出エジプト記281−3節 「大祭司の栄光と美」

アウトライン

1A 装束にある美
   1B エポデの撚り糸
   2B 肩当てにあるイスラエルの名
   3B 胸当てにある宝石
2A 祭司の務め
   1B 神への臨在
   2B 血による聖め
   3B 執り成し

本文

 出エジプト記28章を開いてください、今晩は1-3節から始めて、大祭司の姿について学びたいと思います。

28:1 あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。28:2 また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表わす聖なる装束を作れ。28:3 あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなければならない。彼を聖別し、わたしのために祭司の務めをさせるためである。

 私たちは前回、主がモーセに対して幕屋を造れと命じられている御言葉を読んでいます。そして幕屋は、天にあるものの模型であり、幕屋によって私たちは天を知ることができると習いました。そして今回は、祭司の装束、またその務めについて学びたいと思います。祭司が幕屋において、主に対して仕える存在であり、特に大祭司は聖所の中にある、さらに聖なる所、つまり至聖所にまで入って奉仕をする務めに預かっています。

 祭司という人はどのような人なのでしょうか?また、どのような働きなのでしょうか?多くの人は、「祭司は牧師さんみたいな人」だと思いますが、必ずしもそうではありません。むしろ、ペテロ第一の手紙に拠れば、信仰者一人一人が、主に仕える霊的な祭司であると教えています。

 聖書に出てくる三つの職について考えてみたいと思います。一つは「王」です。もう一つは「預言者」です。そして三つ目に「祭司」です。旧約聖書には、神から任命を受ける指導者として、この三つの務めがあります。

 まず「王」ですが、この務めはもちろん「治める」ことです。民を一つのまとめ、民の基本的な生活を養い、また民の間にある訴訟の仲裁をします。旧約時代は、今あるような三権分離は存在しませんから、王が司法にも関わっていました。

 そしてもう一つの「預言者」ですが、その人は神の言葉を預かる人です。神から語られた言葉を民に「告げる」ことがその大きな務めになっています。また、民のために「祈る」ことも行ったし、また癒しのために祈り、人々が癒されることもありました。時には奇蹟も行いました。

 モーセは間違いなく神に選ばれた預言者です。神から律法を与えられ、それを民に伝えました。そしてモーセは、神から任された民を治めることも行いましたが、それはあくまでも「導く」ことであり、自分が彼らを支配することではありません。民はあくまでも、神ご自身の支配を受けるのであり、神が王でなければなりません。

 ところが後に、イスラエルの民が王を求める時が来ます。サムエルが預言者であった時です。周囲の国々と同じように自分たちを支配する王を置いてくれ、と要求しました。神がサムエルを通して御言葉を民に与え、そして民が御言葉によって生き、神ご自身から支配も、また裁きも受けるようにしておられたのに、そうは思わなくなりました。「自分で考えることは疲れた、神に祈って敵から守られるというのも、本当に守られるかどうか分からない。神ではなく人が治めてくれたほうが、目に見えて安心できるし、効率的で良いし、自分たちの福利も気にかけてくれる。目に見えない神を賛美するより、王に称賛を与えた方が興奮する。」

 私たちも、同じような傾向を持っていますね。神の御言葉を聞いて、御霊によって示されたところを行なっていくのではなく、また指導者の模範を見て、自分もキリストに従っていこうと努力するのではなくて、「これこれをしなさい」と言われたほうが楽なことがあります。教会がどうなるか分からないけれども、初めから経営に知識のある人にどのように運営すれば良いか指示を仰いだ方が良いのではないか、と思います。神以外の存在を王としたいと願ってしまいます。けれども、教会の中で頭はただ一人、キリストご自身です。

 ですから、「王」がいて「預言者」がいますが、もう一人は「祭司」という存在です。祭司の定義がヘブル人への手紙5章に書いています。「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。(ヘブル5:1-2」つまり、祭司は神のことを人々に話して、その恵みと祝福を分かち合うだけでなく、人々の弱さや重荷を自らも背負って、主の前に持っていくという務めを持っています。ともに痛み、ともに苦しみ、そしてその重荷を主に持っていくという霊的な世話です。

 今、読んだ箇所はヘブル人への手紙の一部ですが、ヘブル人への手紙には、大祭司となられたイエス様を中心にして書いています。ヘブル113節をご覧ください。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:1-3

 主イエスは、地上におられる時は、「御子によって、私たちに語られました。」とあるとおり、預言者の務めを主な働きをしておられました。けれども復活し、天に昇られた時には、「罪のきよめを成し遂げて」とあります。これが大祭司の務めです。聖所の中に入って、血を携えて、罪のきよめを民のために行なうのが大祭司の務めです。そして、「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれた」とありますが、この方がそこから立ち上がり、悪魔をご自分の足で踏みつける時が来ます。再臨です。この方は王の王、主の主として来られます。

 したがって、地上におられたときは、イエス様は「預言者」の務めを、そしてこれから地上に来られる時には主に「王」としての務めを行なわれます。けれども昇天されてから、再臨されるまでの間は主に「祭司」としての務めを果たされています。ヘブルの414節から読んでみたいと思います。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(14-16節)

 すばらしいですね、主は私たちの弱さを担い、私たちと同じように試みに遭われ、したがって私たちに同情することができ、それでなお、私たちのために神の前で執り成してくださっている方です。

1A 装束にある美
 それでは今日の本文に戻ってください。この章は大祭司が聖所で神に仕えるために身に付けなければいけない装束について神がモーセに教えておられるところです。その装束を神は、「栄光と美を表す聖なる装束」と呼ばれています。神の栄光と美を表すのです。

 聖所が天の模型でありましたが、同じようにこの装束は天にあるものの写しであります。すなわち、大祭司の務めを果たしておられるイエス・キリストの栄光と美を表しています。先ほど読んだヘブル人への手紙の中に、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」とありました。キリストは人の姿を取られ、私たちの弱さを身にまとわれましたが、その本質は神そのものでした。「わたしを見たものは、父を見たのです。」と言われたイエス様の生涯を、じっくり見て、心から尋ね求めていきたいです。

1B エポデの撚り糸
 6節に、「彼らに金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、巧みなわざでエポデを作らせる。」とあります。エポデとは、ちょうどエプロンのようなもので、前掛けだけでなく後掛けにもなっている両面エプロンみたいな形をしています。そして、これは亜麻布に、金色、青色、紫色、緋色の糸で織られています。

 覚えておられますか、前回の学びで、それぞれの色に霊的意義がありました。金色は神の御座にある栄光です。青色は天の色です。紫は、キリストの王位でありました。イエス様がローマの兵士から紫の衣と、いばらの冠を宛がわれ、「ユダヤ人の王さま、ばんざい」と言うからかいを受けました。そして緋色は血の固まったような色であり、キリストが流された血を表しています。したがって、これはキリストが神の身分でありながら人の姿を取り、そして十字架の死に至るまで従われたイエス様の姿をここに見ることができます。

2B 肩当てにあるイスラエルの名
 そして、この大祭司が肩にイスラエルの十二部族の名を負っています。9節から12節までを読みます。「二つのしまめのうを取ったなら、その上にイスラエルの子らの名を刻む。その六つの名を一つの石に、残りの六つの名をもう一つの石に、生まれた順に刻む。印を彫る宝石細工師の細工で、イスラエルの子らの名を、その二つの石に彫り、それぞれを金のわくにはめ込まなければならない。その二つの石をイスラエルの子らの記念の石としてエポデの肩当てにつける。アロンは主の前で、彼らの名を両肩に負い、記念とする。

 しまめのうの石にそれぞれの方に六部族のイスラエルの名が記されます。そして両肩にイスラエル十二部族の名が背負われます。そして、それが「金のわく」にはめ込まれているのです。つまり大祭司は神の前に出て、これらイスラエルの子らを自分の方に背負い、しかも神の栄光の中の存在として連れてくるのです!

 肩に背負うというと、イエス様が、羊飼いが迷った羊を肩に背負うことについて話されたことがあります。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。(ルカ15:4-6」キリストが私たち失われた者のために来てくださり、そして私たちがどん底にいるところまで、その場所まで降りてきてくださり、そして私たちを肩に乗せて父なる神のところに引き寄せてくださいます。

 私たちは信仰生活をしていると、まるで自分の信仰の頑張りによって神を運んでいるような錯覚に陥ります。信じるのが大変に感じるような圧迫を受けている時に特にそうです。けれども、それは神からの重荷ではないことに気づくべきです。イザヤ書に、偶像を運びながら難民となったバビロン人の姿をこのように神は語られました。

46:1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。46:2 彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

 私たちが神を背負っているのではなく、― それは偶像の神々であります ― 神が私たちを背負ってくださっています。そして神はその苦境から救い出してくださいます。実に胎内にいる時から私たちは担われていた、そして年老いても運んでくださる、つまり神は最後まで私たちを見捨てないでいてくださいます。ユダの手紙には、「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方(24節)」とあります。確実に、栄光に輝く神の光の中に私たちを招き入れてくださるのです。

3B 胸当てにある宝石
 そして、今度は大祭司の胸当てを見てみましょう。15節から22節までです。「あなたはさばきの胸当てを、巧みな細工で作る。それをエポデの細工と同じように作らなければならない。すなわち、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作らなければならない。それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、幅は一あたりとしなければならない。その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパ一ズ、エメラルド。第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。また編んで撚った純金の鎖を胸当てにつける。

 いかがですか、大祭司の胸にはイスラエルの名が置かれていまして、しかも、その一つ一つは宝石として覚えられています。主は、イスラエルの民を「わたしの宝とする」と約束してくださいましたが、はたして大祭司の胸に彼らは宝石となっているのです。

 忘れてはいけないのは、私たちは常に主イエス・キリストの御胸のそばにいるということです。使徒ヨハネは、自分の福音書で自分のことを、「主に愛された弟子」と言いました。それだけ主の愛を感じながら生きていました。1323節にこうあります。「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの御胸のそばで、からだを横にしていた。」心臓の鼓動が聞こえてくるかもしれない至近距離にいたのです。

 そして、主の御胸の中にいる私たちは、父なる神にとって宝になっています。「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ1:5」ご自分の子として愛をもって受け入れてくださいます。「あなたがたの心の目がはっきりと見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか・・・あなたがたが知ることができますように。(同18節)」聖徒をご自分の所有とし、これを栄光の富としてくださいます。

2A 祭司の務め
 このように、私たちはキリストご自身の中に見出されています。キリストの肩と胸の中に抱かれています。そして次に、大祭司が行う務めに注目してみましょう。

1B 神への臨在
 大祭司がすることは、主が住んでおられるところ、主が臨在されているところに行くことです。44節の後半から読みます。「またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。(4445節)」主がイスラエルの間に住んでくださり、そして確かに彼らの神となってくださいます。この一体を祭司が導いてくれます。

 私たちが神のところに行くことができるのは、ただイエス・キリストによってのみです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6」私たちが、イエス様が行われた働きを知ることによってのみ、父なる神のご臨在を知ることができるのです。もし「神が分からない」という気持ちを持っておられる方がおられれば、キリストを考えてください。イエス様があなたのために何をしてくださったのか、どのような方なのかを知ってください。そうすれば、神が自分のすぐそばにおられることを感じ取ることができることでしょう。

2B 血による聖め
 そして出エジプト記28章には書かれていませんが、レビ記16章に、大祭司が至聖所に入り、イスラエルの罪の赦しのための血を携えていくことが書かれています。大祭司は、イスラエルの罪を、その血によって神から清めていただくという務めを行ないます。

 そしてイエス様が、天に昇られた時にこのことを行なってくださいました。ご自分の血を携えて、それを天の聖所に持っていき、私たちの罪の赦しと清めを父なる神から受けることができるようにしてくださったのです。ヘブル人への手紙の著者がこう説明しています。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル9:11-12

 したがって私たちは、今死んでも、またはイエス様が空中まで来られて私たちが携挙されても、すぐに天の中に入ることができるようになりました。そこはキリストが流された血があてがわれています。したがって、不完全な私たちも聖なる者とされ、その中にいることができるようになっているのです。なんとすばらしい福音でしょうか!

 イエス様は、この血を一度だけ流されましたが、日々の私たちの生活において、その血をあてがっておられます。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7」ゆえに、私たちは神の清めの中にいまでも生きることができます。血の清めが今日、私たちと共にあります。この力によって、私たちは光の中に歩むことができるようにされています。

3B 執り成し
 そして大祭司は、私たちのために執り成しをしてくれます。大祭司の頭のかぶり物に、純金の札があります。それには、「主への聖なるもの」という言葉が掘られています。そして2838節にこうあります。「これがアロンの額の上にあるなら、アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。これは、それらの物が主の前に受け入れられるために、絶えずアロンの額の上になければならない。(出エジプト28:38」これは、アロンがイスラエルを覚えて、主の前で言い表していくことです。彼らが受け入れられるように、主の聖なるものとなるように、執り成しているのです。

 これを主イエス・キリストは行っていてくださっているのです。まず、罪を犯してしまった時、主は私たちの弁護人となっておられます。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。(1ヨハネ2:1-2」いかがですか、イエス様はご自分が罪の供え物となったという根拠をもって、私たちを父なる神の前で執り成してくださるのです。

 そして、悪魔から罪咎めを受けることのないよう執り成してくださっています。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:34」私たちは独りではありません。自分が罪との戦いで疲れてしまっている時、肉の誘惑が強い時に、変えようと思っていることがなかなか変えられない葛藤がある時に、主が絶えず私たちのために執り成しておられるのです!したがって、私たちは力を失うことなく、また祈ることができます。主に立ち返ることができます。遅すぎることはありません、主がついておられます!

 ですから、幕屋を見るときに天国を思い出していただきたいのと同時に、大祭司を見るときにはイエス・キリストを見てください。大祭司が聖所に入っていくとき、私たちも父なる神の前に連れて来られていることを思い出してください。私たちはキリストの中に、そして神の中に生きることができるのです。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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