出エジプト記24−26章 「主の臨在」

アウトライン

1A シナイ山にて 24
   1B 契約の確認 1−11
   2B さらなる戒め 12−18
2A 幕屋にて 25−26
   1B 祭具 25
      1C 奉納物 1−9
      2C 契約の箱と贖罪蓋 10−22
      3C 供えのパンの机 23−30
      4C 燭台 31−40
   2B 覆い 26
      1B 幕 1−14
      2B 板 15−25
      3B 横木 26−30
      4B 垂れ幕と入口の幕 31−37


参照サイト
25章以降の幕屋の造りについては、以下のサイトをご参照されると良いでしょう。
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本文

 出エジプト記24章を開いてください。私たちは前回、神がシナイ山にて十戒と、それに続く「定め」を与えられたところを読みました。裁判官が法令として使うことのできる「定め」と、国民生活として在留異国人ややもめ、貧しい人の権利を守ること、また祭りを行なうこと、そして約束の地に入る時に敵に打ち勝つ約束と、神々と契約を結んではいけないなどの指針を与えられました。25章は、これらの言葉をモーセに告げられてからの話です。

1A シナイ山にて 24
1B 契約の確認 1−11
24:1 主は、モーセに仰せられた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のところに上り、遠く離れて伏し拝め。24:2 モーセひとり主のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」

 アロンとその息子ナダブとアビフは後に祭司として任命される人々です。ナダブとアビフについては、レビ記10章に出てきますが、彼らは異なる火をささげ罪を犯したので殺されてしまいます。そして、イスラエルの長老七十人も主との交わりの中に招き入れられます。

 けれども、それでも主との距離は保たれています。一定のところまで近づいたら、それ以上は近づくことができません。モーセのみが近づくことができます。このように古い契約においては、つねに仲介者が必要です。カトリックは、マリヤであるとか、神父であるとか、聖人であるとか、仲介者を立てて祈りを捧げますが、新しい契約では仲介者は唯一、イエス・キリストのみです(1テモテ2:5)。

24:3 そこでモーセは来て、主のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。「主の仰せられたことは、みな行ないます。」24:4 それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。

 モーセが初めに、イスラエルの民に神の言葉を告げた時も彼らは、「主の仰せられたことは、みな行ないます。」と答えました。そして祭壇を築き、十二部族を表す十二の石の柱を立てました。主が前に、祭壇を造る時は土によるものでなければならない、また石の祭壇でなければならないと言われましたが(20:24-25)、その通りにしました。

 そしてモーセは、主のことばを「書きしるし」ています。ここから初めて、主の言葉が書き記された物となっていきます。そして今、私たちの手に創世記から初めの五書を、モーセが書き記した律法として存在しているのです。

 したがってこれらは神の言葉であり、誤りがないのです。イエス様もこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(マタイ5:18」私たちの思いや考え、また自分自身の気持ちによって、これらの言葉を変えようとするのは決してあってはなりません。

24:5 それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。

 アベル、ノア、そしてアブラハム、イサク、ヤコブも行った全焼のいけにえを、モーセもささげました。これは動物の体全体を焼きつくすものです。主にすべてを捧げると言う献身を表します。そして、和解のいけにえは火で焼いてのち、一部は捧げる者も食べます。これは交わりのいけにえであり、神と自分が交わる喜びを表します。

24:6 モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。24:7 そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」24:8 そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」

 19章において主とイスラエルの民が結ばれた契約を、ここでは確認しています。その時に使われたのが「血」です。同じいけにえの血を、半分は祭壇に、そして残りの半分は民に振りかけました。このことによって「血の契約」、つまり契約違反の時は「血をともなう」という、その遵守の堅さを表す契約を履行したのです。

 けれども、それだけではありません。この血は民に対して「罪の赦し」の意味も含まれました。罪を犯した後に、その赦しを得るために、神が代わりに犠牲となる動物を受け入れられることによって、その罪の罰である死から免れさせる、というものであります。ヘブル人への手紙919節から22節までを読みます。

19 モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、20 「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。」と言いました。21 また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

 大事なのは、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」というところです。私たちは罪の赦しを得るために、さまざまな行動に出ます。ある人は、罪を償おうとするために、宗教的になります。一生懸命教会で奉仕をしたり、献金をささげたり、いろいろな行動に駆り立てられるのです。良心にある咎めを消そうとするがばかりに、それを抑圧するために善行に駆り立てられるのです。

 そしてある人は、神経症的な行動に出ます。罪責感から、独り事をたくさん話したり、自分を打ちたたいてみたり、自分を傷つけることもあります。けれどもどちらによって、罪は消え去ることはありません。

 唯一、血が流されることなのです。そして旧約の時代は動物がほふられ、その血が流されるのを見て、「この罪のために、大切な命が注がれている」ということを意識することができました。そして終わりの日には、ご自分の子イエス・キリストの血が注がれたことによって、私たちは完全な良心の清めを経験することができます。

24:9 それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。24:10 そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。24:11 神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。

 シナイ山に主が降りて来られた、というのは、天におられる神がその御座に着いたまま降りて来られたことを意味します。そのため、シナイ山には雲や稲妻、角笛の音が鳴り響いて、イスラエルの民は死ぬかと思うほど恐れたのです。神は聖い方であり、罪が入り込んだ地上に対しては怒りをもって臨まなければいけないからです。けれども主はここで、一定の枠組みの中で彼らにご自分の天におられる姿をお見せになりました。第一礼拝のメッセージをお聞きください、これはまさにエゼキエルやヨハネが見た、天の光景と似ています。

 そして彼らは「神を見た」とありますが、それは神の栄光の一部のみを見たに過ぎません。モーセがさらに神に近づいていきますが、彼らは許されませんでした。まだ距離があるところで、神の栄光の一部を垣間見たのです。

 そして、「飲み食いをした」というのは交わりを意味します。先ほど屠った和解のいけにえもここで食べたことでしょう。食べるのは、当時の社会では「交わる」ことを意味しました。一つのものを互いの腹の中に入れることによって、互いに一つになったことを意味します。それでイエス様はラオデキヤにある教会にこう言われました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示3:20

2B さらなる戒め 12−18
24:12 主はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」24:13 そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。

 主は、次の25章から31章まで続く「教え」を与えられるために、モーセをさらにご自分に引き寄せられます。「従者」ヨシュアも付いて行っています。彼は、アマレク人との戦いにおいてイスラエル軍を率いた人ですね。モーセの死後に、イスラエルの指導者となる人です。

24:14 彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに帰って来るまで、ここにいなさい。ここに、アロンとフルとがあなたがたといっしょにいます。訴え事のある者は、だれでも彼らに告げるようにしなさい。」

 ところが、32章以降に、アロンはきちんと民を治めることができなかったことが書かれています。

24:15 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。24:16 主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。24:17 主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。

 この雲は、神の栄光の雲です。ゆえに雲でもあり、火のようにも見えます。荒野では、雲の柱、火の柱になりましたね。ヘブル1229節には「私たちの神は焼き尽くす火です。」とあります。

24:18 モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

 四十日間いました。興味深いことに、申命記99節には、モーセはこの間、飲むことも食べることもしなかった、とあります。主イエスが断食をされた時も40日間で、飲むことも食べることもされませんでした。これは試される期間であることが分かります。モーセにとっては、天の栄光を見ることにおいて試されましたが、イエス様にとってはこの地上にある誘惑に遭うことにおいて試されました。

参照サイト
25章以降の幕屋の造りについては、以下のサイトをご参照されると良いかと思います。
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2A 幕屋にて 25−26
1B 祭具 25
1C 奉納物 1−9
25:1 主はモーセに告げて仰せられた。25:2 「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。25:3 彼らから受けてよい奉納物は次のものである。金、銀、青銅、25:4 青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、25:5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、25:6 燈油、そそぎの油とかおりの高い香のための香料、25:7 エポデや胸当てにはめ込むしまめのうや宝石。

 主はこれから、幕屋を造ることを命じられますが、それに必要な材料を主に対して捧げるように命じられています。その捧げる心を主は強調されていますが、「すべて、心から進んでささげる人」です。ここに、豊かにささげる、自発的に、喜んでささげる人の心が見えます。

 私たちの神が、分け与える神であることを思い出してください。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32」主はいやいやながら、私たちの罪のために御子を死に渡されたのではなく、私たちを愛するがゆえに、自ら進んでこの子をおささげになりました。したがって、この与える神を私たちは礼拝しているのですから、与える神と交わっているのですから、私たちの心も喜んで捧げたいと願うようになるのです。

 そして、喜んでささげる人は計算をしません。後にイスラエル人たちが捧げた時に、祭司たちがモーセのところに来て、「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。(36:5」と言いました。イエス様が死なれる前に、マリヤが高価な香油をイエスの御足に注ぎました。それをイスカリオテのユダは、「なぜ、この香油を売って、貧しい人に施さなかったのか。(ヨハネ12:5参照)」と言ったのですが、イエス様は、「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。(7節)」と言われました。「教会にはまだお金があるから、ささげなくても良かろう。」とか、「会費のように考えれば良い。」とかして、計算しなかったのです。

 そして捧げ物は、嫌々ながら行うものではありません。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(2コリント9:7」ここの「喜んで」は、「陽気で、浮かれている」という意味を表します。いかがですか、私たちが教会として集うということは、こうした喜びに満ちた、感動に満ちた、ささげる構成員による共同体なのです。

 そして捧げる材料ですが、それぞれに霊的意味があります。それは、読み進める時に具体的に説明していきたいと思います。

25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。25:9 幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

 幕屋の目的は、そしてその中にある聖所の目的は、「主が彼らの中に住む」ということです。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、ご自分の民に近づいてきてくださり、そして彼らの間に住んでくださること、これを目的としてくださっています。これを他の言葉で「臨在」とも呼びます。主がかつて、エデンの園でアダムとエバと共に住んでくださったように、ご自分の民の中に住まわれたいと願っているのです。

 そしてモーセに対して、幕屋や用具の型は、主が示されるのと全く同じ通りに作らなければいけません。なぜそこまで正確に作らなければいけないのでしょうか?これから、私たちはこれらの幕屋の部品を作る人たちが見れば良いような、設計図のような説明を読みます。一見、退屈にさせてしまうような説明です。けれども、神は正確さに拘りました。

 その理由を知る手掛かりは、先ほどの24章における、祭司たちや長老たちが主の足元で食事をしたところに表れています。主は、ご自分の御座もろとも、ご自分の民に現われようとされていました。地上にいる彼らに、天国の前味を楽しんでもらおうと願われました。そして幕屋は、天にあるものの模型なのです。「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。『よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。』 (ヘブル8:5」したがって、主はイスラエルの民に、模型ではあるけれどもご自分が住まわれている天を知っていただきたいと願われて幕屋を造られるのです。

 多くの人は、「天国はどういうところなのだろう?」という疑問を抱いています。これからの説明が、まさに天を示している写しであり、影なのです!ゆえに、幕屋の学びは私たちの心を喜ばせます。

 そして、幕屋はイエス・キリストご自身を表しています。ヨハネの福音書114節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14」ここの「住まわれた」というのは、「幕屋を張られた」と訳すことができます。イエス・キリストがおられるところに、天があります。この方の働きとご性質を、幕屋を通してじっくりと学ぶことができます。

 そして新約時代に生きている私たちにとって、幕屋は霊的な家である教会そのものです。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。(1ペテロ2:5」私たちのからだが、聖霊が宿られる神の宮であり、そして私たち自身が、聖所の中に入っていく霊的祭司であります。実に主イエス・キリストは教会の中に住まわれ、満ちておられます(エペソ1:23)。

2C 契約の箱と贖罪蓋 10−22
25:10 アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。25:11 これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。25:12 箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつける。25:13 アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。25:14 その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。25:15 棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。25:16 わたしが与えるさとしをその箱に納める。

 主が初めにモーセに示されたのは、「契約の箱」と呼ばれるものです。16節に、「わたしが与えるさとしをその箱に納める」とありますが、主がイスラエルに与えられた十戒を書き記した板がそこに入っています。幕屋の中で、最も中心的な至聖所の中の唯一の祭具であります。

 材料は「アカシヤ材」によるものです。これは、シナイ半島に見ることのできる砂漠に生える木です。イスラエルでもネゲブ砂漠にたくさん生えています。非常に堅く、虫に食われることのない強さを持っています。私も見ましたが、決して見栄えのよい木ではありません。これが契約の箱だけでなく、供えのパンの机、板や柱、祭壇など多くの祭具に用いられています。

 この木に形容して、イザヤがイエス様の生い立ちを次のように預言しました。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(53:2」いかがですか、イエス様はアカシヤ材のように見とれるような姿をお持ちではありませんでした。けれども、虫に食われることのない堅さを持っているのと同じように、心の内を罪で汚されることもありませんでした。

 そして寸法ですが、「キュビト」が用いられています。これは膝から人差し指までの長さと言われており、約44センチです。長さは二キュビト半なので1.1メートル、幅と長さが66センチという小さいものです。

 そしてこれを「純金」で覆います。契約の箱が安置される聖所の中はすべて純金で覆われる、あるいは純金そのもので造られます。これは当然ながら、神の栄光の輝きを表しています。第一礼拝でも学びましたが、神がご臨在される所は燦々たる光の輝きで満ちていました。使徒パウロは神をこのように説明しています。「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。(1テモテ6:16

 そして、この箱をかつぐための「」が差しこまれます。幕屋というのは、まさにテントみたいなもので移動用になっています。荒野の旅をしているイスラエルの民が取り外して、移動し、また取り付けることができるように移動用になっています。

 そのための運搬の棒でありますが、運んだ後も「抜いては」いけません。なぜか?契約の箱に決して触れてはいけないからです。後に、ダビデがエルサレムに神の箱を運び上ろうとしたとき、牛車に乗せて運んでいたのですが、そこから神の箱がひっくり返りそうになったので、ウザという人が手で押さえました。すると彼は、その場で打たれて死んだのです。今、読んだように、神は近づくこともできない光の中に住まわれる方だからです。

 そして、22節を見ると、このさとしの箱の上で主がモーセと会見し、そこで語ってくださるのです。つまり契約の箱は、まさに主ご自身の臨在そのものを表しています。その本質が十戒だったのです。主がイスラエルの民と結ばれた契約の根本は、その戒めでありました。

 古い契約においては石の板で書き記されているものは、エレミヤが後に預言したように、新しい契約では心に書き記されるようになりました。イエス・キリストを信じる者は、御霊が内に住んでくださり、神の命令は自分の肉の力で守るものではなく、変えられた心の内側から出てくるもので、自発的であり、愛の動機によって守るものになっています。

 そして十戒の学びの時、なぜ私たちが偶像を拝んではならないか、第二の戒めの説明の時に話しましたが、私たちの神は霊であられ、形を持っていないからです。そして本質は「言葉」であることをお話ししました。使徒ヨハネは、イエス・キリストを語り始める時に福音書で「はじめに、ことばがあった。(ヨハネ1:1」と言っています。第一の手紙では、「いのちのことば」とあります。そして黙示録196節には、「神のことば」とあります。ですから、私たちが神のことばに触れる時に、御霊によって主ご自身の本質に触れることになるのです。

 ちなみに、契約の箱には、さとしの板だけでなく、かつて保存したマナの壺も入ります。そして、アロンの杖からアーモンドの実と花が咲くのですが、それも箱の中に入ります。けれども、これは一時的で、常時入っているのは戒めの石の板です。

25:17 また、純金の『贖いのふた』を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。25:18 槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。25:19 一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。25:20 ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で『贖いのふた』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『贖いのふた』に向かうようにしなければならない。25:21 その『贖いのふた』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。25:22 わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

 「贖いのふた」あるいは「贖罪蓋」とも呼ばれるものは、契約の箱の蓋です。英語では、”Mercy Seat”つまり、「憐れみの御座」となっています。これはアカシヤ材ではなく、すべて純金で作られます。

 その蓋と一体として、一部としてケルビムが掘られます。模型の写真を見ていただくと分かりますが、二人のケルビムが自らの翼を重ねるようにして、ちょうどひれ伏しているような姿になっています。(ちなみに、「ケルブ」はこの天使の単数形であり、「イム」はヘブル語で複数形を表すので、「ケルビム」となります。)これはまさに、天において、神の御座でケルビムが主を礼拝している姿です。黙示録には御座の中央とその回りに四つの生き物がいて、昼も夜も絶え間なく叫び続け、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万軍の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。(黙示4:8」と言っている姿を見ます。ケルビムは礼拝をささげる天使であり、御座の回りで行なわれているのは礼拝なのです。

 この契約の箱と贖いの蓋は、聖所の中でも至聖所と呼ばれる部屋に安置されますが、そこには大祭司が年に一度だけ入り、そしていけにえの血を携えて、この贖いの蓋のところに血を振りかけて、イスラエルの民の罪の贖いをします。神の怒りが、この贖いによってなだめられることを意味していました。

 旧約聖書のギリシヤ語訳では、ヨハネ第一22節と同じ言葉が使われています。「この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。(1ヨハネ2:2」なだめの供え物、というのが「贖罪蓋」なのです。イエス様が十字架に付けられた時に、この方は「神よ、神よ、なぜあなたはわたしをお見捨てになられたのですか。」と言われました。その嘆きの言葉は、イエス様が父なる神から引き離された瞬間でありました。神の怒りをご自分の体によって受けた瞬間でありました。そして神は、イエス・キリストが流されたその血によって、ご自分の、人類が犯した罪に対する怒りをしずめられたのです。その贖いですべての怒りは注がれたのでした。

 ですから、イエス・キリストを信じていても、未だに自分は神から怒られているのではないかと思われる方は、この贖罪蓋を思い出してください。イエス・キリストがなだめの供え物となられたことを思い出してください。

3C 供えのパンの机 23−30
25:23 机をアカシヤ材で作らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。25:24 これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作り、25:25 その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作る。25:26 その机のために金の環を四個作り、その四隅の四本の足のところにその環を取りつける。25:27 環はわくのわきにつけ、机をかつぐ棒を入れる所としなければならない。25:28 棒をアカシヤ材で作り、これに金をかぶせ、それをもって机をかつぐ。25:29 注ぎのささげ物を注ぐための皿やひしゃく、びんや水差しを作る。これらは純金で作らなければならない。25:30 机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。

 次に主がモーセに示されたのは、「供えのパンの机」です。これは、聖所の中の北側に置かれます。ですから、祭司が天幕から入ると右側に安置されています。契約の箱と同じように、アカシヤ材に純金をかぶせて、そして持ち運ぶことのできるために、棒とその管も作ります。寸法は長さ二キュビト、幅が一キュビトで、聖所の形と同じ二対一になっています。そしてレビ記に「注ぎのささげ物」が出てきますが、そのための用具もこの机といっしょに作るように命じておられます。


 大事なのは、これらパンが、30節「絶えずわたしの前にあるようにする」ということです。レビ記245節を見ますと、パンは十二個あり、一並び六個ずつ、ニ並びに置く、とあります。つまり、パン一つ一つがイスラエル各部族を表しており、彼らが絶えず主の前にあるようにする、という意味です。したがって、神は契約の箱によってご自分が臨在されていることを表していましたが、供えのパンの机は、イスラエル人が神の前に存在しつづけていることを表していました。パウロは、主の再臨について、「私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(1コリント13:12」と言いましたが、そのように私たちの命は主の前に絶えず置かれている、つまり、主に知られているのです。

 そして、パンですから、それは自分たちの体を養う糧であります。私たちのいのちは、完全に神に拠り頼んでいます。「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ3:3」イエス様はご自身を、「わたしがいのちのパンです。(ヨハネ6:35」と言われました。そして、約束は「わたしに来る者は決して飢えることなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(36節)」です。ゆえに、私たちはこのように礼拝を捧げに来ているのです!

4C 燭台 31−40
25:31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。25:32 六つの枝をそのわきから、すなわち燭台の三つの枝を一方のわきから、燭台の他の三つの枝を他のわきから出す。25:33 一方の枝に、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくを、また、他方の枝にも、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくをつける。燭台から出る六つの枝をみな、そのようにする。25:34 燭台の支柱には、アーモンドの花の形をした節と花弁のある四つのがくをつける。25:35 それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。25:36 それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作らなければならない。25:37 それにともしび皿を七つ作る。ともしび皿を上げて、その前方を照らすようにする。25:38 その心切りばさみも心取り皿も純金である。25:39 純金一タラントで燭台とこれらのすべての用具を作らなければならない。25:40 よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。

 次は燭台です。すべて純金で作り、なんと一タラント、つまり三十四キログラムを使って作ります。そして形は、アーモンドの枝と花です。後に、祭司アロンの杖からアーモンドの花と実がなりますが、「いのち」を表しているのでしょう。いのちがあり、そして光があります。イエス様について、使徒ヨハネはイエス様について、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1:4」と言いました。

 祭司はともしび皿に油を絶やさず注ぐことによって、聖所全体が明るいままでいるようにしています。同じように、私たちは絶えずイエス様の光の中に生きなければいけない、ということです。イエス様は、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12」と言われました。そして、使徒パウロはエペソの教会にこう書いています。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。・・光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。・・(エペソ5:8-9」汚れや罪を捨てて聖さの中に歩みなさい、という勧めです。

 枝が七つあることに注目してください。「七」はすでに創世記から数多く出てくる、神の数字、完全数です。そして興味深いことに、黙示録1章には、七つの燭台の間を歩かれているイエス様の姿が出てきます(1:12-13)。そして七つの燭台は七つの教会である、とイエス様は説明されました(1:20)。キリストの教会は、世に対して光であります。

2B 覆い 26
 次は、これらの祭具のある聖所を覆う幕についての教えです。

1B 幕 1−14
26:1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。26:2 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。26:3 その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。26:4 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に青いひもの輪をつける。他のつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにしなければならない。26:5 その一枚の幕に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の端にも輪五十個をつけ、その輪を互いに向かい合わせにしなければならない。26:6 金の留め金五十個を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする。

 幕は、聖所の輝きを外界から見えないようにするために、大切な役割を果たします。聖所は天そのもの、神の御座がおられるところです。これがそのまま地において表されるものなら、黙示録に書かれているようにたちまち地上は火で燃やされ、滅ぼされてしまいます。けれども、覆いを作ることによって主が、地上に住まわれながらもなお、その栄光を現すことができるようにしてくださっています。

 幕において重要なのは、その撚り糸であります。それぞれに霊的意味があります。1節にあるように、亜麻布、青色、紫色、そして緋色の撚糸が用いられています。さらに、そこにはケルビムを織り出さなければいけません。「亜麻布」はその白さから、清さを表しています。黙示録で天にいる教会をこう描写しています。「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。(19:8

 そして「青色」は、私たちが既に見ました、天にある清さを表しています。そして「紫色」は王位を表しています。イエス様が十字架に付けられる前に、ローマ兵が紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んで、からかいました(マルコ15:17-18)。そして「緋色」ですが、ちょうどこれは血が固まった時の濃い赤色を表しています。これはむろん、血が流された色です。イザヤ書には、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(1:18」とあります。そして神の御座の前にいるケルビムが織り込まれます。

 したがって、ここには全てイエス・キリストの栄光と、この方が十字架上で行なわれた御業が織り込まれているのです。主は天から来られました。そして何一つ罪を犯されない白さを持っておられました。ユダヤ人の王として来られましたが、拒まれました。ローマ兵から嘲弄され、そして血を流されました。

 そして幕は長さが二十八キュビトです。聖所の高さと幅はそれぞれ十キュビトなので合計三十キュビト必要なのですが、一キュビトぐらい地面から離れているようにしています。そして四キュビトが合計十枚ですから、四十キュビトであり、聖所の寸法は長さ三十キュビトで高さが十キュビトなので、ちょうど聖所の入り口を除いたすべてが覆われることになります。

 五枚と五枚の間を直接つながず、青色の輪と金の留め金によってつなぎます。なぜでしょうか?そこは、聖所の中でも聖所と至聖所に分れる部分だからです。神は、ご自分の栄光が留まる、契約の箱が安置されている至聖所と、その他の聖所の部分を厳格に分けられているのです。幕と言えども、曾野部分において一つなぎになってはいけないとお考えになったのです。ここに、さらに神の聖さにある、この世との隔絶があります。

 そして、そのつなぎ目が青色の糸と金の留め金というのも興味深いです。その隙間から天の栄光が、そして神の光を表す金が漏れ出している姿を表わしています。

26:7 また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作る。その幕を十一枚作らなければならない。26:8 その一枚の幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とする。26:9 その五枚の幕を一つにつなぎ合わせ、また、ほかの六枚の幕を一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。26:10 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつける。26:11 青銅の留め金五十個を作り、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。26:12 天幕の幕の残って垂れる部分、すなわち、その残りの半幕は幕屋のうしろに垂らさなければならない。26:13 そして、天幕の幕の長さで余る部分、すなわち、一方の一キュビトと他の一キュビトは幕屋をおおうように、その天幕の両側、こちら側とあちら側に、垂らしておかなければならない。

 幕の上をさらに、やぎの毛の幕で覆います。寸法を少し長めにしてあり、十一枚にしています。端を折り重ねるためです。

 そして、先ほどの聖所と至聖所のつなぎ目が、「青銅の留め金」になっているのです。さらに外界に接しているところでは、金ではなく青銅になっています。「青銅」は神の裁きを表しています。(青銅の蛇を神がモーセに作りなさいと命じられたのは、悪魔がそこで裁かれたことを意味するためでした。)したがって、私たちが見ることのできる原則は、「地に近づけば近づくほど、神の栄光は裁きに変わる」ということです。内側では金が使われていても、外側では青銅が使われています。

 このように神がいかに聖い方であるかを私たちは意識しなければいけません。悔い改めとへりくだり、そして新しい歩みに裏打ちされた礼拝を捧げなければいけないことを聖書は教えています。

 そして「やぎの毛」でありますが、やぎは年に一度、イスラエルの全体の罪の贖いをするために行なう「贖いの日」において、用いられるいけにえの動物です。レビ記16章に詳しく書かれています。一頭はほふられて、大祭司本人の罪のいけにえとします。もう一頭は生きたままにしておいて、贖いを至聖所で行った後に、それを遠くに追いやります。ユダの荒野のはるか遠くにさまよい、見えなくなったことを確認して、「罪はこのように遠くに引き離された」ということを祭司が宣言するのです。したがって、やぎの毛は罪が引き離されること、取り除かれたことを表します。
26:14 天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。

 一節だけですが、ここにさらに二つの幕の覆いが書かれています。やぎの毛の幕の上に、「赤くなめした雄羊の皮」で覆います。これはもちろん、キリストが流された血、罪の赦しのための血の色です。

さらに、もう一つ「じゅごんの皮の覆い」をします。原語のヘブル語では、これが何を意味するか確かなものはないとのことですが、紅海に生息している生物であると言われていて、「じゅごん」と新改訳では訳されています。そして、皮はどす黒い色をしていたのではないかと言われています。ですから、幕屋は外見は何の変哲もない、見とれるものがない、ということです。

 これが、先ほどもお話ししました、人としてのイエス様の姿でありました。この世的には見とれるものは何もなかったのです。そして、聖所は、内側は金色で光り輝いていますが、外から見れば何の変哲もないのです。これが、私たちが信仰が必要なところであり、そしてイエス・キリストを通しての信仰が必要になる所以です。キリスト教、そしてイエス・キリストを、強い関心も持たずに、表面的になぞるのであれば、これこそ面白くないものはありません。けれども、キリストが自分自身の人生の根幹にかかわる存在であり、この方の十字架が自分に関わることであることを悟った人々は、そこから神の栄光を見ることができるのです。

 先に引用しましたが、私たち教会は、外で祭司が聖所に入るのを眺めている一般のイスラエルの民ではなく、聖所の中に入っていく祭司そのものなのです。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。(1ペテロ2:5」教会である私たちが、いかに世的には見た目が悪くても、それを気にしないでください。むしろ、イエス・キリストの栄光を眺め、それに圧倒されてください。そこから出てくる愛が、この世の人が不思議がり、そして一体これは何であろうかと興味を持つようにさせるのです。

2B 板 15−25
 そして、聖所の骨格を構成している「板」についての教えです。

26:15
幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。26:16 板一枚の長さは十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半。26:17 板一枚ごとに、はめ込みのほぞ二つを作る。幕屋の板全部にこのようにしなければならない。26:18 幕屋のために板を作る。南側に板二十枚。26:19 その二十枚の板の下に銀の台座四十個を作らなければならない。一枚の板の下に、二つのほぞに二個の台座を、他の板の下にも、二つのほぞに二個の台座を作る。26:20 幕屋の他の側、すなわち北側に、板二十枚。26:21 銀の台座四十個。すなわち一枚の板の下に二個の台座。他の板の下にも二個の台座。26:22 幕屋のうしろ、すなわち、西側に、板六枚を作らなければならない。26:23 幕屋のうしろの両隅のために板二枚を作らなければならない。26:24 底部では重なり合い、上部では、一つの環で一つに合うようになる。二枚とも、そのようにしなければならない。これらが両隅となる。26:25 板は八枚、その銀の台座は十六個、すなわち一枚の板の下に二個の台座、他の板の下にも二個の台座となる。

 先ほども話しましたように、幕屋は運搬用の住まいですから、取り外して、簡単に組み立てられるようなものでなければいけません。それで板で壁を作ります。長さを計ると、全体で長さが三十キュビト、幅と高さが十キュビトです。ですから、三対一の長方形になっていますが、その中の至聖所は長さ、高さ、幅がすべて十キュビトであり、立方体になっています。興味深いのは、天のエルサレムの都も、立方体であることです。これは神のご臨在の形であります。

 そしてその下に板を固定するための台座が用意されています。使われるのは金ではなく「」です。銀と言えば、銀貨三十シェケルという言葉が前回出てきました。他人の奴隷を牛が殺した時に、その牛の持ち主が、奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払います。またレビ記には、贖い金として銀貨が用いられています。したがって、銀は「贖いをするための対価」を意味しています。

 ここにもやはり、「神の栄光が外界に近づくと、それは裁きに変わる」という原則を見ることができます。地に触れている部分は、贖いが行われなければならないのです。

3B 横木 26−30
26:26 アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、26:27 幕屋の他の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、すなわち西側の板のために横木五本を作る。26:28 板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。26:29 板には金をかぶせ、横木を通す環を金で作らなければならない。横木には金をかぶせる。26:30 あなたは山で示された定めのとおりに、幕屋を建てなければならない。

 板を固定するための棒です。各面に五本の横木を通しこれらを固定します。おそらく、使徒パウロは、この様子を思い浮かべながら、教会が成長する様を説明したのでしょう。エペソ416節です。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(エペソ4:16」この箇所の手前に、「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができる(15節)」とあります。私たちが神の真理の言葉を聞いてキリストの栄光を見て、そして、互いに横木を通されているようにしっかりと組み合わされて建て上げられていきます。

 お分かりですか、一人だけならば板一枚なのです!簡単に倒れてしまいます。自分たちが、キリストの栄光を表す、キリストにあって成長する板一枚であり、そしてすべての人が互いに愛という結び目でつながれているからこそ「キリストのからだ」となるのです。

4B 垂れ幕と入口の幕 31−37
26:31 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。26:32 これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。26:33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。

 聖所と至聖所の間にある垂れ幕です。これは、幕と同じように、青色、紫色、緋色の撚糸、そして亜麻布で作り、ケルビムを織り出します。そして柱が四本あります。その柱の上にある金の鉤にかけて留めます。

 祭司は聖所の中には毎日入って奉仕しますが、この垂れ幕を通るのは年に一度、大祭司によってのみです。「仕切り」というのがとても大切な言葉になります。

 イザヤ書で神が、この「仕切り」という言葉を使っておられます。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(59:1-2」罪が仕切りとなっている、ということです。アダムが罪を犯した時以来、この地上と神がおられるところには仕切りが生じてしまいました。そのために、神は幕屋において、きめ細かく仕切りを造られているのです。

 けれども、イエス様が十字架上で息を引き取られてから、この「仕切り」が取られました。「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。(マタイ27:50-51

 私たちは、仕切りが存在する時に疎外感を覚えます。人と人との間の見えない仕切り、そして何よりも神と自分との間にある、隔ての壁です。けれども、これがすべて取り除かれたことを知らなければなりません。「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。(エペソ2:12-15

26:34 至聖所にあるあかしの箱の上に『贖いのふた』を置く。26:35 机を垂れ幕の外側に置き、その机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。あなたはその机を北側に置かなければならない。

 すでに話しましたが、上から見ると聖所は東から祭司が入ります。すると右側に供えのパンの机、左側に燭台があります。正面は仕切りの垂れ幕ですが、その手前に香壇があります。香壇は後に出てきます。そして垂れ幕をくぐると契約の箱があります。これを上から見て、線でつなぐと十字架の形になります。この位置関係にも、父なる神がご自分の子によって行われようとしている栄光を表しておられるのです。

26:36 天幕の入口のために、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕を作る。26:37 その幕のためにアカシヤ材の柱五本を作り、これに金をかぶせる。それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造する。

 聖所の入り口にある幕です。内側の垂れ幕は柱が四本でしたが、こちらは柱五本です。横木に続いて、使徒パウロは柱のことも教会の説明に使っています。「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(1テモテ3:15」私たちは真理を告白する共同体であります。使徒ペテロは、イエス様を、「あなたは生ける神の御子キリストです。」と言いました。真理の柱と土台を持っているのが教会なのです。

 また多くの教会が礼拝の時に採用している、「使徒信条」というものがあります。ここでそれを引用してみます。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、

天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、

からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。

アーメン

 実に聖書に表れているイエス・キリストの真理がよくまとめられています。

 そして、この柱ですが垂れ幕にあった柱との違いは「台座」です。銀ではなく「青銅」で出来ています。やはりここにも、外界に接している所は神の裁きがあることを示しています。

 次回は、この聖所の外側にあるもの、外庭にあるものを中心に見ていきます。

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