出エジプト記2章11-15節 「共に受ける苦しみ」

アウトライン

1A エジプトの地位を度外視するモーセ
    1B 同胞の苦役
    2B 仲間割れ
2A そしりと迫害を受けるモーセ
    1B 同胞から
    B パロから
3A 罪の楽しみと永遠の報い ヘブル11:24-27
   1B 一時的な楽しみ
   2B 神の民との苦しみ
   3B キリストのそしり
   4B エジプトの宝にまさる富

本文

 出エジプト記2章を開いてください。私たちはこれから出エジプト記の学びに入ります。出エジプト記は、創世記の続きです。私たちは前回、創世記の終わりでヨセフの生涯が終わるのを見ました。そしてその三百年ほど経ってからのエジプトにいるイスラエル人の姿から始まります。

 それは、ヨセフの時のイスラエルの家族への待遇とは打って変わっての、過酷な仕打ちでした。ヨセフのことを知っている人々はもういなくなり、パロはイスラエル人を奴隷として酷使しました。そしてなんと、生まれてくる男の子を殺すことまでし始めたのです。

 そこに現れたのがモーセです。彼は、神様の不思議な守りと導きで、赤ん坊の時に殺されずにすみ、エジプトの王パロの娘に引き取られました。そして彼はエジプトの宮廷で過ごすことになります。私たちが今日注目したい箇所は2章11節から15節です。

2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか。」と言った。2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。2:15 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。

 モーセは、エジプトの高い地位にいるところから、なんとこの出来事によって、ミデヤンの地の羊飼いとなってしまいました。そこまでしてモーセがなぜ、同胞のイスラエル人を助けようとしたのか、このことを今日はじっくりと見ていきたいと思います。

1A エジプトの地位を度外視するモーセ
1B 同胞の苦役
 モーセはこの時に四十歳になっていました。彼は幼い時からエジプトの最高の教育を受けていたことが、使徒の働きを見ると分かります。「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。(使徒7:22」なにせ、彼はパロの娘の養子という地位に着いていたのです(ヘブル11:24)。

 ですから、エジプトにある莫大な富と、そして当時は世界大国の地位を持っていたエジプトで最高の教育を受けたモーセでありました。彼は宮廷の中から出て、エジプトの建造物の工事現場に出かけてみました。きらびやかな宮廷とは打って変わって、そこは埃まみれの現場です。そこで、なんとエジプト人がイスラエル人を鞭打っているではありませんか。それで彼は、そのイスラエル人を助けようと思いました。

 モーセは、乳離れするまで実は実母によって育てられました。パロの娘がナイル川で赤ん坊のモーセを見つけたときに、姉のミリヤムが、「乳母を探してきましょうか?」と申し出たのです。そして連れてきたのは何と自分の母だったのです。ですから、お母さんは賃金を受け取りながら、自分の息子に乳を与えて育てることができたのです。

 この幼少の時に、モーセは自分がイスラエル人であることを知りました。母親また父親が幼い彼に教え込んだのでしょう。それで、イスラエル人は自分の同胞であることを知りました。そしてイスラエルの神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神であることも、両親が直接教えただろうし、また後に文献などでも知ったに違いありません。

 それで、酷い仕打ちを受けているイスラエル人を見て、それは自分自身が苦しみを受けているように同情しました。こんなことがあってはならない、と思いました。それで助けたのです。当然、簡単に救い出すことはできません。相手のエジプト人を打ち殺さない限り救い出せませんでした。それでエジプト人を殺しました。

2B 仲間割れ
 さらに彼は、イスラエル人同士が言い争っている場面に出くわします。ここでも彼は、何も言わなければことさらに問題を引き起こすことはなかったのです。エジプトの君子として、優雅に楽しく生きることができたのです。ところが彼は、「同胞が仲間割れしてはいけない。」「弱者を痛めつけては、エジプト人が行っている同じ事をしているだけではないか。」という正義感を持って、その仲裁に当たりました。

 彼は、正しいとわかっていることを行わないという罪を犯しませんでした。「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。(4:17」とヤコブの手紙にあります。彼は、アブラハム、イサク、ヤコブの神の民が、このような苦しみに会っていることを座視できませんでした。その苦しみに関わり始めたのです。パロの娘の子としてよりも、神の民としてのモーセを選んだのです。

2A そしりと迫害を受けるモーセ
1B 同胞から
 ところが、そのような帰属意識の表明は、彼にとって命取りとなりました。なんと、自分の仲間であるイスラエル人が、モーセを悪く言いました。「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」モーセの犠牲的な、献身的な働きかけに感謝するどころか、彼をそしったのです。

B パロから
 そのために、パロから命を狙われる身となりました。これは反逆罪であり、自分の宮廷にいる者が犯した反逆罪です。それで彼を殺さないで放っておくことはできまでした。それでモーセは、エジプトを出ることを余儀なくされました。それからミデヤン人のいる地にただ独りいたのです。

 いかがでしょうか?モーセは、イスラエル人をエジプト人から救い出そうとしたばかりに、またイスラエル人の間の仲裁に入ったばかりに、全てを失う者となりました。この世にいるのではなく、神がおられるところに一歩前に踏み出したばかりに、この世で持っているものを失ったのです。

3A 罪の楽しみと永遠の報い ヘブル11:24-27
 このことを、注釈として載せている文献があります。新約聖書です。私たちには、聖書についての解説本がたくさんありますね。聖書の最も優れた注解書は聖書そのものです。ヘブル人への手紙1124節から27節までに、モーセが辿った道について解説をしています。

11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。

1B 一時的な楽しみ
 まず、モーセは「パロの娘の子と呼ばれることを拒」んだとあります。モーセに与えられていたとてつもない富と地位のことです。けれどもそれは、すなわち「はかない罪の楽しみを受ける」ことに他ならないものでした。

 エジプトは非常に優れた国でした。教育も盛んに奨励されていました。学問を追及していました。そしてもちろん経済大国でした。ところがその知識と力を持っていながら、道徳的にはひどく乱れていました。どんな形の性行為も許されていました。異教の神々がそのような不品行を犯しているものもあります。富を愛すること、またこれらの罪を愛することなどから、モーセは離れたということです。

 「罪」と言うのは、ここに書かれているとおり「楽しい」ものです。エバが悪魔から誘惑を受けたときに、「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。(創世3:6」とあります。もし楽しくなかったら、罪の生活から自ら断ち切っていることでしょう。罪を行うのは楽しいのです。

 けれども、ここに「はかない」罪の楽しみ、とあります。つまり持続しない楽しみ、一時的な楽しみです。「だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。(20:17」と箴言にあります。目に見ているときには好ましく、そして食べると実においしいのですが、それから腹の中に入るときには砂利でいっぱいになっているような、苦々しさが来ます。

 ダビデの息子にアムノンという人がいました。彼は半姉妹のタマルを愛していました。彼女を自分のものにしたいと思って心が病むほどでした。それで仮病を使いました。タマルにお菓子を作りに私の部屋に来てくれるように、と父に頼みました。それで彼女と自分だけになったときに、彼は彼女を辱めました。すると、こう書いてあります。「ところがアムノンは、ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼がいだいた恋よりもひどかった。(2サムエル13:15」アムノンが抱いていた恋または愛は、罪を犯した後に瞬く間に憎しみへと変わったのです。

 金銭を愛することも同じです。パウロはこう言いました。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(1テモテ6:9-10」そして、愚かな金持ちは、「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。(ルカ12:19」そう楽しんでいるうちに、神は彼の命をその夜に取り上げられました。

 ですから、賢い人は先の先まで見て、あることを行うかどうかを決めます。「この罪を行ったら、どのような結果になるのだろうか。ずっと苦しみ、悩み続けることになるであろう。」と前もって考えるのです。それで、今の楽しみを取るか、あるいはその後長く続く痛みを取るか、これを計算して正しい判断を下すのです。

2B 神の民との苦しみ
 そしてヘブル書11章は、「神の民とともに苦しむことを選び取りました」と言っています。イスラエル人は神の民であるがゆえに、エジプト人から苦しみを受けていました。モーセは、イスラエル人に関わることによって、イスラエル人と共にいることによって、同じようにエジプトから苦しみを受ける道を選び取りました。

 私たちはキリストを自分の救い主として信じることによって、御霊によって新しく生まれます。そしてそれはキリストの体の一つになることを意味します。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(1コリント12:13」したがって、体の一部が苦しめば、体全体がその痛みを感じるように、誰かが苦しめばみなが苦しむことになります。

 そこには、自分を喜ばすということはありません。相手の弱さを担い、愛をもって互いに仕えます。けれども、それは自分のことを考えている人にはわずらわしいことになります。自分が持っている物や自分の持っていることを犠牲にしなければならないからです。モーセが、イスラエル人に関わるのは面倒なことになると言って、苦しんでいる同胞をほったらかしているのと同じです。

 ピリピという町にある教会に、一致がなかなかできない問題がありました。「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2:20-21」互いのことを真実に心配しないのは、自分自身を求めているだけで、キリスト・イエスのことを求めていないからだ、というのです。

 このように、私たちは神の民として生きる中で、苦しみを担うという召しが与えられているのです。

3B キリストのそしり
 そして、「キリストのゆえに受けるそしり」とあります。モーセが同胞イスラエル人から受けたそしりを、ヘブル書は「キリストのそしり」と言っています。また、イスラエルの人たちに関わったことによって、エジプトの君子から単なる羊飼いに成り下がったという恥を彼は負いました。

 私たちは、キリストの体の一部になっただけではなく、キリストご自身と一体になった者たちです。キリストに結ばれた者たちです。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ6:5」キリストの死も復活も、私たちは罪に対して死に、新しい命にあってよみがえったことによって体験しています。そして、キリストが苦しみを受け、そしりを受け、それから昇天され、神の右に座すという栄光をお受けになったのと同じように、私たちもまたキリストにある苦しみをうけ、そしりを受け、そしてキリストの栄光にあずかるようになります。

 それゆえ、私たちは自分たちが当たり前に持っているものを捨てなければいけない時があります。当たり前に抱いていた主張、当たり前に抱いていた権利、当たり前に自分のものとしていた財産、当たり前だと思っていた否定的な感情など、これらはキリストを愛する愛のゆえに、自ら捨てたいと願うのです。イエス様は言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ8:34

 この御言葉は、私たちが愛にあって成長することによって、身に着けていくものです。私たちは矢鱈に自分の財産を捨てるのではありません。特に「捨てなさい」という命令を受けるとそう感じるのです。けれども、その目的があるのです。それは、例えば財産であれば「貧しい人のため」に捨てます。つまり、その人たちを愛する熾烈な愛が神から与えられるから、捨てるのです。当たり前に抱いていた感情もそうです。神を知っていく中で、自分の抱いている感情が間違っていることを気づき、もっと神を愛したいから捨てるのです。それを抱いていても、だれにも文句は言われないかもしれません。けれども、キリストにあってあえて捨てるのです。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15」とあるとおりです。

4B エジプトの宝にまさる富
 そして、「エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。」とあります。モーセは比較をしました。罪が与える楽しみは、この地上でせいぜい数十年程度です。けれども、この地上で苦しみが数十年続いても、数億年、いや、とこしえからとこしえまで、神の与えられる至福が与えられる、ということを計算したのです。

 私たちは、クリスチャン生活が禁欲的なものであると考えます。罪が楽しい時にはとくにそう思います。私の自由を束縛し、実に面白くない教会活動に縛りつけるもの、規律と規則のつまらない繰り返しだと思ってしまいます。ところが、聖書が教えているのはその正反対です。神が私たち人間に願われているのは、かつてアダムとエバがエデンの園で楽しんでいた至福です。神と一体になって交わるところにある喜びと平安、愛、これら良いものの全てが満ちているところです。

 罪は魅力的であるけれども、キリストにある命はさらに魅力的なものだから、それで罪を捨てることができます。

 イエス様は言われました。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10」豊かに持つ、あり余る命を持つためにイエス様は来られました。そして礼拝の好きなダビデは、こう告白しました。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。(詩篇16:11

 さらに、パウロは富についてこう話しています。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(1テモテ6:17」すべての物を豊かに与えて、楽しませてくださる神なのです。さらにパウロは、「また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。(18節)」と言っています。分け与えるところに真の喜びがあります。そして、「また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。(19節)」とも言っています。永遠のいのちのために、生きている間にそのために基礎を生活の中で築きなさい、ということです。

 それでモーセはどうなったでしょうか?モーセは、40歳から80歳までの間、羊飼いの暮らしをしました。その後の40年間、イスラエルの民と共に荒野の生活をしました。それは、イスラエルの民の不満と不平をずっと聞いていなければいけない人生でした。けれどもモーセは同時に、神の偉大な業を、直に経験しました。奇跡的に、食糧や水が与えられたことも経験しました。敵に打ち勝つその様子を見ることができました。そして何よりも、彼は神と顔と顔を合わせるような、親しい交わりを神と持つことができました。

 確かに、苦しみの80年間でした。しかし、その千五百年後にもモーセは生きていたのです!新約聖書で、イエス様が高い山におられて、その姿が白く光り輝いた時に、モーセと預言者エリヤが現れて、これからイエス様が十字架につけられることについて話していたのです。少なくとも、その時点で千五百年、神のそばにいるという至福を味わっています。エジプトの富とは比べ物にならない富を味わっています。苦しみの80年間でありますが、1500年の楽しみがあり、そして聖書によれば、モーセは今、二十一世紀になっても天に生きているのです。

 ですから、はかない罪の楽しみと、とこしえの楽しみを計算してください。どちらが得する選択でしょうか?世が与えたとしても、せいぜいエジプトの富のようなものです。私たちは大金持ちにならずとも、一軒家を持つことができた、周囲の人々からほめられた、一人の愛する男の人を見つけた、などなどです。それらがあるから、じゃあキリストのそしりを受け取りたくない、と言われるのであれば、一軒の家、火事や地震、津波でなくなってしまうものです。周囲の人々のほめ言葉など、次の日にはなくなってしまいます。愛する男の人など、結婚してまったく違う人に変わってしまう可能性もあります。全てが一時的なのです。けれども、神の民の苦しみに私たちもあずかり、キリストのそしりを受けたら、一軒の家どころか天における豪邸が用意されています。人々のほめ言葉ではなく、神からの永遠のほめ言葉を受けます。愛する男の人ではなく、永遠の真実な愛をもって包んでくださるイエス様の愛を受けることができます。

 カラオケで「永遠の愛」と歌っているのは、それはその場限りです、嘘です。けれども、イエス・キリストは確かに死んだのによみがえってくださったことをもって、永遠の愛が存在することを証明してくださいました。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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