出エジプト記30−32章 「道を外した民」

アウトライン

1A 香の捧げ物 30
   1B 香壇 1−10
   2B 贖い金 11−16
   3B 洗盤 17−21
   4B 香油 22−38
2A 細工人 31
   1B 知恵の霊 1−11
   2B 安息日の休息 12−18
3A 金の子牛 32
   1B 他の神 1−6
   2B 執り成し 7−14
   3B 懲らしめ 15−29
   4B 神の書物 30−35

参照サイト
25章以降の幕屋の造りについては、以下のサイトをご参照されると良いでしょう。
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本文

 出エジプト記30章を開いてください、私たちは前回、祭司の装束についての教えを読みました。モーセはずっとシナイ山の頂の所にいて、主から幕屋と祭司についての教えを受けていました。そして今日はその続きと、そしてその教えを受けた後で起こった、あまりにも衝撃的な出来事について学びます。

1A 香の捧げ物 30
1B 香壇 1−10
30:1 あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。30:2 長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。30:3 それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。30:4 また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。30:5 その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。30:6 それをあかしの箱をおおう垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。

 香壇の作り方です。香壇はその名のとおり、動物のいけにえを捧げる祭壇とは異なり、香を焚くための壇です。大きさは、一キュビトずつの正方形、そして高さはその二倍です。祭壇と同じように角を四隅につけます。そして契約の箱や供えのパンの机と同じように、アカシヤ材で作り、純金で覆います。環に棒を通して、運搬の時に担いで運ぶのも同じです。

 そしてその配置ですが6節を見てください、「垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。」とあります。聖所と至聖所を仕切る垂れ幕の手前ですから、実際上は聖所に置きます。けれども、それは垂れ幕の向こうにある贖いの蓋のところに香が届くということを意識して、置いています。

30:7 アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびをととのえるときに、煙を立ち上らせなければならない。30:8 アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。

 「常供」というのは、日毎に供えるということです。朝と夕に、燭台のともしび皿に油を注入する時に、香を焚くことも行います。

30:9 あなたがたは、その上で異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげ物をささげてはならない。また、その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。

 外庭にある祭壇と同じようにしてはならないという戒めです。

30:10 アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も聖なるものである。」

 これは「贖罪日」と呼ばれる、イスラエルの罪のいっさいを神に赦していただく祭りで、レビ記16章また23章に書いてあります。その時には祭壇の角と同じように、角に血を塗ります。

 このように大祭司が日毎に、主が会ってくださる贖いの蓋の上のところに香が届くようにする奉仕というのは、他の聖書箇所を読みますと「祈り」を表すことが分かっています。この香壇は何のためにあるのでしょうか。詩篇には、「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。(141:2」とあります。ルカによる福音書1章には、祭司ゼカリヤが香をたいている間に、御使いガブリエルが香壇の右に立ち、こう言いました。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。(1:13」そして黙示録には、「この香は聖徒たちの祈りである。(5:9」とあります。

 私たちは前回学びましたね、イエス・キリストは大祭司であられる方で、私たちのために執り成しをしてくださる方です。香壇はアカシヤ材と純金で出来ていますが、アカシヤの木は人としてのイエス様を表しています。イエス様は地上におられた時に、父なる神への祈りを絶やすことはありませんでした。ルカによる福音書は、人間としてのイエス様の姿をよく見ることができると言われますが、祈られている姿をたくさん見ることができます。例えば、「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。(5:16」「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。(6:12」とあります。そして有名なのが、ゲッセマネの園における祈りです。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。(22:42」イエス様は、祈りが父なる神の御座に香の煙のように届いていることをよく知っておられたのです。

 そしてイエス様は私たちにも祈るように、強く勧めておられます。ルカによる福音書181-8節です。
 

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 いかがですか、私たちの祈りは確実に主なる神の御座に届いているのです。

2B 贖い金 11−16
30:11 主はモーセに告げて仰せられた。30:12 「あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。

 「人口調査」を行ないます。これは実際、民数記において二十歳以上の成年男子が登録されます。それは軍務につくことのできる者たちです。そして彼らは贖い金、あるいは身代金という言葉を使って良いでしょう、彼らが主に属する者となるために必要なお金です。

 人口調査とは、その調査を命じる者がその民を所有していることを表しています。聖書の中で人口調査をして罰せられた人がいます。ダビデです。部下の将軍ヨアブにそれをするように指示しましたが、ヨアブは「なぜそのようなことをするのですか?」と疑問を呈しました。けれどもダビデが説き伏せたので彼はいやいや行いました。そして、ダビデは心に痛みを覚えます。罪を犯した、と神に告白しました。イスラエルの民は神のものであるにも関わらず、自分の所有にしようと貪ったからです。

 イエス様は、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:45」と言われました。この「贖いの代価」も身代金のことです。つまり、主が罪に売り渡されている私たちを、ご自分の命という身代金を支払うことによって、ご自分のものとすることを意味します。同じように、イスラエルの成年男子は、自動的に主に属する兵士となるのではなく、個々人が神の贖いを体験しなければいけない、ということです。私たちも教会に来れば自動的に教会員になるのではなく、神の贖いを個人的に受け入れる必要があります。

30:13 登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。

 シェケルは重量11.4グラムを表しますが、同時に、貨幣の価値を表していました。

30:14 二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納物を納めなければならない。30:15 あなたがた自身を贖うために、主に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。

 累進課税ではなく一定の金額でした。それは、「すべての人が、同じように永遠のいのちを受ける」という霊的真実が背後にあるからです。すべての人が罪人であり、全ての人がキリストにある贖いを信仰によって受け入れることができ、そこには差別がありません。

 しばしば、過去の家庭環境などを取り上げて、「この人はこうなっているのだ」という話を聞きます。けれども、もしそれが正しいとすると、悪い家庭環境にいた人は罪の力から解放されず、良い家庭環境だったからこそ神との関係を結ぶことができる、という階級と差別ができてしまいます。いいえ違います、どんな環境であろうとも、主イエスが与えてくださる自由はそのくびきを打ち砕く力を持っているのです。

30:16 イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための記念となる。」

 会見の天幕には、銀は、聖所の板の台座や外庭の掛け幕の鉤などに用いられます。そして、「贖いのために、イスラエル人のための記念となる」とあります。主は、一人一人のイスラエル人を記憶してくださる、ということです。私たちも、キリストの贖いのゆえに神が私たちを忘れることは決してありません。

3B 洗盤 17−21

30:17 主はまたモーセに告げて仰せられた。30:18 「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。30:19 アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。30:20 彼らが会見の天幕にはいるときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、主への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、30:21 その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」

 洗盤は、外庭に置きます。青銅の祭壇と聖所の間に置きます。そして祭司が聖所の中に入る時も、また青銅の祭壇でいけにえを捧げる時も、ここで手足を洗うことによって彼らは死を免れます。そして、洗盤も祭壇と同じように青銅で作られます。

 私たちは前回、祭司の任職式の中で、装束を身に付ける前に彼らが水洗いを受けたのを思い出してください。その時にヨハネ13章にある、イエス様が弟子たちの足を洗われた話をしました。水洗いは、その人の罪が洗い清められることであることを話しました。

 興味深いことに、イエス様はその時ペテロに対して、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。(10節)」と言われました。ペテロや弟子たちは、イスカリオテのユダを除いて全身水浴をしたとイエス様は言われます。同じように祭司はこの務めを行なうにあたって全身水浴を受けるのですが、御霊によって私たちは洗われた、ということです。

 けれども、足は洗う必要があります。当時はサンダルを履いていましたから、帰宅すれば足が埃で汚くなっているのは当たり前でした。それで足洗いをしました。同じように、私たちは御霊の洗いを受けても、日頃の生活の中で世の汚れを持ち運んでしまうことがあるのです。祭司も務めを行なっていく中で手足が汚れるので、それを清めるのと同じように、私たちも日々の清めを必要とします。

 イエス様は弟子たちに対して、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。(ヨハネ15:3」と言われました。そして使徒パウロは、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、(エペソ5:26」と言いました。神の御言葉が私たちを清めるのです。しばしば言われることですが、「聖書は私たちを罪から引き離し、罪は私たちを聖書から引き離す。」と言います。罪の生活をすると聖書を読めなくなってしまうが、聖書を読んでいると罪の生活を捨てたくなる、ということです。詩篇にはこうあります。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるのでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。(119:9

4B 香油 22−38
30:22 ついで主はモーセに告げて仰せられた。30:23 「あなたは、最上の香料を取れ。液体の没薬五百シェケル、かおりの強い肉桂をその半分・・二百五十シェケル・・、におい菖蒲二百五十シェケル、30:24 桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒン。30:25 あなたはこれらをもって聖なるそそぎの油を、調合法にしたがって、混ぜ合わせの香油を作る。これが聖なるそそぎの油となる。

 聖所で使う香油の調合法です。「没薬」は紅海周辺で取れる食物で、中国の漢方としても使われています。「ミルラ」とも呼ばれますが、エジプトの「ミイラ」を語源としていて、死体の埋葬にも使われます。事実、イエス様が死なれた後、弟子たちや女たちが香油と香料を用意しました。そして、肉桂ですがシナモンのことですね。におい菖蒲は「カシア」と言って、シナモンよりも刺激のあるにおいのする木の樹皮です。これらをオリーブ油で混ぜ合わせ、聖なる注ぎの油とします。

30:26 この油を次のものにそそぐ。会見の天幕、あかしの箱、30:27 机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、30:28 全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台。30:29 あなたがこれらを聖別するなら、それは、最も聖なるものとなる。これらに触れるものもすべて聖なるものとなる。30:30 あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。

 とにかく、あらゆる祭具に香油を注ぎます。祭具のみならず、祭司たちにも香油を注ぎます。これによってそれらがすべて聖なるものとなるからです。

 私たちは、御霊の働きが水として形容され、そして油としても形容されていることを学びました。燭台のともしび皿における油が聖霊を差しており、聖霊に満たされるからこそ光を放つことができることを学びました。ここでも同じです。すべての礼拝奉仕において、聖霊の油注ぎがないものは存在しないということです。

 パウロはコリント人への手紙第一において、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(3:16」と言いました。私たちが神に礼拝を捧げる時に、私たちの心も思いも、そして私たちの力もすべてが聖霊の影響下になければいけないことを教えています。私たちはしばしば、礼拝を形式的なものにします。けれども、聖霊の油があらゆる奉仕に注がれていなければならないのです。

30:31 あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。これはあなたがたの代々にわたって、わたしのための聖なるそそぎの油となる。30:32 これをだれのからだにもそそいではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものとしなければならない。30:33 すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人につける者は、だれでもその民から断ち切られなければならない。」

 油は、その地方の人々にとって、多様な使われ方をしていました。食べ物に使うだけでなく、体に塗ることもしました。けれども、聖所の油と同じようなものと作ってはならない、と主は言われます。ちょうど一万円札を偽造すれば大きな罪に問われるように、それだけこの香油は高価ということです。ご聖霊の働きは特別であり、これを模倣しるような試みはいけないということです。

 教会の中で使われる「聖霊の働き」で、必ずしもそうではないものがあります。心理的に満たされただけなのに、それを聖霊の満たしと言ったりします。もちろん、感情的に、心理的に満たされることもありましょう、そしてそれはすばらしいことです。けれども問題は、「実を結んでいるか」ということです。、少し自分に不都合なことが起こったら、非常に怒ってみたり、そしってみたり、あるいはねたんでみたりしたならば、その「聖霊に満たされた」と言っている言葉は嘘です。聖霊の実は必ず、愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制だからです。

30:34 主はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。30:35 これをもって香を、調合法にしたがって、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。30:36 また、そのいくぶんかを細かに砕き、その一部をわたしがあなたとそこで会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものでなければならない。30:37 あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを主に対して聖なるものとしなければならない。30:38 これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。」

 こちらの香は、香壇の上で焚くためのものです。「あかしの箱の前に供える」とありますが、先ほど見ましたように香壇での香の煙はあかしの箱の前に届きます。そして、ここに「乳香」とありますが、これも没薬と並んでその地方で取れるものであり、イエス様が埋葬された時にも用いられたものです。

 香油と同じように、これを真似して作ってはならないと主は言われます。主は、名前だけの礼拝、形だけの礼拝をひどく嫌われます。

2A 細工人 31
1B 知恵の霊 1−11
31:1 主はモーセに告げて仰せられた。31:2 「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、31:3 彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。31:4 それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、31:5 はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。31:6 見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。31:7 すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『贖いのふた』、天幕のあらゆる設備品、31:8 机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、31:9 全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、31:10 式服、すなわち、祭司として仕える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、31:11 そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」

 私たちがこれまで見てきた、幕屋にあるもの、そして大祭司の装束など全てについて、主がそれを細工する人を選ばれました。名指しで選んでおられます、ベツァルエルとオホリアブです。彼らは元々こうしたものを細工する技法を持っていたのでしょうが、けれども主がここで強調されているのは、「神の霊によって、彼らに知恵と英知と知識を与えられた」というものです。知恵は自分のものではなく主から来ている、というものです。箴言26節には、「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」とあります。

 キリストの預言をイザヤが行った時に、この方に主の霊がとどまることを告げました。そしてこう言っています。「それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(11:2」聖霊の働きというと、私たちは感覚に訴えるもの、感情的になるものを想起しますが、聖書を見るとそうではありません。また、コリント第一12章には、御霊の賜物に「知恵の言葉」と「知識の言葉」があります。私たちは超自然なことが、私たちの考える超自然な現象でしか考えないのですが、実は、事前に超自然なことが起こっています。そして往々にしてご聖霊の働きは、自然な形で超自然なことを行なわれることが多いのです。

 そして私たちが教会として奉仕をする時に、聖霊に満たされることを第一に考えてください。先ほども見ましたが、注ぎの油はすべてに及びます。したがって、会計をしている時も、新しい人を歓迎する時も、予約した部屋の鍵を開ける時も、それらは自分が元々できることなのかもしれませんが、聖霊の満たしによって初めて神に栄光をお捧げすることができます。

2B 安息日の休息 12−18
31:12 主はモーセに告げて仰せられた。31:13 「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。31:14 これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。31:15 六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。

 なぜ、ここで安息日の戒めを神が話されているかと言いますと、今、幕屋の用具を作りなさいという命令を主が出されたからです。たとえ、ご自分の住まわれる幕屋の用具であっても、安息日には休まなければいけないと、きつく戒めておられます。

 これは私たちに対する戒めでもあります。神のためだからということで行なっていることが、必ずしも主を喜ばせているとは限らないことです。イエス様は、「神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」と言った群衆に対して、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(ヨハネ6:29」と言われました。神がキリストにおいて行なわれたことを信じ、それに留まることこそが、私たちに対する神の第一命令なのです。つまり、礼拝することが最優先されるべきである、ということです。

 私たちが主のために行なっている犠牲は、主の命令に違反することを正当化しません。目的は手段を正当化しないのです。サウルという王は、神からアマレク人を聖絶せよ、との命令を受けました。私たちが読んだ、荒野の旅をしているイスラエルがアマレク人の攻撃を受けた出来事を読みましたが、そのアマレク人です。王を初め、全ての人、そして家畜までも殺しなさい、という容赦ないものでした。けれども、サウルは王を生け捕りにし、家畜でも最上のものは取っておきました。そして預言者サムエルが来た時に、「私は、主のことばを守りました。」と言ったのです。なぜか、「最上のものは、主にいけにえを捧げるために残しておいたから。」という理由づけです。

 するとサムエルはサウルに言いました。「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。(1サムエル15:22-23」聖書にはっきりと書かれてあることに従わなければ、どんなに犠牲を払ってもそれは無に等しいです。

31:16 イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。31:17 これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」

 安息日について、今でもそれが有効なのか?という疑問に対しては、「いいえ」と答えます。その根拠はここにあります。神は契約のしるしとして、イスラエルの民、つまりアブラハム、イサク、ヤコブの血縁の子孫に対して安息日を定められました。異邦人や教会の人たちが、この律法の下には既にいないのです。

 けれども、天地創造の秩序があります。私たちが六日働いて、一日休み、そして主を礼拝するというのは、神が立てられたすぐれた制度です。このような話を聞いたことがありますが、アメリカでゴールドラッシュの時ことです。みなが金塊を求めて西へ西へと旅を続けました。クリスチャンたちも西へ向かったのですが、日曜日は必ず礼拝をし、そこに留まったため、「ずいぶん無駄なことをしているな。」と言いながら、休むことなく西へ向かったそうです。けれども、西海岸に付く頃には、なんと無休で動き続けた人々は病にかかり、死んでしまった人々が出てきたとのこと。私たちが、どんなに忙しくても無条件で休み、そして主を礼拝することは、神の秩序にかなっています。

31:18 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

 なんと、神はご自分の指で戒めを書き記されました。この二枚の石は、あかしの箱の中に入れるつもりのものです。ところが、次の事件が起こりました。

3A 金の子牛 32
1B 他の神 1−6
32:1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」32:2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」32:3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。32:4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」32:6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

 この「金の子牛事件」については、ぜひ第一礼拝の説教「なぜ偶像崇拝をするのか?」をお聞きください。彼らは、偏に「主が自分たちと共におられる」という意識を失ったことで、偶像崇拝の罪に陥りました。その前に、彼らはモーセという指導者が主に会いに行くので、自分自身は神との直接につながりと交わりを丸投げしていました。そのため、ひとたびモーセがいなくなると、主ご自身の臨在も感じられなくなったのです。

 そのため心に不安が生じました。モーセに代わる代替物を求めました。それが過去に慣れ親しんでいたエジプトの神の一つである子牛でした。私たちの心に神の意識が薄れると、過去のもの、目に見える物に拠り頼みたくなるのです。それでアロンに要求しました。神に導かれた指導者が民を治めるというのが神の統治の仕方ですが、民が指導者を自分の要求によって動かすのは民主主義でありこそすれ、神の秩序に逆行するものです。

 そしてその他はすべて、主への礼拝に非常に似ていました。金の奉納物、金による細工、主への祭り、全焼のいけにえと和解のいけにえ、飲み食いなど、すべてが主への礼拝として既出のものです。けれども、対象がまったく異なっていました。私たちも表向きはイエスという名を使い、敬虔を装うことはできても、中身がまったく違うこということは十分にあり得ることなのです。

 その違いは実によって判断できます。長老たちがかつてシナイ山のふもとで、主の御足を見ながら飲み食いをしたときは、その交わりは聖潔へと向かわせました。けれどもここでは戯れ、つまり性的な乱れを含む、お祭り騒ぎになっていたのです。

2B 執り成し 7−14
32:7 主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」

 主は、モーセに対してご自分の失望を隠せませんでした。イスラエルの民を「わたしの民」と呼ばず、「あなたの民」と言われています。ご自分の民と呼ぶべき親密さがなくなってしまったのです。そして、「堕落してしまった」と言われますが、この言葉はノアの時代に人々が悪の道に進んだ時に、「神は地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。(創世6:12」と同じ言葉を使っておられます。水による裁きに匹敵する悪を行なってしまったのです。

32:9 主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。32:10 今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」

 「うなじのこわい民」という言い回しは、これからも出てきます。これは馬の乗り手が、手綱で馬を引いても、全然言うことをきかず、動かない状態のことを指しています。

 そして神は、また改めてアブラハムと同じことを、モーセを通して行なうと言われます。アブラハムに、「あなたを大いなる国民にする」と約束されました(創世12:2)。そして、ノアの時に行なわれたように、彼ら全てを消し去ることも言われています。

32:11 しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。32:12 また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。」

 モーセによる、すばらしい執り成しです。彼は、神からの申し出を受け取ることもできました。自分のことだけを考えたら大いなる国民になると言われた約束は実に魅力的です。けれども、モーセは愛がありました。ちょうど羊飼いが百匹のうち一匹がいなくなって、九十九匹を残して一匹を捜すように、愛は自分の命を注ぎだします。損得勘定をしたり、計算しません。彼は、神の民と苦しみを共にすることが、キリストの栄光だと思っていました(ヘブル11:26)。

 彼は初めに、「あなたの民」と神が言われたことに反応しました。自分の民ではなく、神ご自身の民です。彼らは単に、神が創造されたということだけでなく、偉大な力と力強い御手をもって贖い出された民です。次にモーセは、神の御名がそしられることを訴えました。エジプト人がイスラエルのせいであれだけ大変な思いをしたのですが、「えっ、金の子牛を拝んで滅ぼされた?何だよ、それは!神なんて言っているけど、変な奴だな。」と言われるに決まっています。彼らのためではなく、主の栄誉にかけて、そのようなことをしないでください、と訴えています。そして、アブラハム、イサク、ヤコブに対する神の約束を覚えてください、と嘆願しています。

 したがって、第一に「神の贖い」、第二に「神の御名」、第三に「神の約束」に訴えて、彼らを滅ぼさないでくださいとお願いしているのです。一切、イスラエルの民の正しさを訴えていません。神の義に訴えているのです。これが、神の御心にそった祈りです。私たちが人の魂の救いのために祈る時に、それはその人のため以上に、キリストがその人を愛しておられる、ご自分の命を捨てられたほどに愛しておられる、神の心に訴えるのです。

32:14 すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。

 ここに、しっかりとした説明が必要な神の動作があります。「思い直された」という言葉です。まずヘブル語ですが、「憐れみから、気の毒に思うこと」「不憫になる」という意味がある言葉です。気まぐれで、思い直したのではありません。サムエル記第一に「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」(15:29」とあります。ヤコブ117節には、「父には移り変わりや、移り行く影はありません。」とあります。

 神は、ご自分の義のゆえに、イスラエルの民を罰しなければいけません。けれども、それを決して喜んでおられないということを決して忘れてはいけません。聖書の中に、何かを滅ぼす、誰かを滅ぼすと神が宣言されている時に、少しでもその者がへりくだり、自分のしたことを悔いて、神に立ち返ろうとしているのであれば、「わたしはこうする。」と言われたことをすぐに控えられます。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。・・神である主の御告げ。・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23」神は罪を罰せずにはおかない方ですが、情け深く、憐れみに富み、怒るに遅い方なのです。

 モーセが祈っていることは、実は神の心から発したことでした。モーセは執り成しの祈りにおいて、神の御心と一つになっていました。彼の祈りを通して、神はご自分の思いを実現されました。もちろんモーセは、自分が神を演じているなどと少しも思っていません。彼はただ、神の前でへりくだり、嘆願しているだけです。けれども、そうした嘆願へと導かれたのは神であり、モーセの祈りによってご自分の思いを戻すことを行なっておられるのです。

 これが祈りの目的です。祈りを通して、私たちの思いが神の思いになります。私たちは知らずとも、神が私たちにご自分の思いを置かれています。そしてその祈りを聞かれることによって、神はご自分の御心を行なわれるのです。このようにして、祈り手は神の御業のただ中に入る恵みを受けるのです。

3B 懲らしめ 15−29
32:15 モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。32:16 板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。32:17 ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」32:18 するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」

 ヨシュアはモーセが山に上るときに、同行していましたね。モーセが神と話しているのを彼は少し離れたところで待っていました。そして彼は声を聞いていました。彼はすぐれた戦士ですから、この声を戦いの声と聞き間違ったのです。けれども、それはどんちゃん騒ぎの声でした。

32:19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。32:20 それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。

 石の板を砕いたのは、イスラエルの民が神の戒めをことごとく破ったことを示す行動でした。そして子牛を火で焼き、粉々に砕き、水の上にまき散らしたのは、この偶像に対する記憶を二度と抱かせないためです。聖書では、偶像を破壊する時に、例えばそこに死体をばらまいたり、または公衆便所にした人もいました。こうして二度と偶像崇拝を行なわせないようにします。

 それから、その粉入り水をイスラエルに飲ませます。彼らがどのようなとんでもないことを行なったのか、その苦さを味わせるためです。これを聖書では「懲らしめ」と言います。自分が行った罪の結果を自分で味わうようにさせることを言います。私たちは懲らしめを受ける時、悲しみますが、長期的には義と平和の実を結ばせることができます。自ら、この罪を二度と犯したくないという、健全な罪への憎しみと嫌悪感を抱くことができる効果があります。

32:21 モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。」32:22 アロンは言った。「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。32:23 彼らは私に言いました。『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』32:24 それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ。』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」

 とんでもないことをアロンは言っていますが、これは恐れから言ったことでしょう。申命記には、神はアロンをも滅ぼそうとされたが、モーセが執り成したので彼は死なないで済んだ、ということが書いてあります(9:20)。アダムとエバがそうですが、「なぜ実を食べたのか?」と神に聞かれたときに、自分の責任ではなく、他者のせいにしました。アロンはそのことをここで行なっています。

32:25 モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。

 この「」はアマレク人でしょうか。神の民が、神の共同体が敵の物笑いとなっているということは、危機的な状況です。そこでモーセは、取らなければいけない処置を取りました。

32:26 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。32:27 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」32:28 レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。32:29 そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」

 ここには、神の聖さがかかっています。主の共同体の中に聖さがなくなれば、共同体全体が崩壊します。そこで、このように厳しい処置をしなければいけなくなりました。

 これが旧約時代だけの話だと思わないでください。霊的には同じ原則が教会にもあります。ペテロの前で、偽善の罪を犯したアナニヤとサッピラは息絶えました。彼らは、全ての財産を持って来たと言って、本当は一部しか持って来ていなかったのに偽ったのです。それで死にました。また、コリントにある教会では、近親相姦をしている者がいました。その罪を裁くことをせず、教会は寛容と言う名目で放っておいたので、使徒パウロはその男を教会から追放する処置を取りました。幸い、コリント第二の手紙では、彼は深い悲しみに沈み、押しつぶされそうになっていたので、パウロは彼を交わりの中に戻しなさい、という指示を出しています。

 そしてモーセは、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。」と言っています。私たちは同族や仲間への愛が、主への愛に先行してしまう過ちを犯します。けれども主への愛が第一とならなければいけません。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37」時には自分の身を切り裂くような辛さを味わうことでしょう。けれども、それは主のためだけでなく、私たち一人一人に益になることです。

4B 神の書物 30−35
32:30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」32:31 そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。32:32 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

 モーセは民の前では毅然とした態度を取りましたが、彼の心は神の前では弱くなっていました。これが彼のイスラエルの民に対する心です。

 そしてモーセは驚くべき祈りを捧げています。「どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」この言葉を発する前に、逡巡している彼の思いを読み取ることができます。前文の文末が棒線になっていますね。彼が言葉にならない思いで、詰まっているのです。

 そして、「あなたがお書きになったあなたの書物」とありますが、神は私たちの名を書き記している書物を持っておられます。弟子たち70人がイエス様の名によって悪霊を追い出したことを喜んでいる時に、主も共に喜ばれましたが、「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(ルカ10:20」そして、イエス様はサルデスにある教会で一部の者は、「彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。(黙示3:5」と言われています。

 ですからモーセが行っていることは、言わば、「彼らが天国に入るためなら、私を代わりに地獄に送ってください。」と言っているのに等しいです。使徒パウロは同胞のユダヤ人に対して、同じ思いを言いました。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ローマ9:3」ここまで熾烈な愛をもっています。

 けれども主は、モーセのこの祈りを聞かれませんでした。32:33 すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。32:34 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」

 主は裁くべき人々を裁かれました。先ほど三千人が死にました。そして、約束の地に入る前にに十歳以上の者たちはみな、荒野で死に絶えます。

32:35 こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。

 金の子牛の罪をこうしてモーセはまとめています。「アロンが造った子牛」と書き記していますね。アロンはモーセに代わって民を治めなければいけなかったのに、それを怠りました。民が欲しているもの、願っているものをそのまま追従して行いました。これは、仕えることではありません。真の奉仕は、人々を神の義の中に導くことです。そのために労苦し、骨折ることです。

 次回は、主が続けて民を取り扱い、そしてモーセが続けて神に執り成しをささげ、神はご自分の憐れみにしたがって、彼らに契約を更新してくださったところを読みます。彼らを神がどのように回復してくださったのかを見ます。

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