エゼキエル書4−7章 「神の怒りの啓示」

アウトライン

1A エルサレムの町 4−5
   1B 包囲 4
      1C 鉄の壁 1−3
      2C 咎の年数 4−8
      3C 食べ物の欠乏 9−17
   2B 剣 5
      1C 三等分の毛 1−4
      2C 神と民の定め 5−12
      3C 諸国のそしり 13−17
2A イスラエルの地 6−7
   1B 偶像の汚れ 6
      1C 高き所の破壊 1−7
      2C 逃れた者の忌避 8−10
      3C 偶像の前での死 11−14
   2B 行ないへの報い 7
      1C 終局の到来 1−9
      2C 富の喪失 10−13
      3C 逃れられない剣 14−22
      4C 聖所の汚れ 23−27

本文

 エゼキエル書4章を開いてください、今日は4章から7章までを学んでみたいと思います。ここでのメッセージ題は「神の怒りの啓示」です。

 私たちは前回、エゼキエルが神に召し出されて、主の御言葉を語るように命じられたところを読みました。彼は今、自分の家にいます。そして主が彼の口を一度閉じられて、そしてまた開かせます。人々が家に集まってきて、そしてエゼキエルの預言を聞きます。

1A エルサレムの町 4−5
1B 包囲 4
1C 鉄の壁 1−3
4:1 人の子よ。一枚の粘土板を取り、それをあなたの前に置き、その上にエルサレムの町を彫りつけよ。4:2 それから、それを包囲し、それに向かって塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、その回りに城壁くずしを配置せよ。4:3 また、一枚の鉄の平なべを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立て、あなたの顔をしっかりとこの町に向けよ。この町を包囲し、これを攻め囲め。これがイスラエルの家のしるしだ。

 非常に興味深い預言です。預言というと、普通は口で言葉によって伝えるものでありますが、それでは人々が注意を引き寄せることはしないため、このような大のおとながおままごとのようなことをやっています。

 この実演は、何を主が語られているか一目瞭然でした。エルサレムが包囲される預言です。ここにいるのは、エホヤキン王と共に、またそれ以前に既にバビロンに捕え移されている人々です。エレミヤはエルサレムから手紙を寄こして、「偽預言に惑わされてはいけない。主はバビロンを砕かれることはしない。あなたがたは、バビロンに定着して、繁栄しなさい。(エレミヤ29章参照)」と話していました。そこでエゼキエルもまた、エルサレムがバビロンに包囲されることを預言しているのです。

 3節にある「鉄の平なべ」は、単にバビロン軍が鉄製の武器を用いていることを表しているだけではありません。「あなたの顔をしっかりとこの町に向けよ」とあります。神が、鉄の壁をもってエルサレムに住民に裁きをもって臨まれることを表していたのです。

2C 咎の年数 4−8
4:4 あなたは左わきを下にして横たわり、イスラエルの家の咎を自分の身の上に置け。あなたがそこに横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。4:5 わたしは彼らの咎の年数を日数にして三百九十日とする。その間、あなたはイスラエルの家の咎を負わなければならない。4:6 あなたがその日数を終えたら、次にまた、あなたの右わきを下にして横たわり、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。わたしは、あなたのために一年に対して一日とした。

 さらに変てこな事を、主はエゼキエルに命じられています。一年以上、横向きにしか、しかも寝返りをすることなく、寝ていなければいけないのです。そして、一回寝返りができたと思いきや、一ヶ月以上再びその姿勢でいなければいけません。

 預言者というのは、ここまで自分の行動が制限されるものなのか、と私は、「自分はそうなりたくない」と思いました。けれども、それは正しい姿勢ではないです。「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。(2モモテ2:9」と使徒パウロは言いました。

 この横たわっているのは、北イスラエルの咎と南ユダの咎を表しているわけですが、イスラエルの390年とユダの40年がいったいどこの期間を表しているのか、注解書を見てもだれも分かりません。イスラエルの王の統治とユダの王の統治の期間を照らし合わせても、数年のずれが出るのです。

 私は、ここは神の裁きの重さを伝えるための象徴的な期間であると考えています。彼らは、エジプトから神に救い出されて、神の民となった人々です。エジプトにいる時は、奴隷として強いられる苦役のために悩み、泣き叫び、痛みを覚えていました。その期間が430年であったことを、モーセは出エジプト記1240,41節で記しています。イスラエルの咎の期間が390年でユダは40年で、足すと430年です。つまり、彼らは再び、エジプトで奴隷状態であった時と同じ苦しみを味わっている、ということを表しているのだろうと考えます。

 そしてユダの咎の期間は40年ですが、イスラエルがようやくエジプトから出て、約束の地に入ろうとしたところが、不信仰に陥り、エジプトに戻ろうと言い出したので、主は彼らの大人の世代を荒野で葬らせるべく、40年間さまよわせました。この40年を表しているのではないかと思います。

 つまり今、主は、鉄の壁、また、エジプトの苦役の期間、そして荒野での旅を彼らに思い出させて、神の裁きの過酷さ、厳しさを味わうようにさせておられるのではないかと考えます。

4:7 それから、あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。4:8 見よ。わたしはあなたになわをかけ、あなたの包囲の期間が終わるまで寝返りができないようにする。

 エゼキエルが顔をしっかりと向け、腕をまくっているのは、神が裁きを行なわれている間、ご自分の目を彼らから逸らすことはないことを表しています。私たちは、悲惨な出来事からは目を逸らしたいですね。けれども、神はそれをあえて見つめることによって、彼らが自分たちの行なっていることによってこの苦しみを受けていることを思い起こさせておられるのです。

 主は、地獄で苦しんでいる者たちに対しても、同じことを行なわれます。黙示録1410節に、獣の国にいた者たちに対する裁きが描かれています。「そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」彼らは単に火と硫黄で苦しめられるのではなく、御使い、そしてイエス・キリストのその聖なる基準を満たしていないことによる苦痛であることを、永遠に思い起こさなければいけないのです。

3C 食べ物の欠乏 9−17
4:9 あなたは小麦、大麦、そら豆、レンズ豆、あわ、裸麦を取り、それらを一つの器に入れ、それでパンを作り、あなたがわきを下にして横たわっている日数、すなわち、三百九十日間それを食べよ。

 イスラエルの咎を負っている390日の間、このパンを食べなければいけません。大抵、パンであれば小麦だけで作ったもの、大麦だけで作ったものを食べます。それぞれを混ぜ合わせて作れば、ごわごわした、非常にまずいパンしか作ることはできません。けれども、これを作るのは、包囲されたエルサレムの中で、穀物が欠乏しているからです。

4:10 あなたが食べる食物は、一日分二十シェケルを量って、一日一回それを食べよ。4:11 あなたの飲む水も、一日分一ヒンの六分の一を量って、それを一日一回飲め。4:12 あなたの食物は大麦のパン菓子のようにして食べよ。それを彼らの目の前で、人の糞で焼け。」

 20シェケル、つまり224グラムのパンです。そして6分の1ヒンは633ミリリットルで、これが一日分の水の量です。そして、人の糞で焼けとありますが、もちろん普通は木を燃やして焼きます。木の枝がない時は、牛の糞を燃料にしますが、それもない状態をこの人の糞は表しています。

4:13 それから主は仰せられた。「このように、イスラエルの民は、わたしが追いやる国々の中で、彼らの汚れたパンを食べなければならない。」4:14 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。私はかつて、自分を汚したことはありません。幼い時から今まで、死んだ獣や、野獣に裂き殺されたものを食べたことはありません。また、いけにえとして汚れている肉を口にしたこともありません。」4:15 すると、主は私に仰せられた。「では、人の糞の代わりに牛の糞でやらせよう。あなたはその上で自分のパンを焼け。」

 エゼキエルは祭司の子であることを思い出してください。ユダヤ人であれば、レビ記11章にある食物規定を守らなければいけません。祭司ならなおさらのことです。それでエゼキエルは、人の糞だけは勘弁してください、とお願いして、主は憐れんでくださいました。

 同じようなことを主に要求されて、当惑した人が新約聖書に出てきますね。ペテロです。ヨッパにいるとき、祈っているとき夢ごこちになったとき、汚れているとされる動物をほふって食べなさい、という天からの声を聞きました。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。(使徒10:14」と言い返しましたが、主は、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。(15節)」と言われました。それは異邦人のことを表していたのです。

 エレミヤもそうでしたが、エゼキエルは、自分が罪を犯しているわけではないのに、民に預言をするために同じような境遇にいなければいけませんでした。「主に仕えていれば、私たちは世に襲いかかる災いから免れられる。」と言うことはとても簡単ですが、主に仕える者は、人々を愛し、人々と一つになっていくという道を歩むことになるのです。

4:16 そして、私に仰せられた。「人の子よ。見よ。わたしはエルサレムで、パンのたくわえをなくしてしまおう。それで彼らはこわごわパンを量って食べ、おびえながら水を量って飲むであろう。4:17 それはパンと水が乏しくなるからだ。彼らは自分たちの咎のために、みなやせ衰え、朽ち果てよう。

 日本にいるとこの乏しさを実感することはできません。水は当たり前のように蛇口から出てきます。そしてスーパーマーケットに行けば、安い食パンを買うことができます。残された水を一日分だけすくい出す時に一滴もこぼさないように、またパン粉も分けて測る時に少しもこぼさないようにしなければいけない、その苦しみをここは表しています。

2B 剣 5
 エゼキエルの実演による預言はまだ続きます 

1C 三等分の毛 1−4
5:1 人の子よ。あなたは鋭い剣を取り、それを床屋のかみそりのように使って、あなたの頭と、ひげをそり、その毛をはかりで量って等分せよ。5:2 その三分の一を、包囲の期間の終わるとき、町の中で焼き、またほかの三分の一を取り、町の回りでそれを剣で打ち、残りの三分の一を、風に吹き散らせ。わたしは剣を抜いて彼らのあとを追う。

 これは、人の糞に引き続き、祭司エゼキエルにとって辛い命令です。人が死んだ時にイスラエル人は頭の毛や髭を剃ったりしますが、祭司に対してはそれさえもしてはいけないと、主はレビ記21章で命じておられます。けれども主は、エルサレムの住民が味わう究極の悲しみと嘆きを表すために、またバビロンの剣によって刺されることを表すためにこのことを行なわせたのです 

5:3 あなたはそこから少しの毛を取り、それをあなたの衣のすそで包み、5:4 そのうちからいくらかを取って、火の中にくべ、それを火で焼け。火がその中から出て、イスラエルの全家に燃え移ろう。」

 12節にこの意味がありますが、「あなたの三分の一はあなたのうちで疫病で死ぬか、あるいは、ききんで滅び、三分の一はあなたの回りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う。」バビロンが城壁を破って中に入った時には、既に多くの者がその中で死んでいました。飢えによって死に、また体の免疫が低下し、疫病が蔓延したことによって死にました。そして直接バビロンの剣によって殺される人々がいます。

 さらに、バビロンの剣から逃れたわずかなユダヤ人がいたことを思い出してください。バビロンがエルサレムを滅ぼした後に、ゲダルヤを総督にして、その地域にいるわずかに残ったユダヤ人を治めさせました(エレミヤ40章)。ところがなんと、イシュマエルという男がゲダルヤを殺し、そして残された人々はエジプトに下って、神の命令に背いたのです。そして後で、バビロンがエジプトを倒す時に、彼らはそこでバビロンの剣の中に入っていきます。

2C 神と民の定め 5−12
5:5 神である主はこう仰せられる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真中に置き、その回りを国々で取り囲ませた。5:6 エルサレムは諸国の民よりも悪事を働いて、わたしの定めに逆らい、その回りの国々よりもわたしのおきてに逆らった。実に、エルサレムは、わたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてに従って歩まなかった。」

 そうですね、エルサレムはさまざまな国々の真ん中にあります。モアブ、アモン、ペリシテ、シリヤ、ツロ、エドム、アラビヤ、エジプト等、さまざまな国がエルサレムを見ています。今も、イスラエル、そしてその首都エルサレムが、周辺のアラブ諸国とイスラム諸国の真ん中にあり、良かれ悪しかれ、その町を見つめています。

 ですからエルサレムは、世の光として輝いていなければならなかったのです。世界に対して、主がまことの神であることを証ししていなければならなかったのです。ところが彼らは、それを怠っていたどころか、周囲の諸国が定めている基準にも満たない行動を行なっていたのです。

5:7 それゆえ、神である主はこう仰せられる。「あなたがたは、あなたがたの回りの諸国の民よりも狂暴で、わたしのおきてに従って歩まず、わたしの定めを行なわず、それどころか、あなたがたの回りの諸国の民の定めさえ行なわなかった。」

 神の民が、神を知らない異邦人よりも悪くなることができるのか?と言えば、残念ながら「そのとおり」と答えざるを得ません。新約聖書の中に、教会の中で起こった事件についてパウロが話しています。「あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。(1コリント5:1」近親相姦は、ローマでさえ法律で禁じていたものですが、これを行なっていました。 

 その他、使徒の書簡の中で、偽預言者や偽教師が、敬虔を装って情欲を燃やし、権威を侮り、人々を罪に陥れているという警告がたくさんあります(2テモテ3:5、2ペテロ2:10、ユダ4等)。

 実は話すのも辛いことですが、世界のキリスト教会で、また日本の教会の中でも、一般の新聞、雑誌、テレビに社会問題を引き起こした牧師のことが、ここ数年とみに多くなりました。私たちは今、これら神の警告を文字通り、真剣に受け取らなければいけない時代に入っています。

5:8 それゆえ、神である主はこう仰せられる。「今、わたしもあなたを攻め、諸国の民の目の前で、あなたにさばきを下す。5:9 あなたのしたすべての忌みきらうべきことのために、今までしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたのうちで行なう。

 主がエルサレムを諸国の前に置いていたにも関わらず、このような恥を行なっていたので、今度は、主は、彼らに対する裁きをもってご自分が生きていることを証しされます。

5:10 それで、あなたのうちの父たちは自分の子どもを食べ、子どもたちは、自分の父を食べるようになる。わたしは、あなたにさばきを下し、あなたのうちの残りの者をすべて四方に散らす。

 彼らは自分たちが忌み嫌うべきことを起こっているという自覚がありませんでした。そこで主は、このような家族の間の共食いを起こさせることによって、その忌まわしさを知らしめるのです。

5:11 それゆえ、・・わたしは生きている。神である主の御告げ。・・あなたはあなたのすべての忌むべきものと、すべての忌みきらうべきことで、わたしの聖所を汚したので、わたしはあなたを取り去り、わたしはあなたを惜しまず、また、あわれまない。

 彼らはまさに聖所の中で忌まわしいことを行なっていました。既にエレミヤ書で、神殿の敷地で偶像礼拝を行なっていることを読みましたが(7章)、次回読むエゼキエル書8章に、その忌まわしい光景が生々しく出てきます。

5:12 あなたの三分の一はあなたのうちで疫病で死ぬか、あるいは、ききんで滅び、三分の一はあなたの回りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う 

3C 諸国のそしり 13−17
5:13 わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。

 怒りと憤りが全うすれば、主はそれを静められます。その静める働きをするのが、幕屋や神殿の中では、至聖所にある贖いの蓋です。大祭司がそこに血を振り掛けて、イスラエルの贖罪を行なうのですが、神の怒りが満たされることを表していました。

 それを「なだめの供え物」と言いますが、ヨハネ第一2章には、イエス様がなだめの供え物になってくださったことが書かれています。「この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。(2節)」イエス様が十字架上で死なれた時、神の究極に怒りがそこに下ったのです 

 そしてここに、「主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう」とありますが、「わたしが主であることを知ろう」という言い回しが、エゼキエル書には何度も何度も出てきます。エゼキエル書のテーマは「神の栄光」です。神の栄光が見えなくなっている私たちに、神がご自分のことを現わすのがこの書の主題です。

 悪がはびこり、殊に神の民の中で悪がはびこっている中において、人々は、「聖書で語られている神はどこかに行ってしまったのだ。そこに書かれている事は真実ではないのだ。」と思ってしまうことでしょう。けれども、主は目を離しておられないことを示されます。ご自分が確かにこの地上にご自分を現すことを、熱情をもって関心を持っておられることを表されます。 

5:14 わたしは、あなたの回りの諸国の民の中で、通り過ぎるすべての者の目の前で、あなたを廃墟とし、そしりとする。5:15 わたしが怒りと憤りと譴責とをもって、あなたにさばきを下すとき、あなたは回りの諸国の民のそしりとなり、ののしりとなり、戒め、恐れとなる。主であるわたしがこれを告げる。

 エルサレムの破壊があまりにも酷いので、諸国はこの事件に無関心ではいられなくなります。ある人々は彼らをそしり、罵り、そしてある人々は恐れを抱き、「確かに神は、ご自分の民を裁かれるのだ。」と思います。

 これがユダヤ人の歴史の中で起こったのです。ローマによってエルサレムが破壊されたその記録をヨセフスが「ユダヤ戦記」に残しましたが、あまりにも恐ろしいものです。そして、世界に散ったユダヤ人は、そこでとてつもない迫害を経ます。人間が受ける迫害で、これほどのものがあるのかと思われる恐怖を、彼らは近年味わいました。

 これらのことを見聞きして、ある人は、「だからユダヤ人は・・・」と見下すでしょうが、またある人は、「いったいこんなことがなぜ起こるのか。」と戦慄を抱きます。私は後者ですが、その背後に神がおられるのでなければ、こんなことは説明のしようがないという反応を引き起こすのです。

5:16 わたしがひどいききんの矢をあなたがたに放つとき、あなたがたは滅びてしまおう。わたしがそれを放つのは、ききんをいっそうひどくして、あなたがたのパンのたくわえをなくし、あなたがたを滅ぼすためである。5:17 わたしはあなたがたにききんと、悪い獣を送る。彼らはあなたに子を失わせる。疫病と虐殺とがあなたのうちに起こる。わたしはあなたに剣を臨ませる。主であるわたしがこれを告げる。 

 これで、エゼキエルの実演付きの預言は終わります。続けて、イスラエルの地全体に対する主の裁きの宣言があります。

2A イスラエルの地 6−7
1B 偶像の汚れ 6
1C 高き所の破壊 1−7
6:1 次のような主のことばが私にあった。6:2 「人の子よ。あなたの顔をイスラエルの山々に向け、それらに向かって預言して、6:3 言え。イスラエルの山々よ。神である主のことばを聞け。神である主は、山や丘、谷川や谷に向かってこう仰せられる。見よ。わたしは剣をあなたがたにもたらし、あなたがたの高き所を打ちこわす。

 イスラエルは多様な地形をしています。南北に走る山脈があれば、ヨルダン川のところに、シリア−アフリカ地溝があり、世界で最も低い陸地を形成しています。これら谷や川、山々が回復する預言を、エゼキエルは36章で行ないますが、ここではその反対に裁きが行なわれる預言です 

6:4 あなたがたの祭壇は荒らされ、あなたがたの香の台は砕かれる。わたしはあなたがたのうちの刺し殺された者どもを、あなたがたの偶像の前に投げ倒す。6:5 わたしは、イスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、あなたがたの骨をあなたがたの祭壇の回りにまき散らす。

 基本的にこれは偶像に対する裁きです。死体がばらまかれることによって、その祭壇は汚されます。かつてヨシヤが宗教改革の一環として、墓から骨を掘り起こし、それを偶像の祭壇で焼きましたが(2列王15:16)、汚すことが目的でした。主はここで、これをイスラエル人が殺されるその死体をその前に投げ倒すことによって汚されます。

 また、偶像を礼拝していた者たちがその場で倒れるということは、その神が無力であることを意味します。自分に仕える者を何一つ助けることのできなかったむなしい神、ということになります。

6:6 あなたがたがどこに住もうとも、町々は廃墟となり、高き所は荒らされる。あなたがたの祭壇は廃墟となり、罪に定められる。あなたがたの偶像が砕きに砕かれ、あなたがたの香の台は切り倒され、あなたがたのしたわざは消し去られ、6:7 刺し殺された者があなたがたのうちに横たわるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。 

 罪がそのままにされることは決してありません。私たちは、自分が罪を犯しても何事も起こっていないように見える時に、「なんだ、罪を裁かれる神というのは真実ではないのだ。」と考えてしまいます。けれども、決してそんなことはないのです。神が、私たちが悔い改めるための恵みの猶予期間をお与えになっているだけです。主は必ず裁かれます。

2C 逃れた者の忌避 8−10
6:8 しかし、わたしは、あなたがたのある者を残しておく。わたしがあなたがたを国々に追い散らすとき、剣をのがれた者たちを諸国の民の中におらせる。6:9 あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう。それは、わたしから離れる彼らの姦淫の心と、偶像を慕う彼らの姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。彼らが自分たちのあらゆる忌みきらうべきことをしたその悪をみずからいとうようになるとき 

 非常に大切な御言葉です。偶像を捨て去る残りの民がいるのですが、それは自分たちが拝んでいる偶像によって、どれだけ悲惨な目に遭ったか実感することによって、それを自ら忌み嫌うことによって捨て去るのです。

 この意味で、私たちは神の裁きというのを直視しなければいけません。避けたい事ですが、避けてはならないものです。パウロが、「私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(1コリント11:32」と言いましたが、罪を捨てることなく世と共に裁かれることのないために、一時的な懲らしめは必要なのです。

 けれども、本来ならこのような裁きを受けずして罪を捨て去ることができれば良いのです。私たちは主から訓練を受けているのですが、このような痛みをともなう方法で学ぶか、あるいはそのまま従順にしたがうかの、どちらかなのです。

6:10 彼らは、わたしが主であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう。」

 この言葉も非常に大切です。私たちは、いつになったら主が行なわれていることであると気づくかどうかなのです。私たちは何か悪いことが起こっても、それを深く考えることをしません。本当に悪いことが起こった時に、「なぜ神はこんな悪いことを許されるのか。」と考えます 

 とんでもない話です!主は、私たちが神に目が行くように、あちらこちらに徴を与えておられます。それは社会問題であるかもしれません。なぜ日本人がこんなに鬱病が多く、自殺者が多いか考えたことがあるでしょうか?また自分の身に起こった試練かもしれません。または世界的に異常気象が起こり、地震が起こっています。そして戦争の噂も聞きます。これらのことが、意味もなく起こっているのではないのです。人々が罪から離れて、まことの神を見上げることができるよう、主が起こされていることなのです。

3C 偶像の前での死 11−14
6:11 神である主はこう仰せられる。「あなたは、手をたたき、足を踏み鳴らして、剣とききんと疫病とによって倒れるイスラエルの家の忌みきらうべきすべての悪に対して、『ああ。』と叫べ。

 とにかく主は、エゼキエルに対して変な命令を行なわれています。すべては人々の注意を引き寄せるためです。手を叩き、足を踏み鳴らすのは、喜びを表す時に行なうことですが、それを嘆き叫ぶ時に行なうことによって、これから起こる悲鳴を予告しています。

6:12 遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者は剣に倒れ、生き残ってとどめられている者はききんで死ぬ。彼らへのわたしの憤りは全うされる。

 遠くにいる者とはエルサレムの住民でしょう。そして近くにいる者とは、エルサレムから離れてバビロンの剣を免れようとした者たちです。生き残っている者たちは、疫病を免れたが、結局飢えで死にます。

6:13 彼らのうちの刺し殺された者が、彼らの偶像の間、その祭壇の回りや、すべての高い丘の上、山々のすべての頂、すべての青木の下や、すべての茂った樫の木の下、彼らがすべての偶像になだめのかおりをたいた所に横たわるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。6:14 わたしが彼らの上に手を伸ばし、すべて彼らの住む所、荒野からリブラまで、その地を荒れ果てさせて荒廃した地とするとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。 

 リブラは、シリヤにある町ですから、ユダの荒野から遠く北のシリヤまでバビロンが荒廃させる、ということです。

2B 行ないへの報い 7
1C 終局の到来 1−9
7:1 ついで、私に次のような主のことばがあった。7:2 「人の子よ。イスラエルの地について神である主はこう仰せられる。『もう終わりだ。この国の四隅にまで終わりが来た。7:3 今、あなたに終わりが来た。わたしの怒りをあなたのうちに送り、あなたの行ないにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。7:4 わたしはあなたを惜しまず、あわれまない。わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。』」

 終わりが必ず来ます。当時のユダヤ人も、「今は大変な時期だが、何とか持ちこたえるのではないか。」と期待していたかもしれません。これは人間の本能的な期待であり、今の状態はいつまでも続くと考えているのです。

 このことに対して、主は「いや、わたしは終わりを定めている。」と答えられます。ノアの日のことを思い出してください。彼らは洪水の日の時まで、飲んだり、食べたり、めとったりしていたのです。けれども突如として滅びが襲いかかりました。そしてペテロ第二の手紙に、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。(2ペテロ3:4」と、終わりの日についてあざける者の声があります。ペテロはこれに対して、「彼らは水の裁きについて忘れている。今度は火による裁きなのだ。」と答えました 

7:5 神である主はこう仰せられる。「わざわいが、ただわざわいが来る。7:6 終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。7:7 この地に住む者よ。あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い。しかし、山々での歓声の日ではなく、恐慌の日だ。

 声を上げる時、それが祭りの時に喜びの歓声であればいいのですが、ここでは恐怖から同じように大声を上げている、と言います。私たちはいつになったら声を上げることができるのか?という問いをしなければいけません。今、主に祈り叫び、そして主を賛美する時に喜び叫ぶなら幸いです。けれども、いつまでも眠っていて、周りで起こっていることに無頓着であり、気づいたら恐怖しかなかったのであれば悲しいことです。

7:8 今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする。わたしはあなたの行ないにしたがって、あなたをさばき、あなたのすべての忌みきらうべきわざに報いをする。7:9 わたしは惜しまず、あわれまない。わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしがあなたがたを打っている主であることを知ろう。

 6章に書いてあった、偶像礼拝などの忌み嫌うべき行ないに対する報いです。忌み嫌うことを行なっているのであれば、その報いとして忌むべきことをもって露にされます。私たちは罪に対して鈍感になり、無頓着になります。それがどれだけ忌まわしいことなのか、恐ろしいことなのかをその時は忘れています。

 例えば、イスラエル人は自分たちの偶像に、望まない赤子をささげていました。これを隠れて行なっていましたが、今、自分たちが虐殺されることによって明らかにされているのです。今は中絶という手段があります。それがどれだけ忌まわしいことか、人々は明らかにしていません。けれども、もし戦争などで、自分の愛する人の首や手足がもぎ取られたらどうでしょうか?これだけ恐ろしいことを行なっていたことをその時になって初めて知ることになるのです。

2C 富の喪失 10−13
7:10 見よ。その日だ。その日が来る。あなたの終局がやって来ている。杖が花を咲かせ、高慢がつぼみを出した。7:11 暴虐はつのって悪の杖となり、彼らも、その群集も、彼らの富もなくなり、彼らのために嘆く者もいなくなる。

 祭司エゼキエルに対するらしい言葉です。初めの祭司アロンは、アーモンドの花と実を結ばせた杖を持っていました。これを例えにして、主は高慢がその実を結ばせたと表現しておられます。ヤコブ書にも同じことが書かれていますね。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 1:15

7:12 その時が来た。その日が近づいた。買う者も喜ぶな。売る者も嘆くな。燃える怒りがすべての群集にふりかかるから。7:13a 売る者は、生きながらえても、売った物を取り返せない。

 ある物資はすべて配給になりますから、お店の人たちが損をします。けれども、それどころではないのです。全ての人が飢えて死ぬことになるからです。

7:13b幻がそのすべての群集にあっても、群集は帰らない。だれも、自分の不義のうちにいながら、奮い立って生きることはできないからだ。

 とても大事な言葉です。私たちが力を出して奮い立とうとしても、もし罪が私たちにあるなら、奮い立ちようがありません。主の前で真摯に悔い改めるからこそ、私たちは主に向かうことができるのです。

3C 逃れられない剣 14−22
7:14 ラッパが吹き鳴らされ、みなの準備ができても、だれも戦いに行かない。わたしの燃える怒りがそのすべての群集にふりかかるからだ。 

 バビロンに抵抗すべく、戦いの準備をしたところで、圧倒的に強いバビロンが城壁をくずして入って来ようものなら、彼らは恐怖に満たされて、戦いどころではなくなります。

7:15 外には剣、内には疫病とききんがあり、野にいる者は剣に死に、町にいる者はききんと疫病に滅ぼし尽くされる。7:16 それをのがれた者が逃げて、山々に行っても、彼らは谷間の鳩のようになって、みな自分の不義のために泣き悲しむ。

 口の中でもぐもぐするようにうめく様子を、「鳩のようになる」と言います。自分の高ぶりや誇りが押しつぶされた状態です。

7:17 彼らはみな気力を失い、彼らのひざもみな震える。7:18 彼らは荒布を身にまとい、恐怖に包まれ、彼らはみな恥じて顔を赤くし、彼らの頭はみなそられてしまう。

 嘆き悲しむとき、死人が出る時、このように頭を剃ります。

7:19 彼らは銀を道ばたに投げ捨て、彼らの金は汚物のようになる。銀も金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない。それらは彼らの飢えを飽き足らせることも、彼らの腹を満たすこともできない。それらが彼らを不義に引き込んだからだ 

 そうですね、金銀は実際に飢えているときに何の役にも立ちません。けれども、どれだけ多くの人が、財産に自分の魂を任せているのでしょうか?

7:20 彼らはこれを、美しい飾り物として誇り、これで彼らの忌みきらうべきもの、忌むべきものの像を造った。それで、わたしはそれを、彼らにとって汚物とする。7:21 わたしはそれを他国人の手に獲物として渡し、この国の悪者どもに分捕り物として渡し、それを汚させる。

 金や銀を持っていても、それを神のために用いるのではなく、自分の飾り物や偶像のために使っていました。このようなことに対しても神は裁きを行なわれます。私たちは、何に自分の富を用いているのか吟味する必要があります。

7:22 わたしは彼らから顔をそむけ、わたしの聖なる所を汚させる。強盗はそこにはいり込み、そこを汚そう。

 聖所の中に、カルデヤ人が入っていきます。祭司しか入ることのできなかった場所に入ることによって、そこが汚されます。

4C 聖所の汚れ 23−27
7:23 鎖を作れ。この国は虐殺に満ち、この町は暴虐に満ちているからだ 

 エゼキエルに主が作れと命じておられる鎖は、もちろんバビロンによる捕囚を表しています。

7:24 わたしは異邦の民の中で最も悪い者どもを来させて、彼らの家々を占領させ、有力者たちの高ぶりをくじき、彼らの聖所を汚させよう。

 無慈悲で暴虐なバビロンを主は選ばれて、イスラエルを裁く器にされました。

7:25 苦悩がやって来る。彼らは平和を求めるが、それはない。7:26 災難の上に災難が来、うわさがうわさを生み、彼らは預言者に幻を求めるようになる。祭司は律法を失い、長老はさとしを失う。

 「困った時の神頼み」は、神頼みにならないということです。社会が不安になればなるほど、人々は幻や夢、何か指針になるものを求めます。噂も飛び交います。けれども、そこには静かになって、落ち着いて主を待ち望む姿勢、悔い改める姿勢はありません。世の終わりの時も、「キリストがここにいる。あそこにいる。」という噂や偽預言が飛び交うとイエス様は預言されました(マタイ24:23 

7:27 王は喪に服し、君主は恐れにつつまれ、民の手はわななく。わたしが彼らの行ないにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」

 あらゆる、拠り頼むべき力はなくなります。預言者の幻もだめ、祭司の律法だめ、長老の知恵もだめ、そして君主の力もだめです。

 そして最後に再び、「わたしが主であることを知ろう」とあります。パウロは、ユダヤ人のことを論じるときに、このような反論に答えました。「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。』と書いてあるとおりです。(ローマ3:3-4」ユダヤ人が不真実であっても、それで神の真実が無くなるのではない。むしろ、神は御言葉によって裁きを予告されて、その通りにすることによってご自分が真実であることを表す、ということです。

 主はこのことを必ず行なわれます。罪を犯している者に対して、そのままにすることはありません。ご自分が確かに主であることを、裁きによって現されます。そしてその裁きは神の家から始まるとペテロは言いました。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。 (1ペテロ4:17」目を覚まして祈る時が来ました。