出エジプト記14−15章 「大いなる主の救い」

アウトライン

1A 紅海の分れ 14
   1B ピ・ハヒロテへの引き返し 1−9
   2B 前進を命じられる主 10−20
   3B 海に沈むエジプト軍 21−31
2A 新しい旅 15
   1B モーセの歌 1−21
      1C 主の威力 1−10
      2C 聖なる方 11−18
      3C ミリヤムのタンバリン 19−21
   2B マラの試み 22−27

本文

 出エジプト記14章を開いてください。

1A 紅海の分れ 14
 前回の学びで、13章の最後にイスラエルが荒野の旅を始めたところを読みました。1320節に、「こうして彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した。」とあります。エタムを出ますと、エジプトから出てシナイ半島の荒野に入ります。ところが、14章で主は、「引き返しなさい」と命じられます。

1B ピ・ハヒロテへの引き返し 1−9

14:1 主はモーセに告げて仰せられた。14:2 「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。14:3 パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった。』と言うであろう。

 ミグドルは山脈になっており、ピ・ハヒロテはその山麓と山麓の間に囲まれた細いところだと考えられます。つまり、出入り口が一人だけ、ということです。そして紅海に阻まれています。ですから、パロにイスラエルを捕えに行こうという気にむしろさせるように仕向けた、ということです。

 もし、私たちがこうした神の動きを自分が経験したら、どう思うでしょうか?主がこれまで自分のために道を開いてくださったのに、むしろ意地悪をするかのように元通りにされたと憤るかもしれません。神に対して不信を抱き、自分を愛していないと思うかもしれません。事実、イスラエル人はすぐにモーセに、同じような不満と不信の言葉を投げつけます。しかし、それはとんだ間違いです。主は、はるかにすぐれた御業をイスラエルに対してお見せになるために、このことを行なわれているのです。

14:4 わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。

 わたしの栄光を現す、と主は言われます。主は単に、パロの初子とエジプトの初子を殺すことに留まらず、パロ自身とエジプトの軍勢をことごとく滅ぼすようにされます。ゆえに、かえってイスラエルには一時的に不利になるようなところを通らせたのです。

 主は、このように私たちにしてくださいます。一時的には不利に思われることも、後に神の栄光を現すために許されます。私たちは先が分からないし、自分の理解は小さいですから、神は意地悪をしているとかえって悪く見てしまうのです。けれども、そのような悪いことが起こった時に、私たちは「主がここから何か良いことを行ってくださるのだ。」と信じる必要があります。

14:5 民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」

 パロがイスラエルの民を出て行かせた時、それは自ら望んで出て行かせたのではないことを思い出してください。初子が死んだので、強制的に出て行かせたのです。したがって状況が少しでも良くなれば、また引き戻して奴隷にしたいという欲が出てきます。

14:6 そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、14:7 えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。

 興味深いことに、奴隷の身分であったイスラエル人を捕えるために、国の最高級の精鋭部隊を送り込んだのです。そして、パロ自身が出動しています。極めて滑稽ですが、これだけ主から痛い目にあったので、それを自分たちの肉の力で打ち勝とうとしているのです。

 黙示録19章で、ハルマゲドンの戦いの時にも、主イエス・キリストが世界の軍隊と戦っておられる場面が出てきます。「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。(19節)」けれどもすぐに獣は捕えられ、火と硫黄の池に投げ込まれます。どんな最新兵器をもってしても、核兵器ミサイルであろうとも、主の御前ではことごとく無力なのです。

 これは私たちの個々人の生活においても同じです。肉に対して、神の武器は力があります。「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。(2コリント10:4-6

14:8 主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。14:9 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。

 イスラエルは、ここまでは信仰を持っていました。過越の祭りの命令も彼らは守り行いました。ここにおいても、彼らは主がエジプト軍を阻んでくださるだろうと思っていたに違いありません。ところが、彼らが海辺で宿営しているところまでやって来たのです。

2B 前進を命じられる主 10−20
14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」

 民は初め、正しく反応しました。「非常に恐れて、主に向かって叫んだ。」とあります。ところが、主が救ってくださることを待つことなくして、モーセに向かって不信を述べました。かつて、ヤコブもこの過ちを犯しました。自分がアラムから故郷のカナン人の地に戻る時に、エサウが400人を連れてやってきていることを聞きました。そして彼は主に叫んで祈りましたが、その後、自分でエサウを宥めるための贈り物を用意したのです。

 私たちは祈ってから信じます。祈ってから、それを神が聞いてくださったことを信じて、留まります。「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。(マルコ11:23

 民はモーセに対して不信と不満のことを述べました。まず、「エジプトではなく、荒野で死なせるつもりか?」と言っています。エジプトという「世」に彼らは住んでいたわけですが、その救い出された先が荒野だったのです。試練の道です。けれども、それはあくまでも一時的であり、その間も主がともにおられて、主が助けてくださり、守ってくださいます。そして約束の地に入ることができるのです。

 けれども、彼らはエジプトという世の思考で荒野を考えました。それは、神以外のものに拠り頼んできたのです。けれども、今は、火の柱、雲の柱として臨在しておられる主ご自身に拠り頼む生活に変えられたのです。これが難しく、私たちはしばしば、自分自身で神の要求される事柄を満たしていかないといけないと思います。けれども問題は、「私たちの頑張り不足」ではなく、「主へ明け渡し不足」なのです。

 そして、もう一つは「エジプトで仕えるほうが、荒野で死ぬよりはましだ。」と言うことです。これは、自分たちがどれだけ奴隷生活によって苦しんでいたかを忘れてしまった発言です。けれども人間はそのような存在で、たった今、見ているもの、感じているものによって全てを判断する性質を持っています。私たちは自分の記憶こそが、自分の体験こそが最も確かであると思っています。そして、「神はいない」などと言ったりするのです。けれども、どれだけ自分の心の持ちようによって、一つの客観的事実が都合よく変えられるかは知らないと言うことはできません。

 私たちの以前の生活は次のようなものです。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1-3」「いや、そんなに悪い状況ではなかったぞ!」と感じる方は、ぜひ、今、この真実を受け入れてください。これが、神が私たちに示しておられる、キリストを信じる前の姿です。

 またテトスへの手紙33節にはこうあります。「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。」これを忘れることなく、世の生活のほうが良かったなどと思ったり、言わないように戒めるべきです。

14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。14:14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

 まずモーセは、「恐れはいけない」と言いました。恐れや不安は、私たちのすべての思考と行動に影響を与えます。これは神の愛と相反するものです。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(1ヨハネ4:18」ゆえに、聖書には至る所に「恐れてはいけない」という神の励ましと慰めの言葉があります。

 そして次に「しっかり立って」と言いました。「立つ」って、とても簡単な行為ですよね。けれども、私たちはそれがなかなかできません。絶望すると、その場に倒れてしまいます。恐れると、そこから逃げようとします。じれったくなると、今、何かをしなければいけないと思います。そして、うぬぼれたら、紅海が分かれる前に海の中に飛び込もうとするでしょう。けれども、私たちは主にあって立っているのです。

 それから「主の救いを見なさい」と言いました。イスラエルが自分たちを救うのではなく、主が彼らを救ってくださいます。自分の知恵や力が何もない時にこそ、主がご自分の知恵と力で働いてくださいます。ある人がこう言いました、「人間の窮地は神の契機である。」イスラエルは、「もうこれで私たちは終わりだ。」と思いましたが、実際はエジプトの終わりなのです。私たちは、自分で今の状況を見るのではなく、主がなされることを見つめなければいけません。

 そして、「エジプト人をもはや永久に見ることはできない」と言いました。第一礼拝でも話しましたように、エジプト人が海の底で死に絶えます。死体が岸辺にまで上がってきます。これを見て、再びイスラエルを襲ってくる恐れが完全に消え去ります。私たちの古い人が私たちを支配することは完全になくなりました。永遠に救われたのです。

 そして、「主があなたがたのために戦われる」とモーセは言いました。「あなたがたに対して戦われる」と言っていないことに気を付けてください。私たちは、いつも「主が私たちに対抗しておられる。」「主が、私たちを見捨てられた。」と感じてしまいます。けれども、神は私たちの味方なのです。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31

 そしてモーセは、「あなたがたは黙っていなければならない。」と言いました。けれども、モーセはこの後、自分自身は黙っておらず、主に対して必死になって祈っていました。実に叫んでいたのです。次をご覧ください。

14:15 主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。

 モーセは、主が必ず救ってくださることを知っていました。ゆえに、まだどのように救われるか知れなかったけれども、信仰をもってそう宣言したのです。それで祈り、叫び始めましたが、主は、「前進するように言え。」と言われます。これはモーセの考えにも及ばないことでした。

 私たちは祈ることはもちろん大事です。まず祈らなければいけません。行動する前に祈るのです。けれども行動に出なければいけない時があります。「出て行きなさい」と命じられたら、出て行くのです。

14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。14:17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとからはいって来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう。14:18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」

 主が考えておられたのは、「おとり作戦」でした。イスラエルはもうこれで終わりだと思わせて、実はエジプト自身を終わりにさせます。

 先ほどから、「エジプト人の心をかたくなにする」「パロの心をかたくなにする」という言葉が何度も出てきます。それは、彼らが最後の最後まで心をかたくなにさせている状態を積極的に用いられている姿です。主は、究極までも主に反逆する人たちをも、ご自分の栄光のために用いられるのです。それが「わたしが、かたくなにする」という表現の真意です。

14:19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、14:20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間にはいった。それは真暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。

 荒野での旅を導いていた雲の柱と火の柱ですが、今、イスラエルの後ろ、エジプトの前に立ちました。

3B 海に沈むエジプト軍 21−31
14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。

 この驚くべき御業のためにモーセが行ったのは、「手を海の上に差し伸ばす」ことでした。覚えていますか、彼は四十歳の時に、自分の手で一人のエジプト人を殺しました。けれども、それは仲間のイスラエル人によってパロに知られることになり、そしてパロがモーセを殺そうとして、彼は逃げたのです。たった一人のイスラエル人さえ救い出せませんでした。

 今は、主から命じられたことを、主が行われると約束されたことを信じて、手を動かしています。これが御霊に導かれることです。主の命令は重荷とはなりません。自分で行うのではなく、主が行われるからです。けれども、私たちはその命令に自分の意志をゆだねていくという責任があります。

 ところで、「東風」によって海を陸地とされました。聖書では興味深いことに、裁きを行なわれる時、東方からの風を用いられます。なぜなら、それは砂漠地方からの乾燥した熱風だからです。ですから、ちょうどここで行っているのは、ハヤードライヤーで乾燥させているようなものです。

 そして、紅海が分かれる所の絵では、しばしばモーセの足元から水が分かれるようになっています。けれども方角的に考えると、モーセたちは海の西側にいるのですから、向こう岸のほうから乾き始めたのではないかと、私は勝手に想像しています。

14:22 そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

 紅海の分れる奇蹟において世間の本を読みますと、「これは葦の海であり、浅かった。」というものが大半です。けれども聖書自体が何度も否定しています。15章にあるモーセの歌でも、詩篇1069節を読んでも、海は深かったことを記述しています。そして何よりも、どのようにして浅い海でエジプト軍全体を溺れ死ぬことができるようにしたのでしょうか?1メートル程度の水深で殺すことができるなら、それこそ奇蹟です!

14:23 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中にはいって行った。14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。14:25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」

 彼らは、ここでようやく気づきました。けれどももう既に遅いのです。

14:26 このとき主はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」14:27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。14:28 水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。14:29 イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。

 主はこのことをイスラエルにお見せしたいと願われて、それでピ・ハヒロテのところに引き返すようモーセに命じられたのです。彼らを苦しめていたエジプト人が、このような形で滅びました。神の敵はこのようにして、徹底的な形で滅ぼされます。

 そして、イスラエルは乾いた所を歩いたのに、同じところを歩いて彼らは滅びました。これはキリストの道です。天に至る道は、神の所有の民とされた者にとっては、キリストによって自由に渡れますが、そうではない者にとってはどんなに肉の力をふりしぼっても、到達できない道なのです。

14:30 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。14:31 イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

 この大いなる出来事を通して、イスラエル人は自分が神に属する者、そして、モーセを頭として生きていく者であることを悟りました。私たちは、神を信じて、キリストを頭としていく者として、同じように水の中に入ります。それは水のバプテスマです。主を信じ、その中に生きている者は、公に自らの信仰を言い表すために、水のバプテスマを受けます。

2A 新しい旅 15
1B モーセの歌 1−21
1C 主の威力 1−10
15:1 そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。

 ここから、モーセの歌が始まります。彼らは、エジプトから自分たちが救われた後に行ったのが歌でした。私たちも、主の救いを知った者たちは、歌をもって反応します。

15:2 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。15:3 主はいくさびと。その御名は主。15:4 主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。えり抜きの補佐官たちも葦の海におぼれて死んだ。15:5 大いなる水は彼らを包んでしまい、彼らは石のように深みに下った。15:6 主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。

 主の御力をほめたたえています。「右」は、権威を力を表しています。ゆえに、イエス様は今、父なる神の右の座に着いておられます。

15:7 あなたは大いなる威力によって、あなたに立ち向かう者どもを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それは彼らを刈り株のように焼き尽くす。15:8 あなたの鼻の息で、水は積み上げられ、流れはせきのように、まっすぐ立ち、大いなる水は海の真中で固まった。15:9 敵は言った。『私は追って、追いついて、略奪した物を分けよう。おのれの望みを彼らによってかなえよう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』15:10 あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。

 主が行われたことを、さらに詳しく、如実に歌っています。その力は燃える怒りであり、また鼻の息でした。また、エジプト人の反抗も詳しく描いています。神に立ち向かい、自分の望みをイスラエル人によってかなえようという貪りと高ぶりを描いています。

 ところで、ここの箇所を読んで、紅海が浅い葦の海でないことは確かですね。水が積み上げられ、流れが堰のようになりました。

2C 聖なる方 11−18
 そして次からモーセは預言を行ないます。今起こったことを歌うのではなく、これから主が行われることを先に見て、それを歌っています。

15:11 主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。

 主の御力だけでなく、聖なる方であることをほめたたえています。エジプトの神々、また他の国々の神々には、「聖」という概念がありません。すべて、自分たちの欲求を代表するのが神々だったからです。知性であればバアル、性欲であればアシュタロテ、富であればマモン、快楽であればケモシュ、などなどです。けれども、主はこれらのものとはかけ離れたところにおられる聖なる方です。

15:12 あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らをのみこんだ。15:13 あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。

 「聖なる御住まい」とは神が約束された地であり、そこに建てられる神の幕屋であり、神殿です。

15:14 国々の民は聞いて震え、もだえがペリシテの住民を捕えた。15:15 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者らは、震え上がり、カナンの住民は、みな震えおののく。

 イスラエルの民が、約束の地に向かう時に、周囲の民が恐れおののくことを預言しています。例えばモアブは、王バラクが宿営しているイスラエルを恐れて、呪いをするバラムを雇いました。

15:16 恐れとおののきが彼らを襲い、あなたの偉大な御腕により、彼らが石のように黙りますように。主よ。あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られたこの民が通り過ぎるまで。15:17 あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる。主よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。

 約束の地に植えられて、そしてそこに聖所が建てられるように、という願いです。

15:18 主はとこしえまでも統べ治められる。」

 神による永遠の統治を願っています。このようにモーセは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた神の約束を堅く信じて、それによって御霊に満たされて信仰の言葉を語りました。そしてその信仰の言葉は、将来を予告する預言でありました。

3C ミリヤムのタンバリン 19−21
15:19 パロの馬が戦車や騎兵とともに海の中にはいったとき、主は海の水を彼らの上に返されたのであった。しかしイスラエル人は海の真中のかわいた土の上を歩いて行った。15:20 アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。15:21 ミリヤムは人々に答えて歌った。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」

 ミリヤムのことを覚えているでしょうか?モーセが赤ん坊で、母が彼をかごにいれてナイル川に入れたのですが、その様子を見ていたのが姉のミリヤムです。モーセが生まれた時彼女は13歳でしたから、今は93歳になっています。

 そしてミリヤムの歌は、モーセの歌の後に続くものでした。「「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。1節に出てくる歌詞と同じです。ですから、モーセが歌ったらすぐ後で女性の声で歌合せをしたのです。そしてタンバリンの楽器を打ち鳴らしながら、行いました。世間では、自分の思いや人間に対して歌うものしかありませんが、私たちは神に対して、歌によって楽器によって歌うのです。

 ところでミリヤムは女預言者です。彼女は主から幻や言葉を預かって語るように任じられた人でした。女性の預言者は、聖書には何人か出てきます。男の人でなければ神の言葉を取りつくことができない、というのではありません。主は女性も用いてくださいます。

2B マラの試み 22−27
 そして荒野における新しい生活が始まります。それは民のさっそくの失敗と、そして同時に主の真実を見ることができます。

15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。

 「シュルの荒野」とは、シナイ半島の北部の部分です。

15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。

 三日後に民はつぶやきました。彼らは、三日前に見た主の大いなる救いを、今、自分の目の前にある苦い水に関連づけることができなかったのです。三日前の奇蹟のことが、まだ、神が自分たちに備え、守ってくださる真実な方だということとは結びついていなかったのです。

 けれども、少しだけ彼らに同情します。その砂漠の過酷さは、尋常ではないからです。そして水がないとしたら、「もう死にそうだ。どうすればいいのだ!」と叫びたくなるのをやむを得ません。けれども、やはり彼らは、その過酷さに耐えることのできるような大いなる御業を見ました。神は恵みをもって私たちが試練を耐えることができるようにしておられます。

 そしてモーセに文句を言っています。興味深いのは、民数記でモーセは地上の中でもっとも謙虚な人であることが書かれています。柔和な人ほど、謙虚な人ほど、文句を言いやすいですね。

15:25 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

 非常に興味深いですね。一本の木を投げ入れれば、水が飲めるようになるというのは、人間の理解と知性に反します。そんなことやっても、水質が改善しないことは鼻から分かっています。けれども、主が言われたことだから、という理由だけで従うのです。そうすれば、主が癒しを行なってくださいます。

 そしてこれを神は、これからの癒しの模範とされました。つまり、主の戒めを守るのであれば、病気から守られるということです。レビ記には、肉体的にも健康でいられるための掟も書かれています。

 そして主は、「わたしは主、あなたをいやす者である。」と言われました。覚えていますか、主はモーセに、「わたしは、『わたしはある』という者である。」とご自分の名前を明かされました。ここでは、民は水が癒されること、水がきれいにされることが必要でした。そこで主が、その癒しになってくださいました。私たちに病がある人は、どうかこの癒される方に願ってみてください。また、一緒に祈りましょう。

15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

 エリムは、シナイ半島のスエズ湾沿いに南下したところにあります。そこには、象徴的な数字が並んでいます。十二の水の泉です。イスラエル十二部族と同じです。そして七十本のなつめやしの木があるとありますが、七は神の数、完全数です。このようなオアシスに出会いました。

 私たちは、試みを受けている時に苦しくなります。マラのような嫌な経験をします。けれども、主は真実な方です。大いなる救いを行なわれた方です。イエス・キリストを死者の中から生き返らせた方です。そして、今の嫌な経験に対してご自分の真実を示してくださいます。そしてその試みを通ったならば主は私たちを潤いの所へ連れて行ってくださるのです。

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