申命記16−19章 「裁きつかさの正義」

アウトライン

1A 主が選ばれる場所 16
   1B 三大祭 1−17
      1C 過越の祭り 1−8
      2C 七週の祭り 9−12
      3C 仮庵の祭り 13−15
      4C 持っていく祝福 16−17
   2B 裁き司の任命 18−20
   3B 祭壇のそばの偶像 21−22

2A 裁く者たち 17
   1B 偶像を拝む者 1−7
   2B 祭司による裁き 8−13
   3B 君主制 14−20
3A 神の奉仕者 18
   1B 主の前での奉仕者の支え 1−8
   2B モーセのような預言者 9−22
      1C まじないの忌み 9−13
      2C 偽預言者の試し 14−22
4A 領土の拡大 19
   1B 逃れの町 1−13
   2B 地境 14
   3B 偽りの証言 15−21

本文

 申命記16章を開いてください。モーセが12章から、イスラエルの約束の地における生活についての定めと掟を与えています。初めに出てきたのは、「主が選ばれた場所でいけにえを捧げる」ということでした。それぞれ自分の心で正しいと思うところで行なうのではなく、主が選ばれた所で行ないます。そこから私たちは、キリスト者は共同体なのだということを学びました。私たちの信仰は一つです。御霊も一つです。水のバプテスマも一つです。ですから、独りよがりな自分だけの信仰生活というのは存在せず、共同で主イエス・キリストを告白する必要性を学びました。

1A 主が選ばれる場所 16
 そしてその同じ考えで、モーセは三大祭りを守るように教えます。過越の祭り、七週の祭り(あるいは五旬節)、そして仮庵の祭りです。

1B 三大祭 1−17
1C 過越の祭り 1−8
16:1 アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。16:2 主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、羊と牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主にささげなさい。16:3 それといっしょに、パン種を入れたものを食べてはならない。七日間は、それといっしょに種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである。それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。16:4 七日間は、パン種があなたの領土のどこにも見あたらないようにしなければならない。また、第一日目の夕方にいけにえとしてほふったその肉を、朝まで残してはならない。

 過越の祭りの教えです。「アビブ」というのは「緑の芽」という意味があり、ちょうど今の時期で三月末から四月初旬に当たります。そして続けて、「種なしパンの祝い」をしますが、なぜパン種があってはならないのかと言うと、エジプトを出る時にパロがせきたたてイスラエルを追い出したので、パンを料理する時間がなかったからです。要は、「エジプトでの苦しみと、そこからの救出を思い出す」ということです。私たちキリスト者にとっては、自分が罪の奴隷状態であったのに、キリストが流された血潮によって、罪が取り除かれたのだということを思い出します。

16:5 あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたの町囲みのどれでも、その中で過越のいけにえをほふることはできない。16:6 ただ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶその場所で、夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえをほふらなければならない。16:7 そして、あなたの神、主が選ぶその場所で、それを調理して食べなさい。そして朝、自分の天幕に戻って行きなさい。16:8 六日間、種を入れないパンを食べなければならない。七日目は、あなたの神、主へのきよめの集会である。どんな仕事もしてはならない。

 過越のいけにえは、出エジプト記によるとイスラエルの民と、割礼を受けた奴隷のみでした。つまり神との契約に預かった者だけであり、在留異邦人は預かることはできませんでした。教会においても、聖餐式はキリストにある新しい契約に預かった者だけが食べることができます。けれども種なしパンの祝いは家に戻ってから食べます。

2C 七週の祭り 9−12
16:9 七週間を数えなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え始めなければならない。16:10 あなたの神、主のために七週の祭りを行ない、あなたの神、主が賜わる祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。16:11 あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。16:12 あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行ないなさい。

 七週の祭りは五旬節のことです。9節に「かまを立穂に入れ始める時」とありますが、過越の祭りの三日目、日曜日に大麦の初穂の祭りを行ないます。それから七週を数えます。そうすると、小麦の収穫が始まります。この祝福をお祝いするのが七週の祭りです。この時は、その地にいる奴隷やレビ人、在留異国人、やもめなど、生活の弱者に分け与えて共に喜びます。

 私たちは神の祝福と喜びを考えるときに、それは惜しみない神の施しから来ていることを忘れてはいけません。神が働いておられるのであり、そこに私たちが参加させていただいているという意識が必要です。心を広くする必要があります。全体に主が働いておられるにも関わらず、あたかも自分たちの労苦の報いであるとばかりにみなせば、私たちは収穫を他の人々に分け与えるのを惜しみます。

3C 仮庵の祭り 13−15
16:13 あなたの打ち場とあなたの酒ぶねから、取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。16:14 この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめも共に喜びなさい。16:15 あなたの神、主のために、主が選ぶ場所で、七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。

 これは秋の祭りです。すべての収穫を終える時に、もっとも盛大に祭りを祝います。「大いに喜びなさい」と命じていますね。レビ記23章の時に学びましたが、過越の祭りはキリストの十字架の御業、七週の祭りは聖霊降臨、そして仮庵の祭りはキリスト再臨後の千年王国の至福を予表していることを学びました。大いなる喜びが神の国には用意されています。イエス様が、地上における奉仕を終えた僕どもに、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21」と言われました。私たちが喜んでいる以上に、主ご自身がご自分の聖霊の実を、御国の広がりを見て喜んでおられるのです!

4C 持っていく祝福 16−17
16:16 あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。16:17 あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。

 三つの祭りは、男子は守らなければいけません。けれどももちろん、女子供も共に参加することができます。そしてモーセが強調しているのは、主の祝福を携えて祭りに集いなさいということです。私たちが教会礼拝をする時に、そこには献身があります。自分自身を捧げ、自分の財産や時間を捧げます。けれども、それが喜びなのです。なぜか?主の恵みの中に入っていくことができるからです。自分が捧げているけれども、霊的にはたくさん受け取ることができるからです。与えるところには、霊的な祝福が満ちあふれます。

2B 裁き司の任命 18−20
 次から、新しい部分に入ってきます。それは、裁きつかさに対して与えられる定めです。イスラエルの広大な地において、それぞれに、さばきつかさを任命して、そこで裁くように命じます。

16:18 あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。16:19 あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。16:20 正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。

 正義をもって裁かなければいけない、という教えです。偏ることもいけないし、賄賂もいけません。私たち日本人は、賄賂はさすがにしないかもしれないですが、けれども心の中では正義を考えるのではなく、心の中で計算していますね。「あの人にこれを言ったら、損失を被るから言わないようにしておこう。」「あの人は影響力があるから、とりあえず口添えしておこう」とかいうものです。正義だけで生きなければいけないのに、そこから逸脱することがあります。

3B 祭壇のそばの偶像 21−22
16:21 あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。16:22 あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない。

 さばきつかさが初めに取り組む定めは、これです。主の祭壇のそばにアシェラ像を立ててはならない、石柱を立ててはならないというものです。ここに、イスラエルの国とその他の国との違いがあります。つまり、神に対する礼拝が一般の裁判官も尊ばなければいけないということです。イスラエルが単なる国家ではなく、神によって立てられる国、神の国であることを表しています。

 私たちは今、キリストをかしらとする体、教会の中にいます。神は国に対しても権威を与えられていますが、すべての物が神に従っているわけではありません。イエス様が再び来られたら、国々もこの方への礼拝を第一とする世界へと変わります。キリストが住まわれる所に偶像を置くということは決してできません。新約聖書では、私たちの体が聖霊の宮であると教えられています。そこでパウロはこう言いました。「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。(1コリント6:15-17

 イスラエルは残念ながら、この定めを破りました。バビロンに捕え移される前のユダにおいて、マナセが主の宮の庭の中で、異教の祭壇を築き、またアシェラ像を安置しました(2列王21:3-7)。

2A 裁く者たち 17
1B 偶像を拝む者 1−7
17:1 悪性の欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。

 再び、礼拝におけるいけにえについての定めです。祭司がイスラエルの民の持って来た動物を調べる務めを担っているのですが、けれども裁判の中でこのことが審議されなければならない、ということです。

 なぜ欠陥のある牛や羊を捧げてはいけないのでしょうか?一つは、神が完全であられるからです。それで、神は完全ないけにえ以外は受け入れられません。ゆえに、ご自分の子イエス・キリストがご自身を捧げられたいけにえは、神に受け入れられるものとなりました。この方は何一つ、罪がなく、傷やしみがありませんでした。もう一つは、捧げる者が神を第一としなければいけない、といことです。神を第二、第三としている時に、料理を食べた後の残飯のように、神にいい加減なものを捧げるようになります。

17:2 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる町囲みのどれでも、その中で、男であれ、女であれ、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、主の契約を破り、17:3 行ってほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象など、私が命じもしなかったものを拝む者があり、17:4 それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行なわれたのなら、17:5 あなたは、この悪事を行なった男または女を町の広場に連れ出し、男でも女でも、彼らを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。17:6 ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。17:7 死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、ついで、民がみな、手を下さなければならない。こうしてあなたがたのうちから悪を除き去りなさい。

 これまでは、偶像礼拝の罪を犯してはならないという戒めはありました。ここでは、それを犯した者に対する罰が書かれています。石打ちの刑です。「日や月や天の万象」とありますが、バベルの塔の時代から天体を拝む宗教が始まりました。星占いは長い歴史を持って、私たちの社会の中にも浸透しているのです。

 そして大切なのは、証言の掟であります。「ふたりの証人または三人の証人」とあります。これが、裁判の時の守らなければいけない掟となり、そして、ユダヤ教の中では自分の主張について、それを証言するものを二つ、三つ持ち出します。例えば使徒パウロは、自分が異邦人に福音を伝えていたのでユダヤ人を憎んでいるのではないかという誤解を受けていたので、こう言いました。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ローマ9:1-3」彼らが救われるのなら、自分が代わりに地獄に投げ込まれても構わないという思いを、「良心」と「聖霊」という二つの証言によって宣言しています。

 新約聖書においては、教会は自分たちで内部を裁かなければいけないことが教えられています。イエス様が弟子たちに語られました。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(マタイ18:15-17」罪を犯した人が教会の中でいるならば、決して口外してはいけません。噂にしてはいけません。一人で本人のところに行きます。もしそれで言うことを聞かないのであれば、「ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。」とあります。これが申命記の律法にある言葉です。自分自身の他に証人を一人あるいは二人連れてくるのです。それでも言うことを気かないのであれば教会に告げて、教会としてその人に罪を悔い改めるように促します。

2B 祭司による裁き 8−13
17:8 もし、町囲みのうちで争い事が起こり、それが流血事件、権利の訴訟、暴力事件で、あなたのさばきかねるものであれば、ただちに、あなたの神、主の選ぶ場所に上り、17:9 レビ人の祭司たち、あるいは、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ねなさい。彼らは、あなたに判決のことばを告げよう。17:10 あなたは、主が選ぶその場所で、彼らが告げる判決によって行ない、すべて彼らがあなたに教えることを守り行ないなさい。17:11 彼らが教えるおしえによって、彼らが述べるさばきによって行なわなければならない。彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない。17:12 もし人が、あなたの神、主に仕えてそこに立つ祭司やさばきつかさに聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その者は死ななければならない。あなたがイスラエルのうちから悪を除き去るなら、17:13 民はみな、聞いて恐れ、不遜なふるまいをすることはもうないであろう。

 さばきつかさが、判断しかねる事件がある時は、祭司が教える教えによって裁きます。つまり、神の律法が、神の言葉が最終的権威になるということです。これは、教会の秩序や教会における判断でも、とても大切です。私たちはつねに「神はなんと仰っているのか。」「聖書はなんと言っているのか」ということを、最終的判断基準にして物事を決めていくのです。

3B 君主制 14−20
 ところがモーセは、次に興味深い教えを垂れます。

17:14 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。」と言うなら、17:15 あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。

 主は、イスラエルの民が祭司やレビ人が教える神の律法によって生き、そしてイスラエル各地のさばきつかさによってこの国を成り立たせようとされていました。けれども、彼らが周りの国々と同じように、自分たちに王を立ててくれと言うならば、という場合を考えています。イスラエルが、祭司とレビ人の神への奉仕によって、自分自身が神の権威に服すことによって、神が支配する国をお立てになろうとしていました。王はあくまでも神ご自身だったのです。けれども、他の異邦人の国と同じように人間を王として立ててほしいと要求することをモーセは想定しました。

 実は、これは預言でありました。ヨシュア率いるイスラエルが約束の地を占領した後に、イスラエルの民は自分の心によいと思ったことをし始めました。神の御言葉ではなく、自分の気持ちや考えで正しいと思ったことを行ない始めました。それによって、偶像を拝み、祭司は人に雇われたり、そして酷いことにソドムと同じように男を凌辱しようするというところまで堕落したのです。それで、神はサムエルを立ててくださいました。ところが、サムエルが晩年を迎えた頃にイスラエルの民は周囲の民と同じように王を立ててほしいとサムエルに要請したのです。サムエルは、人の王を立てることによって、民は自由がなくなり束縛され、税を徴収されることなど警告しました。けれども民は言うことを聞かなかったのです(1サムエル8:10-22)。それでサムエルに主が教えられた王はサウルでした。

 私たちはだれも自由を欲します。教会において、言い付けられ、規則を設けられ、義務が課せられることを嫌います。けれども、自分が自分のしたいようにして、なおかつ教会が秩序をもって機能すると言うことはありえないのです。教会は、一人一人が神の御言葉に服従し、神の権威の下にいる時に初めて、キリストのみが頭となり、どんな人間も自分を支配したり、強いらせることはなくなるのです。そこに自由があるのです。

17:16 王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。17:17 多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。

 モーセは、イスラエルが人間の王を求めるという過ちがあっても、なおもその君主制において神の御心にかなって生きる道を教えました。それは、軍事力、政治力、また経済力において物質的なものに拠り頼んではならないというものです。

 異邦の国々であれば、戦争のための馬が多くいることがその国の力を示す物差しです。けれども、イスラエルはそうであってはいけませんでした。主が愛し、主が選ばれたダビデは、頑強な武具を身に着けた巨人ゴリヤテに対して、こう言いました。「ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。(1サムエル17:45」ダビデは詩篇でこう歌っています。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(20:7

 そして今の世界にも、武器輸出国があるように、エジプトが戦馬の輸出国であり、そこに購入するためにエジプトに下るという懼れもあります。けれどもそれは決して行ってはいけません。「二度とこの道を帰ってはならない」と主が言われます。これはもちろん、エジプトから出て来たのに、またエジプトに下るということは決してあってはならない、ということです。神は罪の奴隷から私たちを贖い出されたのに、私たちが再び罪の奴隷の中に戻ってはいけない、という強い警告と同じことです。

 そしてもう一つは「多くの女を持ってはならない」と言っています。これは政略結婚として異邦の国々ではあまりも当たり前に行っていました。けれども、それをすると「心をそらせてはならない」とあるとおり、主への一途な思いがそれていくのです。具体的には、異邦の女たちが持って来た異教の神々を拝むようになってしまうということです。

 そして「金銀を非常に多くふやしてはならない」とありますが、もちろん、金銀により頼むようになり神に拠り頼むことを怠るようになるという警告です。

 残念なことに、この三つを見事にソロモンが行なってしまいました。ダビデの息子ソロモンは、あまりにも多くの金銀を増やしました。そしてエジプトから馬を輸入し、そして外国の女たちを愛しました。なんと700人の王妃と300人の側めがいたのです。それによって彼は彼女たちの持って来た神々を拝むようになったのです。

 私たちは神が何か警告されていることは、「私たちが十分にその過ちを犯し得るから、警告されているのだ。」と思って耳を澄ます必要があります。たとえそれがその時には、そんなことはしないだろうと感じるかもしれません。けれども、それは自分がそう感じるだけで神は必要だから語ってくださっているのです。

17:18 彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、17:19 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。17:20 それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。

 王政においても、なおのこと神の律法の下に生きることを教えています。そのことによって、たとえ支配者が人間であっても、究極の支配者が神になるためです。そして人間の王には絶大な権威が与えられています。ですから高ぶりが問題になります。ゆえに、この律法の読書が極めて重要になるのです。

 残念ながらこのことも、守られないようになりました。ソロモンの治世の後記は民に重税を課していました。彼の死後レハブアムは、イスラエルの人たちが税を軽減してほしいという要求に、「私の父はおまえたちのくびきを重くしたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう。(1列王12:14」それでイスラエルが南北に分裂したのです。ずっと後にヨシヤというユダの王が、神殿の中で律法の巻き物を見つけました。それを読んだ時に彼は衣を引き裂きました。へりくだり、泣き叫んで主に祈ったのです。つまり、これまで律法の写しを持たず、読んでいなかったことになります。

3A 神の奉仕者 18
1B 主の前での奉仕者の支え 1−8
18:1 レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。18:2 彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。18:3 祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。18:4 あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。18:5 彼とその子孫が、いつまでも、主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主が、あなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである。

 再び、祭司職とその他のレビ人の務めについて強調しています。彼らは相続地を与えられませんでした。主に奉仕するために専念するためです。ですから、イスラエルの民が捧げるいけにえに預かることによって生きるようにされたのです。

18:6 もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。18:7 彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。18:8 彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである。

 祭司はレビ族の中のアロンの家系のみです。祭司が幕屋の中の奉仕を行ないます。けれども、他のレビ人はその他の幕屋に関する奉仕を行ないます。レビ人は、イスラエルの土地に広がるレビ人にあてがわれた四十八の町があります。そして、その町に住んでいるレビ人が、主の選ばれた場所に来て奉仕に来るのであれば、その時の奉仕に対する報酬があるということです。

 新約時代は、すべての人が祭司です。全ての人がイエス・キリストという仲介によって父なる神に近づき、霊的賜物を与えられます。そして他の人々に仕えて、キリストを分かち合います。けれども、教会における働きの実際上、やはり同じように働き人への報酬が定められています。使徒の働き6章において、使徒たちは執事たちを7人任命して、「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。(4節)」と言いました。これが、福音宣教の働き人を支えなければいけないことの大きな理由です。

2B モーセのような預言者 9−22
1C まじないの忌み 9−13
18:9 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。18:10 あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、18:11 呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。18:12 これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。18:13 あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。

 先ほど、周囲の国々のように王を持ちたいという欲求がイスラエルの中から起こされることを見ましたが、同じように預言者を持ちたいという欲求が起こります。モーセがすでに預言者ですから、その言葉である律法に従うことを由とすれば良いのに、そして祭司とレビ人がその律法を教えれば良いのに、そうではなく、今、自分が追従できる預言者が欲しいと言うわけです。そして周りを見ると、そのようなことをしてくれる人々がたくさんいる訳です。占い師、卜者、呪い師、霊媒、口寄せ、死人に伺いを立てる者など、霊界から自分たちに言葉を告げてくれる人々に聞き入る危険があるのです。

 私たち教会は、いつもこのような危機に瀕しています。モーセが律法を与え、真理と恵みがイエス・キリストによって来たのに、その言葉を私たちは委ねられて、現在、旧約聖書と新約聖書があるわけです。にも関わらず、なぜか「預言者」と称する人々の言葉を追い求めて、それに拠り頼もうとする人々が後を絶ちません。パウロは終わりの日にこのようになると警告しました。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:3-4

 ところで、占いや霊媒、死人への伺いなどがなぜいけないのでしょうか?霊の世界が現実だからです。聖書には、神は霊であることが書いてあります。世の初めに、天において神に仕える使いたちのうちで、極めて高い位にいるルシファーが高ぶり、神よりも偉くなろうとしました。それで彼は堕落しましたが、彼に追従する他の霊どもも出てきました。こうした堕落した天使がこの世には存在します。「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。(ユダ6

 そしてこれらの霊どもは、しるしや不思議をすることができます。前回の学びで偽預言者がしるしや不思議を行なうことを読みましたね。けれども彼らはその後で、「これらの神々に仕えよう」といって、まことの主なる神ではなく、他の神々へと迷わせていこうとするのです。使徒ヨハネはこう警告しました。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(1ヨハネ4:1-3」イエス・キリストへと導く霊は、真理の御霊であり、そうでない霊は反キリストの霊であり、悪しき霊なのです。

 「占い」の問題は信仰を奪うところにあります。神を信じるということは、人格をかけて信じていくことです。たとえ自分が先のことは理解できなくても、神を愛し、信じているがゆえについて行きます。ところが、占いは運命を教えます。そこには、自由意志のない決定された道しかありません。そして占いや霊媒に凝った人は、いつしかその言葉の奴隷となります。神の聖霊は、愛と慎みの力の霊であるのに対して、占いの霊は束縛と恐怖の霊です。

2C 偽預言者の試し 14−22
 けれどもモーセは、モーセの後に、追従することのできる、いや追従しなければいけない預言者が来ることを予告します。

18:14 あなたが占領しようとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきたのは確かである。しかし、あなたには、あなたの神、主は、そうすることを許されない。18:15 あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。18:16 これはあなたが、ホレブであの集まりの日に、あなたの神、主に求めたそのことによるものである。あなたは、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」と言った。18:17 それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。18:18 わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。18:19 わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。

 午前礼拝の説教を思い出してください。神が直接的に民に言葉を語れば、神の聖さのゆえに彼らは死んでしまいます。それゆえに、神に代わって民に語ってくれる人が必要になります。そのような人がユダヤ人の中から出てくるから、その者に聞き従いなさいという命令です。

18:20 ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」18:21 あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、18:22 預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。

 約二千年前にイスラエルの地に現れたイエス様は、このテストの中に入れられました。過酷なテストの中に入れられました。イエス様が語られることが、はたしてその通りなのかどうか、語ったことがモーセの語ったことと矛盾していないか、語ったのにその通りになっているかどうか、ユダヤ人、ことに律法学者やパリサイ人から試されました。けれども、イエス様はそのテストにみな合格しました。ですから、イエス様は真の預言者、モーセのような預言者であったのです。

 であれば、問題なのはイエス様に聞き従わなかった者たちです。19節に「わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。」とあります。イエス様は、ご自分の言葉を聞き、しるしを見たにも関わらず信じたかった者たちを、そしてその町々を「災いである」と言われました。「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:20-24」事実、今イスラエルのガリラヤ湖畔にあるコラジン、ベツサイダ、カペナウムはみな、遺跡が残るのみで人が住むところではなくなっています。

4A 領土の拡大 19
 モーセは続けて、さばきつかさに対しての定めを与えます。

1B 逃れの町 1−13
19:1 あなたの神、主が、あなたに与えようとしておられる地の国々を、あなたの神、主が断ち滅ぼし、あなたがそれらを占領し、それらの町々や家々に住むようになったときに、19:2 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。19:3 あなたは距離を測定し、あなたの神、主があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこにのがれることができる。19:4 殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。19:5 たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。19:6 血の復讐をする者が、憤りの心に燃え、その殺人者を追いかけ、道が遠いために、その人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならない。その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない。19:7 だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ。」と言ったのである。

 「逃れの町」の教えです。ヨルダン川の東側には、すでに三つの町を与えました。そして西側にも三つの町を取り分けなければいけません。これは「血の復讐する者」すなわち、殺された者の近親者が復讐をするのですが、ここに書かれてあるように、偶発的に、殺意なく殺してしまった、殺害ではなく事故死を引き起こしてしまった時に、その人がその復讐から免れるためです。だから、イスラエルの地において、どこからでも逃げ切ることができるように三つの町を偏って位置させることのないように教えています。ヨシュアは約束の地に入ってから、北にはケデシュ、中部にはシェケム、そして南にはヘブロンを置きました(ヨシュア20:7)。

19:8 あなたの神、主が、あなたの先祖たちに誓われたとおり、あなたの領土を広げ、先祖たちに与えると約束された地を、ことごとくあなたに与えられたなら、19:9 ・・私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら・・そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。19:10 あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである。

 主は、イスラエルが従順になることによってさらに大きな土地を与えてくださいます。実にエジプトの川からユーフラテス川まで主は彼らに与えておられるのです。そうすれば、さらに三つの逃れの町を加えなさい、と命じています。けれども、それは実現しませんでした。ダビデとソロモン王朝の時に国の影響が及ぶ領域はほぼその通りになりましたが、けれども所有しているものではありませんでした。

19:11 しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、19:12 彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。19:13 彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。

 殺意のある殺人は、「殺してはならない」と神が十戒で語られた殺害に当たります。彼がたとえ逃れの町に逃れたとしても、引きずり出して血の復讐をする者に明け渡さなければいけません。

2B 地境 14
19:14 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。

 この地境は、昔は簡単に変えることができました。石を置いていたのです。それを夜、こっそりと移動させることによって地境が変わるのです。これに対する戒めを与えています。なぜなら、その土地はその相手の土地というよりも、主がそれぞれに与えられた地だからです。私たちは既に、ヨベルの年、近親者による土地の買い戻しなどによって、神のイスラエル各部族に対する割り当て地への情熱をお見せになりました。

 それは言い換えれば、主がご自身の子どもたちに対する、約束の相続への情熱につながります。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(1ペテロ1:4

3B 偽りの証言 15−21
19:15 どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。19:16 もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、19:17 相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。19:18 さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、19:19 あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。19:20 ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行なわないであろう。19:21 あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。

 以上のさばきつかさへの定めは、二人か三人の証人によって立証される事柄であります。ですから、証言の真実性が不可欠なわけです。ところが、その証言が嘘だったらどうするのでしょうか?ある者がこのことを証言しているのに、もう一人が違うことを証言しました。その場合は、祭司たちとさばきつかさたちの前に、すなわち主の前に立ちます。そして偽りを言っていることが分かった者には、それは大きな悪であり、その告発した言葉どおりのことをその者に行ないます。そしてモーセは、目には目、歯には歯という言葉を使って、そのことを強調しました。

 この報復の掟は、神のご性質に基づくものです。「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。(ローマ2:6-8」真の正義は、行ったとおりのことをもって報いることです。「水に流す」とか、「時効」というものは、本当の正義の中には存在しません。いつまでも主の前には残ります。

 いかがでしょうか、自分がこれまで行ったことで、自分の内で忘れさせていることはないでしょうか?それらのこと一つ一つについて、神の前で最後の日に申し開きをしなければいけません。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13」私たちは再び、イエス・キリストの十字架を見上げなければいけません。自分の犯した罪の報酬があるのです。その報酬また報復は、あの十字架に釘づけにされたのです。主イエスが受けられたあのむごい仕打ちは、すべて神が私たちにではなく、私たちの罪に対する報復をご自分の子に向けた結果でした。このことを受け入れてください。神はいま、皆さんにキリストにある和解を与えてくださっています。

 ですから、これは正しい裁きの量りでした。さばきつかさが、裁判をする時に用いるものでした。けれども、イエス様が地上におられた時には、この律法が個人的恨みを晴らすことを正当化する解釈となっていました。そこで主はこう言われました。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:43-44」キリスト者は、過激な命令を主ご自身が受けています。普通の人であれば自分に良くしてくれた人を愛していくに留まりますが、それよりさらに一歩出ていきなさいと命じています。敵を愛しなさい、迫害する者を愛しなさい、ということです。これは私たちにはできません。けれども、キリストにはできます。私たちが自分を捨てて、キリストの権威に服する時、私たちを通してキリストが敵を赦すようにしてくださいます。

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