エゼキエル書37章 「国の回復」

アウトライン

1A 国の復興 1−14
   1B 干からびた骨 1−10
      1C 幻 1−6
      2C 預言 7−10
   2B 霊的覚醒 11−14
2A 国の統一 15−28
   1B 二本の杖 15−23
      1C 一つの束 15−19
      2C 一人の王 20−24
   2B 永遠の君主 24−28

本文

 エゼキエル書37章を開いてください。私たちは36章においては、イスラエルの地が回復する預言を読みました。それが、19世紀半ばから始まった祖国帰還運動、シオニズム運動によって、ユダヤ人が大量移住したことによって一部、成就したことを読みました。

 けれども、土地に人々が集まり、その地が豊かになり、町々が建て上げられることと、国が建てられることは違います。ユダヤ人が再び来て、そこに住み始めること自体も奇跡ですが、国を建てることは、帰還してきた人々自身も望んでいませんでした。というか、信じられなかったのです。けれども、初めにユダヤ人国家の構想を提示したテオドール・ヘルツルは、189793日の日記の中で、既にユダヤ人国家の大本を築いたと書きました。けれどもこうも記しています。「こんなことを今、声高に言おうものなら、世間の物笑いになるだけだ。だがおそらく5年たてば、いや50年たてば必ずだれもが分かってくれるはずだ。」1897年の50年後、つまり1947年、その11月に国連がパレスチナをユダヤ人とアラブ人に分ける分割決議案を採択し、国際的にユダヤ人国家が認知されたのです。そして1948514日に独立宣言をしました。 

 当時の状況をよく表すものとして、1911年に初版で発行されたブリタニカ百科事典には、ヘブル語についてこう書いてあるそうです。「古代ヘブライ語の正しい発音を取り戻す可能性は、中東にユダヤ人帝国が再び建てられる可能性と同じように、程遠いものである。(Possibility we can again recover correct pronunciation of ancient Hebrew is as remote as the possibility that Jewish empire will be ever again be established in the Middle East.)1911年ですから、もうすでにユダヤ人がパレスチナの郷土に帰還して、ベン・ヤフーダを中心としてヘブル語も日常会話に復活させるべく運動を起こしていた時です。それでも、百科事典でさえもがまるで信じられないという説明を行なっているのです。

 既にイスラエル国が存在する今、この国が再び出現することを全く信じられない人々を私たちは簡単に笑うことができます。けれども状況は、人間的には絶対に不可能なものでした。キリスト教会は、歴史的にイスラエルの地位を認めない神学を持っていました。「神が教会を建ててくださった今、イスラエルの役割はなくなったのだ。」という立場を取っていました。けれども、今から読む37章、あの有名な干からびた骨が肉を付けて、人間になり、霊まで与えられるという幻を、そのまま受け入れるには、あまりにも非現実的で夢物語のような話だったのです。だから、今現在、教会が建てられているのだから、実はイスラエルに対する神の約束は教会によって実現しているのだ、と解釈し、教会神学の整合性を保とうとしたのです。

 しかし、主はあえてその不可能なことを可能にされました。このことを行なわれることによって、「あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう。(13節)」と再び言われたのです。全世界に、そしてイスラエル人自身に、ご自分だけが神であり、主であることを、イスラエルの国を再建されることによって示す、というのがここ37章の内容です。

 私たちは、信じることが試されます。到底起こりようもないこと、目に見えるものは、すべてそれを否定することばかりがあるとき、それでも神の言葉とその約束を信じきることができるかが、試されます。私が大好きな映画の一つに「ナルニア国物語」があります。第二弾の「カスピアン王子の角笛」には、すでに物語の一部になっていてはるか昔に滅んでしまったナルニア国が、また復興する話が出てきます。そしてナルニア国の救世主であるアスランという獅子が来ることは、だれも信じられない状況でした。そこでたった一人、ルーシーのみが一途に信じていましたが、周りが誰も信じないので、彼女自身も何もできない状況でした。

 これは、聖書の世界を描いています。聖書に出てくる神の物語は、すでに終わったものとして見るほうが人間の理性として自然です。イエス様が死に、よみがえり、天に昇られたけれども、その後、確かに力強い聖霊の働きを初代教会で見たけれども、後は何も変わっていない。徴候は見られない・・・と考えたほうが自然です。だから、聖霊の働きではなく、何十日間のプログラムで教会や個人を成長させようとする動きがあったり、紀元70年のローマによるエルサレム破壊で、イエス・キリストは既に再臨されたという教えが今、流行っているのです。

 でも徴候は全くないのではありません。そしてその徴は少しずつ増えているのです。これは私たちが信じることができるようにとしてくださっている、主の憐れみであると同時に、警告です。私たちは、主が言われたことを信じきる必要があります。キリスト者の仕事と言えば、信仰による義、つまり信じ切ることです。他のすべてのものが過ぎ去ったとしても、神の言葉はその通りになるのだという確信を堅く心に抱いていることです。

1A 国の復興 1−14
1B 干からびた骨 1−10
1C 幻 1−6
37:1 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。37:2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。37:3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」37:4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。37:5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。37:6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」

 エゼキエル書は、他の預言者に比べて、目に見える形の預言が非常に多いです。彼が預言者として召される時、天使ケルビムの鮮やかな姿を見たし、また彼自身がいろいろな実演をして、これから起こることを預言したりしました。今でいうなら大学の講義ではなく、小中学校の視聴覚室での授業と言ったところでしょう。ここでも、ハリウッドのホーラー映画にも出てきそうな、干からびた骨がくっつきあって、筋ができて、肉を持ち、そして生き返るという生々しい預言を受けています。

 1節に、「主の御霊によって、私は連れ出され」とあります。彼は、何度となく、神の御霊によって、半ば強引に引っ張り出される経験をしています。例えば、捕囚の地であるバビロンのケバルにいたのに、髪のふさをつかまれて、エルサレムの神殿の中にまで連れて行かれました。黙示録の使徒ヨハネもそうですね、御霊によって天にまで引き上げられました。使徒行伝のピリポも、サマリヤからガザに行く道へ御霊によって瞬間移動しましたし、時に主はこのような強い促しを与えられます。イエス様が空中にまで戻ってこられて、教会が引き上げられる携挙も、その「引き上げる」のギリシヤ語では「強引につかんで連れて行く」という意味があります。

 そして連れ出されたのが、谷間の真ん中です。ゼカリヤ書1章で、幻を見せられたゼカリヤは、谷底にあるミルトスの木の間に赤い馬に乗っておられる主を見ています(8節)。これは、エルサレムが諸外国によって倒れて、圧迫を受けている姿を表していました(12,15節)。ですから、谷間はバビロン、そしてその後の諸国の狭間にいて倒れているイスラエルの姿を表していたのです。

 「多くの骨」があり、そして「ひどく干からびていた」とエゼキエルは強調しています。大勢のイスラエル人の姿がこうなっている、という意味です。数多くのユダヤ人が生きる希望を失ってしまって、絶望している状態です。先ほどお話した、また復興することなど不可能に見える、完全に死んでしまった状態です。

 その状態を見せて、主はあえてエゼキエルに、「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」と尋ねられています。不可能な状況をエゼキエルに意識させたいがゆえの、ご質問です。もちろん無理です。ラザロが死んで四日経っただけで、「主よ。もう臭くなっておりましょう。(ヨハネ11:39」とマルタは言いました。腐乱が始まっているどころか、ここでは骨だけになって、しかも干からびています。

 そしてエゼキエルが、「神、主よ。あなたがご存知です。」と言って、それから主は、「これらの骨に預言して言え。」と命じられています。

2C 預言 7−10
37:7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。37:9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。

 骨に対して預言をしました。すると、とんでもないことが起こりました。そして今度は、「息」に対して預言をしなさい、と言われました。すると、四方から風が吹いてきて、それがその人々の体の命となりました。興味深いことに、ヘブル語では「息」「風」そして「霊」は、みな同じ言葉「ルハ」が使われています。ここに神のご性質とその働きが表れています。主は、無いものを有るものとして語られることによって創造の働きをし、そしてその創造を神の御霊によって行なわれるのです。イエス様は、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、いのちなのです。(ヨハネ6:63」と言われました。

 神の言葉は書物に書かれている文字ではありません。字面ではありません。生きている命です。そして神の霊は、そこら辺にふわふわしている雰囲気ではありません、このように干からびた骨に肉体を持たせ、そして命まで与えることのできる力を持っておられます。

 そしてここで、主は段階的に預言を与えられたことに注目してください。初め、骨に対しての預言を与えられました。それから息に対する預言を与えられました。明確に、肉体だけのイスラエル人と神の御霊をもったイスラエル人とを区別しておられます。

 この箇所を読んで、おそらく何人かの方は、創世記2章のアダムの創造を思い出されたのではないかと思います。主なる神は、まず土の塵で人を形造られました。肉体だけの人です。けれども、ご自分の息を鼻から吹き込まれました。それで、初めて生きた人となったのです。霊を持つ人となりました。それと同じように、イスラエル国の復興もはっきりとした区別があります。まず、物理的に国が復興すること。それから霊的に復興すること。この二段階で実現するのです。

 そして興味深いことに、最後に人々が「非常に多くの集団」となっていることです。先の学び36章で、人々が例祭の時の羊の群れのように増えるという預言がありましたが、これは単に人数が多いことだけを意味していません。原語に則するならば「力ある集団」と訳したほうが良いでしょう。英語では”army”つまり「軍隊」と訳されています。

 イスラエル人はただ多くなるだけでなく、強くなります。出エジプト記1章で、エジプトにいたイスラエル人は、「おびただしくふえ、すこぶる強くなり(1:7」とあります。だからパロが脅威を覚えたのです。そして、終わりの日のイスラエルは異邦人を自分たちに従える強い国になることを、イザヤが預言しています。「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。(イザヤ14:1-2 

 イエス様が戻ってこられる直前、大患難の中においてもユダヤ人が力ある軍隊となって戦うことがゼカリヤ書10章で預言されています。「万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。この群れからかしら石が、この群れから鉄のくいが、この群れからいくさ弓が、この群れからすべての指揮者が、ともどもに出て来る。道ばたの泥を踏みつける勇士のようになって、彼らは戦場で戦う。主が彼らとともにおられるからだ。馬に乗る者どもは恥を見る。(ゼカリヤ10:3-5

 後で、イスラエル・アラブ紛争史の概略を勉強したいと思いますが、独立戦争においてはイスラエル国防軍とアラブ連合軍が110ぐらいの比率で、六日戦争でも同じような圧倒的な差異があったにも関わらず、イスラエルの大勝利で終わりました。このように強い集団、軍団となると主は約束してくださいました。

2B 霊的覚醒 11−14
37:11 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。

 ここにはっきりと、この幻の意味があります。「これらの骨はイスラエルの全家」であるとあり、個々人の復活のことではありません。初代教会の教父から始まり、現代に至るまで多くのキリスト教の教師は、ここを個人の体の復活の預言であると解釈しました。けれども、体の復活についてはダニエル書122節にあります。「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。(ダニエル12:2」こちらは文字通りの復活であり、イエス様が再臨される時に患難時代に殉教した聖徒たちの復活をもって、復活が完了します。

 けれども、ここではイスラエル人たちが自分のことを「私たちの骨は干からびた」と言っているのです。実際に生きている人々が自分たちに国としての望みが消えうせたことを、骨が干からびたと形容しているのです。絶望状態に陥っている彼らの言葉を聞いて、主は、干からびた骨でも、多くの強い集団になるという、とてつもない大きな希望を与えられたのです。

 もしかしたら、この中で、自分の骨は干からび、望みは消えうせたという強い絶望感を抱いた方、また今も抱いている方がおられるかもしれません。イスラエルの神である主は、同じことをご自分を信じる者にしてくださいます。

37:12 それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。37:13 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。

 ユダヤ人が祖国を失ったのは、バビロン捕囚の次に、紀元前70年のローマによるエルサレム破壊以降でした。それから最近に至るまで世界離散の民となったわけですが、後に皇帝になったローマ総督ティトスが、エルサレムを包囲し、神殿を破壊した後も、他のところに篭城してローマと戦ったユダヤ人たちがいました。そうです、あの有名なマサダです。死海の西側のほとりにある、菱形にそびえる高地にあります。

 そこはもともと、ヘロデ大王が何か自分に対する反乱が起こった時に備えて造らせた要塞でしたが、彼はそれを使うことなく死にました。ユダヤ人の熱心党の者たちがここを占拠し、ローマの包囲に対して3年間、抵抗したのです。

 そしてその上にはシナゴーグ、つまりユダヤ教の会堂がありました。マサダの遺跡発掘は、イスラエルが1948年から49年まで続いた独立戦争によって自分の領土となったその地域を、イガエル・ヤディンという考古学者を中心としたチームが本格的な発掘をしました。そこでそのシナゴーグを発見し、その中で巻き物を発見したのです。申命記33章から34章、そしてエゼキエル書35章から38章までの断片でした。そうです、ここ37章も入っていたのです!

 マサダに篭城していたユダヤ人は、「あなたがたを墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く」という神の言葉をそのまま信じて、そしてそこで死に絶えました。誰がそんなこと信じられたでしょうか?世界のほとんどの人がそのようには信じなかったのです。けれども、それを発掘したイガエル・ヤディンの一団は、それを見て身震いしたことでしょう。まさに独立戦争で勝ち、イスラエルが国として建てられたことによって、ここを発掘できる自分たちは、彼らが望みを抱いて死んでいったこの預言の成就であることをに気づいたのです。

37:14 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。・・主の御告げ。・・」

 また繰り返しますが、今のイスラエルがエゼキエル、また他の預言者たちの預言の全てではありません。一部分なのです。干からびた骨から筋が与えられ、肉体まではあるけれども、御霊が与えられていない人々です。エゼキエル3626節にある「新しい霊を授ける」という主の預言、そしてゼカリヤ1210節にある、「恵みと哀願の霊を注ぐ」という預言、そしてイエス様がニコデモに話された「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」という言葉が、彼らに実現しなければ完成したことにはならないのです。

2A 国の統一 15−28
1B 二本の杖 15−23
1C 一つの束 15−19
37:15 次のような主のことばが私にあった。37:16 「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために。』と書きしるせ。もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために。』と書きしるせ。37:17 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。37:18 あなたの民の者たちがあなたに向かって、『これはどういう意味か、私たちに説明してくれませんか。』と言うとき、37:19 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。

 エゼキエルは再び、実演、パントマイムをもって人々に預言しました。興味を引くためです。二本の杖があります。それぞれがユダ、そしてイスラエルです。これだけ読めば、旧約聖書にあるイスラエルの歴史を知っている人であれば、「ああ、ダビデ家によるイスラエル統一王国が、その子ソロモンの死後、南北に分裂したその二国のことを言っているのだな。」とすぐ分かります。

 ユダの方には、「それにつくイスラエル人のために」とも書き記しています。覚えているでしょうか、南ユダには、わずかですが北イスラエルからエルサレムにまで礼拝をしに来た人たちがいました。ヒゼキヤ、そしてヨシヤが行なった宗教改革に応答した人々です。ヒゼキヤがダンからベエル・シェバに至るまで、過越の祭りを行なうように呼びかけました。既にアッシリヤによって北イスラエル国はなくなっていました。残っている民にともに祝おうと呼びかけましたが、彼らは物笑いにし、あざけりました。けれども歴代誌第二3011節に、「ただ、アシェル、マナセおよびゼブルンのある人々はへりくだって、エルサレムに上って来た。」とあります。

 そして北イスラエルですが、「エフライムの杖、ヨセフと」とありますが、エフライムはヨセフの息子です。そしてヨセフの父ヤコブが、エフライムが兄マナセよりも強くなると預言しました。事実、エフライム族が北イスラエルの中で主要な部族となり、それでエフライムというと、全イスラエルを指す代表格となりました。この二つの国を一つにするという意味が、二つの杖を一つにすることで表しているのです。

 ここで取り扱わなければいけない問題は、キリスト教会、いやユダヤ教の世界でも広まっている「失われた十部族」という話です。バビロンに捕え移されたユダは70年後にエルサレムに帰還したので存在するが、アッシリヤに捕え移された十部族は消えていったというものです。この説は、いろいろなグループの人たちが、その十部族の中に入ろうと必死になるのですが、白人ならば、「ヨーロッパ民族はその失われたイスラエル十部族だ」という人たちもいますし、黒人の中にもそれを主張する人たちがいますし、アメリカ・インディアンだという人たちもいます。そして古代日本の神道は、実は失われた十部族が持ち込んだユダヤ教の影響があると言って、日本民族をユダヤ人にしようとする試みもあります。

 興味深いことですが、そのように主張する人々は、イスラエルに約束されている神の選びと、その特権を自分の民族や人種に当てはめて、そこから自尊心や優越心、また祝福を得たいと考えている場合が多いです。そして、今いるユダヤ人たちは実はユダヤ人ではないと言って、実在のユダヤ人を押しのけようとさえ人もいます。非常に興味深いです。なぜなら神の選びには、エゼキエル書、また他の預言書に書かれてあるように、とてつもない厳しい神の裁きも付くるからです。裁きについては自分たちに当てはめずに、祝福の部分だけ強調するのです。けれども、ホロコーストというとてつもない厳しい神の取り扱いを通らなければいけないという、ものすごい大きい責任が「選び」には付いているのです。

 「失われた十部族」論の過ちは明らかです。なぜなら、失われていなからです!神はユダと共にイスラエルを一つにして、国を建てられます。第一に、ユダの中にも先ほど話した「ユダにつくイスラエルの人たち」がいました。第二に、アッシリヤに捕え移されたと言っても、そのアッシリヤはバビロンによって倒され、そのバビロンはペルシヤによって倒されました。捕え移された所もペルシヤになったのです。そしてペルシヤ王クロスは、王国中におふれを出し、ユダの民にエルサレムに帰還して神殿を再建しなさい、と命じたのです(エズラ1章)。

 その証拠に新約聖書に、北イスラエル出身の人が出てきます。エルサレムに宮参りに来たマリヤとヨセフに抱かれていた幼子イエス様を見て、神を賛美し、エルサレムの贖いを伝えた女預言者アンナは「アセル族(ルカ2:36」、つまりアシェル族出身です。そしてヤコブはユダヤ人信者に手紙を書きましたが、その書き出しは「国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。(1:1」でした。

2C 一人の王 20−24
37:20 あなたが書きしるした杖を、彼らの見ている前であなたの手に取り、37:21 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。

 先ほど風が「四方から吹いて来い(9節)」と主が命じられていました。これはヘブル語の言い回しで、世界のあらゆるところからという意味です。ユダヤ人が世界の至るところから帰還するのですが、イザヤ43章にはこう書いてあります。「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって『引き渡せ。』と言い、南に向かって『引き止めるな。』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。(5-6節)」今、世界に192カ国があるそうですが、そのうち182カ国からユダヤ人がイスラエルに戻ってきたそうです。

37:22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。37:23 彼らは二度と、その偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。37:24 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。

 主が彼らを再び一つの国してくださるのは、かつてのダビデ王による統一イスラエル国家を建て上げるためです。そして一つにする理由は、「彼らが偶像と罪から離れ、主のおきてに従うため」だとあります。

 なぜ国が二分されてしまったのでしょうか?ダビデの子ソロモンが晩年に主から離れてしまいましたね。数多くの妻と側めを持ち、彼女らが拝んでいる神々を自分も拝むようになりました。それで主が彼に、「わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。(1列王11:11」と言われました。そして、ソロモンの子レハブアムは、ヤロブアムを中心とするイスラエルの人々に重税を課すと言ったので、北イスラエルの人々の心が離れ、ヤロブアムを王として国を造ったのです。けれども、そのヤロブアムも政治的な思惑から、エルサレムに人々が神を礼拝しにいかないように、ベテルとダンに金の子牛の祭壇を造り、そして勝手に祭司を任命して、それで神に従いなさいといって、偶像礼拝を始めました。偶像礼拝がこの国を二分したのです。

 ここに再び「ダビデが王となり」とあります。おそらく、実際のダビデがよみがえって王となるという意味ではなく、ダビデの子キリストが王となるという意味です。ダビデの息子であったソロモンが失敗したため起こったことを、約束の子であるイエス・キリストが実現してくださいます。

 この預言を聞いたユダヤ人は信じられていたでしょうか?分かりませんが、受け入れていればとてつもない慰めです。国が二分し、二分しただけでなくすべてがなくなってしまった今、自分たちが干からびた骨だ、と嘆いたのです。もしかしたら、この中ですべてがずたずたになって引き裂かれてしまった人がいるかもしれません。そして自分の罪によって、ずたずたになっているのかもしれません。けれども、主は悔い改める者を見捨てるようなことは決してなさいません。「わたしは決して悪者の死を喜ばない。」とエゼキエル書で主は何度とも言われました 

2B 永遠の君主 24−28
37:24 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。37:25 彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。37:26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。37:27 わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。37:28 わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」

 すばらしい約束ですね、ここで何度も繰り返されているのは「永遠」とか「とこしえ」です。25節、「とこしえに住み」、「永遠に彼らの君主となる」、26節、「とこしえの契約となる」、「永遠に置く」、28節、「わたしの聖所が永遠に彼らのうちにある」です。もう二度と、彼らは神とその契約から切り離されることはない、という保証です。

 「永遠の命」という約束にも、この永遠の保証があります。私たちがもう二度と、神から切り離されることがない、という保証です。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ロー8:38-39

 そしてここにある神の国の約束で新しいものは「聖所」です。この聖所については、エゼキエル書40章から48章までに事細かに説明されています。千年王国における神殿です。再臨の主イエス・キリストがそこの王座に着かれ、また大祭司として父なる神の前に出て、そして世界中の人々がシオンの山に上ってきて、そこでイエス様を拝し、教えを請うのです。

 このような話を聞くと、「それでは旧約時代の後戻りではないか。イエス・キリストが十字架につけられたから、もう神殿は必要ないのではないか。」また、「今の神殿は、聖霊が住んでいられる私たち自身だ。教会だ。」と言います。確かにそうです、私たちは罪が贖われるための神殿を必要としません。イエス様が救いに必要なことを、すべて行なってくださいました。そして今は、私たちの内に聖霊が住まわれることによって、私たちが神殿であり、私たちが集まる所に主がいてくださいます。

 けれども、イエス様が戻ってこられた後の神殿は、旧約時代の神殿と目的が異なります。すべてが「記念」です。主が既に行なってくださった贖いの御業を記念して、思い出して礼拝するのです。ちょうど聖餐式において、キリストの死を思い出すのと同じです。カトリックはそれでキリストの贖いが私たちの内に実体化していくのだと信じていますが、いや真理に基づけば既に実体化しています。パウロは、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27」と言いました。すでに成し遂げられた神の御業を記念して、主イエス様を神殿に赴き、あがめます 

 いかがでしょうか、この神の国がイスラエル人だけでなく、キリスト者にも与えられています。キリスト者には、ただひとりの牧者が今もおられます。そして一つの国、というか一つのキリストの体になっています。そしてとこしえの契約、平和の契約を、キリストの血によって神と結んでいます。そして、今話したように、聖所が私たちのうちに、また私たちの間に存在するのです。