出エジプト記19−20章 「主との契約」

アウトライン

1A 主に会う備え 19
   1B 契約 1−9
   2B 聖別 10−15
   3B 降臨 16−25
2A 主の声 20
   1B 十戒 1−17
      1C 主への礼拝 1−11
      2C 人との関係 12−17
   2B 祭壇 18−26

本文

 出エジプト記19章を開いてください。ここから私たちは、これからのイスラエルの民の歴史を決定づける、そして私たちの生活も決定づける出来事が起こります。それは、神がイスラエルの民と契約を結ばれる、ということです。聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」に分けられますが、「旧約」はまさに19章以降にある神とイスラエルとの間にある契約のことです。そして、新しい契約は古い契約を基にしてそれを新たに契約であり、新契約の時代に生きる私たちもこの契約の理解は非常に大切です。

1A 主に会う備え 19
1B 契約 1−9
19:1 エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。19:2 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。

 私たちは、分かれた紅海を渡って荒野の旅をしているイスラエルの姿を読んできました。その時が第一の月14日でしたから、ここまで来るのに二か月半かかっています。その間、水がない時に主が水を与え、食べ物がない時に主が食べ物を与えてくださいました。そして、アマレクという敵にも出会いました。それがレフィディムという所で起こりました。そしてすぐそばにあるシナイの荒野に入っています。

 ここは実は、モーセにとってはよく知っている所です。エジプトから逃げて、荒野にいた時にミデヤン人のイテロの家の世話になりました。そしてミデヤン人の地から西に行くとこの山があります。主がモーセに燃える柴の中で現れたのは、このシナイ山においてです。主がモーセを召し出された時に、「わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。(3:12」と言われたのですが、四十年後の今、その言葉が実現しました。そして、19章から実に民数記10章まで、主はこの場所においてご自分の御言葉を語られるのです。

 ですから、モーセが民を導いたのは、まさに自分自身が神に出会ったところでありました。私たちが人々を霊的に導く時に、どこまで導けるかといいますと、自分が主に出会ったところまでです。ヤコブも天のはしごの夢を見たベテルまで家族を連れて行きました。教会の指導者も、また信仰者一人一人も、自分が神と出会った体験にまで人々を導くことができます。

19:3 モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。

 これからモーセは、イスラエルと神とにとって仲介者の働きを行ないます。民は山のふもとにいますが、神は山の上におられます。それでその間をモーセが行き来します。

 そして主は、イスラエルの人々のことを「ヤコブの家」と呼んでおられます。かつてヨセフの要請でエジプトに下ろうとしたけれども、少しためらっていたヤコブに対して、「わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。(創世46:4」と約束してくださいました。そして今、確かに導き上ったことを主ご自身が証ししておられます。

19:4 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

 「わたしがエジプトにしたこと」とは、もちろん十の災いをエジプトに下し、そして紅海を渡らせてくださったことです。そして「わしの翼に乗せた」と言われます。子供の鳥は大抵、母親の足につかまれて飛ぶのですが、鷲の場合は、お母さんの背中の翼につかまって飛びます。つまり、すぐにでも滅んでしまうようなかよわい存在を、母親のような愛情と守りによってここまで連れて来た、ということです。

 私たちは、神が自分を厳しいところを通るようにされた、と感じます。イスラエルの民も飲み物がなくなった、食べ物がなくなった、という経験をしました。けれども、その度に主が助けてくださいました。実は、自分が辛いと思っている時に、神が最も私たちを助け、守り、導いてくださいます。

 そして「わたしのもとに連れて来た」と言われます。主はエジプトでイスラエルと共におられたただけでなく、真にご自分の民になるために、ご自分と一つになり、交わるために、ここにまで導いてくださったのです。主は、私たちといつも共におられますが、同じようにご自分との親しい交わりに私たちを連れて行こうとされています。

19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

 第一礼拝で学びましたが、主はイスラエルにすばらしい約束を与えておられます。これは、バベルの塔によって一つの民がばらばらになってしまった結果、また国々が偶像礼拝に陥ってしまった結果、神はご自分の声に応答する一つの民を新たに造ることをお考えになりました。それが「アブラハム」です。アブラハムに対して、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。(12:2参照)」と約束されました。

 そして、アブラハムが神の御声に聞き従い、ウルの地から出て行き、また神の御声に聞き従い、イサクを全焼のいけにえとしてささげようとしたように、主はイスラエルの民全体に、ご自分の声に聞き従うように命じられています。

 そして「契約を守るなら」と言われます。この契約を結婚の時の誓約に言い換えると分かり易いでしょう。事実、預言書には、神とイスラエルの関係は、女と契りを結ぶ夫の関係として描かれています。主はカナン人の地にヤコブの家族がいる時から見てくださっていましたが、今、このようにして結婚の誓約を交わすよう促しておられるのです。そして主は、ご自分の愛をこの民に降り注がれます。

 初めに「わたしの宝となる」と言われます。そして次に、「祭司の王国」と言われます。神を知るには、世界はイスラエルを見ることによって知ることができます。イスラエルを通して、世界が神に導かれます。そして、「聖なる国民」とは、神のみに所属する民、区別された民ということです。

 第一礼拝で話しましたように、この契約はあくまでも、その契約を守るという従順が条件になっています。これが新しい契約との違いです。私たちの不従順にも関わらず、主はご自分の名誉にかけて私たちを祝福してくださる、というのが新しい契約です。イスラエルが不従順にとって得ることのできなかったものを、神はキリストにおいて得ることができるようにしてくださいました。

 ですから主は教会に対してこう言われます。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。(1ペテロ2:9-10

19:7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。19:8 すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。

 モーセは主の言葉を聞いてから、麓に降りて、そして再び民の言葉を伝えに主に告げます。民は、「みな行ないます」と口を揃えて言いましたが、主のすばらしい約束に対して素直に反応しました。

19:9 すると、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。

 民が、「主が仰せられたことを、みな行ないます」と言ったので、そのことをするようにご自分は「濃い雲の中で、あなたに臨む」と言われました。聖書の中で、主の栄光と雲が密接に関わっています。後にできる幕屋、また神殿において、栄光の雲が満ちました。そしてすでに雲の柱によって、主はイスラエルを導いておられました。そしてイエス様は、雲に乗って地上に戻ってくると約束されています。ですから「濃い雲」とは、主ご自身がその全ての栄光を携えて臨むという強い意志の表れです。

 そしてそれは、モーセを信じるためだと言われますが、それは神が直接、モーセに語られているのをイスラエルの民が聞き、確かにモーセが語るのは神の言葉であることを知るためだ、ということです。したがって聖書の最初の五書は「モーセ五書」と呼ばれます。それは神の言葉です。新約聖書においても、ユダヤ人はイエス様に「モーセはこう言っていますが・・・」と言って試しましたが、それはモーセが語っていたのは神の言葉そのものだった、という認識があったからです。

2B 聖別 10−15
19:10 主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。19:11 彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。

 主に会うために「聖別」しなさいという命令です。この意味はそのまま「聖め別つ」ということです。普段の生活で行っていることから、主にお会いするために自分を別ちなさい、ということです。ここでは象徴的に、着物を洗わせておられます。日常の営みにおいて身に付いた汚れを取り除きなさい、ということです。

 そして「三日目」に主は現れます。イエス様も三日目に死者の中からよみがえられました。「三日目」というのは、主がご自分の働きを行なわれるその備えの期間と言っても良いでしょう。

19:12 あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。19:13 それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない。しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。」

 「周囲の境」を設けて、そこに触れる者は、人間だけでなく家畜であれ、だれでも殺されなければならない、と言っています。主がご自分の栄光のそのままの姿で来られるのであれば、その栄光に触れる人々は死んでしまう、ということです。これは天がそのまま地上に下れば、このような裁きがもたらされる、ということです。アダムが罪を犯してから呪われた地はこのように、天との間に距離があるのです。

 私たちは、神様、また天国というのを簡単に考えてしまいます。多くの人が、大勢の人が天国に言っていると考えたくなります。けれども、イエス様は「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。(ヨハネ16:10」と言われました。イエス様は、父なる神のおられる天に昇られましたが、それは天が受け入れられる義は、イエス様のような義でなければいけない、ということです。神が御座を持っておられる天は、完全で、欠陥の何一つない所だということです。

 ですから、神に愛されていたダニエルでさえ、栄光の主の姿にまみえた時に、死んだようになってしまいました。ユダの罪を咎め預言していたイザヤは、栄光の主の幻を見た時に、「ああ。私は、もうだめだ。(イザヤ6:5」と言いました。栄光のイエス様の姿を見たヨハネも、死人のようになってしまいました(黙示1:17)。人間的には非の打ちどころがないと思われる人でも、神の完全性に触れるや、このようになってしまうのです。

 したがって、天が地に降りてくる出来事は、神の火の裁きの表れなのです。「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10」という祈りは、まさに黙示録に出てくる神の国の到来です。主イエス・キリストの再臨です。主がこの地に再び臨まれるにあたって、火と裁きが地上に降り注がれます。そして最後は、神に言い逆らう諸国の軍隊に対して戦われ、彼らをことごとく滅ぼすことによって裁きを貫徹されます。

 ですから「境」があります。けれども、そしてこの境を取り除かれたのは、第一礼拝でお話ししましたようにキリストの十字架です。神殿の垂れ幕を、神は、上から下に引き裂いてくださいました。

 そして、「雄羊の角が長く鳴り響くとき」に昇ってくるように、とのことです。しばしば聖書の中で角笛は、呼びかけの合図として用いられます。

19:14 それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。19:15 モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」

 この「女」とは自分の妻のことです。ですから日常行っていることで、それ自体は決して汚れたものではないのですが、主にお会いする時に、当然行っていて良いことも控えるということがあります。主に捧げるというのは、主を愛するという動機のゆえに、自分の権利さえも下ろすということです。

3B 降臨 16−25
19:16 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。19:17 モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。19:18 シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。19:19 角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。

 ものすごい光景です。密雲、雷、稲妻、そして甲高く鳴り響く角笛の音、そして煙と火もあります。これが天におられる主がそのまま地に下られると起こる現象です。

 そしてこの中に、実は神に仕えている御使いがいます。ここでは分からないかもしれませんが、詩篇6817節に、「神のいくさ車は幾千万と数知れず、主がその中に、おられる。シナイが聖の中にあるように。(詩篇68:17」とあります。ガラテヤ319節には、「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。」とあり、律法を与えられる時に神はまず御使いを通してモーセに与え、そしてモーセが民に伝えたという順番があります。

 興味深いことに、同じように主ご自身が地上に戻ってこられる啓示を受け取った使徒ヨハネも、御使いを通して受け取っています。「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。(黙示1:1」黙示録には、天使が活発に活動している姿が鮮やかに描かれています。

 そして御使いが動くときに、天から稲妻、雷、そしてラッパが吹き鳴らされる音も聞こえます。主が来られる時にはこのように、聖なる天使をともない、そして天使たちが神の言葉を与えたり、またこのような現象を地上に与えます。

 再臨には、教会のために主イエスが戻ってきてくださる空中再臨、つまり携挙と、全世界にご自身を現す地上再臨がありますが、携挙においても、地上再臨においても、似たような現象があります。テサロニケ人への手紙第一4章には携挙が書かれていますが、「主は、号令と、御使いのかしらたちの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。(16節)」とあります。そして地上再臨はテサロニケ第二1章に書かれていますが、「主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。(7節)」とあります。

 ですから私たちは、このシナイ山に現われた大いなる光景は、これから私たちが経験する大いなる再臨の型となっていることに心を留めてください。

19:20 主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。19:21 主はモーセに仰せられた。「下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。19:22 主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。」

 なんと、民また祭司たちも、境を越えて登ってこようとしていました。

19:23 モーセは主に申し上げた。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ。』と仰せられたからです。」19:24 主は彼に仰せられた。「降りて行け。そしてあなたはアロンといっしょに登れ。祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。」19:25 そこでモーセは民のところに降りて行き、彼らに告げた。

 モーセは、「まさか、そんなこと?」と思っていたでしょう。彼らに越えるなと言いつけたばかりですから、まさかその直後にそんなことはしないだろうと思っていました。ところが、そうではありませんでした。変な好奇心を抱いて、行ってみたいと思っている人々が、また祭司たちは、「モーセが近づいているのだから、私たちも行ってよかろう。」と思い上がって、登ろうとしていたのです。「聞いているけれども、行うことができていない。」という肉の弱さをここで見ます。

 ところで私たちは今、このようにして畏れ多い神の姿に、毎回、恐れを抱きながら近づかなければいけないのでしょうか?礼拝の度に、神と自分たちとの間に境を設けて、死なないように気を付けなければいけないのでしょうか?

 「はい」であり「いいえ」です。はい、というのは、シナイ山で現れた神と同じ神を私たちは礼拝しています。同じように聖なる方であり、罪や汚れを一つも受け入れない方です。けれども、「いいえ」であるのは、その罪と汚れをすべて取り除かれたキリストの血が注がれていることを心の底から信じているのであれば、自分の罪、汚れはキリストの血潮で洗い流されたことを心から受け入れているのであれば、私たちはむしろ、子供が親に近づいていくように、大胆に近づくことができるのです。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16

 そしてヘブル書12章を開いてください。シナイ山と、天にあるシオン山の対比を行なっています。18節からです。 

12:18 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、19 ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。20 彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。」というその命令に耐えることができなかったのです。21 また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える。」と言いました。

 

22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。

 私たちは、この血の清めによって、このすばらしい天の光景にそのまま入っていき、預かることができるのです!

2A 主の声 20
 そして、主はご自分の大いなる光景のみならず、私たちの行いに直接かかわる戒めによって、ご自分の聖さと正しさを示されます。

1B 十戒 1−17
1C 主への礼拝 1−11

20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 主はこれから、十の戒めを与えられます。エジプトに下した災いの回数と同じ「十」です。初めの四つはご自身を第一にしなさい、という神と人との関係を、そして残りの六つは人と人との関係を取り扱っています。私たちは、対人関係において悩むことが多いですが、初めに縦の関係が確立しているからこそ、横の対人関係も正されていくのです。

 そして主が戒めを与えられる前に、ご自分が誰であるかをはっきりと言われました。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」であります。すでに連れ出された民に対して語っておられます。つまり、これらの戒めは、これから贖われる、救われる人々に、救われる手段として与えられたのではなく、すでに救いを受けた人々に対して与えられたものです。

 多くの人々が、これらの戒めを読み、「このようにすれば救われるのだろう」という期待を抱きます。自分を戒めて、自分を清めていきさえすれば神に認められるようになるのだろうと思います。いいえ、主はイスラエルを、エジプトの奴隷状態から、彼らが何も良いことをしていない時にお救いになりました。救われたので、ご自分の宝の民となるべく戒めを与えられているのです。ですから、すでにイエス・キリストを信じて、救いを得た人々にとっては、自分が神の聖さの中に生きる指針として、その土台となる真理として聞くことができます。

20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 英語では、"You shall have no other gods before Me."とあり、「わたしの前に、他の神々があってはならない。」ということです。「神」という言葉は名前ではなく、「自分が寄りすがって、これがなければやっていけない。」という自分の人生を突き動かす対象を指します。ですから、この箇所を言い換えれば、「あなたは、わたしこそが、何にもまして第一としなければならない。」ということです。他の大切だと思われている何物よりも、わたしだけを神としなさい、ということです。

 そうすると、それは単に神社仏閣ではないことに気づきます。ヨブは、自分の財産と息子、娘たち、そして自分の健康まで奪い取られた時に、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(1:21」と言いました。財産も息子も、健康も、実に自分自身の命さえ、イエス・キリストにはまさらないという告白が、ここの「わたしのほかに、他の神々があってはならない。」ということです。

 ですから私たちは自ずと、自分のすべてのものを投げ打って主を拝する、という礼拝に導かれます。天において、教会を代表する24人の長老たちは、「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。 (黙示4:10」とあります。自分の冠も投げ出しています、最も大切な物も投げ出すのです。

20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。20:5a それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

 第二の戒めは「偶像を造ってはならない」です。イスラエル人は、エジプトにおいてあらゆる偶像を見ていました。自然界にあるものであれば、太陽の神様、地上では家畜、川においてはかえるなど、あらゆるものが神々としてあがめられていましたが、それをしてはならないということです。

 これは、「彫刻はいけない」というものではありません。後に主は、幕屋を造るように命じられますが、そこには天使のケルビムが純金で彫るように命じられています。ここでの戒めは、それを拝んだり、仕えたりしてはいけない、ということです。(ところで、「拝む」という行為は、自分の思いや知性、力をすべて神に明け渡すというものですね。そして「仕える」というのは、実際に拝む行為のために体を動かす行為のことを指します。)

 ところでなぜ、形あるものを造ってはいけないのでしょうか?それは、神は「霊」だからです(ヨハネ4:24)。神は物理的な形をもって、私たちが肉眼で確認することのできるような方ではないからです。私たちは何かを限定したいと願います。神を自分の把握できる、限定できる場所に置きたいと願います。

 けれども、私たちが目で確認できるような所に置いたとたんに、その対象は自分よりも劣った存在になります。それを動かすのも自分、操作するのも自分です。けれども、それを自分が拝むのです。したがって、拝めば拝むほど、ますます自分自身を低めていくようになります。このことを雄弁に語っているのが、詩篇115篇です。2節から読んでみます。

なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。(2-8節)

 私たちが恋愛する時、それが実質的な人格の通う付き合いになっていくときは、単なる理想像ではなく、お互いの言葉による意思疎通が必要になります。なぜなら、人間の本質も、神のかたちに造られていますから、「霊」であり、「霊」は像ではなく言葉によって交わることができるからです。ですから、私たちは「言葉」によって神に礼拝を捧げています。神の御言葉を聞き、また私たちも言葉による祈りと讃美によって主に礼拝を捧げるのです。

20:5bあなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

 私たちの神は「ねたむ」方であることを心に留めておきましょう。嫉妬というのは悪いものです。ねたみは肉の行ないの一つに数えられています。けれども、ここの「ねたみ」は、真実な愛の中にある「ねたみ」です。一対一の、真実な愛を持っている夫婦の中にあるようなねたみです。「他の人ではなく、あなただけを愛し、あなたに仕え、あなたに捧げます。」という、排他的なものです。

 これが偶像礼拝と、私たちの信仰との大きな違いです。偶像礼拝によっては「助けを得ることができた」という、一時的な喜びはあるかもしれません。けれども、持続しません。主との関わりにおいては、永続する、深化する、親密な愛を育むことができます。ですから、他に仕える神々がいてはならないのです。

 そして、ここで神を憎む者が、三代、四代と父の咎で報われるとありますが、大きく誤解されている箇所です。子も神を憎み、その次の世代も神を憎み、というならば咎が受け継がれていく、ということです。子がその反抗をやめるのであればいつでも、その悪循環を断ち切ることができます。

 そして対照的に、恵みは「千代」にまで続きます。ひとりの人がした義の行為によって、後の子孫がその便益にあずかるのです。キリスト・イエスがその方であります。二千年前に行なわれたことが、私たちすべての人に恵みとして与えられています。

20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

 第三の戒めは、「主の御名をみだりに唱えてはならない」です。これは誓いを立てる時に、その誓いを果たさない、あるいは無意味に神の名前を言い表す、ということです。あるいは、神を信じていると言いながら、神を信じているとは思えない行動をとっている時も当てはまるでしょう。

 聖書において「名前」は、非常に大切なものとされています。名前がその存在の本質を表すと考えています。ですから、「主の御名をほめたたえる」というのは、主ご自身をほめたたえているのと同じであり、主の本質をほめたたえています、ということです。

 したがって、私たちは神を敬うにあたって、礼拝をしているにあたって、主の名前が出てくる時に、本当にそう思って、自分の心と思いと、また生活の裏付けがあって、唱えているかどうか、ということです。イエス様は、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。(マタイ7:6」と言われましたが、こうであってはいけない、ということです。

20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。・・20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

 第四の戒めは、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」であります。ここに来るまで流れがありますね、まず、思いと信条の中で神を第一とする、次に礼拝行為において他の神々を造らない、それから神の御名を大切にする、そして最後に、主のみをあがめる日を覚えます。

 ここに書かれている通り、それは神が天地創造をされたのが六日間で、七日目に休まれたように、イスラエルの民も休みなさいということです。安息日はですから、「自由」を表します。これまでイスラエルの民は休みなく奴隷として働いていました。休むことができるというのは、自由人の証しです。それがイスラエルの民のみならず、奴隷も、また家畜でさえ休ませなさい、と主は命じておられます。人間ではない家畜であっても、主は自由にさせたいという憐れみを持っておられるのです。

 ですから、私たちは自分の意志を働かせて動くことを一時期止める、という勇気が必要です。主のみこころを知るために、自分の活動を休止させ、主のみをあがめる時が必要だよ、ということです。ヤコブは、商売に絡めてこう話しています。「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(ヤコブ4:13-15

 ところで、これは具体的には土曜日です。その特定の日に休むことについて、現代においても土曜日を安息日として礼拝を守っている人々もいます。ユダヤ教だけでなく、キリスト教の中にもあります。けれども、出エジプト記3117節にて、「これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。」とあります。イスラエルの民との間に結ばれた契約のしるしなのです。ちょうど、全世界の人々と結ばれたノアの契約では、全世界に洪水を引き起こさないしるしとして虹を置かれたように、イスラエルに対して与えられた印でした。

 教会はむしろ、毎日礼拝を家々でしていました。また特に、週の初め、つまり日曜日に礼拝を捧げている箇所があります(使徒20:7、1コリント16:2)。なぜなら、その日に主がよみがえられ、そしてその日に聖霊が弟子たちに降られて、教会が誕生したからです。

 そして究極的に、安息日はキリストにあって成就しました。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2:16-17」私たちの罪のための贖いの業をキリストが完成してくださったので、私たちはキリストにあって休息することができるのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:28-29

2C 人との関係 12−17
 そしてこれでようやく、対人関係になります。対人関係も、神との関係の延長にあることをよく覚えていてください。

20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

 これが第五の戒めです。神との関係を述べた後で、初めに来る戒めは「父母を敬え」です。主が初めから、子孫に神を言い伝えることを意図されていたことを思い出してください。過越の祭りについて教えられた時に、主はこう言われました。「わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。(出エジプト記10:2

 なぜ父と母を敬うのか?第一から第四までの戒めが、すべて「従順」についてのものでありました。自分の心と意志を主なる神に明け渡します。自分の生活に神を自分の主としてお迎えします。このことが地上における制度で、最もはっきり反映されているのが親子関係です。

 子供は知識をただ頭に詰めるものとして受け取りません。それは行動に移すものとして受け止めます。子供は権威というものが分かっています。したがってイエス様は言われました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4

 これは、このように聖書を学んでいる私たちには気をつけなければいけないことですね。聖書の知識を得ることを目的としていれば、この学びの目的から外れます。聖書の学びに楽しみを覚えるのはすばらしい。けれども、イエス・キリストという方に人格的に触れ、そしてこの方の権威に服従することを目的としていなければ無意味です。ですから、主は対人関係において初めに、父母を敬うことを挙げておられます。

20:13 殺してはならない。20:14 姦淫してはならない。20:15 盗んではならない。

 第五、第六、第七の戒めです。この三つの戒めに共通しているのは「尊厳」であります。「殺してはならない」と主が言われているのは、命は神が与えたもの、であります。姦淫については、性も神が与えたものであります。そして盗みについては、財産も神がそれぞれの人に与えたものであります。つまり、殺す、姦淫をする、盗むというのは、神の領域に侵犯する、神のものを盗むことに他ならないからです。

 まず、「殺してはならない」を考えてみましょう。神は既に、ノアの時代の洪水の後でノアに対して、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。(創世9:6」と言われました。カインがアベルを殺し、カインの子孫もその暴虐によって増え広がったからです。神はどんな人をもご自分のかたちに造られています。そこに命の尊厳があります。ゆえに、「死ななければならない」という死刑が殺人罪に適用しておられるのです。

 ここで混同してはいけないのは、刑の執行としての「殺す」と、憎しみ、殺意をもって行っている殺害とを聖書では区別していることです。ここの戒めは殺意をもって殺している場合を指しています。聖書には、数多く神が戦争を命じていたりしますが、自己中心的な思いから殺意をもって殺していることではないので、この戒めには当てはまりません。

 そしてイエス様は、律法は外側の行ない以上に、内側の態度を取り扱っていることを教えられました。第一礼拝で扱いましたが、兄弟を憎み、「ばか」と言ったらそれで殺人を犯したことになります。使徒ヨハネも、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。(1ヨハネ3:15」と言いました。自分が嫌っている人がこの世からいなくなってくれることを願うのなら、すでに殺人の罪を犯したのです。

 そして第六の「姦淫してはならない」ですが、男と女を一心同体に結びつけてくださったのは神ご自身です。これを壊す働きは、神ご自身への冒涜だということです。そして、主は男と女の「性別」に対して尊厳を与えておられます。女性を女性として尊ぶ、また男性をその働きを担っている者として尊ぶことが必要です。

 姦淫のみならず、主は心の中の情欲から姦淫が始まっていることを教えられました。したがって、あらゆる形の不品行、好色もこの戒めの中に入っています。

 そして第七の「盗んではならない」ですが、物を盗むのは、単にその物質を動かすことではありません。物が与えられているのは、その人に神がその財産をゆだねられたからです。ゆえに、その人の所有以上に神の所有なのです。したがって、物が盗まれた時の受ける衝撃は単に損失をした以上の、その人の人格を否定する行為です。ゆえに、この罪を犯してはなりません。

 キリスト者は、さらに一歩進んで与えることを命じられています。「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。(エペソ4:28」自分が受け取るのではなく、むしろ与えるのです。

20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

 「嘘をついてはならない」ということです。神は真理の神です。神にできないことは、嘘をつくことです。反対に悪魔は偽りの父です。悪魔は真理を話すことができません。エバを惑わした時に、悪魔は自分にふさわしいことを行なったのです。

 したがって嘘は、どこから来ているか分かりますね。悪魔がその源です。私たちは真実をもって隣人に話しているでしょうか?自分に都合の悪いことは隠し、本心ではないことを話していることはないでしょうか?嘘は人間関係を壊す前に、初めに真理の神に対して反抗していることに他なりません。

20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 これが最後の戒めです。「欲しがってはならない」あるいは「貪ってはならない」です。この戒めのみが、心の状態を取り扱っていますね。この戒めを破ると、他の戒めに波及します。盗みたいのは貪るからです。姦淫を犯すのは貪っているからです。殺すのも、貪りから来ています。

 主は、「今あなたに与えているもので満足しなさい。」と教えられます。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6:6-8

 こうして十戒を見ていきましたが、第一礼拝で学びましたように、私たちは御霊の新生によって、変えられた新しい心によって、この戒めの中に生きていくことができます。これらを肉の力で行うものなら、かえって自分がいかに罪深いかを悟ることになります。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるようになるためなのです。(ガラテヤ3:24」キリストが必要なのだ、ということを律法は悟らせるのです。

 そしてイエス様は、これらの律法を二つの律法の中でまとめられました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。(マタイ22:37-40」ですから、私たちは律法を守るといっても、神の愛の中に留まることによって守ります。主なる神を愛する、それによって自分自身のように隣人を愛する。つまり「愛の律法」によって、私たちは縛られているのです。

2B 祭壇 18−26
20:18 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。20:19 彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」

 興味深いですね、彼らは直接、主の声を聞くことが耐えられませんでした。死ぬかもしれない、と言っています。聖なる神と自分たちの間に大きな隔たりがあるのを知りました。その代わり仲介者であるモーセが聞いてください、と頼みました。

20:20 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」

 興味深いのは、モーセは初めに「恐れてはいけません。」と言いながら、次に、「あなたがたに神への恐れが生じる」ためだと言っています。初めの「恐れはいけません」は、怖がることです。けれども神は恐がらなくてもよいです。主は、ご自分の民をこよなく愛されています。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。(1ヨハネ4:18

 けれども次に出てくる「神への恐れ」は、「畏れかしこむ」方の恐れです。畏敬を表します。主が確かに生きていることを信じます。主が言われることをそのまま受け入れ、敬います。そうすれば、自分が罪を犯そうと思っても、主がおられるのだからそれはすることができないと悟ります。かつてヨセフが、自分と寝ておくれと言い寄るポティファルの妻に対して、「どうして、そのような悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。(創世39:9」と言いました。誰が見ていなくても、主は見ておられるという恐れです。

 そして、箴言にも「主を恐れることは悪を憎むことである。(8:13」とあります。私たちがただ神を怖がっているのではなく、正しく恐れているかを知るには、こう考えてください。「自分がある罪を行なって、神から罰を受ける。」と恐れるなら、それは正しくありません。主が喜ばれる恐れは、自分自身が罰を受けることではなく、主ご自身の心を傷つけてしまう、という懼れであります。自分ではなく主のことを配慮するのです。

 そして、「あなたがたを試みるため」とあります。私たちが主を試みてはいけませんが、主は試みることがあります。それは主が、私たちのことを知るためではなく、むしろ私たちが自分の心を知るためです。私たちは自分は主に聞き従えると思っています。けれども、試みの中にいるときに信仰の真価が試されます。順調な時は信じて、従っているように見えるけれども、試練の時にこそ主を本当に信じていることがはっきりするのです。

20:21 そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。

 ところでどうして民は、決して神に近づけなかったのにモーセは近づけたのでしょうか?それはすべて「信仰」によるものです。すでに四十年前にこの山で主なる神に出会っています。そして、神を知っています。神がいかに聖なる方であるかを知っていると同時に、その恵み深さも知っています。ですから、いくら恐ろしい光景に見えていても、モーセはその恵みを知っているので神に近づくことができたのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6

信仰が成長し、信仰が成熟すると、私たちはさらに神の聖なる姿に近づくことができます。どんなに厳しいように聞こえる言葉であっても、そこに神の真実な愛を感じることができます。そして、自分がどんなに厳しく取り扱われると知っていても、最後には神は自分を平和の道へ導いてくださることを知っています。

20:22 主はモーセに仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た。20:23 あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。20:24 わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。

 主はさっそく、今、宣言された十の戒めを、具体的に適用させておられます。彼らがすぐに主に礼拝を捧げたいと思うのですが、なにせ、彼らが見慣れていた礼拝は偶像礼拝だけでした。そこで主は、具体的にご自分を礼拝するときの指針を与えておられます。

 それは「祭壇」でした。それは「」によるものです。つまり、祭壇を壮麗にすることによって、祭壇に注目がいかないように、もっぱら主ご自身に注目が行くように仕向けておられます。このように、私たちの礼拝は単純でなければいけません。主ご自身のみに注意が行くように、慎み深く、へりくだったものでなければいけません。

20:25 あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。20:26 あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。

 土ではなく、石の祭壇を造りたいと願うなら、こうしなさいという戒めです。やはり素朴でありなさい、ということです。切り石によって壮麗にしてはならない、ということです。さらに、きれいにすれば当時は、ズボンははいていませんから、反射して下の足の部分が見えてしまいます。それを主は避けなさい、と言われました。これも、主のみに注目して礼拝を捧げることを教えています。

 次回は「定め」について学びます。宗教的な事柄のみならず、社会生活全般にわたり十戒を適用させて、ちょうど裁判官が用いる法律のような掟を「定め」と呼びます。

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