エゼキエル書1−3章 「神の栄光からの召し」

アウトライン

1A 神々しい幻 1
   1B 時と場所 1−3
   2B ケルビム 4−28
      1C 姿 4−14
      2C 輪 15−21
      3C 上におられる方 22−28
2A 召し 2
   1B 反逆の国民 1−7
   2B 巻き物の摂取 8−10
3A 働きの始め 3
   1B そのままの言葉 1−11
   2B 警告の義務 12−21
   3B 家の中からの預言 22−27

本文

 エゼキエル書1章を開いてください。今日は1章から3章までを学びたいと思いますが、メッセージ題は「神の栄光からの召し」です。早速ですが、1節から3節まで読んでみましょう。

1A 神々しい幻 1
1B 時と場所 1−3
1:1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。1:2 それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。その月の五日に、1:3 カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。

 私たちはこれまで、エレミヤによる預言を読んできましたが、エゼキエルは同時代に生きています。2節に、「エホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった」とありますね。紀元前597年に第二回バビロン捕囚の時です。ちなみに、第一回バビロン捕囚は紀元前605年に起こりましたが、それはエゼキエル書の次に私たちが学ぶダニエルが捕え移されています。

 エレミヤが継続してエルサレムにとどまっていたのは対照的に、エゼキエルはこの第二回バビロン捕囚にて捕え移されています。場所が、「カルデヤ人の地のケバル川のほとり」とあります。ケバル川はユーフラテス川の支流であり、バビロンの町より北にあります。

 そして彼はエレミヤと同じく祭司の子です。なので、1節の「第三十年」はおそらく彼の歳であると考えられます。祭司の奉仕は、三十歳から始まるからです。そしてエゼキエルはエレミヤ以上に、その祭司としての預言を行なっていきます。「神々しい幻を見た」とありますね。1章は、主の御座のそばにいる天使ケルビムの幻から始まり、彼は御霊によってエルサレムの神殿に瞬間移動し、その中が汚されているのを見ます。そして紀元前586年に神殿が破壊されてから、33章からですが、イスラエルが回復する預言をします。そのクライマックスが40章から48章の御国における神殿です。エゼキエル書の最後は、「主はここにおられる(48:35」で締めくくられています。

 エゼキエル書の主題を一言でいえば「神の栄光」です。聖所に入る祭司が神の栄光を見るように、エゼキエルは天における神の栄光を生々しく見ていくことになります。エレミヤ書のテーマが「神の涙の裁き」であり、次のダニエル書が「神の永遠の主権」が主題であるならば、エゼキエルは神の栄光を主題にし、預言を行なっています。

 私たちは目に見える世界の中で生きているので、このことをあまり考えていないでしょう。けれども、目に見えない霊的な世界、天的な存在が、目に見えるものを支配しているというのが実際なのです。そして信仰者であれば、私たちは神の栄光を仰ぎ見たいのです。これが私たちの究極の霊的な願いであり、飢え渇きです。私たちはこれをエゼキエル書の中で学ぶことができます。

2B ケルビム 4−28
1C 姿 4−14
1:4 私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。

 大きな風、雲と火、そして青銅のような輝きとありますが、これは神の聖さと裁きを表しています。それが北のほうから来ている、と言います。これからエゼキエル書を読めば分かりますが、エルサレムがバビロンによって破壊される、エレミヤが行なったのと同じ預言を行ないます。北からの神の裁きとは、このバビロンによるエルサレム破壊を表しているものです。

1:5 その中に何か四つの生きもののようなものが現われ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。1:6 彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。1:7 その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、みがかれた青銅のように輝いていた。1:8a その翼の下から人間の手が四方に出ていた。

 これからこの四つの生き物の描写が始まります。天的な存在であり、これはちょうど四次元の世界を三次元の世界の言葉で言い表さなければいけないような困難さがあります。地上の者たちが天上の存在を表現するのは、実に難しいことです。立体のコンピューター・グラフィックスがあれば、少しは助かるかもしれません。

 そしてこの天的な存在の正体は、ケルビムです。エゼキエル書10章に明確にこれがケルビムであることをエゼキエルは述べています。ケルビムが初めにどこに出てくるか覚えていますか?エデンの園ですね。アダムとエバが罪を犯した、主が二人をエデンの園から追放しなければなりませんでしたが、「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(創世3:24」とあります。

 そして主がモーセに命じて、会見の天幕を造りなさいと言われました。その至聖所の中に、契約の箱があり、その上の蓋が「贖いの蓋」と呼ばれました。それは純金でできており、それが二人のケルビムが翼を互いに重ねるようにして掘られています。主はそのケルビムの間でわたしはあなたがたに会い、語ると言われたのです(出エジプト25:22)。そしてその後、主の御名を呼ぶ時に、「ケルビムの上の御座に着いておられる方(詩篇80:1」と呼ぶようになったのです。

 それはなぜか?実際に、主はケルビムの上に着座しておられるからです。幕屋や神殿のケルビムは、天にあるものを型どっているにしか過ぎません(ヘブル8:5)。エゼキエルは実物の方、神の御座の辺りを目撃しているのです。

 他に御座の周りの幻を見た預言者がいますが、イザヤがいます。6章1節からですが、「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』(イザヤ6:1-3」ここでは、ケルビムではなくセラフィムですね、けれども似たような格好をしています。

 そしてヨハネが御座の周りを見ました。黙示録4章ですが、「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。』(6-8節)

 私たちは、天に行くことをあこがれているでしょうか?天がどのような所か想像したことがあるでしょうか?想像する必要はないのです、このようにはっきりと神の御座の幻が私たちには与えられているのです。ここが私たちが天に引き上げられた後に見える所なのです。

 それでここエゼキエル書1章の本文に書かれている描写に注目しますと、基本的に一人ひとりのケルブは、人間の形をしています。けれども翼を持っています。それぞれ四つです。また顔も四つ持っています。そして足は人間のような足ではなく、まっすぐになっていて、磨き上げられた青銅のようになっている、とのことです。

1:8bそして、その四つのものの顔と翼は次のようであった。1:9 彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。1:10 彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。1:11 これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。1:12 彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。1:13 それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、たいまつのように見え、それが生きものの間を行き来していた。火が輝き、その火から、いなずまが出ていた。1:14 それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。

 彼らの動作が極めて興味深いです。向きを変えずにまっすぐに進むとあります。このような姿を見て、エゼキエルは未確認飛行物体UFOを見ているのだ、と言う人たちがいます。確かに私たちが映画などで見るUFOも似たような動きをしますね。けれども、もちろんUFOではなく天使ケルビムです。

 そして四人のケルビムの翼が互いに連なっており、それぞれの翼の二つは体を覆っている、とあります。これは贖いの蓋のケルビムも同じですが、主を礼拝して、ひれ伏している姿です。ケルビムの仕事は何かと問われれば、彼らはすぐに「主を礼拝することです」と答えるでしょう。なんだ礼拝か・・・と考える方は、礼拝が何であるか分かっていません。礼拝は、人間が行ないえる最も高次元の行為であります。

 燃える炭、たいまつ、また稲妻があるとありますが、これは神の聖さと裁きを表しています。「私たちの神は焼き尽くす火です。」とヘブル1229節にあります。

 そして稲妻の閃きのように走っているとありますから、瞬間移動ができるようです。天的な存在は、時間や空間の制限を受けません。

 そして彼らが持っている四つの顔に注目したいと思います。基本が人間の顔なのですが、その他、獅子、牛、そして鷲の顔があります。ここに神の栄光の現れがあります。イスラエルを荒野で宿営させる時の配置を思い出してください。幕屋を取り囲んで、東西南北、それぞれ三部族ずつが宿営します。東、幕屋の入口はユダ、イッサカル、ゼブルン、南がルベン、シメオン、ガド、西がエフライム、マナセ、ベニヤミン、北がダン、アシェル、ナフタリです。各方角に代表の部族がおり、東がユダ、南がルベン、西がエフライム、北がダンです。それぞれが旗を持っていました。聖書には書いてありませんが、ユダの旗は獅子を、ルベンは人間を、エフライムは牛、ダンは鷲の旗でした。(以上、民数記2章)

 そして四つというと、新約聖書の始まりもそうです。四つの福音書があります。同じイエス・キリストの生涯を描いているのですが、その強調点が異なります。王なるキリストはマタイが描きました。獅子です。しもべなるキリストはマルコが書きました。もくもくと働く牛です。完全な人間としてのイエスをルカが描きました。人間の顔です。そして神の栄光を持つイエスをヨハネが描きました。天にはばたく鷲です。

 非常に数学的といいますか、幾何学的な姿をしているエゼキエルですが、無意味にそうなっているのではありません。私たちの主イエス・キリストにある神の栄光を反映しているのです。

2C 輪 15−21
 そしてケルビムには「輪」があると言います。

1:15 私が生きものを見ていると、地の上のそれら四つの生きもののそばに、それぞれ一つずつの輪があった。1:16 それらの輪の形と作りは、緑柱石の輝きのようで、四つともよく似ていて、それらの形と作りは、ちょうど、一つの輪が他の輪の中にあるようであった。1:17 それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。

 「一つの輪が他の輪の中にあるよう」なんていうのは、本当に立体画像を見てみないと分かりませんね。「緑柱石の輝き」は、神の栄光の輝きです。黙示録4章の神の御座が碧玉のように輝いているとあります。

1:18 その輪のわくは高くて、恐ろしく、その四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。

 「目がいっぱいついている」という幻は、他の聖書の箇所にも数多く出てきます。例えば、ゼカリヤ書3章9節には、キリストを表す石には七つの目がついている、とあります。これは全てを見て、知っていることを表します。

 ある黙示録のメッセージの日本語訳を読んでいた時、天の生き物の数を「一匹、二匹」というようにまるで動物であるかのように訳していましたが、全然違います。非常に知性の高い、高度な存在であります。

1:19 生きものが行くときには、輪もそのそばを行き、生きものが地の上から上がるときには、輪も上がった。1:20 これらは霊が行かせる所に行き、霊が行かせる所には、輪もまたそれらとともに上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。1:21 生きものが行くときには、輪も行き、生きものが立ち止まるときには、輪も立ち止まり、生きものが地の上から上がるときには、輪も共に上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。

 輪の中に、それぞれの生き物の霊があります。

3C 上におられる方 22−28
 そして、このケルビムの上に座しておられる方が見えます。

1:22 生きものの頭の上には、澄んだ水晶のように輝く大空のようなものがあり、彼らの頭の上のほうへ広がっていた。1:23 その大空の下には、互いにまっすぐに伸ばし合った彼らの翼があり、それぞれ、ほかの二つの翼は、彼らのからだをおおっていた。

 大空です。そして澄んだ水晶のようになっている、とあります。主がシナイ山に降りて来られた時も、「御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。(出エジプト24:10」とあります。何ら汚れたものがない、純粋な主、その聖さを表しています。

1:24 彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。1:25 彼らの頭の上方の大空から声があると、彼らは立ち止まり、翼を垂れた。

 「全能者の声」とはどのような声なのでしょうか?おそらく、雷とか、地面を動かすことのできるような振動音であると思われます。このような力を持っているケルビムですが、上方からの声があれば翼を垂れるのです。完全に上にいる方に服しているのです。

1:26 彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。1:27 私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。

 人間の姿に似たもの、これはイエス様です。はるか上はサファイヤのようであるが、腰のあたりや見えるところは青銅のよう、火のように見えるとあります。幕屋もそうでしたが、外や地に接触するような用具や器具は青銅で作られていました。主ご自身と外界が接触するときに、裁きの火が起こるのです。

1:28 その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。

 私たちは「虹」を他の聖書の箇所でも見ますね。そうです、ノアの時です。二度と、水によって世界を裁くことはすまいとの契約の徴として、虹を与えられました。つまりこれは、神は契約を守られる方であることを表しています。そしてこれからエルサレムに神の裁きが下りますが、それでもイスラエルを見捨てておられず、必ず回復してくださるその契約をも想起させるのです。

2A 召し 2
 そして、なぜ突然ケルビムの幻からエゼキエル書が始まったのか、その理由が次で分かります。

1B 反逆の国民 1−7
2:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」

 「人の子」という呼び名は、エゼキエル書に93回も出てきます。エゼキエルが単なる人間なんだ、ということを主は強調されています。これだけ神々しい幻を見ても、エゼキエルはごく普通の人なのです。

2:2 その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。

 「」と訳されていますが、神の御霊のことでしょう。神が、エゼキエルをご自分の霊で完全に支配しておられます。

2:3 その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。2:4 彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる。』と言え。2:5 彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。

 主に召し出されて、イスラエルの民に預言を語らなければならなかったので、主はまず彼にご自分の栄光をお見せになったのです。

 エゼキエルは、イザヤ、エレミヤと同じように、いつまで経っても主の言われることを聞かない民に対して語るように召されました。その道は、次に出てきますが、あざみと茨であっても、語り続けなければいけません。この困難を耐え抜く力は、まず主ご自身の栄光を仰ぎ見て、主ご自身とはっきりとした出会いをしているところから出てきます。

 ヤコブのことを思い出してください。彼は、兄エサウに殺されるかもしれませんでした。それで逃げるようにして、母リベカの兄ラバンの家に行くべく長旅を始めました。ごつごつとした岩地が続くサマリヤの地のところで、石を枕にしてたった独りで寝なければいけなかったのです。さぞかしさみしかったろうと思います。けれども、そこで天からのはしごの夢を見たのです。天使がそこを上り下りしています。そして主の使いが現れてくださり、アブラハムとイサクに与えられた祝福の約束を宣言してくださったのです。

 この出会いがあったからこそ、ヤコブはラバンの家での仕打ちに耐えることができ、天のはしごの夢を見たのはベテルでしたが、「ベテルの神のところに戻ろう」と言って、家族を故郷に連れて行くことを決意したのです。

 私たちは、神を見ることに飢え渇いているでしょうか。モーセは、「あなたの栄光を見せてください。」とお願いしました。そのまま見たらたちまち死んでしまうので、主はご自分の後姿だけ彼にお見せになりました。けれども、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ5:8」とあるように、神を見たいと渇望します。

2:6 人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。2:7 彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。

 自分が語ったことが聞かれないとしたら、人間であれば誰でも恐れます。だから、今主は、「恐れるな、彼らの反応にひるむな。」と励ましておられるのです。

 イザヤ書でもそうでしたし、エレミヤ書でもそうでしたが、聞かれないのに語りなさい、という命令を神は与えられます。これはなぜだろうと私はずっと思っていました。けれども、基本的にこの世は、主が選び分け、引き寄せてくださることがない限り、人は神を拒むという事実があります。

 ヨハネの福音書1章には、イエス様が来られた時の人々の反応についてこう記しています。9節からです。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネ1:9-11」異邦人にしても、ユダヤ人にしても、イエス・キリストを基本的には拒むのです。

 けれども続けてこうヨハネは記しています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(12-13節)」神によって生まれるのです。神によらなければ、受け入れることさえできないのです。

 この現実をふまえて、すべて御言葉を語る人は人々に語らなければいけない、ということです。だから覚悟が必要です。拒まれたらどうしようという恐れを克服する必要があります。だから主から召される時に、主は「恐れるな、わたしはあなたといっしょにいる。」という約束を必ず与えてくださるのです。

2B 巻き物の摂取 8−10
2:8 人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」

 「反逆の家のように逆らう」とは、拒まれるのを恐れて、彼らに主の言葉を語らないということです。そうならないように、主は巻き物を食べなさいと命じられます。

2:9 そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。2:10 それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。

 民がいつまでも主に拒み、エルサレムが破壊されるので、哀歌と嘆きと悲しみが書かれています。この御言葉の巻き物をエゼキエルは食べます。

 イエス様は悪魔に対して、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。(マタイ4:4」と言われましたが、神の御言葉を食べるようにして拠り頼む必要性を教えておられます。単なる頭の中の知識ではなく、血となり肉となれば、どんな困難があっても、それを手放すことはありません。

 では具体的にどうすれば、御言葉を食べることになるのでしょうか?第一に、鍛錬です。主体的に、能動的に、意識的に御言葉を知ろうとすることです。箴言2章にこう書いてあります。「わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。(1-6節)

 漠然と聖書を読むだけでは、身につくことはありません。いったいここには何が書いてあるのか、じっくりと観察し、そしてなぜこんなことが書かれているのか、積極的に自問自答し、そして自分自身には具体的にどう当てはまるのか、考えてみることです。

 そして第二に、黙想することです。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。(詩篇1:2」口ずさむ、あるいは思い巡らすと訳すこともできます。その時だけ考えるのではなく、一日中、いったいここの御言葉はどういうことなのか、思い巡らしたり、口に出してみたりします。

 そして第三に、これが大事ですが御言葉を実行することです。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブ1:22-25

 御言葉は、それを知識として理解するために与えられているのではありません。実行するために与えられているのです。だから、実行しないでいれば、御言葉はいつか自分のところから離れてしまいます。口では神を敬っているが、心は遠く離れていることになってしまいます。

3A 働きの始め 3
1B そのままの言葉 1−11
3:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」3:2 そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、3:3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。

 御言葉は甘いですね。「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。(詩篇19:9-10」エゼキエル書は33章から、ちょうどエルサレムの神殿が破壊された後から、イスラエルの回復と祝福の預言が始まります。御言葉は必ず、私たちを永遠の希望と慰めへと導きます。 

3:4 その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。3:5 わたしはあなたを、むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わすのだ。3:6 あなたを、そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。3:7 しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。

 驚くことに、イスラエルの家がエゼキエルの語る神の言葉を聞かないのを、ヘブル語を解さない外国人よりも聞くことはない、とのことです。

 つまり、同じ日本語で話して、文化的にも分かりやすく解釈して、難しい言葉を避けて簡単な言葉に言いなおしても、分からないものは分からないのです。そのことをパウロは、「生まれながらの人」と「御霊の人」の対比で、こう語っています。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。(1コリント2:14-15」私たちは「こんなにはっきりしていることなのに、なんで理解できないのだろう。」と不思議になる時がありますが、それは御霊によって新たに生まれていないからです。

 伝道をしているとしばしば、「こんな言葉を使っても、理解できないよ。いったい何ですか、この日本語訳は?」といろいろ注文を受けますが、それは言い訳で本質的には霊的に生まれていないからです。

3:8 見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。3:9 わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」

 エレミヤは反対を受けると、涙を流して祈りましたが、エゼキエルの場合は、かえって自分がもっと厚かましくなることによって対抗させると約束してくださっています。「エゼキエル」の名前の意味は、「主は強くしてくださる」でありますが、ここで反対に対してあなたを強くする、もっと堅くすると約束しておられます。相手は鉄火面なのですが、こちらは金剛石です。

 ある説教者が、牧師の資格としてこう言いました。「学者のような知性、子供のような心、さいのような皮膚(Qualifications of a pastor: the mind of a scholar, the heart of a child, and the hide of a rhinoceros.)」知性は、聖書の言葉をじっくりと解き明かす、すぐれた知性が必要だ、ということ。けれども心は、幼子のように素直で、キリストの福音に感動しつづけなければならない、ということ。そして動物の犀の分厚い皮膚のように、騒音のような批判や批評、反対に対しては厚かましく、図太くなることということですが、私は大変慰められました!

 大事なのは、4節、「わたしのことばどおりに彼らに語れ」なのです。そのまま語るのです。そしてひるむことなく、どんどん語るのです。

3:10 その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばを、あなたの心に納め、あなたの耳で聞け。3:11 さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる。』と彼らに言え。」

 「すべてのことば」です。そのまま語り、そしてすべてを話すのです。パウロはこのことを長老たちに、「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。(使徒20:27」と言いました。聖書に書かれていることで話したくないことは、山ほどあります。こんなことを言ったら、傷つけてしまうのではないかと。別に個人的に言っているつもりはないけれども、聞いている人の状況にそのまま当てはまってしまうことなど。けれども、すべてを語るのです。それが語る者に対して主が要求されていることです。

2B 警告の義務 12−21
3:12 それから、霊が私を引き上げた。そのとき、私は、うしろのほうで、「御住まいの主の栄光はほむべきかな。」という大きなとどろきの音を聞いた。3:13 それは、互いに触れ合う生きものたちの翼の音と、そのそばの輪の音で、大きなとどろきの音であった。3:14 霊が私を持ち上げ、私を捕えたので、私は憤って、苦々しい思いで出て行った。しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた。

 先に、自分の所に入ってこられた御霊が、今は、強引に別の場所に引っ張っておられます。背後に、主の御座にいるケルビムの賛美の声を聞きながら、エゼキエルは動きました。

 そして「憤って、苦々しい思い」になったとありますが、これは無理やり動かされたことが不快だったというよりも、先ほど聞いたイスラエルの家の反応がとてつもなく酷いことを知ったからでしょう。主の御言葉は麗しいのですが、現実はそのかたくな心との戦い、奮闘になるのです。

3:15 そこで、私はテル・アビブの捕囚の民のところへ行った。彼らはケバル川のほとりに住んでいたので、私は彼らが住んでいるその所で、七日間、ぼう然として、彼らの中にとどまっていた。

 この「テル・アビブ」は、イスラエルの町のテルアビブのことではありません。ケバル川のほとりにある町です。そこでそこにいるユダヤ人の間にいたのですが、何も語らず、呆然として一週間を過ごしました。主の栄光の姿を見、そして主から強い召命を受けて、その衝撃が強かったのでしょう、ただ黙っていることしかできませんでした。頭の整理も必要だったでしょう。今、実際、自分の目の前にいる人々に語る心の準備ができるまで七日間必要だったのです。

3:16 七日目の終わりになって、私に次のような主のことばがあった。3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

 「見張り人」という言葉は、しばしば人々に預言をし、警告を与える時に出てくる言葉です。当時は、必ず城壁に見張り台がありました。外敵から守られるために町には必ず城壁がありましたが、夜は特に見張り人を立てたのです。霊的に、神の言葉を取り次ぐ人は見張り人です。御言葉に照らして、今、この世はどうなっているのかをじっくりと見つめます。そしておかしくなったと思ったら、その時に警告します。

 そして次に、御言葉を語る者に与えられている責任、また聞く者に与えられている責任を、主は明確に語っておられます。(エゼキエルの預言は、他の旧約聖書の箇所以上に、個人的な責任についての神の啓示をはっきりとさせている所に特徴があります。)

3:18 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。3:19 もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

 私たちは、どうせ聞く耳を持っていないから語らないでおこうと計算してしまいます。けれども、神の判断の中にはそのような考えは存在しません。悪者には、悪者に語るべき言葉を必ず与えられます。悔い改めの機会を与えられます。初めから最後までをすべて知っておられる神が、最後まで悔い改めない人にも悔い改めの機会を与えられるのです。これが神のお考えであり、私たちはそれを尊重しなければならないのです。

3:20 もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。3:21 しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。」

 「この人はこれまで、これだけ正しいことを行なってきたのだから、今行なっている悪は相殺されるだろう。」という考え違いがあります。主が最も大切にされているのは、「今」です。今、正しい行ないをしているのか、どうかです。過去にどれだけ良いことを行なっても、今、悪を行なっていれば、その悪のゆえに死ななければいけません。

 また、「この人は問題がないから、この警告について語っても仕方がない。」と考えるのも間違いです。神の警告があるということは、今、正しいことを行なっていても、いつ悪を行なってしまうか、つまずいてしまうか分からないのです。私たちは、神の警告を聞いた時は、「それは、自分がこの過ちを犯してしまうかもしれないのだ。」と健常な恐れを抱く必要があります。

 いずれにしても、もし語らなければ自分が災いを受ける、という警告を主はエゼキエルに与えておられます。もちろんその時エゼキエルに神が与えられているものであり、特に旧約時代なので、その責務は重大でしたが、けれども新約時代にも、私たちにしても原則は当てはまるのです。「語る」ことが私たちの責任であり、その結果は主の責任だ、ということです。

 パウロがエゼキエルと基本的に同じことを言いました。「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(1コリント9:16」知っているのに語らなかったら、私たちにとって罪なのです。

3B 家の中からの預言 22−27
3:22 その所で主の御手が私の上にあった。主は私に仰せられた。「さあ、谷間に出て行け。そこでわたしはあなたに語ろう。」3:23 私はすぐ、谷間に出て行った。すると、そこに、主の栄光が、かつて私がケバル川のほとりで見た栄光のように、現われた。それで私はひれ伏した。

 ケルビムが出てきた時の栄光です。

3:24 しかし、霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。主は私に語りかけて仰せられた。「行って、あなたの家に閉じこもっていよ。3:25 人の子よ。今、あなたに、なわがかけられ、あなたはそれで縛られて、彼らのところに出て行けなくなる。3:26 わたしがあなたの舌を上あごにつかせるので、あなたは話せなくなり、彼らを責めることができなくなる。彼らが反逆の家だからだ。3:27 しかし、わたしは、あなたと語るときあなたの口を開く。あなたは彼らに、『神である主はこう仰せられる。』と言え。聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らが反逆の家だからだ。

 今ここで主は、彼を家の中に閉じ込めて、語らせなくさせたのではありません。むしろ逆で、イスラエル人に対して、効果的に話すことができるように、場所と時を主が定めてくださったのです。場所は家です。人々が彼の家に来ます。そして時は主が語らせてくださる時です。

 御霊が彼のうちに入られて、このような命令が下されたのですが、私たちも同じように御霊によって、ある場所へ導かれ、御霊によって語る時が与えられます。黙っていなければいけない時もあるでしょう。すべては御霊の導きです。

 そして4章から、エゼキエルの預言が始まります。けれども、本当に不思議な預言です。言葉で話すよりも、パントマイムをしているのか、おままごとをしているのか、体を動かして、人々の注目を集めさせます。エレミヤに対しても主が行なわれた実演による預言が、さらに磨きをかけて行なっている感じです。 

 ということで、「神の栄光からの召し」という題で読んでいきました。神の栄光を見る必要、そして御言葉を食べる必要、人の顔を恐れず、そのまま語り、すべて語る必要。そして御霊が導かれるまま語る必要。すべて御言葉を語る者たちに必要な要素です。