申命記2929節 「神に隠されていること」

アウトライン

1A 隠されていること
   1B 善悪の知識の木
   2B ヨブの苦しみ
   3B 生まれつきの盲人
2A 現されたこと
   1B 主に信頼する者
   2B 神の預言
   3B 神の奥義

本文

 申命記29章を開いてください。私たちは午後に29章から31章までを学んでみたいと思いますが、今朝は2929節に注目したいと思います。

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。

 モーセは、数々の律法を教えた後に、それを守り行なったときの祝福と、背いた時の呪いを宣言しました。そして、モーセはこれからのイスラエルの歴史で起こってくることで、ことごとく主の御言葉とおりになっていくことを前もって伝えました。果たしてそのとおりになったときに、彼らが不意に災いが彼らに振りかかったということがないため、また、このような災いが下っているのは神がおられないからだ、と言わせないために、前もって伝えています。

 イエス様が世の終わりのことを弟子たちに語られたときに、「だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも、前もって話しました。(マルコ13:23」と言われました。戦争のこと、飢饉のこと、迫害のこと、そして家族の中で殺人が起こることなど、この世がどんどん悪くなります。これらの災難を見て、多くの人が「こんな悪いことが起こっているのであれば神なんかいない。」と結論づけるのですが、いや、むしろ前もって教えている言葉を持っている神が生きておられることを証ししているのです。

1A 隠されていること
 ですから、私たちにはすでに明らかにされているものがあります。その知識に対して責任をもって応答しなければいけません。けれども、明らかにされていないことがあります。ここに、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。」とありますね。私たちには全ての知識がありません。主なる神のみに属している知識があります。

1B 善悪の知識の木
 興味深いことに、私たち人間は物事をいつも知りたがっている生き物です。なんでそのようになっているのか知りたがっています。そして、それが知らされない時に神に対してなじります。「なぜ神様、このことを知らせてくださらないのですか。」と訴えます。私たちには、多くのことが判断することができず、ただ黙るばかりの時が多いです。

 けれども、これらの疑問にすべて答えるような知識が与えられたら人間は満足できるのでしょうか?いや、人間は生きられるのでしょうか?カナン人の偶像に「バアル神」というものがありましたが、それは知性そのものを拝ませる神でした。私たちには飽くことのない知識欲や情報欲がありますが、その神はその欲望を表象しています。

 私が、映画を観て、はっとさせられた文句がありました。「インディ・ジョーンズ」シリーズの「クリスタル・スカルの王国」を観ていた時ですが、ソ連のスパイであるスパルコが宇宙人的存在に言い放った言葉です。「私に全てを見せて。お前たちの知恵の全てを。」大抵「貪り」といえば、黄金を見つけることができたなど、金銀に対するものです。または王座を獲得するための権力欲もあるでしょう。性欲もありますが、「すべてのことを知りたい」という欲望は意表を尽きました。スパイならではの欲望でありましょうが、この世において起こっていることが何でなにかが判断つけられないことが多い最近では、この欲望が増大しているのではないでしょうか?

 そしてスパルコは、異次元から来た者たちに知識を注入され続けるのですが、初めは多くのことを知るにつれ顔が微笑んでいますが、それはつかの間でその知識の多さに圧倒されて、ついに眼窩から火が出、彼女は炎に包まれました。すべてを知りたいという欲望はその人を滅ぼすという教訓がそこにはあるのではないかと感じました。

 聖書では、罪の始まりが知識欲でした。蛇が女に言いました。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(創世3:5」自分に知らないことがあることに、私たちはじれったさを感じます。あるいは恨みさえ抱きます。その苦々しい思いを利用して、悪魔は神が意地悪をして知識を自分から遠ざけていると思わせます。その誘惑に屈したらどうなるでしょうか?

 確かにエバとアダムには知識が与えられました。それは自分が裸だという羞恥心です。そして神が二人をエデンの園から追放するときに、こう言われました。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。(創世3:22」確かに知識は増えました。けれども、「われわれのひとりのようになった」というのは、神から独立したということです。神により頼むのではなく、自分自身が神のようになろうとしたので、神から切り離されてしまいました。

 確かに情報としての知識は増えたかもしれません。けれども、人格的なつながりを持つ知識はなくなりました。多くを知ったのですが、神を知ることはなくなりました。先ほどの例を使えば、あらゆる情報を得ようとするのはスパイです。確かに相手のあらゆる情報は掴んでいるのかもしれませんが、その相手との信頼関係は築くことはできません。親密な関係も存在しません。また、探偵を雇って自分の配偶者が何をしているのか調べさせるのは、その夫婦関係にひびが入っている時です。その情報と知識は実質的に、真理に至る知識ではないのです。

 真の知識は、相手への信頼と従順によって得られます。モーセは、「みおしえのすべてのことばを行なうためである。」と言いました。私たちは何とかして知識を得ようとしますが、三位一体の神ご自身でさえ、そのようなことはなさいませんでした。イエス様はこう言われました。「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。 (ヨハネ5:30」子なる神であられるキリストが、父なる神に判断をすべて任せておられるのです。

2B ヨブの苦しみ
 知識において、自分が知らないことで苦しんだ人で典型的なのは、ヨブでした。ヨブがあれだけの苦しみにあったのは、もちろんサタンが神に許可を得て彼を打ったからに他なりませんですが、ヨブにも、ヨブの友人にも神はそのことを示されませんでした。それで友人は、的外れな判断ばかりをしていました。彼がここまで苦しむのは、隠された大きな罪があるからだ、と判断しました。

 ヨブも分らずに苦しみました。彼の苦しみは、財産や息子・娘がいなくなった、皮膚病を患っているということを以上に、なぜこのような苦しみを神が与えられるのかという疑問が最も彼を苦しめたのではないかと思います。「神が私を苦しめている。そして、私は悪いことをしていない。」という発言を始めました。

 神の答えはこうでした。「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。(38:2 口語訳)」そして神は、天地創造における各場面において、ヨブに対してそれがどのように造られたのかを告げてみよ、という挑戦を受けました。そして、そこにおいても神はヨブに、サタンが彼を痛めつけたという理由をお話になりませんでした。ただ神は、ご自分の知恵と力でヨブを圧倒されたのです。それで彼は最後に、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(42:5-6」と言ったのです。神について聞いてはいたけれども、今は、見ているという告白です。ヨブは、自分の苦しみに対する理由はもらえませんでしたが、神ご自身を仰ぎ見るという特権にあずかったのです。

3B 生まれつきの盲人
 このことは、ヨハネ8章に出てくる生まれつきの盲人についても同じことが言えます。弟子たちは、「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(2節)」とイエス様に尋ねました。イエス様はなぜそうなったのか、その知識を与えることをされませんでした。むしろこう言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(3節)」盲目になったことについての知識が与えられる代わりに、神ご自身の業にあずかる体験的な知識を得られます。彼の目は開き、それだけでなく、彼はイエスが神の子であることを知り、この方を礼拝したのです。

2A 現されたこと
 そしてモーセは、「現わされたことは」と言っています。私たちは自分自身で神の知識を得ることはできませんが、神ご自身が現してくださいます。これを「啓示」とも言います。私は今でもはっきり覚えていますが、母親が父親とともに求道を始めた時に、私が神様のことを話すと、首をかしげて、目をつむって、一生懸命、神を自分の頭の中で想像しようとしていました。その苦しんでいる様子は、かわいそうになるほどでした。けれども、母はある時に教会の中でも説教に打たれたのです。その場で涙を沢山流して、イエス様を心に受け入れました。自分自身の悟りではなく、神が与えるところの啓示を、ある意味で受けたのです。

 そして、「永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」とモーセは言っています。神のご計画についてはすでに知らされており、それを実行するだけだ、ということです。私たちはしばしば神の計画がどこにあるのかを模索します。けれども、神のご計画がすでに知らされているのに、その知らされた神の御心に従わないのであれば、次の一歩を見ることができないのです。ちょうどそれは洞窟を、灯をかかげて歩いているものであり、目の前にある真理を踏み行なっていくことによって、初めて次に前進できます。

1B 主に信頼する者
 主によって、これからのことが示される原則は箴言356節にあります。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」主に信頼する者、今、自分には悟ることができないが、それでも主に拠り頼む者には、まっすぐな道を備えてくださるということです。

 アブラハムのことを考えてみましょう。彼は、自分がどこに行くのかも分らないまま、主が命じられるからという理由で、ユーフラテス川下流域にあるウルの町から旅立ちました。彼は神に信頼したのです。そして神は、後に彼の甥ロトとその家族が住んでいるソドムについて、それを滅ぼすことを前もって伝えられました。こう言われています。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(創世18:17」彼は「神の友」と呼ばれるようになりました。ご自分を信頼するものに、神は惜しみなくご自分の計画を示されるのです。

 ダニエル書を読めば、その膨大な神のご計画には圧倒されます。ギリシヤ古代文明を専攻している学生であれば、その預言の正確さに驚愕することでしょうが、そのような知識と知恵がダニエルに示された理由を、何度も何度も天使からこう言われます。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。(10:11」ダニエルは、愛されていたのです。ゆえに、神は彼にそれだけの幻をお見せになりました。

 イエス様は弟子たちのことをなんと言われたでしょうか?「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。(マタイ11:25」幼子のように、イエス様の言われることに素直に聞き従う弟子であったから、主がご計画されていることをそのまま現してくださっていたのです。

 他の群集には例えて話しておられたのに、弟子たちにははっきりと語られました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17」すごいことですね、弟子たちは旧約時代のあらゆる預言者や義人が見ていたいと願っていたこと、つまりキリストご自身を見て、また聞いているから幸せなのだと言われるのです。

 そして十字架につけられる前夜に弟子たちを友と呼び、こう言われました。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:14-15」友である特徴は、知らせることです。信頼関係があるからこそ、友は自分に多くのことを明かします。イエス様がそれを行っていておられるのです。

2B 神の預言
 そして私たちキリスト者にとって、神の啓示を知るのに欠かせないのは預言です。アモスはこう言いました。「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。(アモス3:7」私たちの知るべき神のご計画は、すでに預言者たちによって示されているのです。

 神の預言を知ることは、わくわくすることです。永遠の方が、終わりのことを初めから示してくださっているからです。「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(2ペテロ1:19」この世の暗闇の中にある灯であり、そこに目を留めるのです。世界がどのように動いているのかを、主からいただいた眼鏡をかけることによって、見えなかったものが見えてきます。占いが日本では極めて浸透していますが、はるかに確かなのが預言の言葉なのです。

 終わりの日の幻を詳細に受けたダニエルでさえ、その解き明かしは将来を待たなければいけないことを天使に告げられます。「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。(12:4」そしてこのことが、イエス・キリストが来られた後には、開かれた書物になります。イエス・キリストの現われ、あるいは黙示です。ヨハネは、「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(1:3」と言っています。もう封じられていません。そして6章から小羊イエス様が、封印を解き始められます。そして10章には、すべての封印を解いた「開かれた小さな巻き物」を、力強い御使いが手にしています。私たちはこれだけ、神によって開かれた知識があるのです!

3B 神の奥義
 そして新約時代において、もっとも驚くべきことは「神の奥義」が教会に与えられたことです。奥義の定義がエペソ35節にあります。「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」奥義とはなかなか分らないものではなく、むしろ昔は隠されていたけれども今は開かれている神の啓示です。パウロは、このことを次のようにも書き記しています。「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、(ローマ16:25-26

 奥義とは、ちょうど誕生会でサプライズにするときのようなものです。決められた日に向けて、その出し物を時間をかけて、議論を煮詰めて、その計画をこしらえていきます。そして、誕生日の時に一気に披露するのです。神は、今のこの時代のことを思って、昔からご自分の知恵と知識の中でそれを暖めておられたのです。

 私たちは本当に幸せです。どこまで神が私たちに示されているでしょうか?すでに示されているのに、それに気づいていないことが多々ないでしょうか?パウロはエペソの人たちにこう祈りました。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ1:17-19」聖徒の受け継ぐものについての目が思いっきり開かれます。それだけではありません、信じる者に働く全能の神の力です。これが私たちに用意されているのです。聖霊に満たされましょう。聖霊の悟りを与えられるように祈りましょう。全能の神の力を経験しましょう。聖霊を待ち望みましょう。

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