出エジプト記21−23章 「神の定め」

アウトライン

1A 個人に対する定め 21:1−23:9
  1B 奴隷 21:1−11
    1C 権利 1−6
    2C 保護 7−11
  2B 殺傷 21:12−36
    1C 殺人 12−17
    2C 傷害 18−27
    3C 動物 28−36
  3B 財産 22:1−15
    1C 損害 1−6
    2C 貸借 7−15
  4B 道徳 22:16−31
    1C 性 16−20
    2C 弱者 21−27
    3C 神 28−31
  5B 裁判 23:1−8
2A 国民に対する定め 23:9−33
  1B 安息と祭り 9−20
    1C 安息 9−13
    2C 祭り 14−20
  2B 敵国 21−33
    1C 主の使い 20−26
    2C 主への恐れ 27−33

 

本文

 出エジプト記21章を開いてください。私たちは前回、主がモーセを通して十戒を与えられたところを見ましたね。今日は21章から23章にかけて、「定め」を与えられます。「定め」は、今の言葉に直せば法令です。さばきつかさが、イスラエルの間で起こった事件について裁くための物差しであります。そして、前回学んだ十戒の具体的適用になります。一つ一つの定めは当時の社会を取り扱っているのでそのまま今の社会に適用することはできませんが、その背後のある原則は今の法律にも反映されています。

 そしてここを読んでいけば分かりますが、実に神の公正さを見ることができます。天の群衆は、「神のさばきは真実で、正しいからである。(黙示19:2」と叫びましたが、私たちが求めている、この地で行なわれてほしい公正を、神の中に見ることができます。

1A 個人に対する定め 21:1−23:9
1B 奴隷 21:1−11
1C 権利 1−6
21:1
あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。21:2 あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。21:3 もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。21:4 もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。

 定めの始めに来るのが、奴隷についてのものです。神はイスラエルを奴隷から救い出されたので、奴隷を保護することは神の大きな関心事の一つです。

 奴隷制度は現在、世界でもごく一部の地域を除いて存在しませんが、けれども古代の農耕文化では必要なものでした。町や商業などはなく、各人が独立した家計を持つことはできませんでした。その解決法が奴隷制度でありました。

 奴隷は七年目に無償で去ることができます。主人は奴隷の生活すべてを世話しなければならず、主人が彼を買い取ったのですから、七年目に出て行かれるのは大きな損失です。けれども、奴隷のままでいることを神は決して望まれないので、七年目の解放を命じておられるのです。

21:5 しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、21:6 その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。

 自発的に一生涯奴隷になる場合です。ここで大事なのは、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。」という言葉です。愛しているから、あえて自分の権利を放棄しています。そして、そのための儀式を行うのですが、「耳をきりで刺し通す」ことは、キリストが父なる神に従われる時の預言に出てきます。「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。(イザヤ50:4-6」ですから、主ご自身が耳をきりで開かれた神の僕であられ、そして私たちもイエス・キリストのしもべとして生きるように召されています。

 そしてここに「神のもとに連れて行き」とあります。これは「エロヒム」であり、さばきつかさと訳すこともできる言葉です。詩篇82篇に、さばきつかさらに対してその不正のゆえに裁きを行なわれることを宣言されていますが、彼らのことを、「お前たちは神々だ。(6節)」と呼んでいます。裁判官は確かに人の運命を左右する力を持っており、それゆえ神々という呼び名が与えられているのです。

 この背景を歪曲して、人は神々になると言っているのがモルモン教です。イエス様が詩篇82篇を引用されて、ご自分が神の子と呼ばれることが冒涜ではないとユダヤ人に反論されました(ヨハネ10:34-36)。その箇所を取り上げて、人は神の国で、一人一人惑星を与えられ、神々としてそこを統治し、たくさんの子孫を残すのだ、と教えます。

2C 保護 7−11
21:7
人が自分の娘を女奴隷として売るような場合、彼女は男奴隷が去る場合のように去ることはできない。21:8 彼女がもし、彼女を自分のものにしようと定めた主人の気に入らなくなったときは、彼は彼女が贖い出されるようにしなければならない。彼は彼女を裏切ったのであるから、外国の民に売る権利はない。21:9 もし、彼が彼女を自分の息子のものとするなら、彼女を娘に関する定めによって、取り扱わなければならない。

 奴隷でも女奴隷の場合、さらに弱い立場に置かれます。そのため、男奴隷よりもさらに手厚い保護が設けられています。それは、主人、兼、夫である人に捨てられるという懼れです。そのために、他の人に贖い出される、つまり同胞の民が彼女を保護するようにしなければいけないということです。でなければ、奴隷を家畜のように扱うような外国の民の手に渡ってしまいます。

21:10 もし彼が他の女をめとるなら、先の女への食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。21:11 もし彼がこれら三つのことを彼女に行なわないなら、彼女は金を払わないで無償で去ることができる。

 すべての人を男が等しく愛することはできません。必ず誰かをより愛するようになります。それに対する戒めがこれです。

2B 殺傷 21:12−36
 次に殺傷事件に対する定めを教えています。

1C 殺人 12−17
21:12
人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。21:13 ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。21:14 しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。

 前回お話しましたが、十戒の「殺してはならない」という箇所から、死刑制度反対を唱える人や、また戦争反対を唱える人たちがいます。けれども、それはここの十戒を法として適用するところで、その解釈は正反対であることがお分かりになると思います。死刑があるのは、殺人を犯す人に対する罰であって、人を殺すことへの恐れを与えるためのものです。

 そして殺意がある殺人が罰せられるのであり、そうでなければ聖書では復讐するものから免れることのできる「逃れの町」が設けられています。けれども反対に殺意があれば、礼拝がその人を免罪にするのではないことを教えています。イエス様も、兄弟の間に敵意がある時は、祭壇の供え物を置いて仲直りしなさいと命じられています(マタイ5:23-24)。

21:15 自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。

 これは、「あなたの父と母を敬え」という第五の戒めについての定めです。親に暴力を振るう子ども、または親が老いて、老いた親に暴力をふるう息子や娘は、死刑に定められます。

21:16 人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。

 誘拐事件です。誘拐は死刑に定められます。

21:17 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。

 言葉による暴力は物理的な暴力と同じようにして罰せられます。かなり厳しい処置なのかもしれませんが、現在忘れられている価値観です。親を敬うことについて、私たちは神への畏れを抱かなければいけません。

2C 傷害 18−27
21:18
人が争い、ひとりが石かこぶしで相手を打ち、その相手が死なないで床についた場合、21:19 もし再び起き上がり、杖によって、外を歩くようになれば、打った者は罰せられない。ただ彼が休んだ分を弁償し、彼が完全に直るようにしてやらなければならない。

 傷害罪に対する補償です。

21:20 自分の男奴隷、あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その者は必ず復讐されなければならない。21:21 ただし、もしその奴隷が一日か二日生きのびたなら、その者は復讐されない。奴隷は彼の財産だからである。

 これは殺人罪か傷害致死罪との違いです。殺意があるかどうかが問われています。

21:22 人が争っていて、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事故がない場合、彼はその女の夫が負わせるだけの罰金を必ず払わなければならない。その支払いは裁定による。21:23 しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。

 ここの「流産」は早産という意味です。つまり、早期の未熟児で生まれることも含まれます。そのさい、殺傷はありませんから、罰金のみで済みます。しかし、その乳児や母親が傷ついたり、死んだ場合はそれに対する報いがあります。胎児にも命があることを示す箇所です。

21:24 目には目。歯には歯。手には手。足には足。21:25 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。

 有名な「目には目、歯には歯」の箇所です。「報い」あるいは「報復」の原則がここにはあります。行なったその行ないに応じた報いを受けます。これは旧約だけではなく新約にも、全体に貫かれた教えです。キリストが十字架の上で死ななければいけなかったのも、私たちが死に値する罪を犯したからであります。

 私たちは、「敵を愛しなさい」というイエスさまの戒めを思い出しますね。もちろんキリストの弟子になるに当たって、罪の赦しを受けた者として、自分に対して罪を犯す人々を赦さなければいけません。復讐を神にゆだねるのです。けれども、神の赦しを拒む者には、自分が与えた害に相応する害をもってその人は裁かれます。

21:26 自分の男奴隷の片目、あるいは女奴隷の片目を打ち、これをそこなった場合、その目の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。21:27 また、自分の男奴隷の歯一本、あるいは女奴隷の歯一本を打ち落としたなら、その歯の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。

 当時の外国では、奴隷に対しては何をしても構いませんでした。けれども神の目には奴隷も人間であり、尊厳があります。たった歯一本でも、自由にしてあげなければいけません。これを現代版に直すと、仕事中に労災事故が発生して、その人がもう働けなくなったとき、その人に失業保険と医療費ともども払わなければならない、ということです。

3C 動物 28−36
21:28
牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。21:29 しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。21:30 もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。21:31 男の子を突いても、女の子を突いても、この規定のとおりに処理されなければならない。

 動物も死刑になりますが、ここにも神が生命を本当に尊んでおられることが分かります。人であろうと動物であろうと死刑にすれば、もう決して人を殺すことはできないからです。ただ、監督しなかった持ち主に対しては、遺族が賠償金で良いと同意した場合は、相当の賠償金を払うことによって死刑を免れます。

21:32 もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。

 イスカリオテのユダが、イエス様を裏切るために祭司から受け取った金額が銀貨三十シュケルでした。つまりイエス様は奴隷の価格を付けられたのです。

21:33 井戸のふたをあけていたり、あるいは、井戸を掘って、それにふたをしないでいたりして、牛やろばがそこに落ち込んだ場合、21:34 その井戸の持ち主は金を支払って、その持ち主に償いをしなければならない。しかし、その死んだ家畜は彼のものとなる。

 今度は動物が死んだ場合です。当時の井戸は岩を下に掘り下げた貯水槽だったので、ちょうどマンホールのようになっていました。

21:35 ある人の牛が、もうひとりの人の牛を突いて、その牛が死んだ場合、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければならない。21:36 しかし、その牛が以前から突くくせのあることがわかっていて、その持ち主が監視をしなかったのなら、その人は必ず牛は牛で償わなければならない。しかし、その死んだ牛は自分のものとなる。

 ここでは、動物と動物の間にある殺傷事件です。

3B 財産 22:1−15
 次は十戒の「盗んではならない」に関わる定めです。

1C 損害 1−6
22:1
牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。

 盗んだ物は、その分を返せば良いだけでなく、その五倍または四倍をもって返さなければいけません。それは、盗むことが単なる物が他の人に移動することではなく、もっと大切なこと、つまり、霊的なこと、精神的なことに関わってくるからです。盗まれた人ならこのことが理解できるでしょう。自分のものが取られるのは、その所持品以上に、神によって任された自分の管理が侵されたのと同じだからです。これを回復するには、数倍の賠償が必要になります。

22:2 ・・もし、盗人が、抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、血の罪は打った者にはない。22:3 もし、日が上っていれば、血の罪は打った者にある。・・盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし彼が何も持っていないなら、盗んだ物のために、彼自身が売られなければならない。

 盗人を殺しても、それは自衛の方法として赦されます。けれども、白昼の中で殺したら、それは自分の所持品を守る以上に、その人が殺意をもって殺したとみなされます。

22:4 もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かに見つかったなら、それを二倍にして償わなければならない。

 たとえ盗んだ物が見つかって所有者に戻ったとしても、償いとしてただ返すのではなく二倍にしなければいけません。

22:5 家畜に畑やぶどう畑の物を食べさせるとき、その家畜を放ち、それが他人の畑の物を食い荒らした場合、その人は自分の畑の最良の物と、ぶどう畑の最良の物とをもって、償いをしなければならない。22:6 火災を起こし、それがいばらに燃え移り、そのため積み上げた穀物の束、あるいは立穂、あるいは畑を焼き尽くした場合、出火させた者は、必ず償いをしなければならない。

 損害を与えることも、ある意味で盗むことです。ただその意図はなかったので、数倍にして償うことはありません。

2C 貸借 7−15
22:7
金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。22:8 もし、盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の財産に絶対に手をかけなかったことを誓わなければならない。22:9 すべての横領事件に際し、牛でも、ろばでも、羊でも、着物でも、どんな紛失物でも、一方が、『それは自分のものだ。』と言う場合、その双方の言い分を、神の前に持ち出さなければならない。そして、神が罪に定めた者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。22:10 ろばでも、牛でも、羊でも、またどんな家畜でも、その番をしてもらうために隣人に預け、それが死ぬとか、傷つくとか、奪い去られるとかして、目撃者がいない場合、22:11 隣人の財産に絶対に手をかけなかったという主への誓いが、双方の間に、なければならない。その持ち主がこれを受け入れるなら、隣人は償いをする必要はない。22:12 しかし、もしそれが確かに自分のところから盗まれたのなら、その持ち主に償いをしなければならない。22:13 もしそれが確かに野獣に裂き殺されたのなら、証拠としてそれを持って行かなければならない。裂き殺されたものの償いをする必要はない。22:14 人が隣人から家畜を借り、それが傷つくか、死ぬかして、その持ち主がいっしょにいなかった場合は、必ず償いをしなければならない。22:15 もし、持ち主がいっしょにいたなら、償いをする必要はない。しかし、それが賃借りの物であったなら、借り賃は払わなければならない。

 いろいろな例が書かれていますが、貸借をしている場合に盗まれた時についての定めです。借りている時に盗まれた時は誓約を立てて、自分は手を触れなかったことを宣言します。物証が提出できる時は提出します。

4B 道徳 22:16−31
1C 性 16−20
 次は「姦淫してはならない」という戒めに関わる定めです。

22:16 まだ婚約していない処女をいざない、彼女と寝た場合は、その人は必ず花嫁料を払って、彼女を自分の妻としなければならない。22:17 もし、その父が彼女をその人に与えることを堅く拒むなら、その人は処女のために定められた花嫁料に相当する銀を支払わなければならない。

 これは婚前交渉についての定めです。婚前交渉をしたときには、必ずその人と結婚しなければいけない、というものです。「花嫁料」とありますが、当時は女性が離縁されたら、現在のように独身女性への就職の間口や、母子家庭への福利厚生がありませんから、独りで暮らすことは非常に難しくなります。したがって、彼女の父が彼女を養うことになりますが、そのときの生活費、つまり現在の慰謝料を保証金として与えます。

 十戒の中の「姦淫」とは婚外交渉のことです。では、婚前交渉は良いのか、というと、決してそうではありません。旧約聖書、また新約聖書もそうですが、結婚が書かれている箇所を注意深く読んでいくと、男女の性的結びつきがそのまま結婚として定義されていることに気づきます。有名な、初めの結婚であるアダムとエバの結婚について説明する箇所でも、「ふたりは一体となる」とあります。肉体関係を持つことは、男と女が一生涯、霊的に、精神的に、また社会的に一組の夫婦として生きていくことの証しとなっているのです。

 ですから、肉体関係を持つことと結婚を引き離すことは決してできず、ここで婚前交渉をしたのなら必ずすぐに結婚して、一生涯その人を自分の妻にしなさい、という命令になっています。

22:18 呪術を行なう女は生かしておいてはならない。

 オカルトや占いを行なう者に対する定めです。そのようなことをする者は死罪です。ここで「女」とありますが、それは聖書を見ても、また実際を見ても、女が霊媒師であることが多いからです。男性への雑誌に占いの記事はあまり見ませんが、女性向け雑誌には多いですね。

 なぜいけないのかと言うと、お遊びに見える占いやチャネリングは、多くの場合、何らかの霊と交流することによって、それらの知識を得ます。神は霊です。神は、霊において人と交わりをすることを願っておられ、もし人が異なる霊と交わりをするなら、霊的姦淫の罪を神に対して犯すことになります。

 そして、悪霊は悪しき霊です。神は人の最善を考えておられますが、悪霊どもは人を破壊することを考えています。人を恐れや不安を駆り立てさせ、または他のあらゆる汚れた行ないへと誘い込み、そのとりこにさせようとします。それゆえ、呪術者は死罪に定められます。

22:19 獣と寝る者はすべて、必ず殺されなければならない。

 獣姦とも呼ばれる行為ですが、これも死罪です。当時の世界で異教の世界では頻繁に起こっていたことでしょう。現代においても、この問題は蔓延しています。その結果、性病はもちろんのこと、ある調査では、エイズの発祥が獣姦を犯した人からのものである、という報告があります。神は、律法を通して、ご自分が聖であることを示しておられるだけでなく、人間が幸福に生きるために、私たちを守ろうとされていることがここから分かります。

22:20 ただ主ひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶しなければならない。

 十戒の中にある、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」の戒めの適用です。偶像礼拝の行為は、聖絶です。これら偶像礼拝行為には、しばしば、先に書かれている性的倒錯が含まれていることです。宗教儀式の中で、淫らな行為をします。神が、聖絶しなさいと命じられている大きな理由は、そこにもあります。

2C 弱者 21−27
22:21
在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。22:22 すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。22:23 もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。22:24 わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。

 在留異国人への保護です。あなたがたもエジプトにいたのだから、どのような苦しみであるかを一番知っているのはあなたである、ということです。そして未亡人や孤児に対する配慮もあります。今のように、女性が働ける職場や、また孤児院などの制度が整っているわけではありませんから、乞食に近い生活を強いられます。ゆえに、彼らを虐げる時の裁きは厳しいです。主がどれほど、ご自分の瞳のように彼らを気にしておられるかが分かります。

 そして教会の中にも、「弱い人を受け入れなさい」という原則が働いています。強い人が自分を喜ばせるのではなく、弱い人の弱さを担うことが書かれています(ローマ15:1-2参照)。さらにヤコブの手紙では実際に、私たちが無意識に貧しい人と富んだ人を差別していることが書かれています。

22:25 わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。22:26 もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。22:27 なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。

 主はこのような苦境にいる人々の声をしっかり聞いておられます。ヤコブの手紙にも、「取り入れをした人々の叫び声は、万軍の主の耳に届いています。(5:4」と書いてあります。

3C 神 28−31
22:28
神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。

 「主の御名をみだりにとなえてはならない」に関係する定めです。口を慎むことへの戒めです。新約聖書にも、上の権威はすべて神から来たものであり、人間の制度に従い、王や支配者たちのために祈り、感謝をささげなさい、と書いてあります。

22:29 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を、遅らせてはならない。あなたの息子のうち初子は、わたしにささげなければならない。22:30 あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にわたしに、ささげなければならない。

 初物あるいは初子を主にささげる定めです。初子は、動物の場合は祭壇でいけにえとしてささげますが、人間の場合はもちろん、そのようなことは行ないません。けれども、息子を贖うための贖い金を支払います。初物また初子は、もはや自分のものではなく、主のものです。

 これはとても大切な原則です。私たちが神を信じ、キリストを信じるということは、自分の余暇として信じるのでもなく、趣味や興味対象として信じるのでもありません。自分にとって、かけがえのない存在、自分のすべてなる方として、信じ、受け入れます。ですから、自分の一番大切なものを主にささげることによって、自分が自分のすべてのものを主にささげていることを示すことができます。優先順位が主になるのです。ですから、献金も自分に収入があったとき、そこからすぐに自分で決めた割合の額を主にささげます。残り物をささげるのではありません。

22:31 あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない。野で獣に裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは、犬に投げ与えなければならない。

 死体は汚れたものとみなされます。そして、「犬」に投げ与えなければならないとありますが、聖書では、「」が、侮辱に値する者の形容としてよく使われています。

5B 裁判 23:1−8
 次は、「偽りの証言をしてはならない」という戒めに関わる定めです。

23:1 偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。23:2 悪を行なう権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。23:3 また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。

 裁判においては、公正さが求められます。人をかたより見ることは許されません。証言者は、両極の誘惑がありますが、それは権力がある者に取り入ることと、その逆に貧しいのだから助けなければと思って、かたより見ることの過ちです。

 神は人を分け隔てするような方ではない、と聖書に書いてあります。神の前に人が立ったら、その人は、「私は億万長者で、また国の指導者でもありました」と言っても、神にはまったく無意味です。あるいは、「私は貧しかったので、このようなことをしたのです。」と環境のせいにすることもできません。神の前に立ったら、すべての人がまったく同じところに立ちます。

23:4 あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。23:5 あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。

 これはやってしまいそうですね。自分が嫌だなあと思っている人が困っているときに、「いいや、そのままにしておけ。」と思ってしまいます。けれども、公平に、等しく親切にしなければいけません。

23:6 あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。23:7 偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。23:8 わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を、盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。

 免罪に対する戒め、そして賄賂に対する戒めです。私たち日本では賄賂は法律で厳しく罰せられるので、それほど頻繁に起こりませんが、けれども人脈や、人間関係で人の判断を曇らせることはしばしばあります。その結果、正しい人が弱い立場に置かれるのです。

2A 国民に対する定め 23:9−33
 そして9節から個人間の訴訟問題ではなく、国民の義務が述べられています。

1B 安息と祭り 9−20
1C 安息 9−13
23:9
あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。23:10 六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。23:11 七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。23:12 六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。

 安息日を守り、それを聖なる日とせよ、というのが十戒の戒めでしたが、安息日だけでなく安息年も設けられています。六年間、耕作してもよいが七年目は土地を休ませます。そして土地だけでなく、貧しい人たち、在留異国人ややもめなどに、その残りを食べさせ、また労働からも解放されるためです。主は私たちに対して、気前よくなりなさいと命じられています。目の前の収益に固執するのではなく、貧しい人たちの福利を考えよということです。

23:13 わたしがあなたがたに言ったすべてのことに心を留めなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。

 カナン人の地に入ってから、彼らの神々の名を口にしてはならない、という定めです。クリスチャンにも同じような勧めが行なわれています。あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、ぶだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。(エペソ4:3

2C 祭り 14−19
 次は祭りについての規定です。

23:14 年に三度、わたしのために祭りを行なわなければならない。23:15 種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたとおり、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。それは、その月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、何も持たずにわたしの前に出てはならない。23:16 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。23:17 年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。

 イスラエルに神は、例年の三大祭を定めておられます。一つは、すでに学びました過越の祭りです。「種を入れないパンの祭り」とありますが、これは過越の祭りとセットに祝われます。それから、「勤労の初穂の刈り入れの祭り」というのは、小麦の初穂のことであり五旬節と呼ばれるものです。五月辺りに祝われます。もう一つは、収穫祭です。秋、十月に行なわれます。この時は、ラッパを吹き鳴らす日から始まり、贖いの日(ヨム・キプール)において、自分の罪の悔い改めを行ない、それから仮庵の祭りという収穫祭を祝います。過越の祭りと五旬節と仮庵の祭りが、三つ出なければいけない三大祭りです。

 このことを知ると、なぜイエスさまが十字架につけられたとき、大ぜいのユダヤ人がいて、イエスさまが十字架につけられたのを見たのかを理解することができます。またペンテコステの時に、世界中からのユダヤ人が来ていて、弟子たちが他国の言葉で語っているのを理解できたのかを説明できます。どちらも、世界中からユダヤ人がやってきて、十字架の時は過越の祭りを、弟子たちに異言が与えられたときはペンテコステを祝うために、エルサレムにやって来ていたからです。

23:18 わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えてささげてはならない。また、わたしの祭りの脂肪を、朝まで残しておいてはならない。

 「パン種」は罪や悪を表しています。キリストの流された血によって、私たちから罪が完全に取り除かれ、きよめられることを、種なしパンが表しているので、種ありパンをささげたら、その象徴が壊れてしまうことになります。

 また「脂肪は主のものである」との命令がレビ記にあります。脂肪を朝まで残していけないというのは、主の働きがすべて完成して、他には残されているものはない、という意味が含まれているからです。神がキリストにあって、私たちが救われるためにすべてのことをしてくださいました。

23:19 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。

 この定めは少し唐突のように聞こえますが、当時、カナン人たちのならわしで、子やぎをその母親の乳で煮るという行為がありました。異教のならわしを真似てはいけない、ということと、また母の乳で子を煮るという残酷なことをしてはいけない、という両方の意味が含まれています。

 この定めから、ユダヤ人は厳しい食物規定を設けました。それは、肉製品と乳製品を同時に食事の中で取ってはいけない、というものです。ですから、ステーキを食べて、食後にコーヒーを読むときに、クリームを入れてはいけない、ということになり、実際に多くのユダヤ人がその掟にしがたっています。また、チーズバーガーは食べません。乳製品と肉製品の組み合わせだからです。

 けれども、これは私の友人のユダヤ人クリスチャンが言っていましたが、「こんなばかげたことはありません。」創世記にて、アブラハムとサラが三人の旅人を招いたとき、凝乳と子牛をほふったものをもってもてなしている場面が出てきますが、凝乳とはヨーグルトのことす。初めのユダヤ人であるアブラハムが、主の使いに肉製品と乳製品の食事を同時に出しているのだ、とユダヤ人クリスチャンが力説していました。

2B 敵国 20−33
 そして主は、イスラエルの民に対する定めのまとめに入られます。約束の地に入ってから、敵に対して戦うときの話です。

1C 主の使い 20−26
23:20
見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。23:21 あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。23:22 しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行なうなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。

 イスラエルが約束の地に入るとき、主からの使いが先頭に立つということですが、これは誰のことでしょうか?大天使には、ミカエルやガブリエルがいます。特にミカエルは、ダニエル書にて、イスラエルのために戦う君として登場しますから、ミカエルのようにも見えます。けれども、ミカエルには主の名前があるわけではありませんし、御使いには「罪を赦す権威」が与えられていません。

 ヨシュア記を読むと、エリコの城壁のところまで行ったヨシュアに対して現われた、主の使いがいます。この方は、モーセに燃える柴の中で現われた主ご自身であり、神です。つまり、神であられるけれども地上に遣わされた方、イエス・キリストご自身です。イエスさまは、「人の子に罪を赦す権威が与えられている」と言われて、天井から引き下ろしてこられた足なえの男をおいやしになりました。罪を赦す権威をお持ちです。また「イエス」という名前は、「ヤハウェは救いである」という意味であり、神の名前もその中にあります。ベツレヘムで赤ん坊として現われる前の、イエス・キリストです。

23:23 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。23:24 あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。23:25 あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。23:26 あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。

 約束の地に入ったとき、彼らの異教の宗教やならわしを徹底的に打ち壊さなければいけません。それは、カナン人たちはあまりにも堕落していたためであり、イスラエル人が彼らをさばく器として用いられるためです。また、イスラエル人たちが、神の怒りを招くそれらの忌まわしい行ないに真似することがないようにするためです。肉にしたがって死ぬか、あるいは御霊にしたがって肉の行いを殺し、いのちを得るかの二者選択です。これはクリスチャンでも同じです。

 そして副次的にもたらされる神の祝福があります。イエスさまが、神の国とその義を第一に求めなさい、そうすればこれらのものは加えて与えられると言われましたが、私たちが気にしなければいけないのは、神の国と義であり、それを第一にしていれば、他の必要や祝福はついてくる、ということです。

2C 主への恐れ 27−33
23:27 わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこにはいって行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。23:28 わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。

 イスラエル人たちを恐れさせるために、その恐れをカナン人たちに送る、と約束されています。ヨシュア記に、エリコの住民が恐れおののいていることが、遊女ラハブによって報告されました。ギブオン人らも、イスラエル人を恐れて、変装して彼らと盟約を結ぶことを選びました。

23:29 しかし、わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。23:30 あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。

 約束の地にはいったら、主が一挙にそこの住民を追い出してくれれば、さぞかし楽なのに、とイスラエル人は思ったかもしれませんし、私たちも思います。けれども、主は徐々に追い払おう、と言われています。

 これはクリスチャンたちの歩みと同じです。私たちの目標はキリストのようになることですが、御霊がその似姿に変えていってくださいます。だったら、一度に変えてくれればよいのに、と思ってしまいますが、もし肉の領域を一気に見させられたら、たぶん私は気絶してしまうでしょう。クリスチャンになったばかりのときに平気だったことは、今考えると、かなりやばいことだったのですが、その時に主はその肉の領域を見せないで、今になって見せてくださっています。徐々に、なのです。

23:31 わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また、荒野からユーフラテス川に至るまでとする。それはその地に住んでいる者たちをわたしがあなたの手に渡し、あなたが彼らをあなたの前から追い払うからである。

 約束の地の領土を知っておくことは大事です。アブラハムにも約束されていましたが、南北にはエジプトにある川からユーフラテス川まで、地中海に面するところからヨルダン川まで、というのが領域です。ヨシュアの時代、またダビデやソロモンの時代に、この領域に近づきましたが、イスラエルの不従順のため、外国の敵に占領されて、完全に所有することはできていません。今でもそうですが、主が戻って来られるとき、恵みによってイスラエル人たちを救われるとき、約束の土地は完全にユダヤ人たちの所有として回復します。

23:32 あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。23:33 彼らは、あなたの国に住んではならない。彼らがあなたに、わたしに対する罪を犯させることのないためである。それがあなたにとってわなとなるので、あなたが彼らの神々に仕えるかもしれないからである。」

 彼らとの契約を結んではならない・・・これは、彼らの価値観を共有してはならない、と言い換えられるでしょう。パウロがローマ人たちに、「この世と調子を合わせてはいけません」と言いました。また、コリント人たちにこのように言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。(2コリント6:14-16a

 こうして、「定め」について見てきました。神は、周りの異教徒の中で生きていくなかで、自分たちは聖なる民でいなければいけないことを教えました。私たちが聖なる者として生きる指針を与えてくれます。

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