出エジプト記12−13章 「イスラエルを贖い出す御手」

アウトライン

A 祭りによって 12
   B 過越の食事 1−28
      
C 子羊の犠牲 1−14
      C 種なしパン 15−20
      C イスラエルの応答 21−28
   B エジプト脱出 29−51
      C 初子の死 29−42
      C 外国人の過越 43−51
A 初子の聖別によって 13
   B 子孫への伝承 1−16
      C 種なしパンの祝い 1−10
      C 初子の贖い 11−16
   B 荒野の道 17−22

本文

 出エジプト記12章から学びます。私たちは、エジプトのパロがイスラエルの民を出て行かせないために、九つの災いがエジプトの地に下ったことを読みました。そして、十番目の災いの予告をモーセがパロに対して行いました。それは、エジプトの初子、つまり最初に生まれる男の子あるいは家畜の雄がみな殺される、というものです。この予告を聞いても、パロは悔い改めませんでした。それで主は、この災いを実行に移されます。

A 祭りによって 12
 けれども、主はこの出来事を行なわれるに当たり、これを祭りとして記念する日として定め、永遠に覚えているようにされました。それが「過越の祭り」です。

B 過越の食事 1−28
C 子羊の犠牲 1−14
12:1 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

 主はこの月を、いわば正月にされました。この出来事を記念することをもって、彼らの一年が始まります。これは大麦の刈り入れが始まる季節で、今の三月の終わりから四月の初めにかける時期です。

12:3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。

 十日に羊を用意します。そして「家族ごと」とありますが、これは家族でお祝いする祭りです。

12:4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。

 誰もが不足することもなく、また有り余ることなく分け合います。この原則をパウロは教会にも適用して、「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。(2コリント8:14」と言いました。

12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。

 第一礼拝でじっくりと学びましたが、ここでいけにえの羊は「傷のない」ものでなければいけません。なぜなら、神は完全なもののみを受け入れるからです。不完全なものは、ご自分が完全であるがゆえに受け入れることができません。

 私たちの救い主イエス・キリストは完全な人生を送られました。この方はただ一度も罪を犯されませんでした。肉体を持っていたので人間の弱さは持っていましたが、その弱さのゆえに罪に屈することはありませんでした。誘惑も受けられましたが、その誘惑を拒み、引き寄せられることはありませんでした。死刑の判決を受けようとも、数多くの人が、実に裏切り者イスカリオテのユダをしても、この方には罪がないと言わしめたのです。

 ゆえに、私たちの罪のいけにえとなることができたのです。もし自分が罪を犯したら、その十字架は自分自身の罪のゆえに死ぬのであり、他の人を贖うことはできません。けれども、罪なき方であったので私たちの代償となることができました。

12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。

 第一礼拝でもお話ししたように、この祭りの全てがイエス・キリストの十字架を示しています。「十四日までそれをよく見守る」とありますが、イエス様は日曜日の棕櫚の聖日にエルサレムに入城され、そして十四日の過越の祭りにおいて十字架につけられました。ここの子羊の血は、十字架上で流されたキリストの血を表しているのです。

12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

 この祭りは基本的に食事です。火で焼いた子羊を食べます。そして、イースト菌の入っていないパンを食べ、そして「苦菜」を食べます。今のユダヤ人はこの苦菜を、エジプトの奴隷時代の辛苦を思い出すためにしていますが、我々キリスト者にとっては、罪による苦々しい思い出を表しているでしょう。私たちが神の恵みを知るためには、罪によってもたらされた苦さも忘れてはいけません。

12:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。

 これは、ただ一度のいけにえだからです。後でもったいないから保存しておくものではありません。ただ一度、この子羊が死んで、その血が流されたことによって、エジプトの災いを過ぎ越すことができることを思い出します。そして「火で焼く」のは、神の裁きを表しているからです。地獄の火を表しています。

 ゆえに、二千年前にキリストが死なれたただ一つの出来事は、今生きている私たちにも有効なのです。「キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。(ヘブル9:2526

12:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。

 すぐに食べなければいけないのは、理由が後で出てきます。パロが急いでイスラエル人を追い出すため、ゆっくり食べる時間がないからです。「腰の帯を引き締める」のは、当時の衣服は、一枚のつぎあわせた布によってできており、すそをまくりあげないと動きづらいからです。

12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。

 「すべての神々」とは、第一礼拝でお話ししたように、エジプトが自分たちの力と富を表しているあらゆる偶像礼拝のことを指しています。ナイル川もそうですし、牛もそうですし、呪法師が肌をきれいにするのも彼らの宗教の一つでした。

12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

 「血」が大切です。血によって、神の裁きを免れることができます。ゆえに、過越の小羊であられるキリストの血は、私たちを神の裁きから救うことができるのです。

12:14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。

 この一回性の出来事で、永遠の救いを表しています。キリストが死なれたただ一度の出来事は、私たちの永遠の救いを与えることができます。途中で、その効力がなくなり、私たちが地獄に行くようになるということはないのです。一切の罪をキリストが私たちのために負ってくださいました。

C 種なしパン 15−20
12:15 あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。

 ここから、過越の祭りと一緒に祝われる、「種なしパンの祝い」の説明があります。パン種とは、パンの粉を膨らますイースト菌のことです。それがないパンなので、ほとんどクラッカーのような形状です。これを過越の祭りを第一日として七日間、祝われます。

12:16 また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。この期間中、どんな仕事もしてはならない。ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。

 一週間は、安息日と同じ休息が命じられています。

12:17 あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。12:18 最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。12:19 七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。だれでもパン種のはいったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。12:20 あなたがたはパン種のはいったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」

 何度も何度も、パン種の入ったものは決して食べてはならないと神は命じておられます。そして、それを破るものならイスラエルの会衆から断ち切られると警告しておられます。この「断ち切る」は、神との契約から一切断ち切られること、つまり神の救いを失うのと等しいです。

 どうしてそこまで厳しい命令を神が与えられておられるのでしょうか?それは、過越の祭りと同じように、神がキリストにおいて行われる贖いの業を表しているからです。イスラエルの民は、神が全人類のためにキリストによって行われる救いの業を、民族と国の単位として証しするために立てられた人々です。彼らの国民生活に、神が行われる救いが目で見える形で表れているのです。選びの民は、とてつもない大きな責任を神から与えられています。

 種なしのパンは、「キリストの贖いによって、完全に罪が取り除かれた。」ことを意味します。まず、コリント第一578節を読んでみましょう。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」ここで使徒パウロは、パン種を罪として捉えています。わずかなパン種が粉全体を膨らますように、私たちが生活の中で罪を許すと、それが生活全体に影響を与えます。その形容からパン種は罪を表しています。

 キリストが死んでくださり、罪が取り除かれました。それは、私たちが犯したいっさいの罪であり、私たちの良心は完全に清められたのです。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18」「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12

 ゆえに、神は種なしパンの祝いを厳格に命じておられます。「七」は神の数字であり、完全数であることを私たちは以前学びました。七日間祝うのはそのためです。そして、その間、一切の仕事を行ないません。キリストがすべての罪を取り除かれたので、その救いは完成し、私たちは救われるための行いをする必要がなくなりました。キリストの救いの中に休むことができるのです。

C イスラエルの応答 21−28
12:21 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。12:22 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。

 主から命令を聞いたモーセとアロンは、民にこの命令を伝えています。「ヒソプ」は、中東で岩地に生い茂っている植物ですが、清めの儀式に用いられるようになります。そしてダビデがベテ・シェバと犯した罪のことで、このように祈っています。「ヒソプをもって私の罪を取り除いてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。(詩篇51:7

 そして家に出てはならない、という戒めを与えています。血が付けられた家の中にいるからこそ、その男の子は救われるのです。同じように、私たちがキリストの中にいるからこそ、神の裁きを免れることができます。私たちが、自分の行っていることに少しでも拠り頼めると思ったら、とんでもないことになります。すべては、自分がどんな存在か、自分が何を行ったかではなく、キリストの御業を信頼しているかどうかなのです。

12:23 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。

 次にモーセは、約束の地に入ってから行う過越の祭りについて、教えを与えています。

12:25 また、主が約束どおりに与えてくださる地にはいるとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。12:26 あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、12:27a あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」

 過越の祭りを初めとするイスラエルの祭りは、子供に対する視聴覚教材になっています。その儀式の一つ一つの手順が、子供が「なんで?」と質問させるようになっているからです。その疑問に親が答えることによって、世代間で祭りを継承することができるようにされました。

 私たちは、信仰に「生活臭」があるようにしなければいけません。生活臭というのは、単に頭だけのこと、知識だけのこと、綺麗ごとにするのではなく、毎日の生活の真ん中にキリストをお迎えしなければいけないということです。教会に子供がいるのは、信仰は生活なのだということをよく教えてくれます。そして親は、子に主の訓戒と教育によって教えるように命じられています。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4

12:27bすると民はひざまずいて、礼拝した。12:28 こうしてイスラエル人は行って、行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。

 モーセとアロンが主の命令に従ったように、彼らもモーセとアロンがいったことに従いました。この信仰がイスラエルの民をエジプトの災いから救うことになります。

B エジプト脱出 29−51
C 初子の死 29−42
12:29 真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。

 この時のパロは、アメンホテプ二世と言われていますが、その後継者であるトトメス四世は長男ではありません。ここで長男が死んでいるからです。

12:30 それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。12:31 パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、主に仕えよ。12:32 おまえたちの言うとおりに、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」

 パロが出した四つ目の妥協案である「羊と牛はエジプトにとどめておけ」という条件はここで捨てています。けれども、「私のためにも祝福を祈れ」といっていますね。こう言われたら、主の働き人としては祈ってあげなければいけないと思ってしまいます。けれども、それを知っていてパロはモーセを自分の欲へ引っ張ろうとしているのです。

 このようにしてパロは、朝になるのを待ちませんでした。自分の息子が殺されたのを見て、これで無理やりにでもイスラエルを追い出す動機づけになりました。神が最終的に人を裁かれるときは、人は、無理やりにでもイエス・キリストを主と認めざるを得ません。救いの中にある神との愛との関係と対照的です。

 そして、裁きは無差別でした。王室の王子から、地下牢の捕虜の初子に至るまで、とあります。身分の高さや低さは、神の裁きにはまったく関係ないのです。白い大きな御座では、死んだ人が、大きい者も小さい者も裁きを受けているのを、黙示録2012節で見ることができます。

12:33 エジプトは、民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。人々が、「われわれもみな死んでしまう。」と言ったからである。12:34 それで民は練り粉をまだパン種を入れないままで取り、こね鉢を着物に包み、肩にかついだ。12:35 イスラエル人はモーセのことばどおりに行ない、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。12:36 主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。

 以前、主が約束されたように、出て行くときにエジプト人がイスラエル人に金や銀の飾り、また着物を与えました。彼らは奴隷の身分なので何も持っていないこと、そして後に幕屋のために用いるため、そしてこれまで奴隷であったためもらっていなかった賃金の意味も兼ねています。

12:37 イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。

 これは二十歳以上の男性です。60万人ですから女子供合わせると200万人はいたことでしょう。覚えていますか、ヤコブはエジプトに下るときに七十人しかいませんでした。このように、神の御業は、初めは卑しく見えますが、確実に増え、多くの実を結びます。

12:38 さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。

 イスラエル人ではない人たちも混じって入って来ています。つまり、イスラエル人だけでなく、他の民族もエジプトの中で奴隷であった人たちがいました。他のセム系の民族ではないかと思われます。

 この大いなる出来事によって、大きなドラマの中で、勢いで出てきた人たちもいるでしょう。また、純粋に政治的な理由によって、奴隷身分の解放として出てきた人たちもいるでしょう。動機はどうであれ、彼らとイスラエル人との違いは、「神の命令に従って出てきたのではない。」ということです。過越の祭りの教えを、モーセを通してイスラエル人は聞きました。神に礼拝して、そしてその命令に従いました。あくまでも神の御声を聞いて、それに従って出てきたのです。

 初めは同じ行動を取っています。けれども、後に彼らは荒野の生活を送っているイスラエルの共同体に貪りを引き起こします。食べるものがなくて、エジプトで食べたものがなつかしいと言って、貪ったのです。「また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。(民数11:45

 私たちは、信仰を持っている人たちのようにふるまうことができます。たとえ動機が違っても、同じように行動することはできるのです。けれども、心にあることは必ず口によって、行いによって現れ出ます。自分が、神のみことばを聞いて、それを信じて行っていることなのかどうか、よくよく吟味しなければいけません。

12:39 彼らはエジプトから携えて来た練り粉を焼いて、パン種の入れてないパン菓子を作った。それには、パン種がはいっていなかった。というのは、彼らは、エジプトを追い出され、ぐずぐずしてはおられず、また食料の準備もできなかったからである。

 先に話しましたように、パン種を入れないで食べるのは神の命令でありましたが、時間がなかったのでパン種を入れようにも入れられませんでした。

12:40 イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。12:41 四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。

 かつて主はアブラハムにイスラエルは四百年の間エジプトで苦しめられる、と言われました(創世記15:13)。おそらく、単に四捨五入して主はアブラハムに語られたのと思われます。

12:42 この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。

 夜の間も主は彼らを一瞬たりとも目を話すことなく、守り導かれました。それゆえ、イスラエルは過越の祭りの時は目を覚ましていると著者モーセは注釈を加えています。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(詩篇121:4」との約束があります。また、私たちが目を覚ましていなさい、という命令もたくさんあります(マルコ13:37等)。

C 外国人の過越 43−51
12:43 主はモーセとアロンに仰せられた。「過越のいけにえに関するおきては次のとおりである。外国人はだれもこれを食べてはならない。

 入り混じった民族がいたので、主はこれから過越の祭りの時に彼らがどのように関わればよいかを指示しておられます。

 基本的に外国人はこれを食べてはいけません。なぜなら、これは主の救いに真に預かっている者のみが食べることのできるものだからです。過越の祭りの食事を、主が最後の夜に弟子たちと持たれたように、キリストの体の一部とされている者のみで聖餐式にあずかることができます。私たちは物理的に教会にいても、本当にキリストの体に属しているのかどうか、吟味してみないといけません。

12:44 しかし、だれでも金で買われた奴隷は、あなたが割礼を施せば、これを食べることができる。12:45 居留者と雇い人は、これを食べてはならない。

 興味深いことに、外国人でも奴隷は食べることができます。雇い人は食べることができません。なぜなら、奴隷は完全にその家に属しているからです。私たちとキリストとの関係をここでは表しています。私たちが全くキリストに属している者になっているとき、キリストに捕えられて、キリストの奴隷とされている時に、私たちはキリストの中にあるあらゆる霊的祝福にあずかることができるのです。

 私たちは、ただキリストの体に雇い人のように付き合っている者でしょうか、あるいはキリストの体の一部にされているという確信があるでしょうか?

12:46 これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。

 子羊の肉を食べると言うのは、イエス様の砕かれた肉にあずかることに他なりません。弟子たちにパンを裂かれた時に、「これは、わたしのからだです。」と言われました。これを家の中だけで食べるというのは、本当に信仰の共同体になっている者たちのみがあずかるということです。

 そして「骨を折ってはならない」とあります。これはイエス様が十字架上で死なれたときに成就しました。ヨハネ19章にあります。「しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。・・・この事が起こったのは、『彼の骨は一つも砕かれない。』という聖書のことばが成就するためであった。(33,36節)」こんな細かいことまで、過越の祭りはキリストの死を表していたのです!

12:47 イスラエルの全会衆はこれを行なわなければならない。12:48 もし、あなたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、その者は、近づいてささげることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。12:49 このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである。」

 外国人で奴隷の人であっても、またイスラエル人であっても、割礼を受けていることが前提です。割礼は、神がアブラハムに、その子孫がご自分の契約の民であることを示すしるしでありました。それがなければ、過越の食事にあずかることができません。

12:50 イスラエル人はみな、そのように行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。12:51 ちょうどその日に、主はイスラエル人を、集団ごとに、エジプトの国から連れ出された。

 何度も何度も主は、「その日」と言って強調されています。何千年経っても、その日を思い起こすためです。イエス・キリストはその日を、ご自分の肉、ご自分の血を表す儀式として思い起こさせておられます。主が再び来られる時まで私たちはこの方の死を告げ知らせるのです。

A 初子の聖別によって 13
B 子孫への伝承 1−16
C 種なしパンの祝い 1−10
13:1 主はモーセに告げて仰せられた。13:2 「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」

 「聖別せよ」という命令です。神は、イスラエル人の初子を子羊の血をもって死から救い出されました。それゆえ、今、主は彼らの初子をご自分のものとして別けなさいと命じておられます。「聖別」は、元々、「別つ」あるいは「別にする」という意味があります。ある用途のために、他にいろいろある同類のものから区別して、取り出すという意味です。

 私たちは既に、「贖う」という言葉の意味を学びました。「買い取る」ということですが、対価を払って自分の所有にするという意味です。神が私たちを罪から贖う、というのは、神が私たちの罪に対する代償を支払い、そして私たちをご自分のものにするということです。したがって、贖われた私たちは神の所有となります。他にも人間はたくさんいるのですが、それから別たれて、神だけのものになりました。罪から離れ、神のご用のために存在する訳です。

13:3 モーセは民に言った。「奴隷の家であるエジプトから出て来たこの日を覚えていなさい。主が力強い御手で、あなたがたをそこから連れ出されたからである。種を入れたパンを食べてはならない。13:4 アビブの月のこの日にあなたがたは出発する。

 「アビブ」は、先ほど話した第一の月の名称です。「作物の初穂」のような意味があります。大麦の初穂を取れる時期です。

13:5 主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたカナン人、ヘテ人、エモリ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地に、あなたを連れて行かれるとき、次の儀式をこの月に守りなさい。13:6 七日間、あなたは種を入れないパンを食べなければならない。七日目は主への祭りである。13:7 種を入れないパンを七日間、食べなければならない。あなたのところに種を入れたパンがあってはならない。あなたの領土のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。

 種なしのパンの祝いの説明です。

13:8 その日、あなたは息子に説明して、『これは、私がエジプトから出て来たとき、主が私にしてくださったことのためなのだ。』と言いなさい。13:9 これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい。それは主のおしえがあなたの口にあるためであり、主が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出されたからである。13:10 あなたはこのおきてを年々その定められた時に守りなさい。

 「手の上のしるし、額の上の記念」という言葉を、ユダヤ教の人は文字通り「テフィリン(tefillin)」と呼ばれる聖句箱を、額の上と左腕に括り付けています。申命記68節には、「これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。1118節には、「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」とあり、なおさらのこと文字通り身に着けているのです。

 けれども、イエス様はこの習慣の背後にある偽善を責められました。「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。(マタイ23:5」人に見せるためになっていたのです。

 主の戒めを額の上に付け、また手に結びつけるのは、申命記1118節にあるとおり、心と魂に刻み込むためです。私たちの額に主の御言葉があれば、私たちが見るもので、つまずきになるものは避けることでしょう。また手に御言葉があれば、自分が行うことで、つまずきになるものは避けるでしょう。私たちは聖書の学びや礼拝の時に御言葉を聞くけれども、外に出たら忘れてしまうことが実にたくさんあります。それを戒めるための神の言葉なのです。

 ですからヤコブは手紙の中でこう言いました。「みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(1:23-25

C 初子の贖い 11−16
13:11 主が、あなたとあなたの先祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに賜わるとき、13:12 すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。13:13 ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。

 つまり、家畜で初めに生まれた雄はほふって祭壇の上で焼く、ということです。そして人間の男の子の場合は「贖わなければならない」とありますが、その子がほふられて焼かれるのではなく、身代わりに羊をほふり、火で焼くということであります。

 そして、ロバは、後に汚れた動物の一つに数えられます。反芻をしない動物は汚れているとされます(レビ記11:26)。それで主へのささげ物にはふさわしくないので、代わりに羊をささげなさいと命じているのです。たとえ羊をささげないにしても、それを自分のものとしていることはできず、首を折らなければいけないと命じておられます。

13:14 後になってあなたの子があなたに尋ねて、『これは、どういうことですか。』と言うときは、彼に言いなさい。『主は力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから連れ出された。13:15 パロが私たちを、なかなか行かせなかったとき、主はエジプトの地の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺された。それで、私は初めに生まれる雄をみな、いけにえとして、主にささげ、私の子どもたちの初子をみな、私は贖うのだ。』13:16 これを手の上のしるしとし、また、あなたの額の上の記章としなさい。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから連れ出されたからである。」

 皆さんは、「初子を聖別しなさい」という神の命令を聞いた時に、どう感じられたでしょうか?私は初め、「主が私を救ってくださったのは良いけれども、なぜ主は私にいろいろ要求するのか?これでは、ギブ・アンド・テイクの取り引きではないか?」と感じました。けれども、そうではありません。愛の犠牲の関係を、愛による交わりを主が私たちに願っておられるからです。

 主がエジプトの初子を殺すことは、決して望まれませんでした。主は、残虐行為によって国々を征服したアッシリヤの首都ニネベの住民についても、預言者ヨナにこう言われました。「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。(4:11」エジプトに対しても主は同じ思いを持っておられたのです。けれども、いつまでもエジプト人がイスラエルの民を行かせるのを拒んだので、その大きな犠牲を払わざるを得なかったのです。

 そこまでして、主はイスラエルの民をエジプトから出させてくださいました。そこに主の犠牲の愛があります。主なる神はそこまでして、イスラエルを愛し、イスラエルをご自分の民として祝福したいと願われました。この愛の関係を維持するには、イスラエルの民も自分のすべてを主におささげする必要があります。もしそうでなければ、「困った時の神頼み」のように、神が、必要な時に自分の願いを聞いてくれる便利屋さんになってしまいます。主は事欠いているから、初子を願われたのではなく、イスラエルとの間に犠牲の愛による関係を結びたかったからです。

 したがって、キリスト者に対しても神は自分自身をこの方に捧げるように願われています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1」神は実に、その独り子をお与えになるほどに私たちを愛してくださいました。ゆえに私たちも、自分の命そのものを神に明け渡して生きることによって、神の愛の中に留まることができるのです。

B 荒野の道 17−22
13:17 さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」13:18 それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。

 エジプトから、神が約束されたカナン人の地を見ますと、最短距離は地中海沿いに走っている「ペリシテ人の国の道」です。「ペリシテ人」は、今のガザ地区、イスラエル南部の地中海沿岸地域に住んでいました。そしてここはギリシヤ・ローマ時代に、「海沿いの道(ヴィア・マリス)」と呼ばれる国際幹線道路でありました。これが最短距離です。

 私たちがエジプトのカイロに飛行機で降り立ち、それからイスラエルに陸路で入った時も、ガザ地区に向かう道は通過することはできず、紅海のアカバ湾の北端に位置するエイラットという町に向かう道(地図ではセイル山に行く道)を通りました。なぜなら、ガザ地区はパレスチナ人の自治区になっており、今はイスラム原理主義者ハマスが支配しているからです。

 かつても同じように、安全保障上、通ってはいけない道でした。二百万人はいたであろうイスラエル人の行列は、ペリシテ人にとって大きな脅威となり、戦争になることは必至だったからです。生まれてからずっと奴隷生活をしていたイスラエルの民が、戦うことなど決してできません。それでエジプトに戻ってしまうことを主はお分かりになっていたので、「葦の海」すなわち紅海沿いの荒野の道を通るようにされました。

 後に、シナイの荒野の山のふもとで、主が降りてきてくださり、さらに十戒を始めとする数多くの戒めを神は与えられました。また、イスラエルは奇蹟によってパンが水が与えられ、主なる神の真実を学ぶことになります。単に、物理的に約束の地に入ることよりも、霊的に神の真実を知ることによって、初めて約束の地の貴さを知ることができるのです。

 私たちキリスト者も同じです。主なるイエス・キリストによって救いにあずかったと言えども、神の真実を知るために、イスラエル人と同じように荒野の生活を歩みます。以前の生活が誤っていたことは分かっているけれども、だからといって神の御霊によって約束された祝福を十分に味わっているわけではないという過渡期です。むしろ、自分の肉の醜さを知り、自分自身では何もできないことを知ることになる時期です。けれども、この時期があるからこそ、神のみに命と力があり、知恵があることを知るようになり、神に拠り頼むことができるようになるのです。

13:19 モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない。」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。

 覚えていますか、創世記の最後でヨセフが自分の生涯が終わろうとする時に、彼は父ヤコブと同じように自分の遺骸をエジプトで葬ってはならないと言いつけました。そして自分の体をミイラにして、神が約束の地に私たちを連れ上られる時に、その遺骸も携えなければいけないことを命じました。その言いつけを今、モーセはきちんと守っているのです。

 考えてみてください、ヨセフはこの出来事を約四百年近く前に予告していました。彼は神の約束を信じて、必ずエジプトから神はご自分の民を連れ上られることを信じていたのです。このように、神の約束は真実なのです。

13:20 こうして彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した。

 エタムの所からエジプトに出て、シナイの荒野に入っていきます。今のスエズの辺りです。

13:21 主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。13:22 昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。

 実に主は、荒野の旅の四十年間、雲の柱、火の柱となって彼らと共におられました。どこに行けばよいか分からなくても、主が導いてくださいます。

 ところで、砂漠の気候というのは私たち日本人が慣れている温暖気候とは両極端にあります。日本はとくに湿度が高いです。ゆえに、日中と夜間の温度差、また夏と冬の温度差はそれほどありません。日本を出れば、数多くの所で「寒いけれども暑い」とか、「暑いけれども、日陰に入ると涼しい」という経験をします。日差しによってものすごく暑いのですが、湿度が低いために日陰に入れば涼しいのです。

 それはシナイ砂漠でも同じです。日の下にいる時の温度は、日焼けサウナどころではありません。けれども、冷房がなくても、お店の中に入ればかなり涼しいのです。夜間は夏でなければ、むしろ寒いほどであると言われます。したがって、昼間が雲の柱、夜間が火の柱というのは、彼らの道しるべになっただけでなく、彼らを日差しから、また寒さから守っていたのです。

 主は、私たちを私たちが耐えることのできないような所に捨て置かれることは決してなさいません。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10:13」ぜひ、この約束を覚えていてください。

 14章も続けて学びたいのですが、時間になりました。主は、単にエジプトから出て行くことの救いを与えられるのではありません。

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