが、それが実際に行なった歴史的出来事を読みます。

 バビロンが終わることから私たちが学ぶことができるのは、「この世のはかなさ」です。聖書の預言の中で、数多くバビロンに対する神の裁きがあります。私たちはこれまでイザヤ書、エレミヤ書を学びましたが、たくさん出てきました。そして黙示録17章、18章には、主が戻られる直前にバビロンが一日にして倒れることが預言されています。この世は、「飲め、食え。今日も明日も同じだ。(イザヤ56:12参照)」と騒ぐのですが、それが一夜にして終わりえるのだということを覚えなければいけません。それでは、本文を読みましょう。

1A 神に対する冒涜 1−4
5:1 ベルシャツァル王は、千人の貴人たちのために大宴会を催し、その千人の前でぶどう酒を飲んでいた。

 時は紀元前539年のことです。ネブカデネザルは紀元前562年に亡くなっています。彼の息子エビル・メロダクがその後を継ぎました。彼は、列王記第二の最後とエレミヤ書に出てくる、ユダの王エホヤキンを丁重に取り扱った人です(2列王25:2728)。けれども、その生活は乱れており、無責任であったため、二年後ネリグリサル(Neriglissar)という者に殺されています。ネリグリサルは、エレミヤ書393節に出てくる、エルサレムの町に入ったバビロンの首長の一人「ネルガル・サル・エツェル」です。彼が王位を取り、彼が死んだ後、息子が跡を継ぎましたが、すぐにナボニドスがその息子を暗殺しました。

 ナボニドスは、きわめて宗教的な人でした。彼の母が、カラン(創世11:31)における月の神の、大・女祭司だったからです。(覚えていますか、アブラハムがバビロンのウルの町を出て、カナン人の地に行く前に、父テラのせいでカランの町にとどまりました。)彼はバビロンの宗教を再興し、多くの寺院を再建しました。そしてアラビア地方を攻めて、テイマ(Teima)に暮らしていました。つまり政治の世界から離れていたのです。

 そしてナボニドスは自分の長男であるベルシャツァルを立てて、都バビロンにて共同統治を行なわせました。ですから第一の権力は自分ナボニドスなのですが、第二の権力者がベルシャツァルであり、それで後でベルシャツァルが文字の解き明かしをした者に、「第三の権力を持たせよう」という褒美を与えようとしているのです。

 この時、既にエラム州からクロスが出現していました。彼がメディヤと戦ってペルシヤがメディヤを併合し、ペルシヤ軍はバビロンの多くの地域を占領していました。そしてバビロンの町を包囲していたのですが、なぜかベルシャツァルは、千人の貴人らのために大宴会を催していたのです。

 それは、彼がバビロンの町の防備に自信を持っていたからです。バビロンの町は一辺が約22.5キロの正方形をしていました。二重の城壁になっており、一つの厚さは26.5メートルほどです。歴史家ヘロドトスは、城壁の上を馬が引く戦車が四車線通行をできたと記しています。そして高さが約107メートルです。地下にも奥深く壁が入っていたと言われています。

 そして南北にユーフラテス川が流れています。川からの進入を防ぐために、もちろん南北の水門のところには大きな柵があり、そして川の両岸にも壁がありました。橋がかかっていて、そこから東西の地域に行き来できました。その他にも高い塔、青銅の門など防備においてはこれほど頑丈なものはありませんでした。

 そして備蓄がありました。ユーフラテス川が中央を流れていますから、水の確保には全く問題がありません。そして20年ぐらい食べられる食糧もありました。

 だからベルシャツァルは大宴会を催したのです。「私たちは難攻不落である。無敵であり、不滅である。」と誇示したかったに違いありません。でも、どうでしょうか?その夜にペルシヤ軍はこの宴会場まで入ってきて、ベルシャツァルを殺したのです。それほどもろいのです。けれども、自分は「大丈夫だ、安全だ」と思っていたのです。「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。(1テサロニケ5:3

 まことの神、そして平和の君であられるキリストなくして、平和ではありません、安全ではありません。それでも、「自分たちだけでなんとかやっていける。」という望みを持っているから、世の人は神とキリストに頼ろうとしないのです。

5:2 ベルシャツァルは、ぶどう酒を飲みながら、父ネブカデネザルがエルサレムの宮から取って来た金、銀の器を持って来るように命じた。王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちがその器で飲むためであった。5:3 そこで、エルサレムの神の宮の本堂から取って来た金の器が運ばれて来たので、王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちはその器で飲んだ。5:4 彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。

 覚えていますか、1章に出てきた話です。ネブカデネザル王がエルサレムを包囲して、その時に2節ですが「主がユダの王エホヤキムと神の宮の器具の一部とを彼の手に渡されたので、彼はそれをシヌアルの地にある彼の神の宮に持ち帰り、その器具を彼の神の宝物倉に納めた。」とあります。ベルシャツァルが取って来いと命じているのは、その略奪物の中にあった器です。

 ところで、ネブカデネザルがベルシャツァルの「」とありますが、実際は祖父です。けれども昔は、先祖のことを呼ぶときに「父」と呼ぶことが多いです。ユダヤ人も、「私たちの父アブラハム」と言いましたし、「ダビデの子」は、何代も後に出てくるメシヤを表す言葉でありました。

 彼は、「ぶどう酒を飲みながら」取って来いと命じています。おそらく酔いが回って気が大きくなったのでしょう。そして、貴人たちのみならず王の妻とそばめたちも呼んでいます。ですからその場は、遊興と酩酊、そして淫らなパーティーと化していたに違いありません。そして、祭司のみしか触ることのできなかった聖所における聖なる器具を、汚らわしい用途に使ったのです。

 さらに彼は、これらエルサレムの神の宮からの器で、なんと「金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美し」ました。これらはバビロンの神々です。これによって、エルサレムの神、ユダヤ人の神よりも、自分たちの神々のほうが優れていることを誇示したかったのです。しかしこの行為が、神の審判を決定的にさせました。神は、ご自身への冒涜を看過されることはなかったのです。

 使徒パウロが、異邦人の多い教会に対して手紙を書いたときに、肉の行ないを列挙していますが、ここでベルシャツァルが行なっているのは、それらを全て行なっている感じです。ガラテヤ書5章にはこう書かれています。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。(19-21節)

 上の行ないは主に四つに分類できますが、一つは性的な情欲です。「不品行、汚れ、好色」がそれです。もう一つは霊的な汚れで「偶像礼拝、魔術」です。そして三つ目は敵対心に関わるものです。「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」という悪意です。そして最後に、乱れた姿で「酩酊、遊興」です。この宴会で行なったことはすべて当てはまりますね。まず「情欲、偶像礼拝、酩酊、遊興」があります。そして「敵意、争い、そねみ」があります。ペルシヤに対する敵意もそうですが、それ以上に、エルサレムの神に対する敵意と嫉みがあります。

 私たちは、これらの肉の行ないを軽視しがちです。淫らな思いや泥酔すること、偶像崇拝に対しては敏感に反応しますが、言動の罪には鈍感です。平気で他の人を批判したり、インターネット等で中傷したり、教会の兄弟姉妹について悪いことを言いふらしたりしています。しかもそれが、自分たちが正しく、相手が間違っているという主張の中で行なっていますから、厄介です。しかしこれらはキリスト者の歩みの中では相容れないものであり、使徒パウロははっきりと、このようなことを行なう者たちは「神の国を相続することはできない。」と言っています。

 おそらく、「表現の自由」という名の下でこれらの行ないに対する良心が麻痺しているからでしょう。そこでさらに軽視されているのが、「神に対する嫉み」です。神について、キリストについてその御名を汚す言動について強く反応できないのは、例えばイスラム教原理主義者のようにみなされやしないか、と心配するからです。けれども聖書では、この冒涜の罪を深刻に取り扱っています。

 バビロンの前の大国はアッシリヤでした。アッシリヤは、エルサレムを包囲したときに、エルサレムの神と、自分が征服したほかの国々の神と同列に並べました。だからエルサレムの神もアッシリヤの手から住民を救うことはできないと言いました。それが神の堪忍袋の緒を切ったのです(2歴代誌32:19)。そしてバビロンの終わりも、エルサレムの神の宮の器でバビロンの神々を賛美するという冒涜で起こっています。

 私たちは、キリストの御名が攻撃されているとき、それは単に表現の自由の問題ではないことに気づき、深く心を痛めるべきです。ハリウッドの映画では、キリストの働きやご性質を歪曲するような作品が時々出てきます。異端や異なる宗教の中からも出てきます。例えばイスラム教の柱は、「神には子はいない。」です。使徒ヨハネは、「御父と御子を否定する者、それが反キリストです。(1ヨハネ1:22」と言いました。

 そして権力を持っている者が、神とキリストのご性質に対して挑みかかる場合、これはまさにアッシリヤやバビロンが行なったことであり事態は深刻です。天皇を高く引き上げ、キリストを引き下げる動きがあります。また、唯一神また西洋の神は排他的であるとし、批判する人々がいます。これは単なる政治家の一発言だとして看過してはならないのです。日本の行く末を決めてしまいかねない、神の裁きを招きかねない恐ろしいことなのです。

2A 恐怖のしるし 5−12
5:5 すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、5:6 王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。

 神の裁きの予兆である、人間の手の指が現われました。「王の宮殿の塗り壁」とありますが、ネブカデネザルの宮殿の遺跡の中で見つかっています。宮殿の宴会場は、幅が約17メートル、長さが約53メートルという広いところです。そこに白い塗り壁が見つかっています。燭台の向こう側で起こったのですから、そのスポットライトが当てられている所にちょうど手の指が現われたのですから、さぞかし恐ろしかったことでしょう。

 そして王の顔色が変わっています。まるで漫画やアニメに出てきそうな動作ですが、膝が、間接が外れたかのようにがたがた震えています。

 この恐ろしさを私たちは、ある意味で知らなければいけません。ヤコブ書にこう書いてあります。「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。(5:9」呟きあう、つまりここでも口による罪ですが、裁きの主が戸口に立っておられます。つぶやき合うとき、神の裁きを受ける予兆を感じ取らなければいけません。

5:7 王は、大声で叫び、呪文師、カルデヤ人、星占いたちを連れて来させた。王はバビロンの知者たちに言った。「この文字を読み、その解き明かしを示す者にはだれでも、紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけ、この国の第三の権力を持たせよう。」5:8 その時、王の知者たちがみなはいって来たが、彼らは、その文字を読むことも、王にその解き明かしを告げることもできなかった。

 これで三度目です。バビロンの知者たちは解き明かすことができず、ダニエルが解き明かしたのは三度目です。ネブカデネザルが夢とその解き明かしを要求したときが一つ、そして彼が栄えていたとき、大きな木が切り倒された夢を見たときが二回目です。

 そしてここに、先ほど説明しました「第三の権力」が出てきます。ベルシャツァルは第二の権力者なので、自分の次の位を与えるという褒美です。

5:9 それで、ベルシャツァル王はひどくおびえて、顔色が変わり、貴人たちも途方にくれた。

 知者たちが解き明かすことができなかったために、なおさら不吉な予感が強まったのでしょう。

5:10 王母は、王とその貴人たちのことを聞いて、宴会の広間にはいって来た。王母は言った「王よ。永遠に生きられますように。おびえてはいけません。顔色を変えてはなりません。

 ここの訳のとおり「王母」が来ました。「王妃」という訳もあるそうですが、王の妻はすでに宴会に招かれています。ネブカデネザルの娘、あるいは未亡人本人かもしれません。

5:11 あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます。あなたの父上の時代、彼のうちに、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあることがわかりました。ネブカデネザル王、あなたの父上、王は、彼を呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。5:12 王がベルテシャツァルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう。」

 これまで私たちが読んできた、ダニエルについての評判がよくまとまっています。確かに彼女は、この出来事を目撃していた証言者です。彼の評判の特徴は、「聖なる神の霊が宿っている」そして「すぐれた霊がある」です。神の御霊が宿っておられるからこそ、光と理解力、謎解きができると言っています。

 私たちはもっと御霊を求めるべきです。「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。(1コリント2:11」神の御心の深いところは、御霊によってのみ知りえるのです。だから御心が分からないとき、自分の知性ではなく、自分の感情でもなく、神の御霊を求めるのです。

3A 終わりの宣言 13−28
1B 質問 13−16
5:13 そこで、ダニエルは王の前に連れて来られた。王はダニエルに話しかけて言った。「あなたは、私の父である王がユダから連れて来たユダからの捕虜のひとり、あのダニエルか。5:14 あなたのうちには神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、すぐれた知恵のあることがわかった、と聞いている。5:15 先に、知者、呪文師たちを私の前に召して、この文字を読ませ、その解き明かしを私に教えさせようとしたが、彼らはそのことばの解き明かしを示すことができなかった。5:16 しかし、あなたは解き明かしができ、難問を解くことができると聞いた。今、もしあなたが、その文字を読み、その解き明かしを私に知らせることができたなら、あなたに紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけさせ、国の第三の権力を持たせよう。」

 ベルシャツァルは「聞いている」という言葉を繰り返しています。実際に会っていなかったし、また会っていたとしても個人的な知り合いの間柄ではありませんでした。ダニエル書8章で、ダニエルは、ベルシャツァル王の治世の第三年に、幻の中で「エラム州のシュシャンの城にいた。(2節)」と言っています。そこはペルシヤ帝国の首都になる町ですが、彼は既にその地方の官吏として左遷させられていたのかもしれません。それが理由で、知り合うことがなかったと考えられます。

 それにしてもベルシャツァルの無知には驚きます。今、自分がエルサレムの神の宮から持ってきた器で、ぶどう酒を飲んでいたのです。それにも関わらず、「あなたは、ユダからの捕虜のひとり、あのダニエルか。」と解き明かしを、その神を信じるダニエルに聞いているのです。何も考えていないし、無識なのです。

 しかし、これが偶像礼拝者の姿です。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。(ローマ1:21」日本人の、キリスト教についての無知、いや宗教全般についての無知には驚かされます。ある政治家は、「仏教はすばらしい、寛容だ。」とほめたたえながら「死んだら仏になるから。」と言いました。仏教に死後に神になるような教義が元々存在せず、日本人が神と仏をいっしょくたにしたのは、私だってよく知っています。なぜそうなるのか?それは情報不足だからではありません、まことの生ける神を意図的に拒んでいるからです。それで知性が暗くされているのです。

2B 説教 17−23
5:17 そのとき、ダニエルは王の前に答えて言った。「あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。

 贈り物をきっぱりと断っています。この断りに、私はちょっと冷淡さ、侮蔑さえ感じます。神からの賜物である理解力を、まるで商品を購入かのようにベルシャツァルが取り扱っているからです。彼の申し出に、神に対する恐れや関心が見受けられません。「俗悪」と言ったらよいでしょうか。

 アブラハムもかつて、ソドムの王に同じように対応しました。ロトを救出した後に、サレムの王メルキデゼクが彼を祝福しました。アブラハムは彼に十分の一を捧げました。その後ソドムの王が来ました。「財産はあなたが取ってください。」と言ったところ、アブラハムはこう答えました。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。(創世14:22-23」アブラハムは、自分を富ませている神の栄光をソドムの王が奪い取りはしないかと懼れたのです。

 イエス様も、俗悪なヘロデの前で何一つ語られませんでした。彼が、イエス様が何か奇蹟でも行なってくれないかと、まるで手品師のごとく期待していたからです(ルカ23:89)。私たちも、神の賜物を非常に世俗的なものにする力に抵抗しなければいけません。主はこう言われました。「聖なるものを犬に与えてはなりません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。(マタイ7:6

5:18 王さま。いと高き神は、あなたの父上ネブカデネザルに、国と偉大さと光栄と権威とをお与えになりました。5:19 神が彼に賜わった偉大さによって、諸民、諸国、諸国語の者たちはことごとく、彼の前に震え、おののきました。彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。5:20 こうして、彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまったので、彼はその王座から退けられ、栄光を奪われました。5:21 そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。

 これはまさに、私たちが前回学んだところです。4章でネブカデネザルが経験したことです。ネブカデネザルは幸いでした。獣のようになってしまい、卑しめられたが、いと高き神を知ることができたからです。彼は神の懲らしめに正しく応答し、へりくだったのです。けれどもベルシャツァルは違います。懲らしめに応答しなければ、残りは神の恐ろしい裁きしかありません(ヘブル10:2627参照)。

5:22 その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。

 ここです、これがベルシャツァルに神の裁きの予兆が現われた所以です。「これらの事をすべて知っていながら」、心を低くしませんでした。

 自分の祖父ネブカデネザルが獣のようになって、草を食べる生活を送っていたとき、彼はおよそ14歳でした。もう、何が起こっているのかはっきり分かっていたはずです。だから、何も知らなかったということでは全くないのです。

 知っているか、本当に知らないかは大きな違いです。イエス様は、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:48」と言われました。私は心配します、このように私たちの働き、聖書の学びの働きに関わっておられるのに、なおイエス・キリストを自分の主としていない方がいることを心配します。知識を持っているのに、なぜかその知識に応答していないからです。

5:23a それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。

 ダニエルはバビロンの神々と区別するために、エルサレムの神を「天の主」と呼んでいます。そして、この方に対して「高ぶっている」と言っています。本人はそう意識していなかったかもしれません。確かにエルサレムの神の宮から持ってきた器を大胆にも使ったという意識はあったかもしれませんが、天の主ご自身に、人格的な冒涜を働いたとまで思っていなかったと思います。

 アッシリヤの王がエルサレムにいるヒゼキヤ王を脅迫したとき、主は、彼に対してこう答えられました。「あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。(イザヤ37:23」主の所有の民、主の所有の土地、主の所有の器、どんなものでも主はご自身がそしりを受けたとみなされます。私たちは自分が高ぶっているとき、誰に対して罪を犯しているのかをよく考えなければいけません。

5:23bあなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。

 ここには二つの大きな皮肉があります。一つは、偶像の特徴です。「見ることも、聞くことも、知ることもない神々」です。詩篇115篇をご覧ください、2節から読みます。
 

なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。(2-8節) 

 異教徒は、イスラエルの神を信じている人々をあざけります。「おまえの神は見えないではないか。どこにいるのか?」と言います。けれどもその答えは、「確かに見えない。天におられる方だからだ。けれども、私たちの神は目で見ることはできないか、私たちを見ておられる。その耳を見ることはできないが、私たちの祈りを聞いてくださる。その口を見ることはできないが、言葉を話してくださる。ところが、あなたがたの神々はどうか?目があるが、それはあなたを見ることができない。耳もあるが、あなたの祈りを聞けない。口もあるが、あなたに話しかけることができない。」

 私は高校生のとき、はっきり覚えていますが、大晦日に寺に行きました。何か悟れるか、聞こえてくるかと思いましたが何もありませんでした。けれども大学生のとき、主に対して祈りました。そうしたら、頭のてっぺんから足のつま先まで、自分を愛で包んでおられる神の臨在を知りました。目には見えません。けれども、この方は生きておられ、交わることができるのです!

 そしてもう一つの皮肉は、「あなたの息とすべての道を手に握っておられる神をほめたたえなかった」ことです。これは非常に滑稽なことです。「神なんかいない。」と息巻いているその息を創造したのは神ご自身なのです。その息をすぐにでも止めることも神はおできになるのです。「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。(ヨハネ1:10」とあるとおりです。

3B 解き明かし 24−28
5:25 その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』5:26 そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。5:27 『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。5:28 『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」

 おそらく、アラム語の子音のみの文字だったのではないかと言われています。母音がないので、何のことが分からなかったのです。それをダニエルが解釈しました。「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」です。意味はメネが「数える」、テケルが「量る」、そして「ウ・パルシン」は「分ける」です。

 けれども、その言葉が分かっても今度は、ベルシャツァルにとっての意味を解き明かさなければいけません。かつてのネブカデネザルに対してのように、真理をまっすぐに語る者のみが伝えられる言葉です。

 メネの「数える」が表しているものは、彼の治世です。神は数えて、それを終わらせられました。これはちょうど、イエス様が語られた金持ちと同じです。豊作だったので、作物の倉庫を改築してもっと大きいのを作ろう、何年分もいっぱいの物が貯められた、「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ!」神は、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。(ルカ12:20」主は数えられています。

 テケルの「量る」が表しているのは、彼の行ないです。天秤で量られて、目方が足りないことが分かったということです。神にとっての天秤は、ご自分の義という重石です。悔い改めて、へりくだり、主の前に出てゆけば、その重石が私たちの皿に置かれます。すべての罪が帳消しにされます。目方は十分に足るようになります。

 そしてウ・パルシンの「分ける」が意味しているのは、メディヤ・ペルシヤがバビロンを倒すことです。二つに分割されます。

4A 突然の破滅 29−31
5:29 そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した。5:30 その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、5:31 メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。

 ああ、なんとはかないことでしょうか!ベルシャツァルが与えた褒美は、数時間の効力しかありませんでした。その夜に、彼は殺されました!

 その日に起こっていたことをご説明します。ペルシヤの王クロスは、バビロンの町を攻略するためにユーフラテス川を迂回させる計画を立てました。バビロンの町を南北に流れる川で、北の上流のほうを近くの湖にまで送る水路を掘らせました。そして、軍をユーフラテス川がバビロンの中に入っていく所と、南の、川が流れ出るところに配置させました。ベルシャツァルは、川の迂回工事を、町の外に要塞でも建てているのだろうとぐらいしか考えていなかったに違いありません。

 そして、川の水かさが減っていきました。そこで柵の下を通れるほど浅くなり、中に入っていきました。けれども川の両側は壁です。東西をつなぐ橋のところまで行きました。そこにももちろん門があり、普通は閉められているのですが、その日は何と宴会のために門番も泥酔していて、その青銅の門が開いていたのです!

 それで難なくペルシヤ軍は宮殿の中に入ることができ、その宴席の場でベルシャツァルを殺したのです。ダニエルは30節の「その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され」という一文で短くまとめていますが、他の預言者はこの出来事を詳細に記しています。代表的なのは、イザヤとエレミヤです。そしてこの出来事を基にして終わりの日のバビロンの幻を見たのが、使徒ヨハネです。

 まずイザヤ書21章を開いてください。2節を読みます。「きびしい幻が、私に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディヤよ、囲め。すべての嘆きを、私は終わらせる。」これはバビロンの町の包囲です。そして5節です、「彼らは食卓を整え、座席を並べて、飲み食いしている。『立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。』」ベルシャツァルらが宴会を設けているところで、外では戦いの備えをしている姿です。

 そしてバビロンの町の城壁の塔から、次の見張りの声が聞こえます。8節からです。「主よ。私は昼間はずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた。』と。(8-9節)」分かりますか、これはメディヤ・ペルシヤの連合軍がバビロンに入城している姿です。こんなにも鮮やかにイザヤは、この出来事を見ています。忘れてはならないのは、彼が見たのは実際の出来事の150年近く前だということです。

 そして44章を開いてください。26節からです、「わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす。』と言う。わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う。」(26-28節)」クロスという実際の名前を主は挙げておられます。そして彼が行なうこと、川を涸らすことを語っておられるのです!

 続けて見てください、45章です。「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。(1-3節)」クロスはベルシャツァルの腰の帯を解きました。腰の間接が外れて、がたがたに震えていましたね。そして、青銅のとびらが開いていました。これも文字通り成就しています。

 そしてバビロンに対してはこう預言しています。イザヤ4789節です。「だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう。』と言う者よ。子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、またたくまにあなたに来る。あなたがどんなに多く呪術を行なっても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを見舞う。」楽しみにふけっているとき、突如として滅びが襲いました。そして、多くの呪術を使って、塗り壁に書かれた文字を解き明かそうとしましたが、意味がありませんでした。

 これだけ、主はこの出来事に注目を集めておられます。エレミヤ書では、彼らがイスラエル、ユダヤ人に対して行なった仕打ちに焦点を合わせています。アブラハムに語られた、「あなたを呪う者をわたしは呪う」ということです。そして、ヨハネが見た黙示録の幻では、「一日のうちに、さまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。(18:8」とあります。一日のうちで、なのです!

 だから、この世の有様は過ぎ去ります。パウロが、結婚をすべきかどうか迷っている人たちに、こう助言しました。「兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。(1コリント7:29-31」世に対する思い煩いをしないでください。世に深く関わらないでください。

 そして次は6章ですが、国が変わってもダニエルは変わりなく新しい王に仕えています。主のみこころを行なう者は、たとえ世が過ぎ去っても永らえるのです。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(1ヨハネ2:17」お祈りしましょう。


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